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睡眠薬

 住み込みの家政婦が酷く困惑した顔で出迎えた。

 通いの者たちにはひとまず休暇を取らせ、住み込みの者だけを自宅に残していた。
 主人である自分は殆ど家を空けているし、有姫は渋谷家の実家に預けたままだ。英二の家は家政婦一人だけが帰らぬ主人夫妻を待っているような状態だった。


 着替えや必要な私物などを取りに赴いた時、通いの者も含めて自分たちはいったいどうすればいいのか、まさか解雇されはしないかと目で訴えかけているのがわかった。
 通いの者と交代で住み込みの者も適宜休暇を取り、ひとまず防犯の為に誰かいてくれるだけでいいと言い残し家を後にする。

 家にいたくない──
 

 と、それだけの理由で帰らないわけではなかった。

 英二の経営する会社では、従来の店の展開に新しいコンセプトの店の企画も進めているところだ。プロジェクトそのものは部下に一任しているとはいえ、英二も多忙を極めているといっていい。それに加えて、兄の修一が言っていた、『しぶや』を巻き込もうとしている陰謀も気にかかる。

 家を出て車に乗り込む──と、前方に人影が過ぎった。住宅街の交差点は街灯や信号機の灯りがあるとはいえ暗い。まるで、闇の中に顔と手だけが浮かんでいるように見えた。
 赤信号で停車すると、その闇に浮かんだ手がこちらに向かって振られている。
 目を凝らすとこちらへ近づいてきた。
 こんこんと左ハンドルの運転席の窓を叩いている。見知った顔だ。
「やあ、久し振り。ちょっとのっけてくんない?」
 闇に浮かんだ顔がにやりと微笑んだ。

「──藍海の件の時は助かった。礼を言うよ」
 感情のこもらない、社交辞令のように英二は言った。鴉は声をたてて笑う。
「ああ、あの時ね。オレすごくいいことした気分だったよ。てゆうか澤殺せたから何でもいいけどさ」
 鴉が澤を蜂の巣にしたことは椎多から聞いている。鴉が何故澤の命を狙っていたのかは知らないが目的を達成したあと鴉は何処かへ消えてしまったとも聞いていた。
「で、可愛い姪っこちゃんは元気?」
「………」
 答えることができなかった。元気ではいる筈だ。鴉は英二の最近の状態を知ってか知らずか、ただからかうようにくすくすと笑っている。
「可愛いよね、あの子。よっつって言ったっけ?いつつ?」
「………」

「金髪のマリーちゃんもさぞかし可愛かったんだろうね」

 

 背中にびりっと電流が走った。
 全身から冷や汗が噴き出してくる気がする。鴉は英二の顔を覗き込んでやはり笑っていた。
 鴉が何故、マリーのことを知っているのだろう。康平に聞いたのか?
「自分の娘でもない、ただの姪っこの為になんであそこまでするのかと思ってたけど。英二君、自分が殺しちゃった女の子を重ねていたんじゃないの?だからどうしても助けたかった。澤は君にとって一番効果的だとわかっていて藍海ちゃんを人質にとったんだねえ」
「黙れ」
 ようやく、それだけを搾り出した。
 英二の顔色が変わるのを面白がるように鴉はずっと英二の顔を覗き込むように眺めてにやにやと笑っている。
 

「シゲさんがなんで殺されたのか、ちゃんと知りたくなってきちゃってさ」
 

 鴉は澤を仕留めたあと、欧州へ渡り晩年シゲが過ごしたという周辺を回っていたのだという。
 もう10年以上前の話だ。殺し屋としてでなくともシゲという日本人を知っている人間すら少ない。しかし、裏社会にも事情通というのがいる。あれは誰の仕事、どんな成果、とまるで記録に残しているかのように記憶している者を探し当てることに成功したおかげで鴉の調査は思っていたよりも早く進んだ。
 そして、マフィアのドンとその孫娘をターゲットにした仕事が完了した直後シゲが殺されたことまで突き止めることに成功したのだ。

「まあ、君は足を洗って正解だったね。シゲさんだって弟子に仕事やらせて殺されたんじゃ浮かばれないよ」
「………順番が回ってきたってわけか」
 澤を仕留めた鴉の次の標的はシゲを殺した英二、ということだろうか。以前鴉は順番がある──と言っていた。
 しかし、鴉は笑ったままでいる。
「なんだか殺し甲斐のない相手だな、君は。殺すのになんの苦労もいらない相手を仕事でもないのに殺すなんて馬鹿馬鹿しいよ」
 鴉の顔を正視することができずにいた英二はここで初めて鴉に視線を移した。
 束ねていた長い髪が、短くなっている。それだけで少し印象が違った。それでも全身黒ずくめの身なりは変わらない。
 自分より年上だとはにわかに信じがたいが、時折顔を替えているというから若く見える顔も作り物なのだろう。その作り物の顔をぐいっと近づけて鴉は英二の目を覗き込んだ。
「ね、誰に向かっていい子ちゃんしてるの?いっそこっちの世界に浸かっちゃえば楽なのにさ」
 鴉はくすくすと笑い続けている。
「一度思い切って何もかも捨てればいいんだよ。そしたらふっきれると思うけどなあ。椎多もその方が喜ぶよきっと」
「あんた、何が言いたいんだ」
 車を、道の端に寄せて停める。
「べつに。君を殺す気が失せちゃったからせめていじめてやろうと思っただけ」
 心から楽しそうに喉の奥でくつくつと笑うと、鴉は身を乗り出し更に英二の顔を覗き込み唇を重ねた。
 眉を寄せてそれを押しのける。

 一度は寝た相手だがだからいいというわけではない。鴉はそれも予測していたのか構わず顔を近づけたまま小さく笑い続けた。
「ケチ。実はオレ今日仕事してきたとこなんだよね。今日の依頼主は好みじゃなくてやりたくないから誰かナンパしようと思ってたの。君を見つけてラッキーって思ってたんだけどさ。協力してよ」
 偶然英二を見つけたにしては場所とタイミングが良すぎる。仕事をしてきたのは本当かもしれないが、ここまで来たのは英二に会うことが目的だったのだろう。
 鴉の手が英二の肩を押さえている。小さく舌を出して英二の唇をぺろりと舐めた。
 昔、椎多が時折英二を誘うときに笑いながらしたのと似た動作だ──と何故かそんなことを思い出す。
「たまには感情抜きにやった方がラクだよ?浮気下手の英二君」
 殆ど唇の触れ合った状態で鴉が囁く。

 英二は何か言いかけて───しかし何も言わず、手探りでシートを倒した。

『しぶや』で食中毒が発生したという第一報が英二の元へ届いたのは、その深夜のことだった。

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 屈辱、などという言葉で置き換えることなどできない。
 その一枚の張り紙が、およそ200年の間こつこつと積み上げてきたものをすべて地に落としてしまった。


──営業停止。


 わずか数日間のその処分はしかし、『しぶや』にとって致命的といっていいだろう。

 あの『しぶや』から食中毒が出た──

 ニュースにも大々的に取り上げられた。歴史が深く格式の高い、しかも各界の著名人が得意客に名を連ねる有名店であることから興味も高い。しかも、被害にあったのが閣僚の一人であったからなお始末が悪かった。その時の会食の相手を当然マスコミは詮索する。もみ消そうにも手遅れといった状態だった。他の客をシャットアウトして貸切状態であったのが不幸中の幸いと言えなくも無い。


 処分は異常に思えるほど速やかに下された。
 実際には──どの食材がどんなルートで仕入れられどんな保存状態であったためにそれが発生したのか、それを明らかにするより先に。

 いくら調べてもわからない。
 食材の仕入から保管に至るまで、すべて修一自身が厳しく管理している。劣化どころか、風味が落ちるだけで食材としては破棄していたのだ。食中毒などありえない。
 しかし、『しぶや』で食事をした客が食中毒になり、調査の結果ここでの食事が原因だと断じられたということだけは事実だ。
 何をどう調べて、何が真の原因かとつきとめたところで一度人の心に残ったイメージが消えるわけではない。
 それでも絶望しては本当に『しぶや』は終わりだ。
 修一は必死に自分に言い聞かせて持ちこたえていた。しかし───

 事件以来、先代である父は部屋に閉じこもったまま床についていた。
 修一以上に、何代も続いたこの店を見舞った事態に打撃をうけている。


 営業停止1日目。
 

 修一は板場にこもり新しい献立を考えていた。店が営業できないからといって潰れたわけではない。信用してまだ足を運んでくれる客はまだいるはずだ。たとえ予約がすべて取り消されていたとしても。──また、そうでもしていなければ落ち着かなかった。
 

「──修一」


 しわがれた父の声が背後で響いた。振り返ると、寝巻き姿のままの父が幽霊のような顔色で立っている。この数日間で父はひどく年をとってしまった。白髪「混じり」だった髪は完全に白髪に変わっている。目の下の隈と深く刻まれた皺が際立って見えた。
「……親父、横になっていろよ」
「おまえが──」
 修一の言葉など耳に入っていない。父はまるで夢遊病者のようにふらふらと息子の前に足を進めた。
「おまえがなにもかも台無しにしたんだ……ご先祖になんて詫びれば……」
「親父──?」
 よろよろと板場の中に入ってきた父は、突然そこに置いてあった包丁に手を伸ばした。修一の顔色が変わる。
「こうなったら死んでお詫びするしかない……おまえを殺してわしも死ぬ」
 父は握った包丁を振り上げ息子に向かってきた。しかし、力もスピードもないその動作をよけることは容易く、父の腕を掴み包丁を取り上げる。
「親父──早まったことはしないでくれ。頼む」

 父の心労も思いつめた気持ちもわかる。しかし、ここで屈することは出来ないのだ。負けてしまっては完全に『しぶや』は無くなってしまう。
 修一は唇を噛み締めると父を宥めながら部屋へ連れてゆき、母に頼んで再び板場に下りた。

 

──負けるものか。
 

 ここ暫く、何者かが『しぶや』を陥れようとしていると感じていた。今回のことも、ひょっとしたらその何者かの陰謀かもしれない。もっとも今回のことは、被害者である閣僚を陥れる為のものだったともとれる。事実、その閣僚はおそらく近いうちに更迭されるという。
 何が蠢いているのか、掴めない。ただこのまま屈することは断じてできない。

 修一は板場へ戻ったものの、椅子に腰掛けて頭を抱えた。
 こんな時なのに、英二はあれから自宅にも戻らないという。出社はしているようだが電話をしても話すことすらできない。この事件の時も、母宛てに電話がかかってきたというが自分は直接話してはいなかった。有姫はあのままこちらの家に住まっている。

 せめて、英二と話すことができれば──
 頭を抱えたまま修一は大きく溜息をついた。

 

 母がほんの少し目を離した隙に、父が首をつったのはその翌明け方のことだ。

 結局、父の葬儀や何やらで営業停止が解けても数日間は店を開けることができなかった。
 流石にこのときばかりは英二はやって来たが、事務的な会話以外交わすことができない。
 それは有姫との間でも同様で、あれほど大切にしていた妻と、英二は目を合わす事すらしなかった。
 英二は変わってしまったのか、それともあれが英二の本来の姿だったのか。
 
──何をどう優先させて考えれば。

 

 修一は頭の中に雑多に転がった様々な物のなかから余分なものをふるい落そうとするかのように頭を振った。

 

──とにかく、最優先は店の建て直しだ。

 

 改めて顧客名簿を整理する。残ってくれそうな客にはとくに働きかけを強化して──とにかく休むことなく頭を使っていなければその場で蹲って動けなくなってしまいそうだ。
 来店記録とともに整理しながら作業を進めてゆくと、いかに『しぶや』が政財界の裏舞台に利用されてきたかがよくわかる。上り詰めた者、失脚していった者、一度は失脚しながら再び這い上がって来た者──中には修一が自ら働きかけて失脚させた者もいる。古い記録を紐解くと思い出したくもない澤康平の事が蘇ってきたりもする。
 10年、20年といったスパンで客層を追うと、きちんとした流れとなっていることがわかる。その中で修一は何か──ひっかかりを感じた。


 嫌な感じがする。
 修一は一瞬考えこむと、顧客名簿のその1枚を拾い出し受話器をとった。

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 揺り起こされて目を開けると、さして暖房が効いているわけでもないのにひどく汗をかいていることに気付いた。
 Kが僅かに眉を寄せた表情で見下ろしている。
「うなされてましたよ」
「……そうか?」
 目覚めた一瞬で忘れてしまったがまたあの夢でも見ていたのかもしれない。そういえば近頃あまり熟睡していないような気がする。無性に体がだるい。
 椎多は重たげに座席のシートに座りなおすと大きく息をついた。
「組長、道が混んでてまだかかりますから寝直してていいっすよ」
 運転席から覗き込むようにKが声をかける。しかし一度こんなふうに目覚めてしまうと今度は目を閉じてもなかなか眠れない──


 ぱちん、となにかの弾けるような音が聞こえた。
 

 それを合図にしたように突然眠気に襲われる。眠れない、と今思ったのが嘘のように椎多は崩れ落ちるように後部座席のシートで眠りに沈んでいった。それを見届けるとKは前に向き直り停めていた車を出す。

 仕事の行き帰りの車の中は近頃たいていこんな調子だ。昼間は眠い眠いと冗談交じりに、もしくは全く不機嫌に口にしているものの、いざ少しでも眠りに入ると苦しげにうなされている。自室に戻って床に就いたときも推して知るべしだろう。
 椎多は日頃Kに、自分に対する暗示や催眠を禁止している。それは雇い主として当然のことなのだが、そんな命令がたいした抑止力になるわけではないことは本人も承知の上だ。Kが裏切る気になれば、それを防ぐ有効な手立てがあるわけではない。
 Kも椎多に催眠をかける必要などないのだから、言葉遊びのような──信頼関係の確認のようなものだ。

 しかし、その禁をKは冒した。
 とはいっても、他意があるわけでは決してなく──ただ、時折こうして眠らせている。


 椎多が眠れないのが精神的な要因によるものであれば、こんなことは根本的な解決にはならないとは思う。しかし、カウンセラーでもあるまいし、自分が相談にのってやれるなどとはとても思えない。そもそもK自身がそういったことは大の苦手でもある。ならば、とりあえず眠らせてやることくらいしか出来ない。薬を使うよりは健康的だろう。

 ただ、椎多の性格から言ってKの催眠の力を借りて眠るということは好まない筈だ。そうして欲しいならとうの昔に自分から申し出ている。そんなわけで、本人に気付かれないうちに合図によって夢を見ないくらい深い眠りにおちるという催眠をかけたというわけだ。


 椎多が近頃、極秘裏に何か陰謀を企てていることはKもわかる。ただ断片的に指示を飛ばすだけで、その全体像は椎多の頭の中にしかない。最終的に何を目的にしているのかが見えてこなかった。──渋谷英二周辺に関することだという以外は。
 どうも腑に落ちないことが多い。
 椎多が英二と関係を持っていることくらい以前から知っている。しかし、ここ暫くの椎多の動きをみれば、英二を陥れようとしているとしか思えないのだ。


──単なる痴話喧嘩にしてはやることが大掛かりすぎる。


 Kは苦々しげに顔をしかめるとアクセルを踏んだ。
 他人の惚れたはれたという話には興味はない。少なくとも今まではなかった。なのに、それがひどく気にかかっている自分がどうにも据わりが悪くて気持ち悪い。

 

 椎多は後ろで寝息を立てている。
 なんであんなに破滅的な愛し方しかできないんだろう。もっと普通の恋愛をすればいいものを。

 

 そう、頭に浮かんで苦笑する。そういえば、自分だって誰かを愛したことなどないではないか。誰かの為に他人や自分を傷つけても構わないなどという気持ちがわかるわけがない。まして愛する相手を何故陥れようとするのかなどまったく理解不能だ。ただ──
 自分が渋谷英二を憎み始めているということにはKはまだ気付いていない。

 携帯の着信音が響いた。

 椎多が小さく呻いて電話を探っている気配がする。
 折角眠らせたのに──
 Kは運転しながらこっそりと舌打ちした。


「──はい。嵯院です。ああ、どうも。色々と大変でしたね。……え?」
 今の今まで眠っていたとはおそらく電話の向こうの相手は気付かないだろう。電話にでると同時に椎多は仕事中の社長の顔になってきびきびと受け答えしている。
「……わかりました。え、今日これからですか?随分と急な話ですね。いえ、大丈夫ですよ。今日はもう帰宅するところでしたから………はい。存じてます。ではそちらへ伺いますよ。1時間ばかり頂けますか?ええ。……」
 聞き耳を立てているわけでは決してない。が、どうやら今日はこのまま屋敷に戻るのではなく方向転換することになりそうだ。
 電話を切った椎多の派手な溜息が聞こえる。
「憂也、悪いが引き返してくれ」
 場所を指示される。随分戻らねばならないようだ。
「あの辺りは車を停めておくところがないだろう。どこか駐車場に入れて、すぐに動けるように店の外で待機していてくれ。何かあったら合図する」
「今日は久し振りに会議も接待も無くて屋敷で夕飯が食べれると思っていたのに。残念すね」
「まったくだ」
 苦笑している。しかし、頭の中では激しくなにかが動いているかのようだった。椎多が考え事を巡らせているときには目線がよくくるくると動くのでそれが見て取れる。表情も次第に険しくなっていくのがバックミラー越しでもわかった。
「それで、誰なんすか?携帯に呼び出し電話してくるなんて」
 一瞬眉を顰めると、小さく笑う。

「──渋谷修一、だ」

 Kは復唱するようにその名を呟くと、椎多に負けないほど険しく顔を引き締めた。

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 明るすぎも暗すぎもせず、ちょうど落ち着く程度の照明。カウンター奥には珍しい地酒がディスプレイも兼ねて並べてある。和風の造りの中に所々洋風のテイストが不思議に違和感無く調和していた。店内には静かにジャズが流れている。テーブル席は1席しかない。そこに渋谷修一は座っていた。
 半間ほどの小さな扉を開けて飛び石を渡り麻の小洒落た暖簾を静かにくぐると店内を素早く見回す。修一のほかにはカウンターに客が2名。
 宣伝はおろか、雑誌や情報誌の取材も断り続けているこの店は真に上質のものを好む者がとっておきの客をこっそり連れてゆく知られざる銘店と呼ばれていた。いっそ完全予約制にしてもいいくらいだ、と主人が語っていたのを椎多は聞いたことがある。

 椎多の姿を認めると修一は立ち上がり会釈をして自分の座っているテーブルへと招いた。
「突然申し訳ありません」
「今日はたまたま予定が空いていたんですよ。それにこの店は私も大のお気に入りだ。半分プライベートのような気分ですよ」
 にっこりと微笑んで修一に座るよう促し、自分も腰を下ろす。
 10名も入れば満席の小さな店だがテーブル席もしつらえてあるのは、込み入った話をしたい客にその空間を提供するためなのだという。


「……それで、お話とは?まさかここで旨い酒と肴を味わって終わり、というわけではないのでしょう?」
 型どおりの挨拶と、注文を済ませると椎多は微笑んだまま切り出した。煙草を取り出しかけてやめる。
「先程、半分プライベートと仰いましたね。今日は建前抜きの話をしたいのです。私も『しぶや』の経営者の立場をさておき話したいことやお聞きしたいことがある」
 椎多はくす、と笑いを洩らした。
「では無礼講ということですか。今日のことは全くオフレコに?」
 そんなわけには行くまい。この男は細胞のひとつひとつに至るまで『しぶや』の主人なのだから。

 運ばれた料理に箸をつける。旨い。修一がどんな話を切り出すのか、どのように駆け引きすべきなのか、頭はそのためにフル回転しているけれど、旨いものは旨い。きりりと冷やした地酒がそれを更に引き立てる。


「………確認になるようですが、先日娘を助け出してくれた人たちというのは………あなたの配下なんですね」
 一瞬きょとんと口を尖らせると椎多は再び微笑み無言で頷いた。
 嵯院椎多が現在もやくざの組長であるということは意外と知られていない。
「弟さんが──英二君が、可愛い姪を助けるために奔走していたので少し手助けさせてもらったんですよ。それに、澤康平はこちらにとっても目の上のたんこぶでね。タイミングもよかった」
 澤の名前を出しながら修一の表情を伺う。変わらなかった。ただ、娘を助けてくれたことに対して礼を言った。それだけは駆け引き抜きの本心だろう。

 酒のおかわりをする。修一の顔は既に朱に染まっている。思ったより酒に弱いのかもしれない。
 弱いのに飲んで話すところを見ると、本当に本音のところの話をしたいのかもしれないと椎多は思った。話で駆け引きするなら酔いは邪魔なだけだ。裏返せば酔わなければ話しにくい話題をもっているのだろう。ならばそれは予想がつく。


「──もっとつっこんで聞きたいことがあるんでしょ、修一さん」


 わかっていて──少しからかうような口調で笑う。

「俺と英二がどんな関係なんだ、とかね」

 敢えて対外用の口調はやめた。修一が眉を顰める。椎多は両肘をついて指を組んだ。組んだ親指で顎を弄びいたずら好きの子供の目になってくすくすと笑い声を洩らす。
「教えて欲しい?……俺たち、愛し合ってるんですよ。男同士で結婚できるならしたい位だ」
 修一の表情を伺うと、酒で仄かに赤らんだ顔がさらに赤くなったように見える。椎多は面白げにそれを見つめた。
「修一さんはわかってくれますよね?……澤と付き合ってたくらいだから」
 今度は明らかに表情が変わる。
「愛してた?」
 修一は一度に酔いの覚めたような顔で首を横に振った。
「本音で話しましょうよ。澤に抱かれて悦かったんでしょう?あの男は優しくしてくれました?」
「違う……」
 ようやく修一は声を出した。椎多はくすくす笑いをおさめて微笑む。こういう反応は英二とよく似ている。
「認めればいいのに。自分は男に抱かれてよがってしまう人間だって。楽になりますよ。あんたは厳しい人だ。自分にとって正しいと思えないことは認めたくないんでしょう。その正しさが──」
 グラスを、ことり、と音を立てテーブルに置く。もう3杯目を乾したことになる。椎多はそのまま言葉を継いだ。


「英二を、あんたの大事な弟を追い詰めてるんですよ」

 修一は電池の切れた玩具のようにぴくりとも動かない。

「有姫さんにしてもそうだ。彼女は英二にただ優しく守ってくれる夫の役目だけを求めてる。英二の激しさも弱さも認めようとしない」
 決して激昂したりはしないのだろう。しかし、静かに修一は動揺している。
 自分の為に4杯目の、そして修一の為に3杯目の酒を注文する。運ばれるまでの間修一はじっとテーブルの上の空のグラスを見つめていた。
「──俺はね」
 椎多の笑顔に修一は目を向けようとしない。グラスの両脇で握り拳を作っている修一の手に椎多は何気なく自分の手を重ねた。
 不自然なほど優しく──
「英二が苦しんでいるのを見ていられない。苦しみから解放してやりたいんですよ」

──よく言う。

 心の中で苦笑がこぼれた。今英二を苦しめているのは他でもない椎多自身だ。
 けれど、英二が大切にしている家族──椎多の命を奪ってでも守ろうとした家族との絆がいかに脆いものなのかを確かめようとするように椎多はその手を緩めなかった。
「ねえ、修一さん。英二がもし人殺しでもあんたは認めてやれますか?」
「もうやめて下さい。いくらなんでもそれは言いすぎだ」
 懸命に抑えて言ったのだろう。声がほんの僅か震えているようだ。修一にすればそこまで言えば英二を侮辱したようにすら感じているのだろう。怒りの色が滲んでいる。椎多は可笑しくなって噴き出した。
「ダメみたいですね。まして金を貰って何人もの人間を殺してきただなんて別世界のような話、ですか?」
 修一はテーブルの上の握り拳を一層硬く握り締めた。その上に置いた手を椎多はどけようとはしない。
「澤康平が何をやっていたのか位知っていてつきあってたんでしょ?その澤と英二のどこに接点があったと思ってるんですか。いや、俺も英二の仕事は見たことはないけど腕も良かったらしいですよ」
「嘘だ………」
「嘘だと思いたい気持ちはわかりますよ。あんたでそれだ、有姫さんが聞いたら卒倒するかもしれませんね。でも英二は──」

 手に力をこめる。
 不意に。
 憎しみがわきあがってきた。

 

「──英二は、あんたの大事な娘を助けるために、澤と取引して俺を殺そうとしたんだ。ひどい話だろう?」

 俺がこんなに愛しているのに、

 俺のことも愛してるって何度も言ったくせに。
 俺を殺そうとしたんだ。
 あんたたち家族の為に。


「全部、無くなってしまえばいい」
 

 呟くように言った。
 言ってしまってから──
 顔をしかめ、修一の顔を覗き見た。
 修一は、酷く神妙な顔をしている。

───喋りすぎた。

 深呼吸をして、修一の拳の上に置いた手を引っ込める。笑いを作ろうとしたがぎこちない笑顔しか出てこなかった。
「……飲みすぎたようだ。もう引き上げましょう。今日の話はここだけの話ですよ、最初言った通り」
 立ち上がる。修一も無言で立ち上がったが、足元が少しふらついているように見えた。酔っていると見える。
「お送りしますよ。車を待たせてありますから」
 ぎこちない笑顔のまま促す。


 修一がそもそも椎多を呼び出したのは、こんな話をする為ではなかっただろう。話したければ車内で話すだろうし、いずれにせよこのくらい酔っていてはたいした話はできない。

 思ったより素直にKが回してきた車の後部座席に乗り込んだ修一は、座った瞬間もう寝ているのかと錯覚するほど何も言わずただじっと目を閉じていた。椎多は───眠れない。


「……嵯院さん」


 眠っているとばかり思っていた修一の声に椎多は不意打ちを食らったようにびくりとした。

「あなた──なんですね」

 目を眇めて修一を見る。修一はシートに身をすっかり預けたままうっすらと目を開けて椎多ではなくどこかを見るともなしに見ていた。
 敢えて、返事はしない。
 修一も、それ以上触れなかった。

 

「……澤はよく言いました。そんなに張り詰めて大丈夫なのか、と。その度私は泣きたくなった」


 独り言のように、修一は敢えて振り返ろうとしなかった澤のことを思い出している。まだ酔っているのだろう。
「澤は私を利用しようとしていたから美味しいことをいくらでも言ったけれど、何一つ私は信じなかった。私も澤を利用していたからです。でも、その時だけはいつも錯覚しそうになった。自分だけはおまえの脆さを知っている、と言われることが何故あれほど嬉しかったのか──」
 椎多は何も言わずに聞いていた。胸のどこかでちくり、と何かが痛む。
「愛していた──のかもしれないな、あのろくでもない男を。だけど俺は店を守るためにあの男を売った」
 シートにもたれかけたままの首を動かし椎多へ顔を向けた。微笑んでいる。

 

「同じだ、な……」

 

 悲しげな微笑だった。
 修一はそのまま再び目を閉じた。
 今度こそ本当に寝息を立て始めた修一を見届けると、椎多は大きく息を吐き──頭を抱え込むように身体を折り曲げる。

 同じ──?
 

 自分も英二と同じだと言いたいのか。けれど。


──この男は俺ともどこか同じなのかもしれない。


 脆さを隠して精一杯虚勢をはっている。
 ただ、この男が虚勢をはりつづけていられるのは守るものがあるからだ。
 俺にはそれすらない。
 
「憂也」
 車のエンジン音に紛れそうな呟きにも憂也ははい、と返事した。
「……この男、ここで殺したら面倒かな」
「面倒っすよ。車は汚れるわ臭いわ、だいいち組長が殺したってバレバレだし。もみ消すのが大変だから今日は我慢して下さい」
 日常とまったく変わらないKの返事に椎多は小さく噴き出す。
「わかったわかった、とりあえず今殺すのはやめとくよ。じゃあ、こいつこのまま屋敷に連れ込んでやっちまうってのはどうだ?」
「……好きにすればいいけど悪趣味すよ?」
 大声で笑う。それでも隣の修一は目覚めない。

 

「殺すんなら折角今寝てるんだからあとで自殺でもするように催眠かけときましょうか?今ならその人が自殺しても誰も不思議がりませんけど」


 椎多は一瞬目を細め、険しい表情を作ったがすぐにまた皮肉な笑いを浮かべた。Kには見えていなかっただろう。
「いや、やめとこう。どうせ殺すならそんなやり方はつまらんよ」
「で、どうするんです。ちゃんと送っていくのか屋敷でベッドに転がすのか。そろそろ分かれ道なんですけど」
「ああ、いい『しぶや』の方で。誰かに悪趣味とか言われちまったからな」
 Kが大袈裟に溜息をついているのが聞こえた。『しぶや』の方角へと道を曲がる。
「──組長」
 高級住宅街に入る。これを抜けると『しぶや』が見えてくる。窓の外を眺めていた椎多は視線を運転席のKへと移した。

「そこまでやって何が手に入るんすか」

 静かだがどこか怒りを含んだような声。椎多が微かに表情を変える。
「いや、組長が最後にどうしたいか、はいいです。オレが聞いたって何もできやしないんだから。ただ、どうせやるならもっと徹底的にやって下さい。変に手を緩めたりしてたら絶対足元すくわれますよ」
 答えることができなかった。言い返すことも、笑って流すことも。Kの意見は客観的にいえば至極もっともなことだということくらい、椎多にもわかっているのだ。

 沈黙は長くは続かなかった。『しぶや』の前で停車すると椎多は小さく息をつき、修一を揺り起こす。
「修一さん、着きましたよ。起きて下さい」
 ひどくだるそうに修一は目を開けた。まだともすれば閉じてしまいそうな瞼を重たげにまばたかせ、最後にぎゅっと強く目を閉じてから開く。状況がようやく把握できたようだった。

「申し訳ありません、ご面倒をおかけして。あれくらいで酔うなんてみっともない」
「疲れてらっしゃるんですよ。今日はすぐおやすみ下さい」
 最後に対外用の顔でにっこりと微笑んで見せた。
 のろのろと車を降りる修一を車に乗ったまま見送る。修一はそれを振り返り──

 小さく、笑った。

「私は『しぶや』を守ります。私一人になっても──」

 椎多は、笑うことができなかった。
「ですから、ぜひまたご来店下さい」
 深々と頭を下げ、修一は店の奥へ消えていった。

『しぶや』を陥れようとしているのが誰なのか。そしてその目的は何だったのか。
 修一はもう気付いているのだろう。
 宣戦布告のように感じた。

 苦しげに顔を歪めると椎多は再び車に乗り込みシートに深く身を沈めた。まだ酒が抜けきったわけでもないのに、目を閉じても眠気は訪れない。
「憂也?」
 Kがはい、と振り返らず声だけで応える。

「──眠らせてくれないかな」

 どこか、頼りない声。
 Kは眉を寄せると静かに車を停めた。

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*Note*

さらっと書いてますが『しぶや』だいぶえらいことになってます。ごめんよ修一兄さんごめんよ。

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