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 小さな寝息が聞こえる。

 幼い心にきっと深い傷が残っただろう。そう思うと胸が痛む。
 興奮してなかなか寝付かなかった藍海は、父の腕の中でようやく眠りについた。

 娘の無事を誰よりもじりじりと焦げ付くように願っていながら、この2日というもの何事もなかったように店を開けねばならなかった。客はおろか従業員にすら気付かれてはならない。指示されるまでもなく修一はそうせねばならないとわかっていたが、指示した父とてただひとりの可愛い孫の無事より店を優先するのは苦渋の決断だったろう。しかし店を閉めて家族が奔走したところで藍海をとりかえす手がかりがあるわけではない。ただ英二からの、遅くとも火曜の夜には藍海を必ず取り返す、という報せだけを信じて待つしかなかった。

 英二に一体なんの心当たりがあるのかをいぶかしまない者はなかったが、修一だけは弟がなんの手がかりを持っているのかを知っていた。ただ、それ故にもう一つの疑問が修一の脳裡を霞みのように被う。


──英二が何故澤を知っているのか。


 しかし、英二から連絡があったということはとにかく澤と交渉することはできた、ということだ。藍海を人質にとって、あの男がどんな要求をつきつけたのか。修一はやはり自分が行けば良かった、と何度も思った。

 

 火曜日の深夜──もう日付も変わろうかという頃、英二は言葉通り藍海を連れて戻ってきた。人の良さそうな中年の男と、チンピラのような若者に伴われて。
 藍海は落ち着いているように見えたが、父の顔を見ると急に安心したのかぐずり始めた。
 睦月、と名乗ったその男もそうは見えないがやくざだという。ただ、澤を潰す目的が一致したので藍海を救出するのに力を貸してくれたのだと簡潔に説明した。この件でこの男達が恩を振りかざして店になにか悪影響を及ぼさないか、と懸念しなくもないがとにかく藍海を無事に救出してくれたことは確かだ。しかし、礼金を包もうと思ったらそれは断られた。

「こんなことでゆすりたかりをはたらく気はありませんよ。気が済まないというなら今日働いてくれたうちの若い連中に一度ご馳走してやって下さい。こんな高級なところで食事したことのない者ばかりで。その時はちゃんとした格好で他のお客様のお邪魔にならないようにさせますからご心配なく」
 眼鏡の奥の細い目は終始微笑んでいた。もう一人のチンピラ風の若者はずっとものめずらしげに店内をきょろきょろと見回している。


 そういったやりとりの間、英二は一言も発しなかった。

 俯き加減に視線を落とし、ひどく憔悴しているのがわかる。
 睦月たちが帰ると、修一はまだぐずる藍海をあやしながら英二の背中を撫でるように何度か叩いた。
「ありがとう。藍海を助けてくれて。おまえも疲れているようだ、詳しい話はあとでゆっくり聞かせてもらう」

 英二はそれでも、一言も答えることはなかった。

 藍海の無事を喜ぶ家族の輪の中に、英二の姿が見えない。
「英二さん……?」

 この日本庭園を囲むように、離れ座敷が数棟配されている。いずれの離れから眺めても美しく見えるように工夫をこらされた庭園で、創業当時から決まった庭師が代々手がけているという。そのそれぞれの離れへの通路へ至る母屋側の縁側に英二がぽつりと座っているのを、有姫はようやく発見した。
 
「……英二さん、今日は休んで?すごく疲れてるみたい」

 英二が藍海を助け出すといって店を出たのが日曜の宵。もっとも、それは修一から聞いたことで英二は家族の誰にも──有姫にすらひとことも告げずに家を出ていた。

 有姫にとっては藍海の無事と同様──否、それ以上に英二の無事が気懸かりな2日間だったのだ。
 しかし、それを責めようとせずただじっと夫を労おうとする有姫の心を、素直に受け入れることすら英二は出来ずにいる。有姫の声にびくりと肩を震わせると、溜息のように大きくひとつ息を吐き、視線を合わせることもなく──
 微かに、笑ってみせた。
 それが精一杯だと言うように英二は立ち上がり、横になってくる、とだけ言って中庭から背を向ける。

 心配をかけていたことはわかっている筈だ。それでも英二は有姫を抱きしめてやることも、優しい言葉をかけてやることすらできなかった。

 あたし、こんなに泣きそうなのに、英二さんは見向きもしてくれない。

 どうしてなの。

 何があったの。

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 あれから2ヶ月たらず、日常は一見何事も無かったように忙しく回転していた。


『しぶや』を直撃したあらぬ噂は、じわりじわりと店にダメージを与えている。修一の尽力で大半の上得意からの信頼は回復したものの、それでも用心深い政治家や企業家たちが従来この店を利用する最大の目的であった場面をここに用意することを避けていることは明らかだ。
 それだけならば、ある意味修一にとってはまんざら悪いことばかりでもない。
 もともと修一は『しぶや』が政治の、しかも裏の場面に使われることを好ましく思っていなかった。料理の味だけで客を集める料理人としての自信があったから、むしろそういう客が増えてくれるきっかけになれば今回のトラブルもいい転機になるかもしれない。

 しかし、問題は例の噂がどこから出たのかということだ。
 どう考えても誰かが『しぶや』を陥れようとしている。ならば、これで済むわけがない。
 なにか、どんよりと濁った空気が少しずつ足元に凝ってゆくような。


 
 不意に、客の笑い声が聞こえた。
 座敷に顔を出して戻る途中の廊下で耳に飛び込んだ他の座敷からの突然の笑い声。
 次に、懸命に謝る女の声が聞こえる。襖越しにも声の主がわかってしまい、修一は溜息をついた。
「何か粗相がありましたか」
 仕方なく顔を出すと、客はまだ笑っていた。

 側では仲居姿の有姫が頭を下げている。
「やあ、板長。いやあ、粗相というほどのことじゃないんだよ。ちょっと何もないところで躓いただけだよね、君」
 料理を運んで退出するところだったので実害はなかったらしい。しかしそういう問題ではない。
「申し訳ありません。きつく申し付けておきますのでご容赦を」
「そんなに叱ってあげなさんな。可愛らしいじゃないか。久し振りに大声で笑わせてもらったから私に免じて赦してやりなさいよ」
 幸い客の機嫌を損ねることはなかったようだ。

 ほっと息をつきながら退出し有姫をじろりと睨むと修一は顎をしゃくってついてくるように促す。
「おまえはこっちの手伝いはもういいって言っただろう。取り返しのつかない粗相をしてしまったらどうするんだ」
「……ごめんなさい若旦那さん」
 しょんぼりと項垂れる有姫を見ていると、叱っているのに何故か苛めているような気分になる。


 有姫は修一にとっては義理の妹に当たるのだが、もともとはこの店で仲居をやっていた。そこで英二と恋愛関係になったわけだが、どうも修一はその頃の癖で従業員を叱るように有姫を叱ってしまうのだ。
「……もういいから着替えて藍海のお守りでもしててくれ。そのほうがまだましだ」
 有姫は泣きそうな顔のままぺこりと頭を下げ、背を向ける。

 

 藍海の一件からこちら、有姫は頻繁に店に手伝いに来るようになっていた。英二にそう言われたからだという。弟の気遣いは嬉しくないわけではないが、店には出したくないな、などと思うと修一は遠ざかる小さな背中を見送り苦笑した。


「ほんと可愛らしい方ですね、有姫さんって」


 脇で突然聞こえた声にびくりと振り返る。見ると、先日から勤めている新しい仲居が微笑んでいた。
「ああいう方に男性って癒されるんでしょうね。だって若旦那さん、いつものとげとげしさがありませんもの」
「……くだらないお喋りをしている暇があったら新しい献立のひとつも覚えろ」
 仲居ははい、と肩を竦めると聞き取れないような小声で何事か呟き、にっこり微笑んで去って行った。


──癒される、だって?冗談じゃない。余計疲れるだけだ。


 大きく溜息をつくと修一は厨房へ戻った。

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 店がそろそろ閉店に近づいた頃には、藍海はもう眠りについていた。幼い寝顔を眺めながら有姫はきゅ、と唇を噛み締める。


──あたしも。
 子供が欲しい。
 そうしたら、もっと落ち着いていられるのかもしれない。
 こんなに不安にならずにすむのかもしれない。

「藍海は寝付いたのか」
 声に振り返ると着替えを済ませた修一が立っていた。いつの間にか閉店時間もとうに過ぎていたらしい。うとうとしていたのかもしれない。
「ごめんなさい、お片づけの手伝いもせずに……」
「ああ、いい。藍海のお守りをしていろと言ったのは俺だ」
 そう言って修一は藍海の寝顔を覗き込んだ。この時だけは優しい父親の顔になる。それを見ているとまた、英二のそんな顔を見たいという気持ちが湧いてきて有姫はどこか複雑な表情になった。
「腹が減っただろう。賄いがまだ残っているから食うか」
 曇っていた顔を綻ばせて有姫が頷くのをどこか子供を見るような──藍海を見るのと同じような眼差しで溜息をつくと修一は立ち上がった。

 広い家ががらんと感じられる。
 老いた両親はもう寝静まっているし、女将である修一の妻・翠は実家の母の体の具合が良くないというのでここ暫く実家から店に通っている為、今日ももうそちらへ向かった。住み込みの追い回したちもつい先程まで板場で片付けや明日の仕込みなどをしていたがもうそれぞれの自室へ引き上げたようだ。
 修一が用意した賄い料理に恐縮しながら箸をつけた有姫はしかし、食べている間はとても幸せそうな顔をしていた。
 この娘は食べ方だけは誉めてやってもいいな、と修一はいつも思う。
 箸使いが美しいとか、上品だとか、そういった事ではなく本当に美味しそうに食べるのだ。
 美味しい料理は人を幸せな気分にさせるのだという、ともすればうっかり失念しそうな──『しぶや』においては尚更──その原点を、この娘を見ているといつも思い出させられる。


──ああいう方に男性って癒されるんでしょうね。


 先程の仲居の言葉がふと頭に浮かんだ。

 英二は、有姫のそういうところに惹かれたのだろうか。
 そして、英二は何かを有姫に癒されようとしていたのだろうか。

「ごちそうさまでした」
 

 行儀よく手を合わせた有姫の声で修一は我に返った。見ると本当に美味しかった、という顔をしている。苦笑するように小さく微笑むと修一はその食器を手に立ち上がろうとした。有姫がそれを慌てて押し留め、片付けくらい自分でします、と板場へ消えた。


 確かに。
 藍海のことや、英二や澤のこと、店を囲い込もうとしている得体のしれないもののこと。修一は苛々していた。
 しかしそういえば今は何となく落ち着いている。
 つまりは、そういうことなのか。"癒される”というのは。
 妙に納得して修一は苦笑した。

 

──遅いな。

 

 片付けに板場へ行った筈の有姫がなかなか戻ってこない。
 普段の修一なら気にせず自室へ引き上げたのだろう。しかし、ここのところ嫌なことが続いているので少し気になった。
「おい、皿の1枚や2枚洗うのに何分かかってるんだ」
 あえて叱り口調で板場の中に声をかけると、有姫はそこにいた。流しの前で立ち尽くしている。ぽたりぽたりと蛇口から落ちる音が奇妙な大きさで耳に響いた。
 有姫の小さな肩が震えている。
「どうした?」
 修一の声にぴくりと肩を揺らせた有姫はしかし振り返ることもせずその場で首を横に振った。

 泣いているのか。
 こういったとき、修一はなんと声をかければいいのかよくわからない。しかし放っておくのも気になる。こんな時妻でもいれば女同士のほうが話し易いだろうから任せるのだがそうもいかない。だいたい肝心の英二が今日はまだ有姫を迎えに来ていないのが悪いのだ。
 まばたきを2,3度する短い間にそれだけのことが頭を駆け巡った。
 普段なら有姫がべそをかいていようが無視しているのに今日に限って何故そこまで気になるのか、奇妙だとも修一はしかし感じていない。
「どうした。英二に電話しようか」
「……いいんです」
 涙声だった。
「英二さんに心配かけたくないし……それに……」
 有姫は言葉をそこで飲み込んだ。

 この時間まで帰ってこない夫。

『だんなさまのお帰りが遅いとご心配になりません?』

 誰かの声が耳の一番奥にこびりついている。誰の声だったろう。

 

──そう。
 

 彼はひょっとしたらまたあのひとと会っているのかもしれない。

 ぽとり、と涙が零れた。
 あたしをからかって無邪気に笑っていた、あのひと。
 あの時には、彼はもう夫と関係していたのだろうか。だからあんなふうにあたしを苛めたの?
 夫は優しいけれど、本当に自分を愛しているのか。それすら今となっては頼りない。大切に保護されていることは確かだが、夫婦というのはそれだけじゃないと思う。夫が自分のわからないことで苦しんでいるのを、なすすべも無く見ていることが有姫には辛かった。
 自分に話せないことだとしたら、きっと彼のことなのだ。
 けれど──
 こんなことを修一に相談できるわけがない。

 勢いをつけて顔を上げると、出来る精一杯の笑顔で振り返った。

「なんでもないんです。ちょっと……ええっと、お腹が痛くて」
「何?食材が傷んでいたんじゃないのか?今の賄いか?」
「いえ、あの、違います。そういう痛いんじゃなくて」
 真剣に顔色を変える修一に逆に慌てる。料亭でお腹が痛いという言い訳はタブーだったとようやく気付いて冷や汗が出た。

 その有姫の様子を見て修一もただの言い訳だと気付きどこか気まずいような恥ずかしいような気分になった。どうも女性の扱いにはいまだに慣れない。自分がひどく鈍くて気の利かない男であるような気がした。
 有姫は慌てたまま別の言い訳を探している。
 きっと何かこの無邪気で幸せそうな娘の中にも心をしめつけ涙を流させるような悩みがあるのだろう。
 そして、それを夫である英二にも話せずにひとりでじっと耐えているのだ。
 人を癒す力があるのに、自分は何かに深く傷ついて癒されずに痛みを堪えている──

『あんまり可愛くてつい抱きしめたくなるでしょう?』

 

 耳に心地よい歌のような声が遠く微かに蘇る。どこで聞いた声だったろう?そしてそれは誰のことだ?
 ぼんやりと──
 その声のことから意識が離れたとき。
 修一の腕は有姫を振り向かせ抱き寄せていた。
「──お義兄さん?」
 慌てた有姫の声が耳に届いても、修一は腕を緩めることができなかった。気付くと──抱きしめていた。
「あの……お義兄さん…離して下さい……」
 驚いた、けれど遠慮がちな小さな声。震えている。
 自分は一体何をしているのか。
 今の今まで、有姫を女だと思ったことなどなかった。否、こうしている今でさえ、自分が何故有姫を抱きしめているのかよくわからない。
 しかし、それと今自分を動かしている奇妙な衝動とは別だった。
 決して長身ではない修一の腕の中にしかしすっぽりと収まった有姫はまだ何が起こったかわからないように抵抗もせずただ目を丸くしている。
 

 がくん、と。
 背後から襟首をつかまれ引っ張られた。
 そのはずみで有姫から手が離れる。バランスを崩した足を踏ん張りながら振り返った途端、殴られた。
「──英二さん」
 有姫の声が聞こえた。
 見ると──
 英二が立っていた。


「……何の真似だ、兄貴」
 聞いたことのないような低めた、しかし抑えた声。
 答えることなど出来はしない。自分でも自分に説明すら出来ないのだ。
 英二はまだ拳を握り締めたままでいる。
「答えによっちゃいくら兄貴でも許さない」
「やめて、英二さん」
 有姫が慌てて──泣きそうな顔で間にわって入る。
「兄貴だからって庇うことなんてないんだぞ、有姫。俺が帰ってこなかったら──」
「違うの、やめて。お義兄さんはあたしが落ち込んでたから慰めてくれようとしただけなの」
「兄貴は落ち込んだ女を慰める時は誰彼かまわず抱きしめるのか?たいしたもんだな」
「やめて!」
 有姫は必死で叫んだ。自分が原因で兄弟喧嘩などされたくない。けれど──口をついて出たのは言ってはならないことだった。


「英二さんだってこんなに遅くなったじゃない!本当はまた椎多さんと会ってたんでしょう?あたしを不安にさせないって言ったくせに!英二さんの嘘つき!お義兄さんをとやかく言う資格ないわ!」


 英二の顔色が変わる。そこで初めて有姫は決して口にすまいと思っていたことを言ってしまったことに気付いた。

『男のひとって女が甘い顔をしていたらどんどん調子にのるんだから。』
『おかしいと思ったことは問い詰めなきゃだめですよ。』
『でなきゃ──最後には捨てられてしまうんだから。』

 

──いや!

 

「──帰るぞ。来い」
 英二が有姫の腕を掴んで引っ張る。
 英二が人を殴るところも、こんなに怒っているところも見たことがなかった。

 この乱暴に自分の腕を引っ張っているのは、あの優しいはずの夫?
「離して──」
 怯えた有姫の声。英二は一瞬で我に返る。緩んだ手を有姫が振り払った。
 

「……椎多さんを抱いてきた手であたしに触らないで」


 怯えた中に憤りと、そして戸惑いの色がありありと浮かんでいる。
「あたし、英二さんのことがわからない……。あたしの知ってる英二さんは……」
「有姫──」
「あたし、あなたが怖い……あたしの知ってる英二さんを返して……」
 鼻の頭を真っ赤にして涙を拭いもせずに、なかば呆然と有姫は繰り返した。

 有姫ちゃんはそれでもおまえを愛してくれるのか?

 突然、椎多の言葉を思い出した。
 このうえ、俺が人殺しだと知ったら有姫は──
 苦しげに顔をしかめると英二は踵を返し、板場を後にする。
 有姫は追ってこない。ただ泣き声だけが聞こえる。
「英二!」
 修一が背後から腕を掴み引き止めた。
「さっきのことは言い訳しようがないが、やましい気持ちはない。それよりおまえ、有姫を──」
「離せよ」


 英二の腕を掴んだ修一の手が一瞬ぎくりと強張る。
 

 20年時が遡ったような錯覚に陥った。昔、まるで永遠に相容れないかのように兄に反発していた不良少年のころの英二。それがそのまま目の前に現れたかと思った。
「有姫は俺が怖いと言ってるだろう。せいぜい優しく慰めてやれよ」
 兄の手を振り解くと英二は早足で玄関へ向かった。寝入っていた両親が騒ぎに起き出して何か言いたげに見守っている。
「ちょっと頭を冷やしてくる。暫くの間有姫を預かっていてくれ」
 母に向かって小さく呟くと無造作に靴を履き、英二は出て行った。背中にいくつかの自分を呼ぶ声が聞こえたが──有姫の声はその中にはなかった。


 車に乗り込んだものの、英二はハンドルに倒れ込むように身体を伏せる。
 泣きたいような気分だが、涙など滲みもしなかった。

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──誰かが。


 『しぶや』を陥れようとしているこんなときに。
 身内の結束が崩れればそれだけ隙が生まれる。なのに──

 修一は座ったまま自分の膝を力任せに殴った。
 怒りの矛先は自分に向けるしかない。
 しかし。


──英二のやつ。


 帰国してからの英二は、人が変わったように穏やかで家族思いな男であり続けた。そしてそれが弟の本来の姿だと思ってきた。
 だが有姫が口走ったことが本当だとすればその一方で英二は浮気をしている。しかも。

 

──椎多……。
──嵯院、椎多──か?

 何度も『しぶや』を利用している、英二の会社も参加しているプロジェクトを動かす大企業の社長。一見にこやかで穏やかな男だが、修一は根拠も無くただ直感的にこの男は危険だ、と感じたことがある。


 その男と英二が──?

 そして、澤康平。あの男とも英二は知り合いだったらしい。


 有姫ではないが、考えれば考えるほど英二のことがわからなくなってくる。
 自分の知っている筈の弟が、まるで虚像のように思えてきた。
 頭を横に振り、両手で自分の頬をぱちん、と叩く。

──頭を冷やせ。

 英二がそう言っていたが、自分も頭を冷やさねばならないだろう。
 最悪、弟の協力が得られなくなったとしても。『しぶや』は守り通さねばならないのだ。
 ならば、自分がしっかりしなければ。

 今日の騒ぎの発端となった行動を耳の奥で煽動した──あの声のことを。
 修一はもうすっかり忘れてしまっていた。


 

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教会の窓

*Note*

前の「銃爪」章「銃爪」の藍海誘拐事件の後の渋谷家。椎多は英二を『しぶや』に送れと指示を出していたんですが、卓が睦月と連絡をとって先に合流して一緒に戻ったということみたいです。

​妻に浮気相手のことがばれてるのにしれっと関係続けてる英二、自分の悲劇(?)に酔ってるみたいだけど普通に考えてヤベぇやつですね。やっぱ天誅を与えるべきだと思います(酷い作者)。

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