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金木犀

 秋の香りだ。

「臭い」
 不機嫌に呟くと椎多はテーブルに頬杖をついた。

 

 確か去年までは中庭に金木犀などなかった筈だ。昔は別にこの香りが嫌いではなかったように思うが鼻についてなにか気持ち悪い。
 いつから、気に入らないと思うようになったんだろう。もっとも、この鼻にまつわりつくような甘く強い香りは芳香の域を越えていると椎多は思う。いい匂いだと思っていたのは、甘いコーヒーや紅茶を好んで飲んでいたような子供の頃のことだったのかもしれない。


「おい保史、なんでこんなもの植えたんだよ」
 バルコニーの下で植木の手入れをしている保史が手を止めそれを見上げる。”叔父”である保史もすでに呼び捨てである。
「お気に召しませんでしたか」
 笑っている。この屋敷の主が気に入らないと言っているのに意に介さない様子だ。
「香りがきつくなりすぎるほどの本数は植えてないんだけどな。皆さんには概ね好評ですよ、奥様には殊のほかお喜びで」
「ここで一番偉いのは誰だと思ってんだ」
 バルコニーの手摺に両腕を組み、その上に少しふてくされた顔を乗せて保史を睨みつける。睨まれた本人はどこ吹く風で声をたてて笑った。
「何を子供みたいに拗ねてるんだか」
「なんかあんた態度でかくなってないか?」
「そうですか?それは大変失礼しました、旦那様。私はまだ仕事がありますのでこれで」
 笑いながら、保史は頭を下げて道具を持ち上げるとその場を後にした。不愉快そうに口を尖らせそれを見送ると椎多は座ったままくるりと向きを変え、バルコニーの手摺を枕にもたれた。

 あれからそろそろ2年が経とうとしている。

 保史はこの屋敷での庭師の仕事にすっかり馴染み、他の使用人ともとけこんだようだ。もともとここの植木の管理をしていた者達ともうまくやっているらしい。
 最初でこそおどおどした様子だったが今ではこの広い屋敷の植木のことで保史の判らないことがない程になっている。仕事に自信が持てるようになった人間は表面にもそれが滲み出るものだ。
「あのおっさん実は俺を馬鹿にしてないか?」
 呟いてから椎多は失笑した。
 子供じみている。これでは馬鹿にされても仕方ない。

──それにしても。

 短慮な小心者だと思っていたが存外あの男は図太くて前向きなのかもしれない。
 保史の心中を測ることなどできはしないが、一度は足元に広がる闇を覗き込んでおきながらああして完全に日常に回復するというのは──
 余程前向きな努力家であるか何も考えていない阿呆かのいずれかだろう、と椎多は思う。


 俺はそのどちらでもない。
 いや──

 

 自分を呑みこもうとする闇。

 それを生み出しているのはほかでもない自分自身なのだ。
 保史のように、あるいは青乃のように──心からそれを振り払おうとすれば、可能な筈だ。たとえ苦しくとも。

──また、同じ闇に足をとられようとしている。

 椎多は立ち上がると苛々と今まで自分の座っていた椅子を蹴飛ばし、バルコニーを後にした。

 金木犀の香りが追いかけてくるような気がする。それを拭い去ろうとでもするように鼻をこすった。

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「最近家に帰ってないらしいな」


 英二は椎多の胸の上に頭を乗せたままじっと心臓の音でも聞いているように目を閉じている。その髪を梳るように撫でながら椎多は微笑んだ。
「可愛い奥さんと喧嘩でもしたのか?」
「よせよ、そんな話」

 英二と有姫の間に何があったのか──
 椎多は知っている。

 歌姫は言葉通りいとも簡単にあの家族に亀裂を入れることに成功した。

──どんなに信頼しあっている家族でも心の奥底には不安や不信感や疚しさってあるものよ。
──ほんの少しそれを意識させるだけであとはひとりでにどんどん膨らんでゆくものなの。
──まして、英二さんのように家族には隠したい秘密があるならことはもっと簡単よ。
──催眠?少しだけね。私が言ったということだけは忘れてもらわないとあやしまれるし。

 

 あの屈託のない可愛らしい声で葵は笑っていた。簡単よ、と嘯くだけのことはある。

「椎多……」
「ん?」
 独り言のように呟く英二の声に椎多は我に返った。
「おまえは自分のしてきたこととどうやって折り合いをつけてきたんだ?」
 髪を撫でていた手を滑らせて肩を、背中をたどるとその暖かさで自分の指が思いのほか冷えていたことに気付く。

「折り合いなんかつけられない」
 あやすように抱いた肩を撫でながら髪に接吻ける。
「……俺はずっと逃げて忘れようとしてた」
 英二は目を閉じたままぽつりぽつりと言葉を落とし続けた。肩が微かに揺れて、英二が小さく笑ったことがわかる。
「でも、そんな都合のいいこといつまでもできるわけじゃなかったな…」


「……おまえは、うまくやってたよ」


 あくまでも優しい囁き。
 こんな時どんな言葉に人は安心するのかを椎多はよく知っている。自分が辛いのだ、苦しいのだということをわかってもらえるだけでいいのだ。何が辛いのか、何が苦しいのかを理解してなどもらえなくていい。ただ苦しみを抱えていることを誰かが知っていてくれる、それだけで人は安心する。
「言っただろう?俺は自分で言うのも変だけど、手を汚している人間ってのはわかるんだ。だけどおまえが殺し屋をやってただなんてまるで気付かなかった。おまえは今もこんなに苦しんでいるのに、あんなにうまく隠してたんだ」

 

──辛かっただろう?

​──よくこれまで辛抱してきたな。

 

 労うように、褒めるように、そっと囁く声が英二の耳を撫でて消える。
 英二が僅かに身を縮めた。
「もういい。もう嘘の自分を作らなくていいよ。汚れた手のままでいい。どうせ俺も同じ穴の貉だ。もしおまえが今誰かを殺してきたところだって言って血まみれでやってきても……こうして抱きしめてやるから」
 唇が塞がれる。何度も繰り返す間、英二は椎多の名を呼びつづけた。応えながら──頭の片隅に冷たくそれを見つめる自分がいる。見つめながら次に打つ手を冷静に組み立てている。

 まだ、甘い。
 何もかも奪ってしまえ。
 そうすれば英二は完全に俺だけのものになる。

 

 そしてもう一人の自分がそれを懸命に止めようとしている。

 

 そうまでして英二を手に入れて、自分は何も失わないでいるつもりか。
 俺が全てを奪ったと知ったら、英二は俺を憎むに違いない。
 遊びの関係に戻ればいいじゃないか。そうすれば別に誰も傷つけない。

 

 俺は、本当はあのとき英二に殺されたのかもしれない。

 俺には、いない。
 こうまでして英二を手に入れたいという狂気じみた思いを。
 それを自分で止めることができずにもがいている苦しみを。
 知っていてくれる人間は──今の俺にはいない。

 青乃が手に入らないから犯した。
 紫を信じられなかったから殺した。
 今度は英二を手に入れるために英二から何もかもを奪い取ろうとしている。

──俺が本当に欲しいものは何なんだろう?

 今受け取っている筈の英二の体温が、不意に幻のように思えた。

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 ドアの前に佇むと椎多は額をつけ、撫でるように掌でなぞる。そうして、ノブに手を伸ばした。


 昔は──
 このドアを叩き、蹴飛ばし、中から開くのを待っていた。しかし今は主を失ったこの扉が、内側から開くことは決してない。

 足を踏み入れるのはもう何年ぶりだろうか。
 作りつけの家具以外はすべて片付けられた部屋。屋敷にはまだ部屋が余っている為かあれからこの部屋が新しい主を迎えたことはない。しかし掃除だけはきちんと行き届いている。

 椎多は重い足を引きずるように部屋を横切り──真直ぐではなくまるでそこに置いたテーブルやソファをよけるように足を進めながら──窓際へ向かった。カーテンも取り外されている窓からは月明かりが仄かに差し込んでいる。


 あの仏頂面や無愛想な声が、ふわりと蘇る。
 苦しげに顔を歪めると椎多はその場に座り込み、子供のように身体を丸め壁にもたれた。

 愛しているのか憎んでいるのかもう区別がつかない。
 愛されたいのか憎まれたいのかももうさだかではない。

 まだ、間に合う。
 止めなければ。

 

──俺は、今度は英二を殺してしまう。

 自分の肩を抱きしめるように回した腕に力がこもる。
 今にも涙が出そうなのに、替わりにこぼれてくるのは皮肉な笑いだけだった。

 

「紫──」

 部屋の中央からはい、と返事が聞こえた気がした。
「……俺を止めてくれ……」

──なにを言ってるんですか。まったくこりない人ですね。

 溜息まじりの呆れた声がきこえる。
「……薄情者……」

 唇を噛み締め、身体をいっそう丸く固めた。
 外では不意に強い風でも吹いたのだろうか、窓の木枠ががたん、と音を立てた。その拍子にほんの微かに風が入り込む。
 仄かに、金木犀の甘い香りが混じっていた。
 その途端、脳裡に蘇るひとつの場面。

──俺は、強い香りの花はあまり。

 椎多は突然顔を上げて立ち上がり、何かに突き動かされるようにかつて紫のものだったその部屋を後にした。屋敷を駆け回り、目的の人物の顔を発見するなり怒鳴りつける。

 

「今すぐあの木を切り倒せ!」

 

 保史がきょとんと目をまばたかせている。もう深夜といっていい時間だというのに、保史はまだ道具の手入れをしていた。
「何、いきなり。あの木って……金木犀のことですか?」
「そうだ!臭くてたまらない!今すぐ切り倒してどこかへやってしまえ!」 
 保史は戸惑い顔で暫く椎多を見ていたが、困ったように小さく溜息をつくと微笑んだ。
「……わかりました。でも切り倒すのは可哀想ですから、どこか別の場所へ移しますよ」
 椎多は唇を噛み締めたまま肩で息をしている。腕が小刻みに震えていた。
「そんなにあの香りが嫌いなんですか?そこまでとは思っていなかったので…申し訳ありません」

──あんまりいい匂いだから1本折ってきてやった。おまえにもやろうか?
──すみませんが椎多さん、俺は香りの強い花はあまり……。

「…………が」
「はい?」
 先程までの癇癪が嘘のように、消えそうな微かな声で椎多は呟いた。保史がほんの少し首を傾げる。
「……紫がすごく困った顔をしてたんだ。きっと本当に苦手だったんだ。……だから……」

 あの部屋にまで香りが届いたら紫はまた困ってしまう──

 そこまで呟いて、椎多はようやく我に返った。同時に笑いがこみ上げてくる。
 あまりに滑稽だ。どうかしている。
「……10年近く前に死んだやつが、何を苦手だって?……」

 もう遅いのかもしれない。

 もうきっと、誰にも止めることなどできないのだ。
 あの部屋に金木犀の香りが迷い込んだとしても、顔をしかめる人間はいないのだから。

 

 どこか、心配そうに椎多の顔をみつめていた保史に気付く。椎多はふう、と息をつくと微笑んだ。
「……いや、やっぱり金木犀はあのままでいい。どのみち、もう花も終わりだろう?」
「椎多さん──」
「仕事の邪魔をしてすまなかった。……あまり根を詰めずに早く休めよ」
 笑顔を崩すことができない。これを解いたら泣いてしまいそうだ。
 椎多はそのまま保史に背を向け、その部屋を出た。背中に保史の声が何か聞こえたが、何と言ったのかはわからない。

 ブレーキの壊れた車のように。
 何かに激突して壊れてしまうまで──
 止まることはできないのだろう。

 そして、自分は本当はそんな結末を望んでいるのかもしれない──と、椎多は思った。

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*Note*

​英二をいじめまくってやろうと書き始めたはずのこの章なのに気が付いたらちょっとネジはずれた椎多が苦しんでるとこばっか書いてる気がするなど。

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