Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
カメラ
壊れたカメラ。
その中にはフィルムが入ったままだという。
けれどその持ち主は自分でそれを取り出して現像しようとは決してしなかった。
──捨ててくれ。
自分では捨てることが出来なかったのだろう。
そして俺もまたそれを捨てることが出来なかった。
その壊れたカメラは、静かに自分の最期を待っているかのように見えた。
ブルーシートを慣れた動作で捲り上げて中を覗くと、その住人の姿は見えない。
「お、茜ちゃん久し振り」
背後から声を掛けられ振り返ると潰した空き缶の山を引きずる岩田の姿があった。
「長さん、暫く帰らないっつってたよ。そこも片付けていいって言ってたんだけど今まで何回もそんなことがあったから残してあるんだ」
「ふうん」
「まあ、空家みたいなもんだからてきとーに入ってれば?」
岩田はそう言い残してそのまま通り過ぎていった。茜は溜息をついてその『家』に上がりこむ。
勝手知ったるその室内は何も変わることはなかった。むしろ、茜が頻繁に出入りしていた時よりガラクタが増えている。長く不在にするようには見えなかった。もっとも、それらはもともと長部が拾い集めたものばかりだからそのまま捨てて行ったとしてもまた他の連中が自分のものにするだけのことだ。
ここの住人たちの中でも、うまく就職に成功したり家族の説得で家に戻ったりで姿を消す者も少なくない。
住人暦が長く長老格だった長部も、例外ではないのだ。
「にしたって連絡先くらい教えてくれたって……みずくさいなあ」
ぽつりと呟く。
実の父親の手がかりを求めてここへ来たのはもう随分前になる。茅病院を辞めた頃だから、もう10年くらいにはなるだろうか。
母が亡くなり、自分の周囲がキナ臭くなり始めていた。
母の遺品の中から写真集を見つけ、名前からそのカメラマンが自分の父親ではないかと思った。母が香坂洋と結婚する時に別れさせられた恋人というのが報道カメラマンだという噂を聞いたことがあるから、当たり前のようにそう結論を出した。
それなら自分が父親や兄たちに疎まれている理由付けもできる。
その写真集を出版した会社に問合せ、発行者──写真の提供者を聞き出した。
それが長部一之である。
写真集発行当時はある企業の経営者だった長部はしかし、既に会社の倒産によって消息不明になっていた。蜘蛛の糸のような情報を細々と辿り数年を要してようやくこの公園に到着したのだ。
そのカメラマン──水原茜はもう当時ですでに20年以上前に消息が途絶えている、と長部は言った。写真集を出版したのも自分の一存でカメラマンの承諾を得たわけではない、と。それでも。
戦地から直接ネガを送ってくる程の友人なのだから、生きていればもしかしたらいつかは連絡してくるかもしれない──
そんな思いで何度もここへ顔を出しているうちに、すっかり居心地よくなってしまった。
「茜ちゃん、まだいるかい?」
回想を中断させたのは先程茜に声をかけた岩田だった。
手に新聞紙の塊を大事そうに持っている。何かを包んであるのだろう。岩田はそれを茜に差し出し欠けた歯を覗かせて笑った。
「忘れるとこだったよ。長さんが、茜ちゃんがきたら渡しといてくれって。預かってたんだ。ええと、あげるから捨てるなりなんなり好きなようにしてくれって。確かに渡したよ?」
「ありがと、岩ちゃん」
「もし捨てるんなら俺にちょうだい。売れるもんだったら売るから」
苦笑して岩田を見送り、受け取った包みを暫く眺める。
重い。
頑丈に幾重にも重ねられた新聞紙を丁寧に剥いでゆくと、徐々にその形が顕わになってきた。それに従って茜の包みを解く手が加速する。そのテンポに合わせて鼓動も早くなっていく。
それは──古いカメラだった。
レンズは割れ、筐体にも大きな瑕が目立つ。どうやればそんな瑕が残るのか、茜は知っていた。
おそるおそる手にとり、シャッターを押してみる。しかしそれは全く反応しなかった。
壊れている。
──フィルムが?
よくわからないがフィルムが入ったままのようだ、と判断して蓋を開けてみることを思いとどまった。感光してしまっては台無しだ。
おそらく、これは水原茜のものだったのだろう。
だから、長部はこれを茜に渡したのだ。
包みに使われていた新聞紙を一枚残らず時間をかけてくまなく検分した。
そして──
そうして見なければ絶対に見逃していたであろう一枚の紙の余白に茜が発見した鉛筆書きの小さな文字。
その文字とこの壊れたカメラがどういう意味を持つのか。長部がこれをどうやって入手したのか。何故今茜に渡すのか──
それを示唆するものは何一つ無い。
茜は途方に暮れたような目でただ呆然とそのカメラから視線を逸らすことができなかった。
その紙切れには走り書きの汚い文字でこう書かれていた。
『水原茜最後の写真』
「茅君、これ見ない方がいいかも」
開口一番、樋口はそう言った。
茜は長部から受け取ったカメラに残るフィルムを現像してみることにした。長部の意図を知る手がかりはそれしかないのだ。
無論、自分は写真のプロではない。カメラ自体が古くおそらく壊れたのもかなり昔だ。そんな頃のフィルムを自分のような素人が扱うのは避けたい。
そこで思い出したのは水原茜の消息を辿っていた時に知り合った若いカメラマン、樋口だった。今はそれなりに中堅になっている。
カメラごと預けて、フィルムの取り出しと現像を頼んだ。
そして、それを受け取りに行くと──
顔を見るなり、この写真は見ない方がいい、と言われたのだ。
「どういうこと?現像できなかったとかじゃなくて見ない方がいいって?」
「うん。これねえ、かなりエグいよ。ギリギリだよ。戦場写真はいっぱい見たけど、ちょっと一般の報道には載せられない部類だね。こういうのを見たことないわけじゃないけど僕は好きじゃない」
「……」
「茅君、あの写真集のイメージでこれ見たらショック受けると思うよ」
だったら現像できなかったとでも言って自分で処分すればいいのに、それは出来なかったらしい。
自分も戦地で医療活動をしていたのだから、戦災による怪我人を数え切れないほど実際に見ている。それに、戦場の悲惨さを伝える水原茜の他の作品ももちろん見ている。だから──
食い下がる茜に樋口は根負けしたのだろう、その袋を差し出した。茜が袋の中の写真を取り出すのを遮るように声をかける。
「水原茜の作品は僕も出来る限り見たけどね。悲惨な写真にもちゃんと反戦のメッセージが感じられたよ。だから僕は尊敬してたっていうか、作品数は少ないけど好きなカメラマンだったんだよね水原茜って」
煙草に火を点け、あからさまな不快感を浮かべた目をゆっくりと閉じる。
「でもそれにはそんなもの全く感じられない。本当に水原茜の作品なのか、信じられないくらいだ。気分が悪くなる」
茜は躊躇したように、しかし意を決して写真を袋から出した。
一枚、一枚捲ってゆく。
全部で7枚しかなかった。
唇を噛み締めながら、最後まで見た。
あの、笑顔の子供たちや犬や猫や鳥たちを見つめる優しい目はそのファインダーには無い。
何かが、水原茜に起こったのだろう。
それが彼にこの写真を撮らせた。
そしてそのためにフィルムを現像することなく水原茜はカメラを放棄したのかもしれない。
奇妙に変色した最後の一枚は、何かの拍子に切られたシャッターのように無造作な──
血と泥がぐちゃぐちゃに交じり合った地面と、靴と、ちぎれて潰れ一部焼け焦げた人間の腕らしきモノ。
「絶望」
茜はその最後の一枚をじっと見つめていたかと思うと、独り言のようにぽつりと呟いた。樋口がそれに呼応して顔を上げる。
「『絶望』が写ってる」
あるいは、この写真を撮ってしまった時水原茜は自分自身に絶望したのかもしれない。
それで、フィルムを現像することも、カメラから取り出すことすらなく──カメラだけを長部に託した。
いずれにせよ、それは茜の頭の中での物語だ。
この直後に水原茜は死んで、カメラだけが遺品として届いたとも考えられる。いや、むしろその方が自然なのかもしれない。
「樋口君、水原茜を探すのは──やめた方がいいんだろうか」
樋口は茜の手からその最後の写真を取り上げ、もう一度眺める。そして、少し哀しそうに微笑んだ。
「僕がもしこんな写真を撮ってそれでカメラを置いてしまったのなら……探されたくはないだろうね」
長さんに会って話を聞きたい──
そうしたところで何が判るのか、茜自身にもわからない。ただ、そう思った。
鼻歌が聞こえている。
室内に湯気が漏れてきていた。それをちらりと見やり、ファイルを捲る。
「ああ、さっぱりした」
鼻歌の主が大きなタオルで頭をがしがしと拭きながら出てきた。浅黒く焼けた肌が上気している。
「随分長風呂だな」
「いいじゃねえか、久し振りの風呂だ。こうやって髭も剃って髪をきちんとしてみろ。まだまだそこらのサラリーマンよりこざっぱりしてるだろう」
「歯が抜けてなければな」
「うるせえ、明日歯医者で差し歯してくんだよ。見てろ」
反論にくすっと笑いを溢す。
「──水原」
ほんの少しだけ、眉を顰める。
「そんな名前で呼ぶなよ」
「構わないだろ。誰も聞いてない」
溜息をつき無言で次を促す。
「皮肉なもんだと思ってな」
「皮肉?」
長部はまだ汗の滲んでくる顔をタオルで拭い、コップに一杯の水を一気に喉に流し込んだ。
「あれは雛の旦那だぜ。その金をよこしたのはあの時雛とおまえを引き離す為に金を持ってきた男だろう」
ファイルを膝の上に置くと視線をそこから長部の背中へ投げる。長部はベッドの上に胡座をかいて足の爪を切っているらしい。
「関係ないな。この街で仕事をすればそういうこともあるだろうさ。『水原茜』ならそういうことを気にしたりするかもしれんがな」
長部の背中が小刻みに揺れた。笑っている。
「俺は若い頃はあいつらを見返してやるとやっきになってた。今はそいつらの金に群がってるハゲタカみたいなもんだ」
「ビジネスだよ。業務を代行してその代価を得ているだけだ」
長部は返事をしなかった。足の爪を切り終えて今度は手の爪を切っている。ぱちん、ぱちんと爪切りの音が室内に響いた。水原はその背中をじっと見ている。
「なあ、水原──」
爪を切りながら、振り向きもせずに長部が言った。
「茜ちゃんに会ってやる気はないか」
「ん?」
「ありゃいい子だよ。あんな家に育った癖にひん曲がりもせずえらく真直ぐ育ってる。それで水原茜が父親だと思ってんだ。実の父親に会ってみたくてしょうがないのさ」
水原は相槌も打たずに聞いていた。
「あの子が一銭にもならないのに戦場の医療活動なんかに参加してたのはな、ひょっとしたら水原茜はまだどこかの戦場で写真を撮ってるかもしれない、と思ってるんだよ。あてもないのにな」
「………」
「もうガキじゃねえ。一度会えば満足すると思うんだよ──ひゃっ」
奇妙な悲鳴を上げて長部が爪切りを床に投げ出した。背中に突然冷たい感触がしたので飛び上がるほど驚いたのだ。
水原の掌が撫でるように長部の背中を辿っていた。
「おまえ、手冷てえなあ。びっくりするだろ」
「──カズ」
長部の背後に片膝をついた格好から腰を下ろす。しかし掌は長部の背中から離さなかった。
「本当のことを教えてやれよ。水原茜はおまえの父親じゃないって。水原茜はおまえの母親と寝たどころか手を繋いだこともないってな」
「──」
「おまえが俺の写真集なんて出すもんだから俺はすごくヒューマニズム溢れる反戦論者みたいに思われてる。いい迷惑だよ、カズ」
くすくすとからかうような笑い声が長部の耳に届いた。すぐ後ろ、ごく近くに聞こえる。
水原のそれに比べれば随分小さい長部の背中に、水原は頭ごともたれかかった。部屋には暖房が入っているのに、額も髪も冷たい。
「『水原茜』は死んだ。それでいいじゃないか。今更雛の息子に会ってやる気はない」
「──そうか」
駄目でもともと、と思っていたのだろう。長部はただ短い返事をした。
「おまえ、今日何かあったのか?」
グラスに水を汲んでいると背中からそう声がした。ライターの音が続き、煙草に火を点し終える間それが椎多の顔を浮かび上がらせる。
「何か、って?」
聞き返すと椎多はそれに答えず、
だって、
とだけ言って意味ありげにくすくす笑った。
「古い知人に会ってきただけですよ。それが何か」
「──ナントカ医師団だか何か知らんがそんなとこから郵便が来てたらしいな」
「まいったな、検閲ですか?」
「開封はしてないさ。ただ差出人は記録させてる。爆弾でも送って来られたらコトだからな」
肩をすくめ、グラスを手にベッドに戻りひと口だけ飲んで椎多に渡す。受け取ると椎多はそれを飲み干し、ベッドサイドに無造作に置いた。手に持ったままの煙草を再び銜え、微かな音と共に煙を吐き出す。
「……また戦場へ行くとか言い出すんじゃないだろうな」
茜が椎多に目を移した時には、まだ点けて間もない筈の煙草を消しているところだった。
確かにその団体からの郵便は、再び紛争地での医療活動を依頼するものだったのだ。
茜の返事が聞こえないからか。
椎多は覗きこむように茜の顔を、目を直視した。
最近は自分の方がよほど子供っぽい、椎多の方が大人だと感じることが多かったが──
拗ねた子供のように見えた。
それが可愛いらしく思えて、そう思った自分が可笑しくて、茜は笑った。
「行くわけないでしょ。俺にはここの仕事がありますから」
それに──
どの戦場に行っても、もうカメラを持った水原茜に会うことはないのだろう。
あのカメラは茜の机の上で静かに眠っている。
椎多は一瞬唇を噛んで、何故かひどく照れくさそうに口を尖らせた。頬だけが笑いを堪えられずにいる。
「当たり前だ。あれだけゴタゴタしてやっと落ち着いたのに逃がしてたまるか」
「逃がすって」
苦笑した拍子に突然何かの衝動がこみあげたように、椎多の首に腕を巻きつけ抱き寄せる。小さく何度か自分の名を呼ぶ声が聴こえるとその腕を宥めるように撫でながら椎多は目を閉じた。
「椎多さん」
「うん?」
「好きです」
「ああ、知ってる。前に聞いた」
「すっごい好き」
「すっごいうるさい」
「ここは俺のいていい場所なんですよね」
一拍、間が空いた。
「……いていい場所、なんかじゃないぞ」
ほんの僅かに茜の肩がぴくりと震える。
「ここはおまえの……いるべき場所、だ」
茜の腕に力がこもるのが伝わってくる。
「もう……探さなくていい?」
何を、と茜は言わなかった。
探していたのは、安住の地。
自分の周囲のどこにもそれはなかった。だから子供心に本当の父親を見つけたいと思った。ただの子供のナンセンスな思い込みだということはわかっていたし、心のどこかではきっともう父親は生きてはいないのだろうと思っていたのに、それでも諦めることができなかった。けれど──
本当の父親など探しあてられなくても、そこに辿り着いた。
「俺ももう探したくない」
椎多も何を、とは言わなかった。
互いに言葉に出さなかったものを確かめるように、唇を重ねる。
顔を離すと椎多は悪戯っぽく笑い声を漏らした。
「シンデレラは王子と出会って幸せになるんだったな」
茜もつられて吹き出す。
「むさくるしいシンデレラは王子様と末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし」
椎多の笑い声が大きくなった。
その笑い顔を眸の裏に焼き付けるように見つめると茜はその肩先に頭を埋めた。
*the end*
*Note*
なんかいちゃいちゃして終わりましたけど!!!このまま幸せになれるのか果たして!!!!!
あと梟さんと長さんは果たして……(別に匂わせではない)
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