Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
紫 -1-
暗闇の中に溶けて行く。
吐き出す息と共に苦しみや痛みや悲しみや憎しみや後悔や──
ついには汗や、この身体も。
そこに残るのはただの一塊の熱量。
それだけで、現実と繋がっている。
最後の熱を口移しに渡す。
それが合図であるかのように急速に暗闇に溶けていたものが結晶し始める。
苦しみや痛みや悲しみや憎しみや後悔も、結晶した身体へ戻ってきてしまう。
それが──哀しい。
ぐったりと目を閉じた顔を見下ろすと目の端に汗とも涙ともつかない雫が何かを反射して小さく光って見えた。
このまま闇の中に棲んでしまいたい。
ただの熱量のまま闇に溶けていたい。
雫を舐めとるように接吻けると、小さく顔を動かしてその小さな熱の塊は俺の腕の中に鈍い動きで転がり込んだ。
静かな寝息を立てはじめる。
目を覚ませば、また誰より近くて誰より遠い存在へと離れていってしまう。
このまま、夜が明けなければいい。
そうすれば、ずっとこうしていられるのに。
広間には数百人の招待客が談笑している。
その隅でその一人一人の動きに気を配り、少しでも怪しい動きを見せた人間は広間から退出させ調べる指揮をとる。それが今日の紫の仕事だった。
今日の主役はなにしろどんな人間に恨みを買っているか知れないのだから気が抜けない。招待客しか入っていない筈なのに実際この宴が始まってから既に2人ばかり外へ叩き出している。
しかし、紫が最も目を光らせていたのは、主役の1人である壇上の女性だった。
純白の衣装に身を包み、美しく飾られたその女性は紛れもなく「花嫁」である。しかし本来ならば幸福に光り輝いている筈のこの場所で花嫁はただ青ざめた顔をこわばらせている。
「本当に可愛らしいお嫁さんだこと」
「お二人が並んでいるとまるでお雛様のようですわ」
そんな世辞がとびかっているのが時折耳に届く。
──言い得て妙だ。
花嫁は確かに美しかったが、まるで人形のように無表情で一言の言葉も発していない。
花嫁の父が花婿に語りかけている。一見楽しげな微笑ましい光景だ。しかしそれを陰で揶揄する声も少なくない。
──融資を条件に娘を差し出した、落ちぶれ貴族。
──金で花嫁を買った成金。
主人は、それが耳に入っても鼻で笑っていた。
花嫁の父は古くは公家、維新後は華族としてかつては栄華を誇った家柄の当代であり、現在経済的に行き詰まっている。それに対して花婿──嵯院椎多は莫大な資産を持つ実業家で、この婚姻を機に義父となるその没落貴族に事業の資金を融資することになっていた。
花嫁を金で取引したと見えても致し方ない。
否。
少なくとも元華族の花嫁の父は明らかにそのつもりで娘を差し出した、椎多はそう認識している。
ただ、嵯院椎多は生憎そういう意味で外野の声など意に介するタイプの人間ではなかった。
それに、椎多が気の進まない融資の話を受けたのは家柄うんぬんよりも彼女自身に一目惚れして、そんな娘が市場のセリにでも出されたかの如き可哀想な状況に置かれているのをなんとか助けてやろうとしたのだ──という事を紫は知っている。
しかし花嫁にしてみれば椎多のそんな思いも知る由もなく、ただただ政略の道具にされたと思っているのだから無表情でいるのが精一杯なのだろう。
紫の懸念は今は静かな彼女が何をしでかすか、ということだ。思いつめて自害を試みたり、あまつさえ花婿に切りつけたりという騒動を起こさないとは限らない。
有名人も多く顔を揃えた一流ホテルでの披露宴に所謂二次会───名目上は親しい友人が祝ってくれるというものであるが正直なところ友人面をしたたいして親しくもない者ばかりが集まった──パーティ。紫の懸念は杞憂と終わったが主役たちが屋敷へ帰り着いたのはもう深夜近くなっていた。
花嫁が一番の危険人物とはいえ、新婚初夜の夫婦の部屋を監視することは流石に出来ない。
周囲に人がいなければ、昔の武家の娘ではあるまいしもし花嫁が乱心することがあっても椎多が遅れをとることはあるまい。何か騒ぎでも起こればすぐに動けるようにしておけばいい──
そう考え、紫は嵯院邸にある自室に戻っても軽くシャワーを浴び着替えた程度に留め、宴を乱そうとした不心得者の調書に目を通していた。
深く追及するまでもなくきつめのお灸を据えて放免する程度で問題なしと判断できる者ばかりだったので一息入れようかと立ち上がった時だった。
まるでドアに体当たりでもしているかのような音が響いた。
そんなドアの音を立てるのが誰なのか、紫は知っている。
「紫!開けろ!!」
嘆息しドアを開けると、怒声の主はドアを蹴飛ばしていたらしく足を少し上げた態勢のまま転がるように部屋へ入ってきた。
彼は初夜の夫の筈だ。
「生意気に鍵なんかかけやがって。酒!」
「……もう酔ってるんじゃないんですか、椎多さん」
うんざりした顔で迎えると椎多は自分の頭ひとつ分程高い位置にある紫の顔を睨みつけた。
「酔ってるもんか。知ってるぞ、おまえがここに山ほど酒を隠してるってことくらい」
やれやれ、と1本取り出すと、椎多はそれをひったくり乱暴にグラスに注いで一気に呷る。飲み干すと大声で笑い出した。
「そんな飲み方をして倒れても介抱しませんよ」
「なんだ冷たいやつだなあ。何かあったんですか、くらいのこと言えないのか」
愛想がないのは生まれつきだしな、などと言いながら笑い続ける。
と、椎多は持っていたグラスを割れるかと思うくらい激しくテーブルに置いた。
「ベッド貸せ。今日はここで寝る。邪魔すんなよ」
そう言いながらその場でガウンを脱ぎ捨てすたすたと紫のベッドへ向かった。
「椎多さん──」
何度目かの溜息をついてガウンを拾い、その後を追うと椎多はベッドの上に大の字になって寝転がった。
「何やってるんですか」
花嫁をほったらかしにして──と言いかけて、言葉が止まる。
椎多の身体に無数の生傷が出来ている。ひっかき傷のようだ。よく見ると顔にも何箇所か傷がついていた。
「ふられましたか」
「五月蝿い」
がばりと起きあがって紫の腹めがけて蹴り入れる。しかし紫はびくともしない。
一瞬時が止まったかと思う程の沈黙が流れた。
「──汚らわしいと」
ぽつりと椎多がこぼした。
「俺のことを汚らわしいと言ったんだ、あの女」
──なるほど。
立場やプライドや諸々で花嫁は他人の目のある宴の間はじっと人形のように耐えていたのだろう。
「それで無理じいしてきたんですか。しょうのない人だ」
大袈裟な溜息をついてみせる。椎多はきっと紫を睨みつけた。
「子供扱いすんな」
「子供ですよ、あんたは。バッタの足や蝶の羽根を毟って遊んでいる子供と同じだ」
椎多は今度は立ちあがり、紫のネクタイを掴むと殴りつけた。しかし紫は動じない。こんなことには慣れている。
「まあいい。本当に汚い事は俺が引き受けるからあんたは好きに遊んでなさい」
うるさい──と小さく呟いて椎多は掴んだままの紫のネクタイをもう一度引っ張り、乱暴に唇を重ねた。
「今日は八つ当たりのフルコースですか」
「文句あるのか」
「では──」
椎多の腕をほどき、ごく軽い動作で振り払うようにその身体をベッドの上に放り投げた。仰向けに倒れこんだ椎多の腹の上に馬乗りになる。自分から誘ったにもかかわらず、椎多は驚いたように目を丸くした。
「今日はこういう趣向でどうです」
マウントポジションを取った体勢のまま、紫は素早く自分のネクタイをほどきベルトを緩めている。
「え……ちょっと待」
椎多の戸惑いが腕を通じて伝わってくる。それも構わず両脚を持ち上げ──
前戯も何もなくいきなり貫いた。
言葉にならない小さな悲鳴が耳に届く。
「痛…っ!痛えよやめろ…!」
やっとかろうじて拒絶の声が出た椎多の身体を折り曲げるようにして耳元に顔を近づける。
「花嫁は処女でしたか」
「!?」
「いとしい恋人に優しく扱われたこともない幼い身体にいきなりずいぶん酷いことを教えたんですね」
椎多の指が紫の腕に食い込む。
「痛いですか?彼女はもっと痛かったでしょうね」
「やめろ…どういうつもりだ…!」
「どういうつもり?椎多さんこそどういうつもりだったんです?」
無理に動くと自分にも痛みがある。それでも紫は緩めようとはしなかった。
「俺に優しく慰めてもらおうとでも?彼女のためを思ってこの話を受けてやったのに?助けてやったのに?拒絶されて可哀想ですねと?あんたは悪くない、あんたの気持ちを理解しない彼女が悪いのだと?よしよしと撫でて欲しかったんですか?」
椎多が拳を作って紫の胸を殴りつけている。もう声も出ない。
それでも紫は容赦しなかった。
「あんたは──罰して欲しかったんでしょう?」
最後に言った言葉は、もう椎多の耳には届いていなかった。
息遣いがようやく穏やかになってくるとそれは寝息へと変わっていった。
確認するように静かに指を伸ばし、頬に触れてみる。椎多はほんの少し眉を寄せたが起きる気配が無かった。
唇が何ヶ所か切れている。自分の身体を点検すると、腕や胸にひっかき傷──椎多は爪を伸ばしてはいないので椎多の身体に出来ているようなものとは違う──やうっすらとした痣が出来ていた。
命じられて抱いたことは何度もあるが、こんな風に拒絶されてもやめなかったことはこれまでなかった。
甘やかして、優しく慰めるように抱いてやることも出来たのに。
椎多は自分がしてしまったことに苦しんで、罰を欲していることがわかってしまった。欲しているのが罰ならば、そのようにして少しでも心を軽くしてやるのが自分に出来ることではないか──
常に影のように、椎多の傍でその身辺を警護するようになって2年ほどか。
紫は子供の頃に先代──椎多の父親である嵯院七哉に拾われ育てられた。
一代で興した会社を大企業に育てた立志伝中の人物ではあるが、その家系は江戸時代から続く侠客である。現在もやくざの組として組織は存在している。そして、意外にもあまり知られていないことではあるが、その「組長」を務めていたのも七哉だったし現在は椎多であった。
長じてからは組を任されて「主人」の傍を離れていたが、七哉の死に伴い椎多の警護の責任者となったのがその2年前になる。
紫の人生はこれまでに2回、大きく変わった。
1度目は七哉に拾われた時だ。
七哉に拾われていなければ、あるいは成人するまでに命を落としていたかもしれないしさもなければ今より更なる殺伐とした闇の世界に生きていただろう。
2度目は七哉が他界した時。
自分はずっと七哉の背中を見続けていつか年老いた七哉を見送る。そんな人生だと信じて疑わなかった。
まさか──
不惑を少々過ぎたばかりの七哉を見送ることになるとは夢にも思わなかったのだ。
その夜、組長が倒れたと報せを受けて来てみれば、そこには医者と看護婦のほかには椎多だけが枕もとに座っていた。
紫はそこに横たわった七哉を見つめながら、小さな癖や血色のいい頬やいつのまにか白いものが混じり始めた髪や少し悪趣味な大きな宝石のついた指輪や──そんなものを思い浮かべていた。どうしてもそれが目の前の土気色で隈のできた顔の男とは結びつかない。
と、医者に声を掛けられて紫は我に帰った。七哉が微かに手を動かし紫を手招きしている。側へ行くと、息の漏れるような声がかろうじて聞こえた。
──椎多を、頼む。
息子を頼むと、嵯院七哉はそう言うとぐったりと眠りについた。二度と目覚めることのない眠りに。
普通ならこんな時、手をとってお任せくださいと涙のひとつでも零すのだろう。
それなのに涙はおろか悲しみというものはわいてこなかった。ただ胸に穴があいただけだ。
椎多は、笑っていた。
喉の奥で笑っていたかと思うと、突然大声で笑い出し、しまいには自分の腰掛けていた椅子を乱暴に蹴飛ばして部屋を出て行った。
呆然と見送る医者と少し怯えた看護婦にあとを任せると一礼し紫も部屋を退出した。
もう1秒もその部屋には居たくない。
どのみち葬儀や諸々の表立った儀式は自分の仕事ではない。表の顔である企業グループの会長の死を弔う段取りは、そちら側の人間に任せればいいのだ。自分はただ事務所に戻り組員の混乱がないように手配すればいい。
部屋を出ると、先程出て行った筈の椎多が腕組みをしてそこに立っていた。
「組の方は誰かに任せて屋敷に移れ」
眉をひそめて、言外に問い返す。
「親父の最期の頼みだ。嫌とは言えないだろう」
父親を亡くしたばかりである筈の息子はやはり涙を見せることなく、不機嫌そうに背を向けた。
あの時から──
紫のすべてが、がらりと音を立てて方向転換したのだろう。
椎多のことは産まれた時から見てきた。
子供の頃から癇癪もちで気まぐれ、若い頃は学校では優等生のふりをして夜は悪い仲間とつるんで繁華街をうろついたりもしていたようだ。大人になったからといって簡単に性格は変わらない。
外では優しく微笑みながら紫相手にそのストレスをぶちまける、というのがお約束のようになっていた。抱けと言われれば抱いてやるのもそのひとつである。
身辺警護というより、八つ当たり引き受け係だ──
しかし。
たとえそれが八つ当たりでも。
こんな時に椎多が転がり込むのは結局、自分の所なのだ。
紫の頬にごく微かな笑みが浮かんだ。
花嫁に抵抗されて無理やり抱いてきたからむしゃくしゃする。いや、犯してしまった罪を罰して欲しい──などと他の誰にぶちまけられるものか。
愉快そうに笑う椎多は時に子供のように無防備な顔をする。
そのままでいてくれればいい。
無防備なら、それを俺が守ろう。
ずっと子供のような、無邪気に笑う暴君でいてくれ。
その為なら、俺は何でもする。
乱れた衣服を簡単に整えると、紫はガウンを椎多の顔に向かってばさりと投げた。
「なに寝てるんですか。さっさと自分の部屋へ帰って寝る!」
のろい動作でもぞもぞとガウンの下から顔を覗かせると、椎多は寝惚け眼のままそれを紫へ投げ返した。
「うるさい…誰があんなやり方しろって言ったよ……覚えてろ…」
言いながら再び沈没するのを叩き起こして部屋を追い出す。
ドアの向こうの罵声がやがて遠くなっていくのを確認して、紫は再びベッドに戻った。
まだほのかに椎多の体温が残っている気がした。
披露宴はまだ桜も咲くや否やの春先だった。
椎多の妻、青乃が実父の所有する高原の別邸へ移ることになったのはもう夏も本番かという暑い時期である。
ひどく体調を崩したとかで療養と避暑を兼ね少数の使用人のみを伴い暫く本邸を離れるという。
「とうとう逃げたな───」
椎多はただ皮肉そうに笑った。
あの「初夜」の日から後も、椎多が深夜に紫の部屋を訪れることは度々あった。
最初の日と同じで妻に拒絶されては無理やり犯し、紫を訪ねては紫にその罰を求めるように──
この屋敷の中で夫の暴力にただ耐えるしかない青乃。味方はいない、逃げることも出来ない。警察に助けを求めることも出来ない。たとえ逃げおおせたとしてもその時は父への融資はなかったことになろう。実家と自らのプライドを人質に取られて、青乃は地獄のような苦しみを味わっている筈だ。
しかし、それは紫にとっては「どうでもいい事」だった。
青乃がどれだけ苦しんでいようが紫の務めは変わらない。
ただ、椎多が以前ほど笑わなくなったことだけが気にかかる。
おそらく、いつまでも意に添わない妻に暴力的な行為を続けていることが彼の心に凝っているのだ。ならば止めればいいものを椎多はどうしてもそれをやめることができずにいた。
──自業自得だ。
拒む青乃に罪はない。
そもそも、加害者は椎多の方なのだ。それで傷ついているなど、身勝手であること甚だしい。
しかしそう思う心の片隅で、紫は彼女を激しく憎んでいることに時折気付く。
───いっそいなくなってくれればいい。
「俺はなんだか少しほっとしてるよ」
紫に背を向けたまま椎多は言った。
「とりあえず離れていればあんなことはせずに済む」
普段の椎多にしてはひどく小さな、弱々しい声だったが顔は静かに微笑んでいた。
紫は何も答えなかった。心に浮かんだ言葉も口にはしなかった。
俺もほっとしています──
それはつまり、紫ももう椎多を罰するような行為をしなくても良くなるということなのだ。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。
青乃に同行した使用人はごく少数。実家から伴ってきた女医と看護婦に護衛の龍巳という若者、そして嵯院邸のメイドである冴と料理人である。
料理人は基本的に青乃本人と顔を合わせることはないが、冴には青乃の身の回りの世話を任せていた。
紫が冴に命じたのは何もそれだけではない。むしろ、目的はそれではなく、別邸で起こったことをどんな些細なことであれ逐次報告させることだった。
そして その内容は椎多本人に報告されることはなかった。
否。
報告できる内容ではなかったのだ。
青乃が別邸で愛人を──相手はもともと別邸の書庫で蔵書の管理を任されていた男である──作り駆け落ちしようとしていたこと。
そもそも彼女が別邸に移ることになったのは子供を極秘で堕胎したせいだったということ。
椎多は、青乃が妊娠していたことすら知らされていなかった。
冴の報告によれば、妊娠したことが知れれば堕胎など許されぬだろうと思いつめた青乃が、自室で、自らの手で、胎児を子宮から掻き出したのだという。当然、出血も相当なものだったろうし事実危うく命を落とすところだった。
そんな騒ぎすら青乃が実家から連れてきた使用人たちの手で闇に葬られ、あろうことか紫の耳に噂すら届きもしなかった。冴が自分は嵯院邸の人間だが青乃の味方だと表向きは誠心誠意勤めあげ周囲の信頼を得ることができたから掴めた情報だといっていいだろう。
あれほど青乃がいつ危険な行動に出ても対処できるように気を配っていた筈なのに──
それは、自分の落ち度だ。紫は歯噛みした。
そして、独断で命令を下した。
青乃の愛人を、青乃が実家から連れてきた警護の者たちに始末させたのである。
紫が率いる嵯院邸の警護の者たちもそうだが、青乃のそれもただのガードマンの集団ではない。時には秘密裏に賊を抹殺したりすることも少なくない、言い換えれば暗殺者の集団といってもいい。
単に「間男」を始末するだけなら、紫の配下の新米一人にでも出来る仕事だが、あえて、青乃の配下の人間を使った。
彼らが、いかに青乃が実家から連れてきたとはいえ現在は紫の──つまり、嵯院椎多の支配下であるということを再認識させるために。
その為だけに、紫は「間男」の始末を彼らに命じたのだった。
青乃は愛人を殺されて一時自失していたという。
冬の初め、その青乃が本邸へ戻ってきた。
静養の為に別邸に暮らしていた筈の青乃は以前よりもっと窶れ、もともと白くはあったが仄かに桜色がさしたような若々しさだった肌が青白く透けるほどに変わりはてていた。
青乃は、自分を犯し続けていた悪魔のような夫の姿を見つけると、以前のように怯えた素振りを見せることはなく──
何も感じていないような冷淡さで真っ直ぐにその眸を睨み付けた。
「──ひとごろし」
小さいけれど、はっきりとした発音だった。
「なんだと?」
人を殺したことがない、とは言わない。自ら手を下していないものも含めれば、数など判らないほどだ。だが青乃に「人殺し」などと非難される覚えは椎多にはなかった。
問い詰めようと足を踏み出したがしかし、龍巳が椎多をそれ以上青乃の傍へは近づけなかった。
龍巳の椎多を見る目もまた、憎しみに満ちている。
──いったい、何があった。
自分の知らないところで、おそらく何かが起こっている。
反射的に、椎多は冴の姿を探していた。
「勝手な真似をしやがって!!なんで俺に黙ってた!!」
「あの女の口を割らせたんですか」
冴はなかなか口を割らなかったと見える。金を掴ませたか、拷問したのか、青乃にしたよう犯したのか、それとも逆に優しく抱いてピロートークにでも聞き出したか。
女にしてはなかなか使えると思ってはいたが、やはり肝心の詰めの部分で信頼できない。今回のことは椎多には絶対に知られるなと堅く口止めしていたのに──紫は嘆息した。
「うるさい、なんでだ!答えろ!」
激昂して椎多の顔が朱に染まっている。それに対し紫は冷静そのものだった。
「相手の男の名が気にくわなかったんですよ。あんたと似てて」
椎多は紫の頬を張った。椎多の手の方が腫れるのではないかと思う程の音が響く。
「じゃああんたならどうしたって言うんです。許してやるんですか」
「──」
「もし知っていたらあんたは自分でやっていたでしょう」
椎多は、ぐ、と言葉に詰まり、それから紫を睨みつけ、悪いか、と言った。叱られた子供が小声で言い訳にならない言い訳をする時のような声だった。
「言ったでしょう。本当に汚いことは俺が引き受ける。あんたがそんなことで手を汚すことはないんです」
唇をぎりっと噛むと紫から目を逸らす。
「──今度勝手なことをしてみろ。ただじゃすまさないからな」
吐き捨てるように言うとそのままばたばたと音を立てて部屋を出て行った。その背中を目を眇めて見送る。
どれほどすれ違っていっても歪んでいったとしても、椎多はまだ青乃を愛している。
その愛する女を自分の手で殺してしまったなら、その事が椎多自身を変えてしまうだろう。
紫にはそれが許せない。
しかし──
心のどこかで、いっそ彼女も殺してしまえばよかった、とも思っている。
そうしたなら椎多は紫を憎むだろう。
それでも、いつか椎多がその手で彼女を殺してしまう日が来ないとは限らない。
そうさせてしまうくらいなら、この手で先に殺しておきたい。
──俺はやはりどこか狂ってきているのかもしれない。
漠然と、紫は思った。
通路を隔てて向こう側はがらりと色合いが変わる。
それもその筈、もともとこの屋敷は維新後建てられた古い西洋建築で、通路の向こう側というのはその頃の建物がそのまま残っている棟なのである。元の持ち主である華族が大変な西洋かぶれだったらしく、かなり本格的な──まるで欧州の城か宮殿のような──洋館に造られていた。三階建てだが天井が高いので五階建くらいの高さはあるだろう。
それに対して通路続きのこちら側は嵯院七哉が買い取った後に増築した比較的新しい棟である。旧館が手狭だったわけではないが、警備上の問題や実際の居住の快適さを求めた結果新しい設備や施設が必要だったらしい。文化財レベルの旧館と繋ぐのにあまり無粋なものはさすがに憚られたのだろう、様式は多少旧館と近いコンセプトで建てられているが諸々の設備は逐次最新式のものに更新されている。椎多はこちらの棟に自室を置いていた。そして──
旧館に青乃の部屋はある。
その通路がまるで異世界へ通じる門であるかのように。そしてその門番であるかのように──
そこへ足を進めると、椎多の前に一人の若者が立ちはだかった。
青乃が実家から連れてきた警備の一人で、現在もっとも青乃の近くでその護衛を任されている、龍巳である。
「どちらへ」
「──ここは私の屋敷だ。どこへ行こうと……まして、自分の妻に会うのにいちいちおまえの許可はいるまい」
「申し訳ありませんが旦那様、青乃様はまだご体調が思わしくなくどなたにもお目にかかりたくないと仰せです。それに」
龍巳は椎多の目をまっすぐに──憎悪を含んだ険しい目で睨み付けた。
「青乃様は旦那様には特にお目にかかりたくないと」
これまでの椎多であれば、癇癪を爆発させて殴りとばしていたかもしれない。しかし椎多は眉をぎりっと寄せて目を細めただけだった。
その様子を紫は数メートル離れた後方から見守っていた。
これまでは当人が嫌がっていようと椎多が青乃に会おうとすることを周囲の人間が阻止するなどということはなかった。
いかに「青乃側」であろうとも、彼らの現在の雇い主は嵯院椎多なのである。逆らえば解雇されることも十分考えられる。だから、龍巳も、青乃の主治医も看護婦も、他の警備の人間たちも──青乃の盾になり切ることができなかった。解雇されれば元も子もない。
しかし、別邸の一件があってから少なくとも龍巳は必死に青乃の盾になっている。解雇も覚悟の上なのだろう。
「今日はひきあげてやるが口のききかたには気をつけろ」
椎多は苦々しげに──貌に乗せているのは笑い顔であったが──言い捨てると、龍巳に背中を向けた。
紫の姿に気付いてはいるが、それを無視するように通り過ぎる。
すれ違いざまに、押し殺した笑い声が聞こえた。
──俺が見たいのは、そんな辛そうな笑い顔じゃない。
口には出さず、黙ってその背中を追う。しかしそれは、いくら追いかけても届かない遠くに思えた。
そしてその日を境に、椎多が紫の部屋を訪れ八つ当たりをすることはぱたりと無くなった。