Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
獲 物
あの人がいなくなれば。
彼は自分のものになるかと思っていた。
けれど、彼は僕を拒んだ。そして。
ああ、どうすればこの胸の苛立ちをおさめることができるのか。
でも、運命が少しは僕の味方をしてくれることもあるらしい。
今夜、この男と会えたことを誰に感謝しようか。
ほんの僅か、左手の人差し指を絞る。それで男の仕事は終わる。
何事も無かったようにその商売道具を手早く片付けると、狙撃手はその場を後にした。
ビルの入り口には、長身の男が待っている。
「ご苦労」
無表情のまま、ぼそりと言葉を落とした。
「──ご褒美は?」
サングラスの下の目を悪戯っぽく笑わせてその顔を見上げる。狙撃手も決して小柄ではないがこの男が相手では大抵の人間は見上げるかっこうになるだろう。
長身の男は無視して歩きはじめた。そんな対応は慣れっこなのか、気にするふうでもなく狙撃手もその後に続く。両手をポケットにつっこんで、足取りがどこか楽しげだ。全身黒い服で身を包んだその姿は夜の闇に奇妙なほど溶け込んでいる。
──鴉、と呼ばれる所以でもあった。
停めてあった車に乗り込むと、男は無言で包みをひとつ取り出し、放り投げるように鴉に渡す。それを覗き込むように確認すると鴉は得物をしまったバッグに無造作に投げ込んだ。
「確かに。でも最近しけてんじゃないの?組長に言っといてよ」
「不満なら引き受けなくてもいいんだぞ」
鴉は肩をすくめ苦笑した。とりつくしまもない。報酬をつりあげる交渉にもなりはしない。
「相変わらず冷たいなあ、紫さんは」
小さく肩をすくめてくすりと笑うと鴉は小さく身を乗り出して紫の顔を覗き込んだ。左腕を回し紫の唇に自分のそれを重ねる。とくに拒みもせず紫はそれを受け止めていた。
「まあいいよ。紫さんからご褒美をもらうから」
ひとしきりそれを味わうとぺろりと舌なめずりをして鴉は笑った。
誘ってきたのは鴉の方だ。
たまたま一人で飲んでいた店で声を掛けられ、よくあるその夜だけのことになる筈だった。
「今人を殺してきたとこなんだよね」
ベッドの上で、にこにことこともなげに鴉は笑った。
「オレ、殺したあとは無性にしたくなんの。今日はあんたみたいな人に会えてラッキーだったよ」
その口ぶりや手にできたタコやなにより身に染み付いた硝煙の匂いが、このまだ若い男がプロの狙撃手──殺し屋であることを物語っている。
ふと、腕がどの程度のものなのかが気になった。
殺し屋と呼べる人間を現在も何人か使っているが、こと狙撃に関しては数年前に失ったひとりの狙撃手を上回る腕の持ち主が現れないでいた。それでも特別困ることはなかったが信頼度がまるで違う。
自ら上にまたがって湿った鳴き声をあげる鴉をどこか機械的に突き上げながら、紫はそんなことを考えていた。
腕前を見たい、と言うと鴉はいつの間に隠していたのか枕の下から小型の拳銃を引っ張り出し、部屋を見回していたかと思うと枕で包むようにしてそれを無造作に発砲した。それはまるで手違いで銃爪を引いてしまったのではないかと思うような雑な動きだった。銃弾は天井近くの壁にめりこんでいる。
「オレあれ嫌いでさ」
笑って銃痕を指さす。
近づいて確認してみると、そこには消し飛んでかすかに足の痕跡が残されているおそらく虫だったものがあった。
「長い方も見せてあげれたらいいんだけど、今日終わらせちゃったしね。なんか別のもんでも撃つ?犬でも猫でも」
穴のあいた枕の形を整えながら楽しげに鴉は言う。
組長に───七哉に相談すべきだろうか。
一瞬考えて、しかし、紫はその場で鴉を使ってみることを決めた。現在使っている狙撃手の何倍も腕は確かだと判断したのだ。七哉にはあとで報告すればいい。
組の仕事を引き受けないか、と言葉を選んで話すと、鴉は少しきょとんとした顔をして、それからじろじろと紫の顔を眺めた。そして小さく吹き出すと上目に視線を合わせる。
「そうだな、報酬とは別で仕事のあとあんたがオレを抱いてくれるんだったらやってもいいよ」
その時初めて紫は鴉の目を見た。
胸の奥でなにかがよぎって消えてゆく。
何故、その時気づかなかったのだろう。自分はこの目を知っているのだと。
「それ、いつも大事に持ってるよね。飾りみたいだけど実用なの?」
衣服を整え小さな飾り銃を懐にしまう紫を、どこかからかうように鴉は言った。その本人はまだベッドの上でごろごろしている。
その銃は紫の大きな手にすっぽりかくれてしまう玩具の銃のようなものだった。
「お守りみたいなものだ。使うのは手に合うものを持ってる」
つ、と鴉は立ち上がって紫の懐に手をつっこみその銃を引きずり出した。
「ちょっと見せてよ。えらく上品な飾りがほどこされてる。何か由緒のあるものかもね」
「べたべた触るな。返せ」
「よっぽど大事なんだねえ」
くすくす笑いなかなかそれを返そうとしない鴉の腕を掴み紫がそれを取り返すと、鴉は自分の腕を掴んだその指に接吻ける。
「今日はまだ帰さないよ」
今絞めなおしたばかりの紫のベルトを緩め、その中に手をすべりこませて鴉は笑った。
その葬儀を、遠巻きに見届けたところまでは覚えている。
そのあと自分がどの道を通ってどこへ向かうつもりで歩いていたのかはよく覚えていない。歩いていなければ脱力して二度と立ち上がれないような気がしていたのかもしれない。多分、夜更けのこんな時間まで一度も立ち止まることなく歩きつづけていた。
その足を止めたのは、目の前にふらりと現れた黒づくめの男。
「──鴉」
「泣きたいんじゃないかと思って」
笑っている。紫はひどく顔をしかめて、しかし何を言う気にもなれずそのまま通り過ぎようとした。その腕を鴉が掴む。
「こんな日にひとりでいるとろくなことはないよ」
掴んだ腕を引っ張り、鴉は紫を導いた。それに逆らう理由も気力もなく、紫はただそれに従う。
暗い部屋に入ると鴉は両手で紫の頬を包むとゆっくりと接吻けた。
「あんたの方が死人みたいだよ」
紫は、そのまま鴉をベッドの上へ押し倒すと引きちぎらんばかりに衣服を剥ぎ取り、狂ったように抱いた。
鴉の鳴き声が騒々しいノイズのように紫の耳をかき乱す。
それを打ち消すように頭を振り、何度もそれを繰り返して我に帰った時、鴉は既に意識を失っていた。
あれからろくに寝ていない。しかし、それでもまだ眠れそうになかった。
いつものようにすぐに服を身につけるでもなくぼんやりと座って煙草に火を点ける。どのくらいそうしていたのか、背中に冷たい手の感触を感じた。
「……ねえ、僕と組もうよ」
微かに違和感を感じた。
「あなたの大好きな七哉さんは死んじゃったんだから、もうあの組にあなたを縛り付けるものはないはずでしょう?あんなお坊ちゃんのお守りなんてあなたのすることじゃない」
この違和感はなんだろう。自分の背中にいるのは鴉、なのだろうか。
紫はゆっくりと振り返った。
よく知っている鴉の顔が上身を起こしてこちらを見上げている。視線がぶつかった。
「──鴉?」
鴉は、にっこりと──笑う。
「僕の名前を呼んでよ。あなたは知っているはずだよ」
時間が止まったような沈黙が流れる。
ずっと胸の奥でもやもやと霞んでいたものが急に形を成し、名を持った。
「……鴒……?」
「やっと気付いてくれた」
鴉は起こした身を仰向けに、勢いよくベッドに投げ出すと大声で笑い始めた。
物心ついたころから、鴒は銃を玩具がわりにしていた。
家業はモデルガンを主商品とした模型店である。つまり家にある銃というのはモデルガンだ。母は鴒がそれらで遊ぶことを嫌ったが、父が家にいるときは上機嫌でその扱い方を教えてくれたりもしたものだ。
しかし──
その中に『本物の』銃が多数あったことを鴒は知っていた。
父が戻らなくなったのは12歳の時だったか。
それまでも仕事で1ヶ月や2ヶ月家を空けることは稀ではなかったので最初は気にしなかった。3ヶ月を過ぎて今回は長いな、と思った程度だ。
病弱だった母は既に亡くなっており、父が仕事で家を空ける時には鴒が一人で留守を守っている。
4ヶ月が経過するかというころ、父の知人の遣いが迎えに来た。
連れて行かれた先には、小さな祭壇がしつらえてあった。それは、父の『葬式』だ──と招待主は告げた。
父の本当の職業や、父が何故死んだのか。それは教えてはもらえなかった。
それでも、鴒はとうの昔に気づいていた。
父は、殺し屋だったのだ。
しかし遺体を目の当たりにしたわけではないのでどうしても実感がわかない。半年ほどしたらひょっこり、今回は手間取ったな、などと笑いながら帰ってくるような気さえする。
だから、孤児になってしまったらしい自分をその男が引き取って面倒を見ようと申し出たときも、この家を離れることを拒否した。
父が置いていったこの莫大な量の銃器を、自分は引き継がねばならないのだと何の迷いも無く思っていたのだ。
そして、鴒はある日姿を消した。
どうやって運んだのか、あの大量の銃器とともに。
姿を消した時の鴒は14、5歳だったように思う。確か卒業を控えた中学生だった。紫の記憶している鴒はまだ身長も低く、大きな目のあどけない顔の少年だった。子供の頃から知っているから尚更それが実際より子供のように記憶されていたのかもしれない。
「背も随分伸びたし、顔も変えたからね。でもこんなに気付いてもらえないとは思わなかった」
鴒──鴉は可笑しくてしかたないように笑いつづけている。
「そう、偶然なんかじゃないんだよ、紫さん。全部あんたを手に入れるためだった」
あのとき酒場で声をかけたのも、自分が暗殺者だと仄めかしたのも。すべて、鴉の思惑通りだったのだ。
眩暈がするほど混乱している。
「オヤジは──おまえを殺し屋になどさせられないと言っていた」
爆笑が一段落するとこんどは鼻を鳴らして皮肉げに笑った。
「綺麗事さ。金を使って平気で邪魔者は消す癖に、別の金ではオレを養ってオレの親父を死なせたことを償った気になってただけだ。自己満足だよ」
紫の顔が微かに歪む。その表情の変化は僅かだが見るものが見ればその怒りの度合いがわかるだろう。しかし、鴉は構わず続けた。
「あの人の施しなんか受けたくなかったけどね。貰えるものは貰っておこうと思ったのさ。それに、そのお陰であんたが毎月来てくれたからね」
「鴒……」
「あんたに会いたいから我慢してたんだよ」
鴉は身を起こし膝立ちすると紫の耳元へ唇を寄せた。
「……ずっとずっと、好きだったんだよ」
頭に血がのぼっているのが自分でもわかる。その怒りはどこへ向けられたものだったのか。七哉を誹謗した鴉に対するものか、それとも何も気づかずにいた自分自身に対するものだったのか。
紫は乱暴に立ち上がると鴉に背を向けたまま衣服を身に着け始めた。
「オレと組もうよ、紫さん」
もう一度鴉は言った。
服を整え終えるといつものようにあの飾り銃を懐に収め、一度だけ深呼吸をする。
「──二度と俺の前に姿を見せるな」
そう吐き捨てると紫はひどく乱暴に部屋を出て行った。
建物を出ると薄暗いひと気のない裏道を紫は方角もわからないまま足を進めていた。
今は何も考えたくない。
いっそ七哉の後を追いたいくらいだ。しかし七哉に椎多を頼むと言い残されてしまった。死ぬわけにはいかない。今思えば、そうでも言っておかなければ紫は後を追いかねないと七哉はわかっていたのではないのだろうか。
──最後まで、残酷なひとだ。
ふと立ち止まり、目を閉じる。
「紫さん」
背後から自分を呼ぶ声が、耳に届いた。
顔は、微笑んでいた。
声は、穏やかだった。
ただ、そこにあるものを取ってと頼んでいるかのようにさりげなく鴉は言った。
「死んでよ、紫さん」
やられた、と思った。
ほんの一瞬、気を失ったようだ。しかし、衝撃による痛みはあるものの自分のどこからも流血はしていない。
目を開けると、真上に鴉の顔が見えた。サングラスの奥の目を見開いてひどく驚いている。
それはそうだろう。心臓を正確に狙って撃った筈の相手が目を開けて自分を見ているのだ。
「……何で死なないの?」
何故だろう。左胸に手をやってみる。硬いものが手に触れた。
それは、小さな、装飾用の銃。
「気に入らないな」
鴉はそのままにやりと笑った。
「こんなところにまで邪魔に入って。あの人はそんなにあんたが大事なのかな。死んだのならおとなしく手放してくれればいいのに」
鴉は喉を鳴らして笑いつづける。何が可笑しいというのだろう。
紫は倒れたままの姿勢でそれをじっと睨みつけていた。すう、と静かに深く息を吸い込む。
跳ね上がるように振り上げた足が鴉の横っ面を弾き飛ばす。
速い。
その場に薙ぎ倒された鴉が再び銃を構えようとした。
銃声。
弾き飛ばされた銃が床に転がる。
「───っ!」
一瞬前まで銃を握っていた鴉の左手の、黒い皮手袋から皮膚を突き破って赤い血がぽたりぽたりと滴り落ちた。
「指が──」
苦痛に顔を歪めながら鴉は紫の顔をじっと見上げる。
「……殺してくれないかなあ、どうせなら」
「おまえの願いを聞いてやるのも気に入らん」
紫は目を眇めただけで表情も変えず鴉を見下ろし、言った。
「その指ではもうこの仕事はできまい。どこかへ消えろ」
消えろ、と言いながら紫は自ら背を向けた。鴉が利き腕でない右でも銃を撃てるということは知っている。しかし、この状況で正確に的を撃ち抜ける程ではないということもわかっていた。
「なんでオレじゃダメなの?オレたち上手くやってけてたじゃん」
紫は答えず、振り返りもしなかった。その背中に向かって鴉が笑う。
「オレはいつか絶対あんたを手に入れるよ、死体にしてでもね。その日を楽しみにしてるよ」
血の気の引いて額に脂汗を浮かべた顔を精一杯笑わせて、鴉は声を絞り出した。
それでも──紫は振り向かなかった。
隣に座ってくだをまいている男の口から、忘れようと思っても忘れられない憎い相手の名前がこぼれたのを鴉は聞き逃さなかった。
銃爪をひく機能を失った左手ではもう仕事はできない。残された右手で以前と同じ腕を取り戻すために鴉は数年を費やした。しかし、どうしても紫のことが忘れられなかった。
そうして、この土地へ戻り紫の消息を追った鴉が知ったのは、紫が忽然と姿を消したことだけだった。
あらゆる手段を講じてその真相を探ったけれど、確認するまでもなく鴉にはわかっていた。
紫は、殺されたのだ。
おそらくあの「お坊ちゃん」に。
──オレの手には、あの人の何ひとつ残らない。
残ったとしたらこの左の指にある傷跡だけだ。
それでも忘れようと思ったこともある。他の組織に飼われていた時もある。それでも、自分の獲物を奪った男の名を、鴉は忘れることはできなかった。
「……おじさん、そんなに憎い相手がいるならそいつを上手に消せる方法を教えてあげようか?」
サングラスの奥の目を細め、鴉は隣で酔っ払う男に微笑みかけた。
*the end*
送信しました。ありがとうございました。
*Note*
「獲物」 鴉をさらに掘り下げてみた。 ほんと鴉に関しては初出からほぼキャラが確定してて、非常に書きやすい。 書いてて楽しい人物の一人。
鴉が鴒だった時に紫が好きだったのは、まあ好みのタイプであることのほかはむしろ七哉の命令ばっかきいてる気に入らない人のはずだったので実のところ「好き」とかじゃなかったのではないかと。鴉はちょっとSEX依存症みたいなとこもあるので、鴒であることを隠してだけど実際に寝たりしてるうちに手に入れて独占したくなったんだろうなって。なんとなくだけど、鴉の言う「愛して欲しい」は椎多のそれとは違う気がする。椎多のは椎多のでまあまあ面倒臭いですが。