Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
呪 文
ノブを回すと、鍵は掛けられていない。
微かにかちゃりという音が扉の開いたことを示す。それを椎多は無造作に蹴飛ばし開けた。音だけが奇妙に室内に響き渡る。
主が居なくなってもこの部屋はそのままの状態になっている。右手のドアの奥はベッドルームになっているが、そちらはカーペットが新しいものに敷き替えられてどことなくぎこちない。
その真新しいカーペットを椎多はじっと凝視めていた。
椎多の姿が見えないとその部屋を覗く習慣がついてしまった。
『あの』翌日にも、その後も。椎多は平然と仕事をこなし、それまでと同じように笑っていた。しかし夜になるとよくこの部屋でぼんやりとしていることを柚梨子は知っている。
悲しむことが下手な人なのだ。
──あたしの前でくらい後悔して泣き喚いていても構わないのに。
柚梨子はいつもそうして胸をしめつけられる思いで椎多を発見する。
その日は奥のベッドルームで立ち尽くしている姿を見つけた。
「旦那様」
側まで行って、声を掛ける。
「お部屋に戻りましょう?ここはもう誰もいない空き部屋なんですよ」
子供を諭すように背中に手を回し優しく撫でる。椎多はゆっくりと柚梨子に顔を向けにっこりと笑った。
その笑顔が胸を突き刺す。
柚梨子にもわかるようになった。椎多は悲しい時にも涙を流す代わりに笑ってしまうのだ。
「血の臭いがとれないんだよ」
顔を微笑ませたままぽつりと落とした。
「手をいくら洗っても、何日たってもあいつの血の臭いがする。死んでもしつこい奴で困るな」
柚梨子はたまらなくなって椎多の手をとり、出口の方向へ引っ張る。
「もう行きましょう、旦那様」
それでも椎多は動かない。動く替わりに不思議そうな顔で柚梨子を見て首を傾げた。
「どうして泣いているんだ」
「旦那様がお泣きにならないからです」
馬鹿だな、と笑って椎多は柚梨子を抱きしめ唇を重ねた。そのまま側のベッドへ倒れこむように横たえる。
「旦那様」
椎多は何も言わず柚梨子の細い項や小さな耳に唇を滑らせ胸をまさぐる。柚梨子は激しく首をふって拒絶した。
「嫌……っ!やめて下さい旦那様……!」
「おまえは本当に優しい娘だ。愛してるよ」
「嫌です、ここじゃ絶対に嫌!」
泣き叫ぶような柚梨子の声にぴたりと手を止めて、椎多は身を起こすと声を立てて笑った。
「あいつの幽霊が見てたら怖いもんな」
あーあ、と伸びをするように腕を上げ、ふうとひとつ大きく息を吐くと立ち上がってすたすたとドアへ向かう。椎多の背中を、柚梨子はただ茫然と見送るしかなかった。
ベッドルームのドアのところで椎多は一旦立ち止まり、柚梨子を振り返り、何か思いついたようにでかけてくる、と声をかけた。
「なに、明日の仕事には差し支えないように帰ってくるから心配しなくていいよ」
そう言い残して椎多は柚梨子を置いて部屋を去った。
柚梨子はベッドに身を起こした姿勢のままただ静かに涙を流している。
──もう旦那様を放してあげて。
──お願い、紫さん。
真新しいそのカーペットの下に今も残っているだろう血溜まりの跡に向かって、柚梨子は呟いた。
「──おう、ご無沙汰。生きてたのか」
顔を出したとたんにマスターの声が響く。数年ぶりだが店もマスターもまったく変わらない。
「俺の酒、残ってる?」
「残ってるわけねえだろ。何年経ったと思ってるんだ。だいたいうちはショットバーだぞ」
そう言いながらマスターはグラスに酒を注ぎ椎多の前に置く。昔、若い頃に英二と入り浸っていた店だ。
繁華街のメイン通りから2筋ほど入った少々鄙びて下卑た店も多い一角の古い雑居ビルの奥。時間が止まったようだ。
「死にそうな顔してんな」
顔を覗き込まれて苦笑する。
このマスターは客が自分から話そうとしないことは詮索しない人間だ。なのにそんなことを言われるとはよほど"死にそう"な顔をしていたのだろう。
「死にそうかな。俺、笑ってない?」
「笑ってるけど魂がどっか違うとこに行ってるみたいだぞ」
皮肉なことに、現在の周囲のどの人間──全ての事情を知っている柚梨子含めてほんの数名を除いて──よりも、もう何年も会っていなかったこのマスターの方が椎多のことを良く見ているようだった。
それとも久しぶりに来て多少気が緩んでいたのかもしれない。
魂か。
とだけこぼして、椎多は目の前に置かれた酒を呷る。マスターもその様子を見ていつも通りそれ以上追及することをせず、他の客の相手をしている。久しぶりだからと無暗に詮索したり無駄話をしたりしようとせず、放っておいてくれるのはありがたい。
マスターが入れてくれた一杯目が無くなるころ、ふと思い出したように椎多は問い掛けた。
「──英二は?」
「英二?……ああ、あいつもあのあと顔を見せなくなったな。生きてるんだか死んでるんだか」
椎多と別れたためか、それとも帰るべき場所へ帰って行ったのか。
ふうん、と答えて椎多は苦笑した。
──そんなことを訊いてどうしようっていうんだ。
英二の所在を訊いて、会えるものなら会おうとでもいうのか。会ったとしてどうしようというのか。
英二が開けた胸の穴を紫に埋めてもらって。
紫が抜けたからといって今度はまた英二に埋めてもらおうとでも?
──馬鹿げている。
もう誰もそれを埋めることなどできはしないのだ。
愛している、とひとこと言えばよかった。
英二も紫も、失う前に気づけばよかった。
否、気づいていたのに自分が認めることが出来なかっただけなのだ。
そして、二人とも失った。
青乃にしてもそうだ。短気を起こさずに根気強く愛していると告げていればいつかわかってくれたかもしれないのに、ひとことも告げることなく完全に離れていってしまった。
大切なものを失ったのは全て自業自得なのだ。誰を責めることもできはしない。
椎多は顔を伏せて笑うように息をこぼす。その下でグラスの氷がからんと音を立てた。
いっそ泣ければよかったのに、一粒の涙すらでてこない。
「落ち込んでるな。ひとり?」
聞き慣れない声が、堂々巡りを繰り返す椎多の思考を中断させた。顔を上げると、見た事の無い男がいつのまにか隣に座っている。にやにやと薄笑いを浮かべている、感じの悪い男だ。
「慰めてやろうか?」
明らかにものほしそうな目で男は椎多をねめまわしている。
椎多は眉をひそめると嘲るような笑いを浮かべた。
「何、あんた俺とやりたいの?」
「話が早いじゃねえか。裏へ行こうか」
「おい、いいかげんにしろ。ここはそういう店じゃねえんだぞ」
マスターが男に向かって鋭く釘を刺す。男が何か反論しようとする前に、椎多は手でそのマスターを制した。
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫だよ。あの野郎、ちょいちょいここで男ひっかけてはトラブル起こしたりするんだ。ハッテン場かなんかと勘違いしてやがる。相手すんな」
「大丈夫だって。トラブルになるようなら俺が痛い目見させて二度とここに出入りしないようにしてやるから安心しなって」
小声で笑い返し、男について立ち上がる。
男はマスターに向かって小さく何か捨て台詞を吐いて店を出るとビルの非常口から裏へ向かった。
相手などもう誰でもいい。
自分は大切なものを手元に留めておくことのできない人間なのだから、もうそんなものなど必要ないのだ。
ビルの裏口を出ると狭い露地になっている。通り抜けできない袋小路になっているから人通りはなくひどく薄暗い。ごみごみと様々な物が無秩序に置かれていて、何ヶ所か物陰ができているのを利用して場所を持たない即席の恋人たちがよく愛し合っていた。
男はその物陰へ椎多を連れて行った。最初からわかっているがこの男の目的はそれしかない。椎多は湿った壁にもたれて煙草に火を点け、ポケットに手をつっこんだ。
ホテル代をケチるにしても、もう少し気の利いたやつならこのビルの上階は廃ホテルを利用したビル店子の人間の宿舎替わりに使われているし、3階はこの時間なら営業終了後で誰もいない。階段でもどこでも、その気になればやるだけなら屋根の下でも隠れて出来る場所はある。ビルの中ではヤバイ目に遭った事でもあるのかもしれない。
「こんなじめじめした小汚いとこでやろうっての?ホテル代くらいケチんなよ」
「がたがた言うな」
そう言いながら男は早速あたふたと椎多の腰のベルトを外し始めた。すでに目が血走っている。椎多は冷めた目でその様子を眺めて溜息をついた。
──手際の悪い奴だな。
外し終わると男はじっとりと湿った手をその中へと侵入させてきた。不快そうに眉を寄せまた煙草をくわえ、煙を吐き出したところで口が塞がれる。男のいやらしい舌が無遠慮にそれを嘗め回しているのが気持ち悪い。つい顔を逸らしてそれを拒絶した。それでも相手は構わず椎多の耳や首を味わいながら煙草を持っていない方の手を持って自分の方へ導き、耳元へ囁いた。
「……俺のも頼むよ」
背筋を悪寒が走る。最悪だ。もう我慢できない。
誰でもいいとは言ってもこんなのは勘弁だ。
「あーもう無理だわ」
椎多は手首を掴まれたままそれを持ち上げ、男の顔を鷲づかみにする。見た目より椎多の力が強かったのに怯んだのか男はびくりと手を屈めた。
「くっせえんだよ!歯あ磨いてから出直して来い!」
ぺっと唾を吐き捨ててにやりと笑う。
「なんだこの……」
掴みかかり反撃しようとする男の額めがけて吸いかけの煙草を押し付ける。
物凄い叫び声。
飛びのき、地面へ転がった。
椎多は残酷な笑みを浮かべ苦しむ男を見下ろし、その腹を何度も力いっぱい蹴りつけた。ついでに急所にも蹴りを入れておく。
ああ、そういえば親父の跡を継いでからはこういう実戦みたいなのはやってなかった。身体が動いて良かったなと何故か他人事のように思った。
──本当に汚いことは俺が全部引き受けますから
そうだ、こういうのはあいつが全部やっていて、俺は手を下す必要が無くなってた。
「俺とやろうなんて1000年早いんだよ」
蹲りなお苦しんでいる男に言い捨てて、店に戻ろうと背を向ける。
直後、ふと気配を感じ振り向くと男が起き上がり狂ったように頑丈そうなナイフを振り回して突進してくるのが目に入った。
「そのまま帰すと思うかてめえ!」
目を眇め、それを身軽に避けると簡単に相手の懐に入る。
妙に、冷静だった。
町の喧騒が少し遠い露地に乾いた甲高い音が響く。
けれど見向きをする者も、駆けつけるものもない。
紫を撃ったあの飾り銃を、椎多はその後もずっと身に付けていた。
儀礼用の空砲を撃つためのものだったのを、実弾を撃てるよう改造してあった銃。実弾は2発しか込められない。
あの時2発使ってしまった銃弾を、再び込めて。
あの後も変わらず身に付けていた。
紫のかわりに、自分の身を守るものとして。
おびただしい血を流しながら男は苦しんでいる。やがて動かなくなるまで椎多はそれをじっと凝視めていた。
──ああ、これ片付けなきゃ。マスターに迷惑をかけてしまうな。
奇妙なほど冷静に思った。
ハンカチで銃に付いた血を丁寧に拭って再び大切に懐へ収める。ベルトを締めなおし、コートと背広をその場に脱いで男を担ぎ上げた。体格も貧相な男で助かった、などと思う。
奥のゴミ捨て場に放りこんでおけば何とかなるだろう。
血溜まりは放っておいてもおそらく気にする人間もいないだろうし雨でも降れば自然に流れる。
もとの場所に戻り、血で汚れたシャツの上から背広とコートを羽織ろうとして、手も血で汚れているのに気づいた。すでに固まり始めたそれは少しねばねばしている。
──汚え。
銃を拭ったハンカチでとりあえず拭いてみる。あとで店に戻って洗わせてもらおう。
そうだ。
もう紫はいないのだから、こうして自分で自分を護らなければ。そして自分の手も汚さなければならないのだ。
別の血を何度も浴びていればそのうち紫の残した血は塗り込められていくのだろうか。
──大丈夫だ。俺はやっていける。
自分に言い聞かせるように呟くと椎多はビルの非常口ではなく、店の裏口を開けた。服に血の臭いが残っているので流石にまた店に座るわけにもいくまい。こっそりマスターに声をかけると手を洗わせてもらい、勘定だけ済ませると椎多は再び店の裏口から外へ出た。
マスターは何か言いたげにその様子を目で追っていたが、何も言わずにいてくれた。
店の裏で何が起こったのか、察しているかのように。
それでも特に動じる様子はない。マスター自身もそれなりに場数を踏んでいるのだろう。
仮にほどなくあの男の死体が見つかって騒ぎになったとしても、知らぬ存ぜぬを通すはずだ。おそらくいつもそうしているように。
あの男の死体を放り込んだゴミ捨て場に背を向けて、露地を出てまだ賑わいの中にある街に戻る。歩いて帰っても夜半過ぎには屋敷に着くだろう。あんまり遅くなるとまた柚梨子が心配して泣く。いつまでも自分の悲しみを背負わせては可哀想だ。
帰ったらシャツとネクタイを捨てて、風呂に入ろう。
あの汚い男が触れた場所を全部くまなくきれいに洗わなければ気持ちが悪い。そうだ、うがいもして歯も磨かないと。
また笑いが浮かぶ。
──大丈夫だ。
もう俺は蝶の羽を毟って遊ぶ子供ではない。
もう誰も俺を甘やかさない。
もう、大切なものなどいらない。
──大丈夫だ。
呪文のように繰り返しながら、椎多は屋敷へ足を急がせた。
「あの部屋を片付けようか」
コーヒーを口に運びながら椎多が微笑んでいる。
柚梨子は昨夜椎多の帰りが気になって眠れずにいたが、思っていたよりは早く帰って来たと少し安心していた。しかし、朝一番に唐突に椎多がそんなことを言い出したのだ。
「え……?」
「紫の部屋だよ。どうせ空き部屋だけどいつでもつかえるように片付けよう」
そうしたほうがいいと思っていたのに、何故か柚梨子は戸惑う。
昨日の今日で何かあったのだろうか。
しかし、椎多はそれきりそのことについては触れなかった。
そして、二度と紫のことを口にすることも無かった。
*the end*
*Note*
紫を殺した直後の椎多の話。英二と入り浸っていたバー、というのは実は別系統のシリーズの登場人物が関係していたりしまして。スピンオフはどんどんスピンオフを産んでいくものなんですよね~。ここではこのバーの名前もマスターの名前も出てきていないけど、もちろんちゃんと名前があります。最初にこの話を書いた時にはあんまり人物設定などを考えずに書いたんだけどそのあとまあまあがっつりした設定や出来事を作ったので、そこんところちょっと今回(2021)加筆したりしています。
英二の話を出していますが、椎多と別れたあと自分もここに出入しなくなった英二がとりあえずどこへ行ったのかはこの人、知ってるんですけどね。口、堅いですね。
自分で「大丈夫」って言い出す人は逆にヤバい状態だっていうのはわりと多くの人が感じていることではないかと思うのですが。
大丈夫じゃない人が大丈夫大丈夫って言うのが呪文っぽいなと思ってタイトルを「呪文」にしたのでした。