Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
紫 -2-
街中の賑わいを抜けて暫く走ると拍子抜けする程短い時間で山にさしかかる。
山とはいってもそう高くはない。山膚にしがみつくように建っているのは所謂豪邸の類の数々で、そこからはさぞかし見事な眺めが望めるだろう。
その更に奥へ進むと、今度はぽつりぽつりと観光旅館が点在するのが見られるようになる。この山を越えた向こうには古くから栄えた温泉地があり、そこにも多くの老舗旅館や別荘、保養施設などが存在するが、そこへ至るまでもなく都会の喧騒や日常から離れられる場所として様々な階層の人間から人気の地域。
「はなや」はそんな地域の老舗観光旅館のひとつである。
古くから──他の旅館や、山膚の豪邸群が建つよりもずっと昔から──そこにどっしりと佇まっていた「はなや」は料理旅館として昔の高名な文人や政治家などが好んで利用していたという。
春には桜、夏は青々として涼しげな繁みとせせらぎ、秋には紅葉、冬には侘しい枯れ山に時折の雪化粧と四季折々の表情がそこを訪れる人間を迎えている。都心近くとはとても思えない。
「いや、だからってわざわざ旅館で会食しなくていいだろう。自分たちはそのままそこに宿泊して休暇だ、まったくいいご身分だよ」
椎多はぶつぶつと口の中で愚痴っている。
「はなや」へ向かう車の中、心底うんざりした表情で溜息をついている椎多に紫が特にコメントをすることはない。
会食の相手は何某議員である。いきなり呼びつけられたうえ食事代はおろかその宿代まで全部払わされる。もっともその分はきっちりお返しを頂くつもりだ。
「会食」がお開きになったのは結局深夜近くになってからだった。わざわざ派遣させたコンパニオンたちに囲まれてその何某議員はいつまでもだらしなく鼻の下を伸ばしている。コンパニオンたちには、もし議員に気に入られて指名されたら相手をすることも含みで給料を支払うことになっていた。そういう内容の仕事であることを承知している者しか呼ぶことは出来ない。
議員と女どもの様子を注意深く見て辞去するタイミングをはかる。椎多が帰るぞ、と言う前にその準備を整えておかねばならない。
特に指名されるでもなかったコンパニオンたちをそれぞれタクシーで帰し、椎多が見送る女将にあとを頼んでいる間に車を廻すよう指示する。
基本的には余程の警戒を要する場合でなければ椎多の外出には紫一人が従っていることが多い。椎多が大名行列よろしく大勢の人間を引き連れて歩くのを嫌ったのもあって、警護と秘書と運転手の役を一人で担っているといってよかった。
しかし、今日は会食の相手や状況を鑑みて念のためあと一人警護の人間と運転手を伴っている。「はなや」は山間の一本道にある。囲まれたり道を閉鎖されれば袋小路だ。そのため途中の山道にも数人を配備していた。
──遅いな。
椎多が出てこようとした時、まだ車は駐車場から出てきていなかった。嵯院邸に昔からいるベテランの運転手である。主人に待たせるなどということは通常考えられない。
「──椎多さんは中に戻って待っていて下さい」
嫌な予感がする。
椎多が「はなや」の建物内へ入るのを確認した上で紫は銃を取り出しそろりと駐車場へ向かった。人間の気配や殺気は感じない。
駐車場では、車のエンジン音が聞こえる。嵯院邸の車であることがその音でわかる。
警戒を強めると同時に──
突然──
閃光が一瞬の視界を奪った。
急発進した車が猛スピードで向かってくる。それをひらりとかわすと車は「はなや」の駐車場の土塀に激突した。
見ると、運転席はもぬけのカラ。
消音銃の鈍い銃声とともに気配が動いた。その気配に向かって発砲する。動きが止まった。
その懐に飛び込み手に持った銃を叩き落した。そのまま腕を捻りあげ押さえ込み──
ざくり。
嫌な音がした。
構わず、賊を押さえ込む。失神させ、縛り上げた。
そこへ、連れてきていた部下が駆け寄る。運転手は駐車場の隅で失神させられていた。殺すまでもないと判断されたのだろう。
「今、下に待機してる連中から不審人物を5人確保したって連絡がありました。車を廻させましょうか」
「ああ、まだこの周辺に潜んでいる可能性はあるが──その車は使えんし一刻も早くここを離れた方がいい。他の人間も集めておけ」
部下がはい、と返事をしてその指示を実行しようと──
「紫?!」
椎多の声がどこか遠くで聞こえた。
ぐらり、と視界が傾く。
右の手首からどくどくと血が流れていた。
──しまった。
銃を叩き落したからといって油断したわけではない。相手が更に刃物を用意している可能性を軽視していたわけでも──
刃物であれ銃であれ、それによる怪我など今まで数え切れないほどしてきている。しかし──
思った以上に傷は深く出血も多量だった。立っていられない。がくりと膝を落とすと、馬鹿野郎、医者だ──と椎多の声がまた聞こえた。
賊はそれ以上現れなかった。
おそらく、相当腕に自信のある刺客だったのだろう。「仕事」は一人で臨むことを好む殺し屋は意外に多い。椎多の部下たちが確保した者たちがその賊の直接の部下だったのかそれとも指令を下した人間が配していたものかはこれから調べることになる。
紫の傷に応急手当を施し、乗ってきた嵯院邸の車を使うことは避けて待機していた車に載せて運んだ。
しかし、その傷がそれほど深いものだは誰も──紫本人を除いて──思わなかった。
「ヤブめ」
吐き捨てるように椎多が言う。
「他の医者を探させる。なに、切断されたってうまくくっつくんだから絶対元通りになるさ」
「……もう、無理ですよ。時間も経ちすぎてる」
元通りにはならないと──
医師はそう言った。
ほんの数ミリ分かわしていれば、派手な出血をするだけのただの怪我だった。
神経が切れている。傷口が塞がって一見元通りになったとしても今まで通り自由には動かせなくなるだろうと。
リハビリテーションを繰り返して長い時間をかけ機能を回復させる方法もあるが、それでも、多少の不自由は残る。
紫は右利きだ。とはいえ左も利き腕同然に使うことはできる。だから紫自身はたいして不便は感じないだろうと思っていた。もちろん、傷が治れば──否、包帯を巻いた状態のままでも十分現場に復帰するつもりでいる。
「確保した連中はどうしてます。背後関係は」
「今洗わせてる。──おまえはそんなことは考えなくていい」
「そうもいきませんよ」
椎多はしきりに手で鼻や口を押さえたり覆ったりしている。落ち着き無く何かを考えている時の癖だ。
「椎多さん」
「おまえは当分休養しろ。傷が治るまでは現場に出なくていい」
一瞬、その意味が掴めなかった。
紫の知っている限りの椎多なら、紫本人が現場へ復帰すると言えば容赦なくこき使うはずだ。
「どういう風のふきまわしですか。足も頭も本体も左手も無傷だ。休む理由はありません」
しかし、椎多は言葉が見つからないように少し視線を泳がしていたかと思うと、遊びをねだる子供のように紫の膝の上に座った。
ふわりと、椎多の使っているコロンの香りが鼻をくすぐる。椎多はそのまま紫の肩に額を預けた。
甘えている。
「困ったな……」
小さく呟いて、自由な左手を椎多の背中にゆっくりと回す。もし右手が自由なら──両腕で抱き潰してしまいそうだ。
「何を甘えてるんですか。いい年をして」
動揺を押し隠すようにわざと突き放す。椎多はうるさい、とだけ言って額で何度か紫の肩を叩いた。紫の左手に自然と力がこもる。
決して口には出来ない言葉が、紫の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
手の届かない高みへ飛び去ってしまった鳥がふいに戻ってきたように。
ふわりと戻ってきた大切な暴君。
俺にはここしか居場所がない。こうする以外の生き方などもう判らない。この手を──
二度と、離したくない。
それは、まだ大人になりきっていないような娘たちだった。
妹はまだ高校生くらいに見える。姉も顔立ちこそ大人びているがまだみずみずしい若さが隠し切れない。
椎多は興味深そうにその娘たちを凝視めた。
「二人ともそんな勇ましい娘には見えないな」
「こう見えてもかなりのやり手のようですよ。椎多さんなら簡単に取り押さえられてしまうんじゃないですか」
椎多はただふん、とだけ言った。
青乃の実家である葛木家から派遣された「青乃の警護を目的とした者」たちは、青乃の父親に任命された責任者である伯方という男が取りまとめていた。
しかし、青乃が別邸から戻った頃からそれらの者たちの一部が反抗的な態度を平然と取っていることに紫は微かな危機感を感じている。エスカレートすれば内部に敵を飼っているのと同じことになろう。面倒なことになる前に、連中に自分達の雇い主、「ご主人様」が一体誰なのかを判らせねばなるまい。
近頃では青乃はすっかり自棄になり、癇癪を起こしては警備員を次々解雇したり、外で適当に見繕った身元も知れぬような男を引っ張り込んだりしているという。
しかしもう手に入れることを諦めたのか興味を無くしたのか、椎多は妻が何をしようが好きなようにさせていた。
かといって青乃付きのただの警護人どもに好きに振る舞って良いと許したわけではない。それは紫の責任範囲だ。まして無断で牙を研ぐような真似を黙って見過ごすわけにはいかない。何か手を打つとっかかりは無いだろうかとちょうど探っていたタイミングだった。
青乃が気まぐれで解雇した警護人の補充人員のリストをチェックしていて、伯方がかつて体術の道場などを営んでいた頃の門弟が含まれていることがわかった。
伯方が自分の子飼いを邸内に増やし、クーデターを企んでいる──というシナリオはどうだ。
と、思いついてはみたものの言いがかりをつけるには少々弱いかと思ったが、案外と伯方は早々に降伏し『子飼いの門弟』たちの引渡しを渋々ながら受け入れた。
どうやらこの者たちは伯方にとっても予想以上の"可愛い弟子"だったらしく、牙を抜くだけでなく伯方に対する人質を取ったような形になったのは望外だった。
それがこの娘たち──名を柚梨子、みずきという姉妹である。
「で、このお嬢ちゃんは──殺したことはあるのかな」
柚梨子は驚いたような顔をしている。
この娘たちはその教官から暗殺術を叩き込まれていると椎多には報告していた。が、それは青乃側から牙を抜くための方便である。暗殺術を指導しているという調査報告も密告も証拠もない。
それを鵜呑みにしているのか信用はしていないがこれをそのまま暗殺者に育てるという思いつきに執心しているのか、翻意する気は椎多は無いようだった。
「この子をおまえに預ける。一人前にしろ」
椎多はいつもの位置に控えている紫を振り返りもせずに言った。まだ右手首の包帯は取れ取れていない。しかし知らない者が見ればまだ指が殆ど動かないとは気付かないだろう。
紫は反論はしなかった。
しかし──
自分がでっち上げた事が発端とはいえ、この怯えた小動物のような女をどうやって一人前にしろというのか。紫はうんざりと溜息をついた。
女の部下など持ったことがない。どう扱えばいいものかもよくわからなかった。
部屋を退出する際に、柚梨子は突然──
妹にはそれは無理だ、あたしは何でもしますからとまくし立てた。
まさか姉妹で殺し屋に仕立て上げられるとは思っていなかったのだろう。
椎多の顔を見ると、何か悪戯でも思いついたような顔をしていた。
忌々しげに視線を落とすと、柚梨子は顔色を無くして小さく震えている。逆に妹のみずきの方が、事態の重大さを理解していないのか、ただ姉の顔だけを心配そうに覗きこんでいた。柚梨子が進言しなくても、この妹の方はどうにもならないのではないか。メイドで使うのがせいぜいだろう。
いずれにせよ、使えるか使えないかは判断せねばならないのだ。
「怖いのか」
短く訊くと、柚梨子は小さく首を横に振る。しかし娘はどう見ても怯えていた。もっとも自分のその態度も若い娘には十分恐怖感を与えるという自覚は紫には無かった。
柚梨子の訓練を始めてみると、確かにある程度の身のこなしの基礎はしっかり身についていることがわかった。伯方という男はかつて若い頃外国の紛争地域で傭兵のような事をやっていたらしい。つまり、専門的な軍事訓練を受けてきた人間なのだろう。柚梨子が身に付けたものは教科書に載っているような基本的なものが大半である。
それに対して紫は専門家の訓練など受けたことはない。すべて自分が自分の身を守る為に自力で身に付けたものだといってよかった。だから、女の身でそれを実践することは困難に思えたが、もともと器用だったのか柚梨子はうまくアレンジを加えながら着実に自分の身につけていく。
──なるほど。
小柄で華奢な女が自分の動きを模倣するとこうなるのか、と反対に教えられることさえある。
しかし、技術はともあれスポーツや単なる護身術を教えているわけではない。剣道がいかに上手くても、真剣で人が斬れるとは限らない。そういうことだ。
柚梨子が来て数週間も経つうち、紫は柚梨子のある変化に気づいた。
日ごとに柚梨子の椎多を見つめる瞳が変わってゆくのが紫の目からも判る。それは苦笑が漏れるほど顕著な変化だった。
──早速お手つきというわけか。
恋に落ちる──とはよく言ったもので、柚梨子はおそらく本当に落下するほどの早さで椎多に心を奪われている。
女好きだった父親に似たのか、椎多も少々気軽すぎる程よく女をひっかけてくる。利用したい女には殊更優しい。あのノウハウを自分の妻に使えば話はこじれなかったかもしれないのに──ともあれ、柚梨子はその策略にまんまと嵌ってしまったのだろう。
柚梨子に初めて本物の殺人を実行させた時。
それまで音がするかと思う程だった柚梨子の身体の震えが、ぴたりと止まった。
「………これで、あのひとの役に立てるんですね」
一瞬背筋に冷たいものが走った、気がした。
数週間前にはどこにでもいそうな小便臭い素人の小娘だったのに。そこにいるのはまぎれもない「女」であり「殺し屋」だった。
この女はきっと、この先もっともっと椎多を愛するようになる。それゆえに命をかけて椎多を護ろうとするだろう。
自分がそうであるように──
後始末を命じながら、紫は柚梨子のその華奢な頚をいっそ掻き切ってしまいたい衝動に襲われた。
それに気付くと再びぞくぞくと背筋を戦慄が走る。
俺は、どうしてしまったのだろう。
このままでは──
俺は──
掌が冷たくなっていくのにじっとりと汗をかいている。しかし、誰かがそれに気付くことはなかった。
「どうだ、柚梨子は」
椎多は手元で小さな飾り銃を磨きながら紫の方を見もせずに言った。
決して大きくはない椎多の手にしてもまだ小さいそれは、瀟洒な装飾が施された上品なマテリアルで実用向きに作られたものではないことを物語っている。
「技術面でなら殺し屋としては使い物にはなるでしょう。護衛としては──あの華奢な身体で盾になれるかどうか」
極力主観を取り除き客観で言ったつもりだが、椎多にはどちらでもさほど変わりなかったらしい。自ら質問しておいてふうん、と興味なさげな返事が返ってきた。
「あの子はめっけもんだったな。今、社の秘書室の方にも出入りさせて秘書の仕事も覚えさせてるんだがそれも随分飲み込みがいいらしい」
それは──
椎多の役に立ちたくて死に物狂いなのだろう、と思った。元々利口な娘だったのだろうが、それでも睡眠時間を削って努力していることを紫は知っている。
そんな恋する女の健気な気持ちなど察しもしていないのだろう、この暴君は。
あれだけ護衛や秘書などをぞろぞろと連れ歩くことを嫌っていた筈の椎多が、最近では自分と柚梨子、それに組の方から引き抜いてきた数名を護衛として入れ替わり連れて歩いている。そろそろ、紫は背後から彼らの行動に抜かりないかどうかをチェックする監視員のようになりつつあった。
その監視の必要すら、遠からず無くなるだろう。
ならば、自分の存在する意味はどこにあるというのか。
「きいてるのか、紫」
我に返った。否、まだ頭がどこかを浮遊している。のろのろと視線を椎多に移した。紫の反応がそれほど鈍いことなど通常考えられないせいだろう、椎多は酷く怪訝な顔で紫の目を覗き込んだ。
「紫?」
「俺はお払い箱ですか」
ずっと、心の奥底で渦巻いていた不安。
口に出すつもりではなかったのに、と無表情な顔を一瞬顰める。
椎多にとっては、予想だにしなかった問いかけだったのかもしれない。目をまんまるに見開いて顔いっぱいで驚きを表現すると、次に一瞬泣きそうな顔になり──最後にどこか皮肉な笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな。おまえは組の方に戻ってのんびり隠居でもしてろ」
のんびり隠居──
感覚の戻っていない筈の右手が、小刻みに震えている。
「……俺はもう役立たずだと?」
椎多はそれには返事をしなかった。
「あんたは──」
息を整えるように一拍おいた。動揺を悟られたくない。
「あんなおじょうさんに自分の命を背負わせるつもりですか」
「うるさい。おまえも俺の傍なんかより組の方が気が楽だろう。もともとあっちに居たんだから」
そうだ。
かつて嵯院七哉が紫に組を任せると言った時。
自分はそれよりも七哉の護衛を続けたいとは思った。しかし、七哉の意思だからと黙って従った。
あの時に比べて──
この身の竦むような絶望感はなんだろう。
「来週にでもここを引き払ってそっちへ行け。もう直接俺に関わる事はない。いいな」
いつの間にか笑いの消えた裁判官は苛ついた動作で煙草を消し──
判決を、下した。
「それだけだ。必要なものは柚梨子に引き継いでおけよ」
閉廷を宣言した裁判官は乱暴に立ち上がり被告に背を向けるとドアに手をかけた。
このまま見送れば、椎多は永遠にこの手から飛び去ってしまう。
その判決は、死刑に等しかった。
いくら生命を永らえたとしても、椎多にとっての存在価値を失った自分は死んだも同然だ。
殆ど無意識に体が動いていた。
左手で腕を掴み引っ張る。不意をつかれてよろけた椎多をそのまま壁に向かって突き飛ばす。今まで見たこともないほど驚いた椎多の顔が目に入った。壁に激しくぶつかった拍子に座り込んでしまった椎多の首に左手をかけ、ぎりりと絞めつけたまま上へ引っ張りあげる。ちょうど立ち上がった位の高さまで引き上げたところで一旦手が緩み、椎多は激しく咳き込んだ。
「ゆ……」
「──あんたが悪いんですよ」
緩めた手にもう一度力を込める。椎多の顔がまた苦しげに歪むのを構いもせず、そのまま唇を塞いだ。
抵抗する度に首を絞めつけられるために、椎多は右手が利かないはずの紫にろくに反撃も出来ない。塞いだ唇に噛み付いて漸く開放された。激しく息をしながら椎多は紫を睨み付ける。
血の滲んだ唇を指で拭いながらなおも椎多の胸座を掴み軽々と引き摺りそのままソファに押し付けた。
「右手の指くらい動かなくてもあんたを気持ちよくしてやることくらい簡単なんですよ。試してみますか?」
「や……めろ……」
苦しげに声を絞り出す。
椎多は初めて自分に向けられた紫の刃に恐怖を覚える余裕もなくただ、ただ戸惑いだけが伝わってくるようだった。
「この通り、俺はまだ十分役に立つ筈ですよ。護衛役も、八つ当たり役も。あんたを抱いてやる役も」
唇と唇が触れるほどの距離で、愛を囁くように呟く。
椎多の顔には襟元を締め付けられて苦悶が浮かんでいる。その苦しい息の下で懸命に大きく息を吸い込んで椎多は口を開いた。
「──殺されないって保証があるのか!」
途端に椎多を締め付けていた左手がびくりと緩む。その拍子に椎多は再び激しく咳き込みながら、さらに吐き出した。
「……俺のかわりにおまえが殺されるなんてまっぴらなんだ!」
決して口にしたくなかったことだったかのように、椎多はひどくぶっきらぼうに言うとそのまま視線を逸らした。
一瞬、耳を疑い、絶句する。
そんなことを椎多が考えていたなどと思ってもみなかったのだ。
何かが、紫の胸を締め付ける。苦しい。
苦しい。
痛い。
痛い。
痛い。
身体の痛みなどいくらでも耐えられる。しかし、どこが痛いのかすらもうわからない。
「あんたが──悪いんだ」
もう一度、紫は独り言のようにぽつりと落とした。
──あんたが、あの娘を連れてこなければ。
──あんたが、あの女を妻にしなければ。
──あんたが、自分を抱かせたりしなければ。
──あんたが、俺を側に置いたりしなければ──。
「やめろ!」
椎多が組み敷かれた体制のまま紫の頬を打つ。紫はそれを避けることも忘れていた。
そのとき、自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。紫には想像もつかない。
「俺をそんな目で見るな!」
は、と紫は現実に引き戻された。椎多の目がかすかに潤んで見えたのは苦痛のせいか、屈辱のせいか。
一瞬の隙をつき、椎多は紫の体の下から脱出し、今度は拳で紫を殴りつけた。
「俺は考えを変えない!おまえはここから離す、いいな!ちょっと頭を冷やせ!」
今度こそ紫に背を向けて出ていこうとする椎多の背中が、実際の距離の何倍も遠く見える。
「──どうしても」
ふらりと立ち上がり、椎多の背中に向かって呟くように言った。
「どうしても側から離れろというなら──
俺があんたを殺しますよ」
椎多は振り返らなかった。
「殺されたくなかったら俺を殺せばいい。簡単です」
乱暴なドアの音だけが響き、紫はひとり部屋に残された。