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失 恋

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 車を駐車場へ戻し、従業員出入口から中に入る。車のキーを所定の位置に返し、帰館時間を記録しながら警備指令室の当直の人間と少し雑談する。その後厨房をひと覗きして、厨房スタッフと軽く談笑しながら賄い料理を少しつまみ食いする。
 Kが異状なく嵯院邸に戻った時はたいていこのルーティーンである。
 邸内の自室に戻ろうと従業員用の階段を昇る。エレベーター付けてくれねえかなぁ、などと独り言を口の中で呟きながらだらだら階段を昇り自室のある階でフロアに戻ると、そこに普段はいる筈のない人影を発見してKは大いに驚いた。
「こんなとこで何やってんすか、組長」
 この邸宅の主人である椎多がそこで待っていた。さきほど玄関で車を降りていった主人はそのままその自室に戻ったものだと思っていたのだ。
「どこで油売ってたんだ。遅かったな」
「いや、帰ったら自由時間でしょ。そんな文句言われる筋合いないっす」
 ははは、と声を上げて笑うと椎多は両手をポケットに突っ込んだまま顎をしゃくって見せた。
「来い」
 ええ、と声に出して迷惑だと主張するも無視して椎多は廊下をすたすたと歩いていく。仕方なくついて行くと行先は椎多の自室だった。
「ひとりで飲んでばっかりもつまんねえからたまには付き合え」
 このあとひとっ風呂浴びてビールでも飲みながらテレビの深夜番組を見ようと思っていたKはあからさまに嫌そうな顔をしている。椎多が会議なり接待なりで遅くなった時はいつも業務上とはいえそれに付き合っているのだからたまには、などと言われるのも遺憾だ。しかし椎多は気にするそぶりもない。
「お前らが最近ずっと俺を監視してるから俺は家でしか気を抜いて飲めないんだ。責任取れよ」

 あのクリスマスの夜──

 ホテルの地下駐車場でKは「ハチ公のように」椎多を待っていた。
 上野教授のように二度と帰って来なかったということはなく、椎多はKが思っていたよりずっと早く車に戻ってきた。しかしそれから屋敷に戻るまでの間椎多は一言も発しなかった。
 渋谷英二を殺して来たにしては騒ぎも起こっていなかったし、翌日の報道でもそのような事件は一切報じられなかった。かといって濃厚な恋人同士の時間を過ごしてよりを戻してきたにしては時間が短かった。
 結局、何があって二人がどのような決着をつけたのかを、Kは知ることは出来なかった。

 翌日、椎多は何事もなかったように予定通り起き出してきて出社し、予定通りの会議や会食を済ませていた。表情もいつもと全く変わらない。

 それを見ていてKは姉の柚梨子の言葉を思い出していた。

──旦那様は、本当につらいことがあった時ほどいつも通り振る舞おうとするの。
──それがどんどん澱のように積もっていっていつか彼を壊してしまいかねないくらい。
──だから、もし何かあった時にそれでもあのひとが普段通りに笑っていたら。
──気を付けてあげて。

 姉は椎多の何を見てきたんだろう。
 姉がここに来てから俺がここに来るまで、それほど年月の差はないはずだ。
 俺はもうここに来ていたけど知らない間にそういうことがあったのかもしれない。
 ふと、思い当たった。
 何があったかは教えてもらってはいないが、きっと突然姿を消した彼のことだ。
 その時の椎多はきっと普段通りで、俺なんかには何かあったのだと察することも出来なかったのだろう。

 なんだか悔しい。

 渋谷英二とのごたごたはKは嫌というほど見てきた。あの日、どんな形であろうと決着はついたのだろう。椎多はあの後まるで憑き物が落ちたように仕事にだけ集中している。
 つまり、柚梨子のいう「本当につらいこと」が、きっと、あったのだ。
 それもあって、Kは極力椎多を一人で夜遊びに出かけたりしないように気を配っていた。単純にその先で何かトラブルに巻き込まれても困るし、万が一渋谷との一件が実はまだ決着していなくて、自分の知らないところでもっとややこしいことになってもらっても困る。
 屋敷の他の警備担当の者たちにもそれとなく言って、抜け出そうとする椎多を寸前で止めることには幾度も成功していた。

 年末年始のパーティや忘年会や新年会など、様々なイレギュラーの催しもそうやってなんとかクリアして、そろそろ1月も終わろうとしている。

 椎多の特に仕事以外での行動を制限してきた結果、椎多は帰宅後はおとなしく一人で部屋で飲んでいるようである。それでたまには付き合え、という事なら仕方ないか──と諦めることにした。
 
 思えば、椎多の自室には緊急の連絡ごとでも無い限り行ったことはなかった。
 屋敷の主人の部屋だから当たり前ではあるが、自分が使っている部屋の4倍はありそうな部屋と、どうやらベッドルームは奥に別にあるらしい。バーカウンターがあり、酒が何種類も置いてある。
 興味深くきょろきょろと部屋を見まわしていると椎多は酒を何本か手にして苦笑し、いいから座れ、と言った。
 正直、自分は酒に強い方ではない。
 なのでせいぜいビール1本でいい具合だというのに椎多はグラスにウイスキーをどかどか注いでいる。水割りにしたって濃いだろうそれは。
 いちいち心の中で文句を言いながら飲み始めたが、椎多は本当にただ酒に付き合わせたかっただけらしく今日商談で会った相手の頭がワックスで磨いたように光っていたとか今日読んだ経済誌に載っていた若手IT社長が実は裏でどんなあくどいことをしているかとか、そういう雑談の範囲のような他人の悪口を楽しそうに並べたてている。なるほど、こういう話は話す相手や場所を選ぶだろうな。

 しかし椎多の作ってくれたやたら濃い水割りの一杯目が終わる頃にはKもそろそろいい具合に酔っ払い始めていた。

「んなことばっか言ってたらくみちょーもそーやってよその社長とかに悪口言われんぞ」
 面白くなってきて思ったことが口をついて出てくる。椎多は悪口も言われないような無能じゃない、とすましている。
「なんだよくみちょー、全然飲んでねーじゃん自分から誘ったくせにもっと飲めよつまんねえ」
 声のボリュームの加減が利かない。なるほど、酔うとまず音量機能がぶっ壊れるらしい。
「そういやケンタさんとか組のおっさんらがすぐ昔話で言うんだよ、『し~ちゃんは若い頃は酔っぱらったらタチ悪かったわ~』ってさ」
「タチ悪かったって」
「組の宴会でし~ちゃんが酔っぱらったらキス魔になって片っ端からキスして回ってた、あの世代のモンでしーちゃんにキスされてないやつなんかいないって。なんかマウント取ってくんだよ」
 椎多が苦笑しているのもすでにKは目に入っていない。
「そりゃほんとに若い頃の話だ。酒にもまだ弱かったんだろ」
「みんなで口々にしーちゃんキスが上手いとか俺は舌入れられたとか言ってんの。どうなってんだよあの組マジで。だいたいくみちょーのことしーちゃん呼びってどうよ」
「憂也」
 不意に本名で呼ばれて一瞬黙った。
 いつの間にかKの隣に座って飲んでいた椎多の手が両頬を包んで自分の方を向かせ──
 あ、冷て、と思った瞬間、唇が暖かいものに触れた。

 え?

 椎多の唇が、舌が、ゆっくり撫でるようにKのそれを辿っている。無意識に口を開くとその中にまで侵入して吸い付くように蠢いている舌を感じた。
 離された時、よほど驚いた顔をしていたのだろう。顔も真っ赤になっていたかもしれない。酔っている以上に顔が熱い。
 椎多は吹き出して笑っていた。
「え、なにすんの」
「だってあんまり羨ましそうに言うからそんなに俺とキスしたかったのかと思ってさ。今俺それほど酔っぱらってないから特別丁寧にしてやったぞ。これで連中にマウント取り返せるな」
「いや何言ってんの」
 としか言えずにいるKの頭を椎多はそのまま自分の肩口まで引き寄せ、ふんわりと抱きしめた。
 酔いが進んだようにも、一気に酔いが醒めたようにも感じる。
 声が出ない。

 すまん、ちょっとだけこうしててくれ。

 ひそひそと、囁く声が耳にかろうじて届いた。

「あのな」
 こうしていなければ聴こえないかもしれないくらいの小さな声。
「正直に白状すると──自分でやべぇなって思うくらいキツい時に、いっそおまえに何とかしてもらおうかと思ったことは一回や二回じゃない」
「何とかって──」
「おまえに、俺を抱かせるってことだよ」
 ぎくり、と離れようとしたが力を入れているようには思えないのに腕が外れない。
 椎多が気軽に過ぎるほど女だろうが男だろうが関係を持ってきたことは知っている。しかし自分がその対象になるかもと思ったことも、自分が椎多をその対象にすることも考えたことはなかった。少なくとも意識下では。

──気を付けてあげて。

 気を付けるってこういうのもアリってことなのか?姉ちゃん。

 椎多の小さな笑い声が聞こえる。
「そんな怯えんなよ。やれって言ったっておまえはやんないだろ」
 なんだろう。
 胸がぎゅうぎゅう締め付けられてるみたいだ。
 Kはさっきより少しだけ力をこめて、椎多の腕を緩めるように身を離した。顔は見えたが目を合わせられない。
「そんなに──」
 なんだか運動している時みたいに息が上がっている。酒のせいだ。きっとそうだ。
「そんなにキツい時があったんなら、言ってくれりゃ俺だって…」
 それで俺が何かの役に立つんだったら別にそれくらい。
 素面の時なら絶対に言わないだろうことが口から出てくる。
 Kは意を決したように、そのまま椎多の唇を覆った。
 はなから待ち構えていたように迎えた椎多は、居心地悪そうにうろうろするKの舌を捕まえてきつく吸い上げた。思わず顔を離すがそれでも視線は合わせられない。ただ、口元は悪戯っぽく笑いの形を作っているのが見えた。
「だって──あんた今だってほんとはめちゃくちゃキツいんだろ。今、辛くてしょうがないからこんなんで俺をからかってんだろ?やれって言ってくれたらやってやるし、ケツ貸せっていうなら…」
「うるせえこの下手くそ」
 椎多がKの腕を跳ね除けるようにして振りほどいた。椎多はずっと笑っている。
「最後まで聞けよばーか」
 多分──Kはこれまで生きてきた中で一、二を争うほどの情けない顔をしていたのだろう。
 その頬を椎多はつねり上げた。
「いって!」
「思ったことはある。確かにあるよ。でもやめた。おまえとはやらねえって決めた」
「なんで…」
 椎多は立ち上がるとグラスを持って窓際に移動し、窓の外を一瞥するとソファのKに向き直った。
「俺もさすがにそろそろ自分のことが判ってきてな。そのへんの誰かもわからん行きずりの相手とはわけが違う。おまえと一回でもそういう関係になってしまったら」
 一旦言葉を切る。わずかな沈黙が流れる。アイスペールの氷がかちんと涼しい音を立てた。

「そうなってしまったら俺はきっと、おまえを愛してしまう」

 椎多は、穏やかで優しい顔で微笑んでいる。
「おまえも散々俺のことを見てきたんだから、そろそろ判るだろう?誰かを愛してしまった時に俺がどうなってしまうか」
 Kは何も言えずに次の言葉を待っている。
「見境がなくなって、暴走して、しまいには相手を食い尽くしてしまう。愛していたはずが憎んでるみたいに。手に入れようと躍起になった挙句、ぼろぼろにして手に入らなくしてしまう」
 それは、ついこの間まで椎多がやっていたことだ。
 青乃に対しても、かつて酷い扱いをしてきたことは知っている。
 誰も教えてはくれないが──紫に対してもそうだったのかもしれない。
「俺は、おまえをそんな風にしたくない。おまえにはずっと、なんなら俺が死ぬまで、そうやってずっと側に居てもらいたい」
 手に持ったウィスキーを飲み干すと椎多は再びソファのKのところへ戻ってきた。

「だから憂也、俺はおまえとは寝ない。おまえを愛さない。おまえを」

 失いたくないんだ。

 なんだよそれ。
 なんだよそれ。
 なんだよそれ。

 恥ずかしいのか残念なのか嬉しいのか自分でもわからず、表情が決まらない。
「でもまあ、キスくらいならいつでもしてやるから、したくなったら言えよ」
「いやおかしいだろそれ」
 やっと声が出た。
 かと思うと椎多の手がいきなりKの股間を掴んだ。
「いやあの程度でかっちかちじゃねえか。若いなあ。手で抜いてやろうか?」
 今度こそその手を払いのけ、椎多を蹴飛ばさん勢いで脚を振り上げた。
「くみちょの基準どうなってんだよ!キスと手ズリはOKとかマジで意味わかんね」
「そりゃ明確だろ。俺のけ」
「もういいわかったって!」
 椎多は大きな口を開けて笑っている。
 辛いことを隠すためにいつも通り振る舞っているのではなく。
 今こうしていて愉快で笑っていることがわかった。

──気を付けてあげて。

 姉ちゃんには姉ちゃんの『気を付けてあげる』があったんだろう。
 俺はたいしたこと出来ないけど、くだらないことでこうやって笑う時間を作ってやることなら出来るのかもしれない。
 そして、組長が俺に求めているのも実は単純なそういうことだったのかもな。

 心のどこかでちょっと惜しいことをした、何故か失恋したような気持ちも無くはない。
 Kはそれに蓋をする。
 これに蓋をすることで、ずっとここに居ることが約束されるのなら。

 ずっとここに居ることが、許されるのなら。
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 後部座席でぼんやりと窓の外を見つめている男を、ミラー越しに見る。

 広いシートなのだからのびのび座ればいいのに、まるで軽自動車に乗っているように窓際に縮こまって窓に頭を預けたまま、外を見ている。

 彼は、長年嵯院邸で勤めていた常駐の医師の後釜として昨年の春ごろに着任した医師だ。

 あの屋敷全体の主治医とはいえ、その送迎に自分が指名されるというのは異例だと思う。

 Kはあくまでも、嵯院椎多の秘書でありボディガードでありその仕事の一部として運転手を勤めることもある、というだけなのだから。にもかかわらず、今日に限っては椎多直々にこの医師の送迎を命じられたのだ。

 同世代の主治医がやってきてから、椎多はすっかり安定した様子に感じられた。

 "主治医"というより一見、仲のいい友人同士くらいに見える。一緒に飲みに行ったりもしているし、近頃では私室や医務室に入り浸っていることも多い。椎多は医師にだいたい悪態をついているが、その表情は常に明るい。

「茅先生」

 呼びかけてみたが、医師──茅茜は気づかぬようにぼんやりしたままだった。

 先日来、茜の実家の病院のごたごたに椎多は関わっていた。つい数日前も、茜の父親の葬儀に椎多が連れ立って参列したばかりだ。

 リムジンというわけではないがステイタスを示すに十分なセダンの高級車。椎多の指示で広い車内には目立たぬようにマイクロフォンが仕掛けられ、運転者にイヤホンを通じて指示が届くようにしてある。必然的に車内の会話は運転席のKにも届いていた。後ろでの会話を聴かれたくない時には椎多自身がマイクをオフするので、特に聴かれてまずいことでも無かったのだろう。

「優さんがおまえを憎む気持ちがちょっとわかった」

 椎多の声に、Kは久しぶりにぎょっとした。

 椎多と茜の間に、そのようなマイナスの感情が生まれそうには思えなかったからだ。

 もしかしたら。

 椎多は茜のことを愛し始めているのかもしれない。

「茅先生、大丈夫ですか。ご気分でも」

 もう一度呼びかけてみる。茜はようやくそれに気づいたらしい。大丈夫です、ありがとうと小さな声が返ってきた。

「茅先生は──」

 先生は。

 組長のことどう思ってるんすか。

 もし組長があんたのことを

 ”愛してしまった”ら──

 あのクソ面倒くさい人の感情を

 ちゃんと受け止めてあげられるんすか。

 下手したら

 殺されますよ、あんた。

「いえ、なんでもないです。もうすぐ屋敷に着きますよ」

 そうだった。

 俺がとやかく言うことじゃない。

 少なくとも今はまだ。

「椎多さんは会社ですよね、いま」

 ぽつりと聴こえた。

 多分今日はもう屋敷に戻っているだろうと思ったが、どうでしょうねと濁す。

「社にいるならそちらに向かいましょうか?くみちょ…社長と合流するなら確認しますけど」

 そう言うと茜は少し慌てたようにいいですいいです、と手で辞退のサインを送ってきた。

「なんか無性にあの人の顔が見たくなっただけで、そこまでするのは申し訳ないです」

 少し苦しそうに、茜はそれでも微笑んだ。

 ああ、この人きっともう組長のことを好きでたまらなくなってんだな。

 でもなんだろう、この人は"受け止める"っていうより、どんな当たられ方をしても衝撃もなにもかも吸収してしまいそうだ。

 もしかしたら。

 組長は、やっと見つけたのかもしれない。

 愛しても傷つけずにすむ相手を。

 俺はそれになれなかった。

 でも──

 この人がいることで組長が楽しそうに笑ってる顔が増えるんなら

 まあいいか。しょうがない。

 ちょっと寂しい気もするけど。

 ちょっと妬けないでもないけど。

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*Note*

​実はこれ、2021加筆版で初めて書き下ろしたものです。どうしてもKと椎多の関係をはっきりさせてやりたくなって。時系列的に「梟」の章の頭の方に置いた方が収まりがいいかと思ったけど、最初にKのこれを置いてしまうと当て馬っぷりがもう可哀想なだけになってしまったので、いっそ最後に置いて茜ちゃんとうまくいきそうな椎多を寂しく見守るエピローグを付け加えました。いや、章の一番最後にしようかと思ったんだけど、「カメラ」がエピローグとしては気に入っていたのでブービーに。Kはこの後もこのスタンスで見守り続けることになるでしょう。それはそれで良きかと。 2021/7/20

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