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失楽園

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 あの日おまえは楽園のドアを開け、笑いながら出て行った。
 俺ひとりが取り残されたその場所は、いずれにしてももう楽園ではなかったのだけれど。

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 深深と頭を下げて部屋を退出する男を見送って、渋谷は自分も辞去しようとした。
 妙にきょとん、とした顔をしてから嵯院はコーヒーを運ばせるよう指示をし、客人に向き直る。
「まあ、そんなに慌てなくても。お茶くらい飲んで行けるだろう?渋谷君」
 少し首を傾げ、仕方なさげに息をついて渋谷は微笑み、一旦立ち上がりかけたソファに再び座りなおした。ほどなく秘書らしき女性がコーヒーを運んでくる。

 

「あの子は仕事はもうひとつだけど淹れてくれるコーヒーだけは美味くてね」
「……コーヒーだけじゃないんだろ?」

 

 渋谷の口元が笑っている。それを聞いて嵯院はうるせぇ、と爆笑した。

 張り詰めたビジネスの現場だったその部屋が、一転リラックスする。空気の色まで変わったかのようだ。


 煙草を取り出して火を点け、箱ごと渋谷に向かって差し出すとそれを渋谷は手で制し断った。
「やめたんだ、煙草」
「えっ?!おまえが?!」

 大袈裟に驚いた勢いで嵯院は自分の煙草も落としそうになる。

 嵯院の知っていた頃の渋谷は、肺ガンで入院していても陰で喫煙していそうなほどのヘビースモーカーだった。

「ははあ、可愛い奥さんのためについにやめたのか。意思が強くてなによりだ」

 一見して人妻とは判じかねるほど少女っぽさを残した顔を思い浮かべる。
「なんだ、おまえ有姫に会ったのか」
「ああ、この前の例のパーティで一度だけな。おまえが会わせてくれないからどんな娘かと思ったけどえらく可愛い娘じゃないか。ああいうのが好みだったとは知らなかった」
 ひやかすように嵯院はにやにやと笑っている。照れ隠しのためか渋谷が眉を寄せて睨みつけるのを更に面白がって、渋谷の座っているソファの腕に腰掛けわざとらしく顔を覗き込んだ。


「おまえさ、仕事熱心なのはいいけどあんまり奥さんをほったらかしにしておくなよ。浮気でもしてやろうかしら、なんて言ってたぞ、彼女」
 それは本当の話だ。

 夫が何ヶ月も家を開けて仕事に奔走しているのが寂しくて退屈で、渋谷の妻は一時は本気で浮気をしようかと考えていたのを、たまたま嵯院がそれに出くわしたので少しからかって翻意させたのだ。

 そうとは知らない渋谷はみるみるうちに眉をひそめて身を乗り出す。
「おい、まさか有姫に手を出したりしてないだろうな」
 嵯院は、くつくつと喉を鳴らしながら笑っている。

「何とか言えよ。話によっちゃただじゃ済まさないぞ」
 ビジネスの場で顔を合わせるようになってからは見たことのなかった、しかし若い頃にはしょっちゅう見ていた威嚇の表情を乗せて渋谷はさらに上半身を低く乗り出してきた。

 その表情をニヤニヤ見ていた嵯院は、吸い込んでいた煙草の煙をふうっと渋谷の顔めがけて吹き付ける。

 一瞬目を閉じ顔を逸らした。

 抗議のために向き直る。

 その時いつのまにか左肩を掴んでいる嵯院の右手に気づいた。

 指には煙草を挟んだままだ。

 ほんの瞬間、何故かそれに気をとられた。

「し……」
 暖かく柔らかいものが唇に触れた。
 それは、渋谷の口を覆い、更にそれをこじ開けて侵入してくる。
 その感触を、渋谷は覚えている。

 

「今さら、何だよ……」
 覆われていた口が開放されて思わずそんな言葉が出てしまった。
「今さらだからだろ。けちけちすんな」
 嵯院は笑っている。
 笑いながら、左手を渋谷の首の後ろに回しなおも唇を重ねてきた。
 頭では拒否しているのに、渋谷の唇や舌は懐かしいその感触を求めている。


 波のように我に帰った時、首のうしろに回されていた筈の嵯院の左手がいつのまにか渋谷のベルトを外しにかかっていた。

「おい、──おい。よせよ」

 言葉とは裏腹にその下が反応してしまっていることを悟られたくない。嵯院の手は容赦なくそこへ伸びた。

「こっちはお待ちかねみたいだけどな、正直でいい」

 その手の感触、手の大きさ、湿り気。それすら覚えているようだった。声を出さないように息を吐き出すのがやっとで、渋谷の手は無意識のうちに嵯院の同じ部分へ伸びていた。

「……誰か入ってきたらどうするんだ」
「心配しなくてもここは俺が呼ばなきゃ誰も来ない」

 観念したような渋谷の深い息が嵯院の耳に届く。

「おまえ、まさか前からこうなるチャンスを狙ってたわけじゃないだろうな」

「さあ」

 嵯院がとぼけた顔をする。

 押されっぱなしだった渋谷が、腕を嵯院の背中へ回し髪を掴んで初めて自分から唇を重ねた。ここまできたら繕ってもしかたがない。どのみちもう止まれない。

「……おい」
「何だよ、まだ何かあるのか」
「……煙草消せよ」
 わかってるよ、と満足げに笑って嵯院は手を伸ばしもう根元まで燃えていた煙草を灰皿に投げ捨てた。


 それを合図に殆どソファに押し倒された体勢になっていた渋谷が身を起こし、自ら背広を脱ぎ捨てて逆に嵯院をソファに押し付ける。

 堰を切ったように唇を貪り、既に熱を帯びている手が服の下の肌に触れると、嵯院が小さく吐息を漏らしたのが聞こえた。

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 かつて、一体幾度こうして身体を重ねていただろう。
 ふたりともまだ学生で、いつも何かに苛々していた少年の頃だ。


 一介のやくざから若くして事業を興しわずか数年で大企業に育てた男のひとり息子。
 何代も続いた老舗の、政財界御用達である高級料亭の次男坊。


 そんな肩書きの必要ない──むしろ、邪魔にしかならない場所で椎多と英二は出会った。
 手当たり次第に喧嘩沙汰や博打や酒や女やクスリや──飢えを満たすようにそんなものに手を出しては痛い目にあったりを繰り返していた。

 それは、そんな単なる新しい『アソビ』のひとつ。
 

 しかし、二人はそのアソビに夢中になった。会ったときには最後にはたいていこうして抱き合っていた。

 恋では、まして愛などでは決してなかった。ただ動物のように欲求を満たしていただけだ。

 互いに素性も家も連絡先も姓すら知らない。漠然と相手にも帰らなければならない場所があることは感じながら、そこから逃げてることも承知の上だったのだろう。

 それでもモラトリアムのようにその粗野で心地いい楽園にあと少し、あと少しとしがみついていたのだ。

「──親父がくたばったもんで色々と手間取ってな」
 少し憔悴した椎多は英二の前で初めて父親の事を口にした。
 ひと月以上顔を出さなかった椎多が再び現れた時のことだ。
 椎多の父親が何者なのかは英二は知らない。しかし、自分と同じ『帰る場所』のある人間であること、椎多がそこへ帰ろうとしているのだということは察せられた。


「……まあ、たまには鬱憤を晴らしに来るだろうけど」
 いつも指定席にしていたバーのカウンターで椎多はマスターに向かって笑顔で話している。

 パーマでくるくる巻いていた少し長く茶色がかった髪は真っ黒な短髪に整えられ、整髪剤で固めてある。派手な柄のだらしないシャツでも、流行のやたら大きな肩パットのデザイナーズブランドのものでもなく、上品なデザインの上質なスーツを纏っている。

 それだけで、英二がいつも一緒に遊び回っていた馬鹿な学生とは別人にしか見えない。
 いつかこんな日が来ることを知っていた。それなのに胸がきりっと痛む。

 その日も、英二は椎多を抱いた。

 繰り返し繰り返し、もう許してくれと椎多がそれまで一度も言ったことのない言葉を出してもやめなかった。最後の一滴まで絞り尽くしたように力尽きてしまっても英二はまだ椎多の中に留まったまま離れようとはしない。


「……いい加減にしろよ……歩けなくなるだろ……」
 途切れ途切れに椎多が呟く。自力で英二を退ける力も残っていなかった。
「歩けなくなって帰らなきゃいいんだ」
 独り言のように言ってふいに英二は我に帰った。


 俺は何を言っているんだろう。
 

「ふざけんな」
 力無く椎多は頬を叩き、なんとか英二を追い出してその下から這い出した。
「俺は───」


「アソビの時間はこれで終わりだな」
 

 ふうと深く息をつくとのろのろと椎多は身体を起こし服に手を伸ばす。鈍い動作でそれを身につけながら、振り返ると笑っていた。
「けっこう面白かったぜ」


 アソビだったのだから。
 

 椎多は笑って出て行った。

 英二だけが取り残されて、痛む胸を抱えている。

 しかしそれを口に出すことも、追いかけることもルール違反だった。


──アソビだったのだから。

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 それが、まさかこんな形で再会するとは思っていなかった。


 嵯院は父の後を継いでその大企業をさらに発展させている青年実業家。

 渋谷はかの老舗高級料亭の次男坊であり子会社を任されて新規事業の立ち上げに奔走している。

 かつて出会った場所が場所だけに、この二人が昔馴染みだと知っている者は本人たち以外いなかった。

 もう15年は経っている。あのころの子供っぽい感傷に流されることもない。


「……と思ったらこれだよ。油断も隙もない」
 渋谷はネクタイを締めなおしながらまだソファの腕を枕に寝転がっている嵯院を見下ろした。
「次はちゃんと挿れさせてやるよ。今日はそのくらいで我慢しとけ」
 顔だけを渋谷に向けて笑う。

「"次"がある前提で言ってる?」

 渋谷の声にはっはー、と笑い声をたてるとそのまま目を閉じた。

「こっち久しぶりなんだ。どうせやるなら楽しみたいだろ」

 "久しぶり"という嵯院の声に含まれたほんの少しの影に、渋谷が気づくことはない。

 嵯院がその年月の間に多くの痛みを経てきたのと同じで。

 渋谷もまた、自分の奥底に沈めておかねばならない痛みを経てきて。

 そして今再び出会ってしまった。

 渋谷は背広を一旦ばさっと払うとそのまま羽織って資料を手に持った。
「帰る」
「お疲れさん。"次"がいつか考えとけよ」
 からかうように笑う嵯院にいまいましげに背を向けて渋谷はドアに手をかけた。その手が何かを思い出したようにふと止まる。


「椎多」
 振り返ると、嵯院はソファに横になったまま煙草をふかしている。
「俺、あの頃結局一度も言えなかったけど」
 何故そんなことを言う気になったのかわからない。ただ、今ならなんの蟠りも無く口に出来る気がした。


「おまえが好きだった」

 

「俺もだよ」

「え?」
 嵯院の声が聞こえたけれど、相変わらず嵯院は横になったままで顔が見えない。渋谷は耳を疑った。


「好きでもないやつにやらせてなんかやるもんか」
 

 そう言って、煙を吐き出すと嵯院は肩越しに顔だけを渋谷に向けた。やはり笑っている。

──なんだ、そうだったのか。
──俺だけじゃなかったんだ。

 

 悔しいような、嬉しいような複雑な気分で、渋谷の頬が少し緩む。
「有姫ちゃんによろしくね、渋谷君」
 再び顔を戻し、そのまま嵯院は手をひらひらと振ってみせた。
 渋谷はもう一度微笑んで、ノブに掛けたままの手を回しドアを開ける。

 あれは楽園などではなかったのだと、もう知っている。


 それでも。

 

 あの楽園は、確かに存在していたのだ。


                                   *the end*

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*Note*

あー、はじめてしまった(後に悔いると書いて後悔)。

このSin.coという話のシリーズは出発点は「嵯院椎多」というキャラを掘り下げてかこうとして紫というキャラを登場させることでスタートしたわけですが。

英二が登場して椎多と絡み始めたことではっきりと方向性が決まった気がします。

​しかし渋谷英二は書くのが本当にしんどいキャラでした。幾度も繰り返した加筆・訂正の間に少しずつマシにはなっていってるんだけど本当に本当にこいつは書きづらくて愛着のわかないキャラでした。作者にここまで嫌われてんのになんでまだいるんだお前(謎)。

​なお、2021年の作者が声を大にして言っておかねばならないことは「渋谷英二」は「しぶやえいじ」です。決して「しぶたに」ではありません。

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