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嘲 笑

 若い女の部屋にしては飾り気がない。
 ほんの少しの家具と、クローゼットの洋服。何冊かの本と無骨なファイル、それからパソコン、FAX。あとは生活に最低限必要な一人分の食器や調理器具程度。つつましいというよりも寧ろ殺風景といえる。


 預金通帳の残額を満足げに眺めると、葵はそれを未整理の書類が乱雑に納められている引出しの中へ無造作に放り込んだ。


 荒稼ぎしていても生活自体が過度に派手になったことは殆ど無い。頻繁に住居を移しているので荷物が多いと煩わしいのだ。では、金を儲けてそれを何に使うという目的が特別あるわけではない。ただ食べていけて、何処かへいったり何かを買ったりする時に金の心配をしなくて済めばそれでいいしそのうち仕事が嫌になったとしても、残りの人生遊んで食べていければ言うことはない。

 葵は一旦ベッドにごろりと横になり雑誌をぱらぱらと捲っていたがふと思い立ち一冊のファイルを取り出した。


「『しぶや』か。一度お客で食べに行きたかったなあ」
 小声で呟く。
「アルバイトの募集なんかしてないのねえ、こういう格式ばったお店って……なんか適当なコネでも作ってもらうしかないか…」
 ぱらぱらと、ファイルをめくる音が狭い室内に響く。
「ん、このへんかな。遠縁の娘の花嫁修業ってとこでどう?」
 誰に尋ねているわけではない。姿勢を直すと葵は電子手帳を取り出しそのページの内容を書き込み始めた。


 携帯の着信音。
 音を聞くと一瞥し、無視する。3回コールで一旦途切れ、次にまた5回で途切れる。それからまた鳴り始め、今度は呼び続ける。葵は20回目を確認すると受信ボタンを押した。
 電話の向こうの声が聴こえる。


「睦月さんに教わったの?窓口はひとつ、誰にも教えないって約束だったのに、守れないならもうサヨナラするよって言っておいて?」
 電話の向こうで何か言ったのだろう。葵は可愛らしい笑い声を立てた。
「うん、今度の仕事の話は睦月さんから聞いた。資料ももらったし。今作戦立ててるとこ。何か?──え?」
 携帯を耳に押し当てたまま小さく首を傾げる。
「……エージェントはともかくクライアントとは直接会わないことにしてるんだけど……隠しても無駄?やだバレバレなの?」
 溜息。
「しょうがないなあ。だってあなたと寝たときはまさかクライアントになるなんて思ってなかったんだもん」
 無邪気にも聞こえる笑い声が少し意味ありげな響きに変わる。


「……でしょ?椎多さん」 

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 着信音を鳴らしてみる。賢太は特に反応しない。
「……これで大丈夫すよ、賢太さん」
 Kはそう言ってゆっくりと一回、呼吸をした。
「悪かったな、K」
 まだ包帯を巻いた指で自分の頭をくるんと撫でると天井を仰いで息をつく。

 澤の件が片付いても歌姫にかけられた暗示がそのままではおちおち眠ってもいられなかったのだ。これでようやく安心できる。


「見抜けなかったのは俺の能力が劣ってるからじゃない、ってそう言ったんすか。歌姫」
 脇で座って眺めていた睦月はKの言葉ににこやかに頷いた。
「私は『隠れ蓑』を使うのが得意なの、だそうだよ」
「つまり自分の方が上だって言いたげっすね」
 Kは不愉快そうに口をとがらせている。歌姫の方が能力が上だ、とは認めざるを得ないが嫌味を言われたようで頭にくるのだ。しかし、そんなことよりも歌姫に関してはひっかかっている事があった。


「その歌姫のことなんすけど、睦月さん」
 一旦言い澱み、Kに視線を投げると賢太は言いにくそうに再び口を開いた。
「多分、今暗示を解いてもらったので思い出したんすけど俺、澤んとこに捕まってたときに会ったんすよ。……葵ちゃんに」


 Kの表情が少しだけ変わる。


「傷の手当てをしてくれて……歌、歌ってた。ひょっとして」
「葵が──歌姫だと?」
 苦しげな、抑えたKの声が賢太の言葉を遮る。


 葵が『歌姫』なのだとしたら──
 圭介の一件の時、Kが葵を探っても何ら不審なな点が出なかったことも頷けなくはない。しかし。
 それでも、一連の歌姫の動向を見ると、どうしてもKの知っている葵とは結びつかない。
 葵がそんなにしたたかでドライな女になるなど、想像もできなかった。


 Kの表情に、賢太が少し気まずそうに小さく笑う。
「いや、そう決めつけたわけじゃない。ただあの時姿を消した葵ちゃんが澤のところにいた、それだけは確かだ」
 葵は澤に何らかの目的で捕らえられていたのかもしれない。比較的自由のきく状態で──そして拷問に遭った賢太に同情し手当てを施してくれた、とも考えられる。
 だとしたら澤を倒した今、葵はいったいどこへ行ったのか。
 自分の意志と関係なく澤に監禁もしくは軟禁されていたのならば、解放された時点でK──憂也に連絡をよこしてもいい筈ではないか。確かにあの時葵は憂也に「助けて」と言ったのだ。
 葵が『歌姫』だと認めたなら、あまりに辻褄のあうことが多すぎる。


 Kは眉を寄せてぎり、と唇を噛み締めた。
 まだKの中ではそれを認めきれていないでいる。が──
 椎多になんと報告すればいいのだろう。葵の無実を主張して挙句の果てには殴ってしまった。


「組長、怒るだろうな……」
 

 困ったように呟いて、苦笑する。
 この件でKが責任をとらされて命でも取られるわけではあるまい。けれど。

──おまえを信用することにする。

 あの言葉を結果的に裏切ってしまったことになる。嘘をついたわけではないけれど、その信用に応えることができなかったのだ。それが真っ先に頭に浮かんだ自分が何故か不思議に思えた。


「まあ、ともかく『歌姫』がそのKの幼馴染の女の子かどうかは別として。私としてはこの先も彼女に仕事をしてもらおうと思っている。椎多さんもそれには同意してますよ」
 睦月の声に我に返る。
「それは──」
「気を悪くしないで欲しい、K。私達は君の能力云々を言っているのではなく、彼女はかなり多様な使い方のできる人間だと思っているんだよ。催眠や暗示だけじゃなく、ね」


 どう返事してよいかわからない。『歌姫』=葵であるかもしれない、それを確認することもできずに共に仕事をすることになるのか。それは睦月のいう不快さではなく、どうにも気持ちが悪い。

──葵。

 いくら思い返してみても、懸命に父親を庇っていた少女や小さく震えて自分の腕に縋り付いていた娘しか頭に浮かばない。
 

 どうすれば。
「『歌姫』には、会う事はできないんすか」
「彼女は相当用心深いようでね。交渉する時にも背中合わせにしか会ってもらえなかったよ。向こうにしてもこちらが信用に足るかどうか見極めようというところだったんだろうけど」


 せめて、会う事が出来ればいずれの結果になろうとそれを確認できるだろうに。
 Kはいらいらと視線を泳がせ、唇を噛んだ。

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「こんな風にあなたにもう一度会うことになるとは思ってなかったわ」


 くすくすと笑う声が可愛らしい。しかし、圭介の店で働いていた時とは少し雰囲気が違う。
 一流ホテルのスイートルーム。つい先ほどまで葵はこんな部屋に泊まったことがないとはしゃいでいた。
「もう少し大人っぽい女かと思ってたんだけど、こうして見るとなんだか自分が淫行したみたいな気分になるなあ」
「何言ってんのもう。それじゃまるで自分の娘くらいの女の子買ってるおじさんじゃん。康平なんかまさしくそうだったけど」
 あっけらかんと笑っている。


 澤康平──
 

 今の今まで自分のエージェントだった男。

 自分が見限った、そしてその結果追い詰められ蜂の巣にされた男。
 その男について、この女はどんな感慨を持っているというのだろう。
 
「君が裏切った澤が殺されて少しは悪い事をしたとか思うかい?」


 葵はきょとんとした顔を見せ、くす、と笑った。
「康平が殺されたのは康平がしてきたことの報いでしょ。私のせいじゃない。けっこう可愛いひとだったけどね、彼」
「可愛い、ねえ」
 苦笑する。若い女にかかってはあの憎々しい澤康平ですら可愛いというのだからたまらない。


「そんなことより、仕事の話なんでしょ?睦月さんから請けたのは『しぶや』に潜入して情報を集めたり指示によっては色々細工したりって仕事だったけど、あなたが個人的に頼みたいことって何なの?」
 ふん、と小さく頷くと椎多は窓際のソファにゆったりと身を沈めた。足元まである大きな窓からは街が一望できる。
 それを暫く眺めたあと、煙草に火を点けると一息大きく吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。

「あの一家をバラバラにすることができるかい?」

 笑っている。
 葵は怪訝そうに微かに首を傾げた。

「バラバラってどういうこと?離散させるってこと?」
「今、あの一家はあの店を守り受け継いでゆくという点で驚くほど結束している。それをバラバラにするということだよ」
「私、あんまり依頼の背景なんかは興味ないんだけど、『しぶや』を潰してなんのメリットがあるっていうの。あなただって便利に使っていたんでしょ?」

──メリット……か。

 

 椎多はくすっと笑いを洩らした。
 実際のところ、確かに談合だの汚職だのの悪企みをする場所として『しぶや』は最適の場所といえよう。何より店の人間がそれを承知しているから口も堅い。しかしそのために集まった情報がいつ何処で誰にどのように洩らされるものかわかったものではないのだ。例えば、歌姫のような人間を使えば、ごく簡単にそれを入手することが可能な筈だ。つまりあまり店のことを信用して利用するのは高い危険を伴うということを自覚せねばならないだろう。
『しぶや』を潰し、最終的には当代である渋谷修一と先代の口をも封じてしまえば杞憂はひとつ減る。

 しかし──
 椎多が今、それを実行しようとしているのはその目的の為だけではなかった。

 それは椎多自身が一番よく知っている。

 葵は椎多が答えるつもりがないものと判断したのか小さく息をついて椎多の前に足を進めた。肩に手を置き、顔を寄せる。

「人の気持ちを離れさせるなんてこと、簡単よ。催眠を使う必要もない。でもちゃんと別料金でいただくわよ」
 口の端を可愛らしく引き上げ、軽く接吻ける。

 椎多はその頬に手をやり、髪へ滑らせて笑った。

「憂也が君に会いたがっている。君には騙されたからね。いまだに信じたくないようだが」

 突然憂也の名前を出されて葵が戸惑った顔をしたのは一瞬だった。一気に不機嫌に眉を寄せる。
「私に会ってどうするっての?嘘つき女って詰るの?それとも殴るの?私は確かにあの子を利用したけどそれも仕事のうちだったの。とやかく言われたくないわ」
 不愉快そうに言い捨てると葵は椎多から離れた。苛々とした動作で親指の爪に歯を立てる。

「私はもうあの子の知っている葵じゃない。15の時に売り飛ばされて、いろんな男に犯されて、裏ビデオに撮られたりソープとデリヘル掛け持ちして毎日好きでもない男のあそこを咥えたり性病伝染されたりシャブ漬けにされたりしてたの。ある人に会わなかったら私は今でもそうしてる。ううん、もっと早くにボロボロになって今頃もう死んでたか壁の中ね」

 言い終わるか終わらないかのうちにあはははは、とけたたましい笑い声。

 嘲笑。

 世の中の、すべての男を嘲笑っている。

「憂也に言っていいよ。歌姫は葵だって。あんたを騙して心の中で笑ってたって。あんたの知ってる葵はもうパパに売られた時に死んじゃったの。だからもう忘れなって──」
 ソファから立ち上がり、葵の頭を抱き寄せる。葵は先ほどまでのけたたましい笑いのヴォリュームを落としたまま笑い続けていた。
「私、こんな時にそうやって優しいふりする男、大嫌い。本当に優しかったためしがないんだから」
 葵は帰る、と小さく呟いて椎多を押しのけ、背を向けた。振り返ると元通りの歌姫の顔をしている。
「依頼されて請けた仕事はきちんとやる。それも徹底的にね。それでいいんでしょ?」
「……ああ」
 にっこりと可愛らしく微笑んで、葵はドアの向こうへ消えた。

「追わなくていいのか、憂也」
 ぽつり、と声をかける。奥のベッドルームからドアを開けて入って来たのはKだった。

 苦笑しながら小さく首を横に振っている。
「会いたくないでしょう、俺に」

 本当は──
 利用する為だったかもしれない。あの時会ったあの葵が演技だったとしても──


 憂也の前ではあの「葵」でいたかったのかもしれない。

 

「すいませんでした、組長」
「ん?何を謝ってるんだ」
「いや……」


 謝るのと、礼を言っているつもりだったのだが椎多には通じていないようだ。
 憂也は笑って言葉を濁した。

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教会の窓

*Note*

葵は書いてて楽しい女子キャラの一人です。ってゆうか女子キャラはたいていみんな書いてて楽しい。葵の言う「ある人」は、最初にこれを書いた時には別の新キャラの想定をしていたんだけどうっすら想定のこの人、現在は「あの人かな…」ってなってる。作者の心の中で。それについて書くかどうかはわからん。

​ここの手直しは葵の口調をもうちょっと育ち悪そうに変えた程度です。

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