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痕 跡

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───痛い。

 足に力が入らない。早く帰って横になりたかったが思うように前に進めなかった。
 街の賑わいが目や耳に煩い。時折、名を呼び止められるがそれに答えるのも煩わしい。賑わいが少しおさまる街のはずれまで来ると、そこに停めた一台の車が目に入り、少し安心して椎多は小さく息をついた。


 窓を小さく叩くと運転席で本を読んでいた男が車からおりて後部座席のドアを無言で開ける。
「………ここでじっとしてたのか」
「ここで待っていろ、と言ったのはあんたですよ」


 にこりともせず男はドアを閉め、運転席にまわる。無口で無愛想な男で助かった。今は誰にも顔を見られたくないし会話もしたくない。椎多は乗り込んだ後部座席で力尽きたように横になった。


 英二の残した熱が、まだ体から出て行かない。
 傷は痛むけれど、それよりももっと痛い場所がある。


 椎多は横になったままコートの襟を手繰り、まるで寒さから身を守ろうとするように胸の前で握り締めた。

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 車の中で眠ろうと思ったのに、眠れない。
 屋敷までこんなに遠かったのか、と思う程長く感じた。


「着きましたよ」
 

 男の声が聞こえる。しかし、身動きする気になれなかった。傷が痛めばまた英二の体温が蘇ってしまう。男は椎多を乗せた時と同じように車を降り、後部座席のドアを開けて中を覗き込んだ。
「そこで朝まで寝る気じゃないでしょう。さっさと起きて降りて下さい」
 慇懃無礼というのはこういうのを言うのかなと思う。

 この男は自分をボスとは認めていない。
 この男は父を"愛して"いたのだ、と椎多はずっと感じていた。

 先日他界した父は女好きだったし決まった愛人こそいないものの気軽に寝るような女が色々いたことは知っている。だから男である紫と実際に肉体関係があったかどうかはわからないが、この男の方は主や父親に向けるそれ以上の感情を持っていたのは確かだ。

 だから、この男は椎多をボスとは認めていないのだ。

──苛々する。

 面倒臭げに嘆息し椎多の顔を見下ろすその顔をじっと見上げていると、むかむかと気分が悪くなってきた。
 ボスとは認めていなくても、椎多の命令は黙って聞く。

 父が死の床で息子を頼む、と言い残したからだ。
「──おい、紫」
 眉を寄せ睨みつける。


「俺を抱け」
 

 男──紫はほんの少し目を見開いた。もともと表情の乏しい性質なのだろう。それでも驚いていることくらいはわかった。
「……何を言い出すかと思えば。そんなことより早く部屋へ戻って休みなさい。見たところそんな体力も残ってないんでしょう」
 軽くいなされた。それがさらに腹立たしい。
「おまえはつべこべ言わずに俺の命令を聞けばいいんだ!」
 つい声を荒げて叫ぶ。それが自分で少し滑稽に思えた。自嘲するような笑いがこみ上げる。
「できないわけじゃないだろう?それとも車じゃ嫌なのか?」
 そう言った自分の言葉が何か可笑しくて、また小さく笑う。
「だったら車をさっさと片付けて部屋へ来い。逃げるなよ」
 重い身体をのろのろと起こし、紫を押しのけて車を降りる。


 なんでもいい。
 誰でもいい。
 とにかく何もかも忘れて眠れるくらいにもっと自分を痛めつけたかったのだ。


 紫は是とも否とも応えずただ車に戻り発車させた。それをほんの一瞬見送ると屋内へと歩を進める。車内でずっと横になっていたので幾分楽にはなったがまだ全身のだるさは抜けなかった。


「なんでこんな広いんだこの家は……」
 独り言を言う。幼い頃からすでにこの屋敷に暮らしていたから、広くても当たり前のように感じていたがこんなに広い必要は何処にもないと思う。所詮父は上流階級に憧れた成金だったのだ。

 やくざの跡取りであった父は、ちょうど今の椎多の年頃に一念発起して事業を興したという。生来そういう才能もあったのだろう、父が結婚し椎多が生まれた頃には既に巨大企業へと育っていた。


 その父が他界したのはほんのひと月ほど前の事だ。
 能力のない者には例え一人息子だからといって簡単には継がせない、という信念の持ち主だった。それでも一人息子に跡を継がせたいという気持ちは強かったのだろう、まだほんの子供の頃から椎多を社に連れていって会議に同席させたり、経営に関するあらゆる事を肌で覚えさせた。

 その一方で、その大事な息子が思春期以降夜な夜な繁華街や柄の良くない店などに入り浸って一通りの悪さをやっていても、父は何も言わなかった。

 喧嘩をして傷だらけで帰って来たのを見ても一言「勝ったのか」とだけ尋ねて、勝ったと答えると嬉しそうに笑って椎多の頭をぽんぽんと叩いたりしていた。
 椎多は、そんな父が決して嫌いではなかった。


 しかし、早すぎる。椎多は父の築いたものを引き受けるためにあらゆる手を尽くさねばならなかった。その慌しさが椎多を悲しみから遠ざけていたのかもしれない。

 自室に戻ると、また何故こんなに広いのだろうなどとぼんやり思った。空間が広ければ広いほど、一人でいることを思い知らされてしまう。紫はまだ来ない。


──逃げやがったな。
 

 小さく呟くとなにか馬鹿馬鹿しくなって、椎多は服を脱ぎ散らかすとベッドにもぐりこんだ。
 シーツにくるまって小さく丸く身を屈める。目をかたく閉じてみるがとても眠れそうになかった。

 

 体中のありとあらゆる感覚が総動員で英二を思い出そうとしている。

 心だけが必死に忘れようとあがいていた。


──頭を冷やそう。
 

 思い立ってがばりと起き上がり、バスルームへ向かう。水を勢い良く出しっぱなしにして、それを頭からかぶると冷たさで一瞬身がすくんだ。それでも、水の届かないどこかに点された埋み火のように熱は引かない。

 どのくらいそうしていたのか、時間の感覚がつかめない。突然水が止まったかと思うと、頭から大きなタオルが降ってきた。その上からひどく乱暴に頭や肩を拭かれている感触がする。
「水垢離でもやっていたんですか」
 あの無愛想な声が呆れている。
 ああは言ったものの部屋へ戻ればきっと寝付くだろうと暫く時間を置いて来てみれば、椎多が水のシャワーの下で蹲ったまま動かず声を掛けても気づかなかったのだと紫は最小限の言葉で言った。
 長時間水を浴びていたせいで椎多の身体は冷え切っていた。かぶせられたバスタオルがいやに暖かく、奇妙に心地いい。 
「……抱きに来たのか」
 ぽつりとこぼすと椎多は小さく笑った。
「まだそんなことを言ってるんですか。いいからとっとと休みなさい」
 あらかた水を拭き終えるとタオルをかぶせたまま紫は椎多をベッドまで押しやる。きかん気の子供をあしらうような態度だった。
「俺にあれこれ説教できる立場なのか、おまえは」
 それまでずっとタオルを被らされたまま俯いていた椎多が、突然くるりと振り返り、紫を睨みつける。
「俺がやれっていってるんだから、つべこべ言わずにやれよ」

──眠りたい。
──忘れたいんだ。

 そんな弱音めいたことは絶対に口にしたくなかった。

 口に出せばこの気に食わない男に弱みを握られてしまう。

 それ以上に──口に出した途端にそれが質量を持って自分を押しつぶしてしまいそうだったのだ。

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 英二との関係は、ゲームに過ぎなかった筈だった。
 抱き合っていても、一緒に賭け事をやったり酒を飲んだりするのと同列でどちらかが「下りる」といえばその時点でゲームオーバーになるだけのことだ。


 椎多の父親の死で、それは唐突に訪れた。
 もう二度と来ないと思ったわけではない。が、それまでのようには遊んでいられないことくらいは椎多にもわかっていた。英二はそれを感じ取っていたのだろう。
 英二は椎多をなかなか離さなかった。
 苦しくなった。
 まるで英二そのものを刻み込もうとするように抱く英二のすべてが苦しかった。
 それでも、笑って去らねばならなかったのだ。ゲームのまま終わらせるために。
 そのほうが、傷は浅くてすむ。

──傷?
──違う。


 馬鹿馬鹿しい。傷だなんてそれじゃまるで俺が英二を──
 違う違う違う。

「目を開けてなさい」


 声が聞こえるのと同時に軽く頬を叩かれる感触がして、夢から覚めたように椎多は目を開けた。
 間近に紫の顔が見える。我に返ってみるといつのまにか椎多は紫のシャツを掌に跡が残るほどきつく握り締めていた。

 

「目を開けて俺の顔でも見てればいい。その後目を閉じても俺の顔しか思い浮かばなくなるように」
 

 冗談を言っている顔ではない。もっとも、この男はいつもこんな顔をしているので冗談か本気かは判断つきかねた。一瞬きょとんとして、その言葉を咀嚼し飲み込むと途端に笑いがこみあげてきた。一旦吹き出すとこんどは笑いが止まらなくなる。
 ひとしきり笑うと椎多はこの気に食わない男の顔をじっと見上げた。


 ただ胸の痛みを苦痛で紛らわす為に身を任せたつもりだった。

 しかし、紫が英二の残したものをひとつずつ、拭い去っていくのがわかる。

 なんだこいつ、こんな不景気なツラしてるくせに──

 こんな──

 優しい───


 あれほど疲れきっていた筈なのに、やがて呼吸に甘いものが混じり始めていた。
 小さく、名を呼んでみた。
 それでふと思いつく。こうやって、唇が英二の名を呼ぶ時の動きを忘れていけばいいのだ。


「紫──」
 

 もう一度、今度は少し大きめの声で呼ぶ。
 それに答えるように紫は一旦動きを止め、椎多の顔に視線を移した。

 指で椎多の目元に溜まった汗を涙を拭うように落とすとそっと接吻ける。
 それを離すまいと紫の首に腕を回し抱きしめる。

 再び紫が動き出した時にはもう何も考えられなくなっていた。

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───眠れた。

 瞼が重い。頭も少し痛い。目をうっすらと開けるとカーテン越しの光が少なくとも昼間であることを示していた。いつ眠ったのか覚えていないところをみると、途中で意識を失ってしまったのかもしれない。
 目だけで周囲を見渡すと、ベッドの脇の椅子に紫が腰掛けたまま腕組みして眠っているのが見えた。何事もなかったように服を整えて、ただ襟元だけを少し緩めている。


──なんだコイツ。
 

 ほんの少し身を起こすと、紫はすぐに目を開けた。熟睡はしていなかったのだろう。この男が生き死にの世界でずっと生きて来たことを物語っている。
「眠れましたか」
 あの無愛想な声で表情も変えずに言う。

 昨夜、あんなに優しかったのに。あれは夢だったのか?

 憎たらしいやつだ、と思った。


「今日の予定はすべてキャンセルにしてもらったからそのまま寝てなさい」


 きょとん、と首を傾げて紫の顔を見つめる。
「どちらにしてもオヤジが死んでからこっち休みなしだったでしょう。1日くらい休暇をとっても誰も文句なんか言わない──何かおかしなことでも?」
 椎多は笑っていた。少し噛み殺したようにくすくすと。自分でも一体何が可笑しいのかわからない。
「おまえもいい迷惑だったなあ、俺の八つ当たりに付き合わされて」
 紫は答えない。
「仕事だから仕方ないか?律儀なやつだな」


 少しからかうつもりで言った自分の言葉にむっとした。

 声にするまで何故か忘れていたのだ。


──そうだ、俺が親父の息子だからこいつは。

──そうか、だからあんなに?

「……気に入らない仕事ならいくらオヤジの遺言でもやりませんよ」

 面倒臭そうな、うんざりとした声が返事をした。
 
 何か、気の利いた皮肉でも言おうと思った。
 しかし、何も浮かばずに椎多は結局黙ってしまった。短い沈黙のあと、おかしなやつ、とだけ呟く。そしてシルクのシーツを手繰り寄せて身を丸めた。それを見て紫はゆっくりと立ち上がる。
「さて、俺は下がります。ゆっくりお休みを」

「ここにいろ」

 

 ドアに手を掛けようとしていた紫が振り返る。椎多は丸くなったままじっとそちらを凝視めていた。
「仕事やってても本を読んでてもいいからここにいろ」
 紫は黙っている。表情が乏しいから何を考えているのかよくわからない。小さく息をつくと手を掛けたノブを回し、ドアを開けて言った。
「では資料を取ってきます」


 ドアの向こうに消える背中を見送ると、身を起こして少し身体を動かしてみた。まだ重い。目の届く範囲で自分の身体を確認するとなまなましく情事の痕跡が残されていた。見ていると笑えてくる。

 

 これは英二ではなく、紫の痕跡だ。

 

 英二は今夜にでも次のゲームの相手をみつけるかもしれない。そしていつか躊躇わずに愛していると告げられる相手を見つけるのだろう。
 まだ少し胸は痛む。
 しかし、あの熱にうかされることはもうない。

──バイバイ、英二。

 

 口のなかでこっそりと呟くと椎多はまたベッドに横になり、シーツにくるまった。


*the end*

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城の中

*Note*

「紫(1-3)」のすぐ後にこれを置くのをどうしようかと思ったんですが、紫と椎多が初めてやった(言い方…)時のエピソードを。

ここでは名前しか出てきていない英二。まだ英二is誰状態ですが、この後登場した時にこいつか~。ってなりやす。

考えてみたら「紫」の中ではお互いなんでそんな暴走レベルの愛になってんの?くらい甘い部分が無いので書いたものだったのですが、初っ端からすれ違っているのがわかります。

椎多はずっと紫は七さんの命令で自分に従っているから(しんどい時に優しくされて惚れてしまったわけですが)どうせ俺は愛されてるわけじゃないと思ってるし、紫は紫で七さんが死んだショックから立ち直っていない時にこうなってしまったので「どこのどいつか知らんが自分はどっかの男の穴埋めにされただけ」とでも思わないと七さんへの気持ちとの折り合いがつかなかったんだろうなって感じ。紫の自己肯定感が低いのはもうしょうがないんだけど、椎多もちやほや育てられて自信たっぷりに生きてるようでああ見えて何故か意外と自己肯定感が妙に低いです。多分幼児の頃のトラウマが原因なんだけどそれはおいおい出てきます。

​最初本文でも紫が椎多についてから5,6年みたいに書いてたんだけど、年表作ってみたら七さん死んでから紫が死ぬまでで5年くらいだったんであとで修正しておこうかと思います。

​つーか椎多が後継いでから結婚するまでって2年くらいしか経ってなかったのか。すごいな椎多がんばったな(?)。

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