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銃 爪

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「なんて顔色だ。夏バテか?」

 ドアを開けて英二の顔を確認するなり、椎多は苦笑した。見るからに憔悴した顔の英二を押しのけ部屋に入るとぐるりと見回し、ベッドの上に腰を下ろす。

「どうせならこんなしけたホテルじゃなくて一流のスイートとかにすりゃいいのに」
 からかう口調と裏腹に、いたわるようにそっと頬に触れると椎多は笑った。
「ここんとこずっと忙しかったからな。一段落ついて気が抜けたんじゃないのか」
「……椎多」

 英二は椎多の隣に腰を下ろすと、そのまま両腕を回し椎多の肩に頭を預けた。 

 火曜、夜10時すぎ。

 

 椎多を殺せと指定された時間までもう1時間をきっている。
「どうした?おまえ今日はなんか変だぞ。こんな急に会いたがったりして」
 英二は答えない。
「英二?」
 椎多の声の端に微かに憤りが滲んでいる。目の隅にも。

──本気で俺に会いたかったらおまえ、電話でもメールでもがんがん寄越してくるだろ。

 英二はそうして椎多をここへ呼び出した。

 一流とはとても言えない、ビジネスホテルに毛の生えた程度のシティホテルである。ダブルルームらしいが椎多から見ればセミダブルのようなものだ。

「おい、いい加減にしろよ。用がないなら帰るぞ」

 今帰られては元も子もない。立ち上がろうとする椎多の腕を引っ張る。椎多はそのまま英二の上に倒れ込んだ。条件反射のように両腕を椎多の背に回し、抱きしめる。

 何でもいい、仕事の話でも世間話でもいいから会話でもして時間を潰さなければ。

 しかし、気の利いた話のひとつも出すことが出来なかった。

 このまま、いつものように服を脱いで抱いてしまいたい衝動がどこかに隠れている。しかしそれは出来ない。このホテルを使えと指示したのは澤だ。おそらく部屋には盗聴器がある。いや、それどころかどこかに隠しカメラでも仕込まれていると思って間違いないだろう。つまり迂闊なことは言えない、できない。

 椎多が来る前から、英二はひとつの”合図”を待っている。

 しかし未だその合図は来ない。

 藍海を助け出し、椎多を殺すことも回避する、唯一の希望。

 

 ベッドの下に銃が隠されていることは確認済みだった。

 何度も躊躇いながら手を伸ばし、手に取ってみた。

 密輸の粗悪品ではなく、どこのルートで入手したのか警察でも使われているリボルバーだ。もしかしたら本当に警察のものなのかもしれない。

 忌まわしく懐かしい重みと冷たさ。

 頭の中に鐘は鳴らなかった。あいつはまだ眠っている。そのことにひとまず安堵する。

 もうずっと触ってもいなかったのに、まるでさっきまで扱っていたように手慣れた動作でシリンダーを確認すると、弾は1発だけ装填されていた。一度でも失敗したらその時は藍海は返さないというメッセージなのだろう。

 もう二度と銃は握らない。

 シゲを殺した時そう心に決めた筈だった。


 もしも、"合図"が間に合わなかったら、俺は椎多を殺す。
 そして、藍海を助け出す。無事に修一のもとへ藍海を送り届けたら──俺も死のう。

 俺が死んだら、有姫は泣くだろう。

 しかし、椎多を殺してしまったなら俺はもう有姫を愛することすらできなくなる。それは予感でなく確信だ。いずれにせよ、有姫を悲しませる結果にしかならない。

──いや、まだ20分ある。

 椎多を殺すこともなく、藍海を助け出し、有姫を泣かせずに済ます最後の頼みの綱が一本だけ残っている。ただそれは頼りなく細く、いつ切れてもおかしくない。それでもないよりはましだ。


 最後まで諦めるな。
 

 自分で自分に言い聞かせる。

 自分に出来ることはもう待つことしかない。

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「せっかくの休日に時間を割かせてしまって申し訳ありませんねえ」


 睦月はコーヒーを運びながらいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
「土曜なんて休日じゃないのと同じだ。前置きはいい。何か動きでもあったか」
 事務所にはひと気がない。椎多とK、それに睦月だけだった。既に時間はかなり遅い。
「澤康平について情報を整理しました。詳細はこちらのCDに。かいつまんで説明します。まず、これは椎多さんには叱られるかもしれませんが、調べるまでもなくわかっていたことがあります」
 睦月は淡々と語りながら一冊のファイルを広げた。

「澤康平──本名は東出康平というのですが、彼はかつてうちの組員でした」

 土曜、深夜12時前。

 

「──何?」
 椎多は思わず手に持っていたコーヒーカップを取り落としそうになる。中のコーヒーが少しこぼれた。
「椎多さんが生まれるより前に亡くなった組員の息子さんだそうでね、私や紫さんと同世代ですよ。もっともまだ随分若い頃にここを出てよその組にいっちゃいましたけどね」
「……覚えてない」
「あまり事務所に居つかない人でしたし、椎多さんが遊びに来たときにここにいても相手をしてあげたりしてませんでしたからね。印象が薄いんでしょう。いましたよ。賢太あたりはちょうど入れ違いだったから知らなかったんでしょう」


 一度会ったら忘れるわけのない目をした男だと思っていたが、ずっと子供の頃に会っていたのか。椎多は記憶の底を探ってみたが将棋や花札で遊んでくれたじじいどものことは思い出せても澤のことはまるで思い出せなかった。

「よその組に、なんてそう簡単に出来ないんじゃないのか」

 この世界では破門にでもなれば周辺の組にも回状が回ってそういう者を引き受けないようにするものだと思っていた。

「破門というわけでもなかったんでしょうね。七哉さんはそういう極道のしきたりみたいなのをあまり気にしないところがありましたし。とにかく彼はそれからその組で若くして幹部になり、そのあと組とは別働隊のような感じで交渉ごとや裏工作を専門にやってます。ドラッグのルートを管理したり、殺し屋などを使ったり、最終的には政治家の汚職の仲介をしたりもしてますね。このころでしょう、うちがあちらの組を壊滅させたのは」


 それは澤が渋谷修一と関係を持ちながらあちらの組織の勢力を拡げようとしていた時のことだ。この時のことは睦月に一任してはいたが賢太から報告は受けていた。澤の写真を見たのはその時だ。

 それなりに規模の大きい暴力団が突然壊滅したことはニュースにもなったし、警察も動いていたがそこも睦月が大ごとにならないように収めたと聞いている。


「あちらの組が壊滅したその後は彼はいずれの組織にも属さず、一人でそういった殺しや汚職の仲介で金を稼いでますね。逃げ隠れがうまいのかどこの組織からもたいした制裁もうけず現在に至っています」
「それでやつはなんで今ごろこっちに牙をむいてきたんだ」
 睦月は苦笑して首を横に振った。
「そこまではわかりません。後ろに大きなクライアントがいるのか、なにかせっぱつまった事情があるのか、本人の気まぐれか──」
 そこで睦月は開いたファイルを閉じた。


「本人についてはこんなところです。次に、うちの情報があちらに流れているらしいと言う件ですが──賢太」


 事務所に3人しか残っていないと思っていたが、声をかけられて入室してきたのはまだ指に包帯を巻いた賢太だった。眉を寄せひどく疲れた顔をしている。
「わかりにくいでしょうから実演してみせます。とくにK、よく見ておいてほしい。いいね、賢太」
 賢太は唇を噛み締めて小さく頷く。部屋の隅でただ黙って聞いていたKは突然自分に水を向けられ心もち背筋を伸ばした。何が行われようというのか、椎多は怪訝そうに目を凝らすと息をつめる。


 睦月が自分の携帯を取り出し、何か押している。と、すぐに着信音が鳴った。賢太のポケット。賢太の携帯だろう。
 賢太はそれを無言で受け耳に当てる。睦月は聞き取れないような小声で携帯に向かって何か言った。入り口近くに立っている賢太に聞こえるわけがない。
 と、賢太はすたすたと睦月の後ろにある書庫へ足を進め、迷い無く一冊のファイルを抜き出すと睦月に渡した。そして、自分の携帯を再び取り出すとなにか操作している。それを終えてポケットにしまうと賢太は数回まばたきをして、微かにおどおどとその場にいる3人の顔を見比べた。


「じゃあ賢太、このファイルをもとのところに戻してくれるかい?」
「……わかりません」


 椎多は口元に手をやったまま二人のやりとりをじっと睨みつけている。

 Kが厳しい顔で小さくあ、と叫んだ。
「Kはわかったみたいですね。後催眠の一種です。今、賢太の携帯の着信音がなってから、最後に賢太が携帯をしまうまでの間のことは私が指示した通りの行動ですが本人にはその自覚はありません。ごていねいに着信履歴も消していますよ。先程の着信音がキーになっているんです。今は実演する為に私からの着信にあの曲が流れるように設定を替えたのですが、もともとはある登録先からの電話だけに今の着信音が設定されていたんですよ」
 それを利用してこちらの情報をつかんでいたというのか。Kは悔しそうに歯噛みした。


 可能性は十分あったし、賢太が救出されてまだ眠らされていた時に一度は自分が調べた。何か妙な暗示をかけられていないかを。なのにこんな簡単な催眠に気付くことができなかったとは──Kは立ち上がり苛々と歩きまわり始めた。
「相手にも催眠術を使う人間がいるっていうことですよ。それも高度な。椎多さんはひょっとしたら名前くらい聞いたことがあるかもしれませんが……どうやら相手は『歌姫』です」

 歌姫──

 口の中で呟く。生憎初めて聞くコードネームだが何かひっかかる気がした。
「知る人ぞ知る女催眠術師ですよ。それだけじゃない。銃もナイフも薬品も使える、かなり有能な殺し屋のようです。残念ながら姿を見たことはありませんが」
 Kはひどく嫌な顔をしている。椎多も苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。賢太は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、早く気付くことができて良かったですよ。これで椎多さんを襲う指示が出されたりしたら大事になるところでした。あ、賢太を責めないでやって下さいよ?」
「そんなことわかってる」
 賢太が悪いわけではない。そんなことに賢太を利用した澤にまた新たな怒りが湧いてくるだけだ。


「──で、ですね」
 重苦しい沈黙を破るように、一人だけ微笑んだままの睦月が口を開いた。
「その『歌姫』ですが、コンタクトをとることができるかもしれません。椎多さん、少しまとまった金が必要になりますが準備して頂けますか?」


「買収するというのか?その──澤の懐にいる女を?」


「歌姫は殺しをビジネスとして割り切っているそうです。金を出せば動きますよ。うまく利用すれば面白い使い方ができる筈です。それに、賢太の暗示を解くのにも本人にやってもらうのが一番いいでしょう?」
「しかし──」
 それは危険すぎる。寝返ると見せかけて澤と切れていなければ毒蛇を水槽に入れずに飼うようなものだ。
「そのあたりは私に任せて下さい。うまくやりますから」
 そういったことを睦月に任せて間違いがあったためしはない。しかし、それでも不安はつきまとう。
「実は、先程の催眠を利用して、相手方にかなりいいかげんな情報を流してます。そろそろ向こうもそれに気付いている頃だ。それにもうひとつ仕掛けをしてますから、ここ数日の間に焦ってなにか行動を起こすと私は踏んでいるんですよ。向こうが慌ててくれればそれに乗じてこちらも動ける。向こうに隙もできる。そうすれば勝ったようなものです」
「睦月──」
 子供の頃から知っているが、まったくこの男だけは掴めない。味方であることだけは間違いないのだが時折それすら危ぶんでしまいたくなるほど、何を考えているのかよくわからないのだ。椎多は少し苛ついた仕草で煙草に火を点けると足を組み替えた。その動きを見て睦月はまた笑っている。


「相手を焦らそうとしているのだから椎多さんが焦れちゃいけませんよ。暫く身の回りの警護を強化しておいてください。暗示にかけられているのが賢太だけとは限りませんからね。息が詰まるかと思いますが屋敷や会社でもあまり気を抜かないように」
「……わかった」


 基本的に短気な椎多には少しきつい注文ではあったが、こうなっては睦月に任せるほかない。半分程吸ったところで椎多は煙草を消した。

 渋谷藍海が誘拐されたのは翌日の午後のことである。

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『ガーちゃん、あんたでしょ!康平に余計なこと言ったの!』

 月曜、午前10時。

 

 電話の向こうで葵が怒鳴っている。鴉には当然何が起こったか見当がつく。わかっていて白々しく言った。
「余計なことって何?オレはなんにも言ってないけど?」
『うっそ!康平に殴られたんだから!誰に金を積まれたんだって!まだ誰にも積まれてないっての!頭に来るわあのチビエロオヤジったら!』
 爆笑する鴉にさらに葵は食ってかかる。それを聞き流し、さらに鴉は惚けてみせた。
「オレは、なんも考えずに澤さんにそんなに葵を信用してるの、ってきいただけだよ」
 たわいもない嘘。しかし心情的に澤が葵を疑い始め、その態度に葵も愛想がつきはじめていることは明らかだった。思い通りだ。
「いっそ本当に金を積んでもらいなよ。この間は四割増しって話だったけどクライアントは話によっちゃ初回はそのさらに倍積むってさ。いい話じゃないか。ピンハネくらいさせてもらいたいよ」
 くすくすと漏れる笑い。歌姫を澤から引き離せれば他の者は鴉からみればたいした事のない者ばかりだ。
『……ちょっと考えさせて』
「今日は月曜だろ?すまないが早く返事が欲しいね。そう、できれば今夜中にでも」
『なにそんなに焦ってんのよ。なにか企んでるでしょ』
 少し肩を竦める。さすがに一筋縄ではいかない。


『クライアントの連絡先を教えて。私が直接条件を聞くわ。仕事の内容とギャラを聞いてから決める。私が満足いく内容だったら少しくらいはガーちゃんに手数料をあげてもいい。今回はそれ以外の方法では請けない。私本っ当に頭にきてるんだから』
「わかったよ、君には勝てない。但しすぐに連絡してくれ。仕事の期限が明日の夜10時なんだ。それに遅れるようならこの話はなかったことにしてほしいって。君にとっても大損だと思うよ」
 降参のポーズ。しかしすべて鴉の、そして睦月の思う通りに進んでいる。


『わかったから連絡先教えて』
 

 電話番号を告げて電話を切る。ここから先はクライアントの仕事だ。あの男ならうまく商談を進めるだろう。
「なんだかなあ──いい人じゃん?オレ」
 鴉は小さく笑いを漏らし、ひとりごちた。

 英二がマサルを通して連絡を入れてきたのは昨夜──いや、もう今朝方といっていいような時刻だった。
 おそらく英二は澤に繋がる糸として鴉と一刻も早く連絡を取る方法を模索したのだろう。英二はあの女主人のいる酒場のことは知らない。

 鴉は先日数年ぶりに谷重バーを訪れるまでは連絡先など知らせていなかった。あの時に自分の連絡先をマサルに伝えていたのが英二にとっては幸運だったのだ。そしてマサルから英二が待っている、と鴉に知らせてきたということは、マサルがその必要があると判断したということだ。

 英二は要点をかいつまんで顛末を説明した。

 なるほど、やり手の経営者らしく説明がとてもわかりやすい。いや、殺しの仕事をしていた時に身に付けたものなのかもしれない。

 鴉にものを頼める義理ではないということは英二は承知の上だっただろう。
 それでも、たった一人で、そしてたった2日でなんとかできるほど事態は甘くないということも英二はよくわかっていたのだ。

 なるほど、睦月の発案で葵と澤の距離を空けさせたことが明後日の方向の効果を生んだらしい。

 澤は葵に対する不信感によっておそらく焦っている。

 焦って、とにかく最優先の”目的”を最速で果たす方向に舵を切ったのだ。

 幼い子供を誘拐してそれを人質に英二に椎多を殺させる──

 

 なんだ、澤の目的ってやつの一番根っこは、

 結局そんなことなのか。

 そんなものに振り回されてきたのか。ばかばかしい。

 英二は鴉に助けを求めるほど追い詰められているようだが、そもそも澤をそういう行動に駆り立てたのが鴉であり睦月なのだ。ということは椎多の側はこんな展開は想定内なのではないだろうか。

「英二君さあ、オレがもし澤のがっつり配下でそのお嬢ちゃんの案件にも関わってたらどうすんの?その時点で”詰み”だよね?」

「あんたの『仇討の順番』とかいうの、康平のことなんじゃないのか」

 

 あんたは、康平の命を狙ってる。

 だったら、こっちについてくれることにメリットはあるはずだ。

「……へえ、空気とか顔色とか読むの上手な方じゃないと思ってたけど意外だね」

 なぜか笑いがこみ上げてきた。

 これが、英二にとってただ1本だけの糸。

「オーケー条件がある」

 鴉は指を伸ばし、英二の顎をなぞった。

「澤の命は何があってもオレに渡すこと」

 オレは君の可愛い姪っこがどうなろうと知ったこっちゃない。だけど椎多を殺されるのは困る。
 君を例えばここから帰れなくするだけで済むことなんだよ。
 それでもオレを信用するかい?

 英二は黙って頷いた。頷くよりほかの選択肢はなかった。

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 火曜、午後7時。

 今日チェックインしたばかりのシティホテルの一室。一通り部屋の中を調べる。習慣のようなもので調べないと落ち着かない。
 それから、小さめのスーツケースをベッドの上に置き、鍵を開ける。中にはほんの少しの着替えの衣服と、それ以外にはごつごつした機械が入っていた。その線を慣れた手つきで繋いでゆき、最後に電話回線に繋ぐ。
 電源を入れると小さなモニターにどこかの部屋が写った。
 満足げに頷くと一旦電源を切る。
 それから、電話をかけ、何事か確認する。電話の相手は女。


 インターホンが鳴った。
 澤はびくりとして電話を切ると銃を構えドアに忍び寄る。レンズを覗く前に声が聞こえた。


「──康平、私よ、葵。入れて」


 眉を顰めると素早くベッドに戻り、スーツケースを閉じてベッド脇の床に置く。
「ねえ、康平。私が悪かったわ。入れてよ」
 外から葵の懇願するような声が聞こえる。レンズを覗くとひとまず手には武器を持っている様子はない。慎重にチェーンを外しドアを開けた。

 素早く入って来た葵はすぐにドアを閉め、チェーンをかける。目を細めて疑わしげに自分を見つめる澤の視線に気付くと、葵は潤んだ目でそれを見つめ返し、唇を噛み締めたまま澤にもたれかかってきた。
「ごめんなさい…私、殴られてかっときてしまっただけなの。これからもあなたと組んでいきたいのよ。どんなにお金をつまれたってあなたと離れるのは嫌」
「葵──?」
 腕の中でそう訴えつづける葵に押されるようにあとずさり、ベッドの上に尻餅をついた形になる。


「愛してるの……抱いて、康平」


「おい──」
 澤の声を遮るように唇を塞ぎ、その手を自分のスカートの中へ導く。

 それが自主的に動き始めるのに何秒も要さなかった。
 澤の指の動きに合わせて小さく漏れる声に艶めいた笑いが混じる。
「ね……ちょうだい……」

──あなたの握ってる秘密もね。

 耳元で呟いた声にならない囁きに澤が気付くことはなかった。

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 午後10時45分。

「おい、寝てるんじゃないだろうな」
 笑い混じりの椎多の声。
 ベッドの上に抱き合って横たわったまま殆ど動かずにもう20分以上が経過している。このあと起こるかもしれないことを考えるとそのまま無茶苦茶に椎多を抱きたいと何度も考えたけれど、隠しカメラと盗聴器でそれを澤に覗かれるなんてとんでもなかった。

 鴉に頼りはしたが、鴉の立案してきた作戦では英二は何一つすることが無い。

 ただ、藍海を助け出したという合図があるまでは、澤に従っているふりをして刻限まで粘れ──英二に要求されたのはそれだけだった。
 自分がこの事態の中心にいるというのに、こんなにまんじりとただ合図を待つだけというのはどうにも耐え難い。しかし、鴉が藍海の居場所を探り出すまでは妙な動きをすればそれが藍海の生命の危険に直結するのだ。
 
「ちょっとどけよ。なんか飲もう」
 愛しげに、しかし苦しげに抱きしめておきながらそれ以上の行為に及ぼうとしない英二に痺れを切らしたのか、椎多は苦笑して英二を押しのけ起き上がった。

「おまえ、俺に何か言うことがあるんじゃないのか」

 のろのろと備え付けの小さい冷蔵庫を開きながら呟いた椎多の声を── 


 電子音が破った。着信ではなく、アラーム。10時55分。
 

 英二は身体に電気が走ったように跳ね起きた。額に冷や汗が浮かんで玉になっているのが自分でも感じられる。
「なんだ?」
 不審そうに振り返った椎多は両手に缶ビールを持って立ち上がり冷蔵庫を足で閉めた。きょとんと首を傾げている。

 時間切れだ。

 

「どうした。やっぱり具合でも悪いのか?だったら早くそう言えよ。とっとと帰って休んだらどうだ」
 ビールを渡す代わりに冷えたその缶を英二の額に当ててやる。
「椎多」
 呼んだつもりが、声が喉に張り付いたようにひどく掠れていた。
「ん?」
「……愛してるよ」
 椎多は何故か少し驚いたように何度かまばたきをするとその目を和らげ、まだ開けていないビールの缶をベッドの上に放り投げた。
「俺も愛してる」
 くす、と笑うと椎多は英二の頬を両手で包み、唇を重ねた。


 次の瞬間、英二は椎多をベッドの上に跳ね除け、その脇に腰を屈めた。

 驚いた椎多が上半身を起こそうとする。
 額に何かがぶつかり、それに押されて再びベッドに頭を預けるかっこうになった。


 視界に入ったのは、英二の両手とそれに握られた黒い鉄の塊。
「……椎多」
 小さな声が聞こえる。

 

「せめて、苦しめない。一瞬で終わらせるから」

 椎多は──言葉を出すことができなかった。生命の危険にさらされたことはいくらでもあるし銃をつきつけられたことですら何度もある。恐怖をまったく感じないといえば嘘になるが、それでも頭が真っ白になるなどということはなかった。
 しかし、今は──どうやって銃口を逸らそうとか、この形勢を逆転するかとか、そういったことにまったく頭がまわらない。


 ただ、英二が自分を殺そうとしているということはわかった。それだけだ。
 

 英二は銃を握った手に添えた左腕の腕時計にちらりとだけ視線を移す。10時56分をまわっていた。

──あと3分以内にこの銃爪を引くんだ。

 この指をほんの少し絞るだけで、俺も死んだのと同じになる。

 椎多は待っていてはくれないだろうな、と思った。

 もう、有姫の顔すら浮かんでこなかった。

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 築20年くらいだろうか、古ぼけたマンション。

 入り口に3人、目つきの悪い茶髪の若者がしゃがみこんでいた。単に不良がたむろしているようにも見えるが、視線の配り方がただの不良ではない。おそらく見張りにつけられたチンピラだろう。そこをそ知らぬ顔で通過する。コンビニのビニール袋に弁当と茶のペットボトル。どう見ても単身赴任かやもめの中年サラリーマンである住人が残業して帰宅してきた風情だ。案の定じろじろと睨めまわされただけでからまれるでもなく通り過ぎることができた。

 エレベーターでまず5階まで上がる。5階で降りると、非常階段を使って3階まで下りる。階段を下りながら携帯のメールを確認して、睦月は小さく頷いた。


 304号室。表札に名前はない。玄関の横には半分枯れた鉢植え。


 インターホンを使わずスチール製のドアを小刻みに叩く。他の部屋からはシャワーの音やテレビの音が微かに漏れていた。まだ人が完全に寝静まるほどの時間ではない。
 ドアに背をつけ、レンズの死界に入って中の様子を伺う。人の動く気配がした。
 もう一度ドアを叩く。


「……どなたですか」


 おどおどした女の声が聞こえた。
「澤さんの遣いでまいりました。開けていただけますか」
 中でなにか話す声が聞こえる。
「……なんでしょうか」
 もう一度、怯えたような女のか細い声。
「緊急で段取りの変更があるそうなんです。ここでは話せません。開けていただけませんか」
 話し声。おそらく、この女は脅されている。中にはまだ男が2人か、3人はいるのだろう。
「緊急です。お願いします」
 おどおどしてせっぱつまった声で呼びかける。その声で、こちらも素人が脅されているとでも勘違いしたのだろう。チェーンを外す音が聞こえた。
「入れ」
 押し殺した男の声。そろりと中に入ると案の定、室内の電気は消されている。
「で、段取りの変更ってのは何なんだ」
「その前にすみません」


 睦月はずんずんと奥へ進み、ベランダのあると思われる部屋の襖を開けた。
 

「おい!勝手に何しやがる!」
「澤さんが、ベランダに何か不審物が置いていないかをまず確認しろと」
「不審物──?」
 この和室の隅に、さきほどの女と、まだ幼い少女が抱き合って震えていた。男が一人、銃をつきつけている。見ないふりをして目の端で位置関係を確認して通り過ぎた。
 窓側の障子を開け、アルミサッシを開ける。からりと乾いた音がして、ベランダにあるクーラーの室外機のむうっとした熱気が窓から一気に流れ込んだ。睦月はベランダに出てしゃがみこみ何かを探している。
「おい──」
「ありましたよ」
「何?」
 それはさほど大きくない紙袋だった。いかにもそおっと、という手つきでそれを持ち運ぶ睦月の手元に男達の視線が釘付けになっている。
「何だ、それ」
「ええ、これはですね──」
 言いながら室内に入ったと思った一瞬睦月は男達の視界から姿を消した。

 否、単に身を素早く屈めただけだ。
 屈めると同時に手に持った紙袋を力いっぱい畳に叩きつける。

 紙袋が破れ、そこから溢れ出た白い煙にみるみるうちに室内は白く濁った。
 最初にドアに出た男が慌てている気配がする。

 睦月は、発煙筒を解放したその手で部屋の隅で怯えている二人に銃を向けていた男に組み付いていた。

 

──その時。
 乾いた音がマンションの壁に反響した。
──気配が止む。


 睦月はそろりと窓に近づくとサッシを閉めた。
 窓からあまり派手に煙が出ていては火事と勘違いして通報されてしまう。
 まだ白濁した室内の空気に少しむせながら、睦月は台所へ向かい換気扇をつけた。
「……静かに。助けに来たんですから、騒がないでね」
 小さく人質たちに声をかけ、手探りでクーラーの風量を最大にした。ほどなく室内の視界が晴れてくると、睦月は小さく息をつきあたりを見回して電気をつけた。


 二人の男が倒れている。
 一人は、額を正確に撃ち抜かれている。

 もう一人は、自らの銃を握りしめたまま喉から血を流していた。喉元に大ぶりなナイフが刺さったままになっている。どのみち死体ははこのあと始末させて、この部屋も綺麗に洗う。ナイフを返してもらうのはその時でいい。
「あと2人くらいいるかと思ったんですがねえ」
 少し拍子抜けしたような口調で微かに笑いを漏らす。そして、女と少女に歩み寄り、その前にしゃがみこんだ。


「……渋谷藍海ちゃんだね?」


 藍海は泣きはらした目を見開いて小さく頷いた。
 にっこり笑うと睦月は携帯を取り出し電話をかける。5回めのコールで相手が出た。二言三言の短い会話で切る。その指で引き続き次の番号を押した。


「お見事でした。流石ですね、鴉」
『これはこれでひとつの仕事だからね。残金の方、よろしく。この場合ご褒美は椎多にもらえばいいの?それともいっちゃん?』


 くすくすと笑いを漏らしご随意に、と答えると睦月は電話を切る。
 時計を見ると、10時57分だった。

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 心臓の鼓動がどくどくと指先にまで伝わっている気がする。


 銃口に額を押さえつけられた椎多の顔は、恐怖でも怒りでもなく、ただ戸惑った表情でいる。
 この体勢になってからまだ1分と経っていないのに、永遠のような気がした。

 ふいに。
 

 口笛のような音が聞こえた。

 何故か、その音に全ての意識がもっていかれる。 
 突然、目の前が闇に閉ざされた。

 おそらく、5秒か10秒の間のことだ。
 手首に鈍い痛みを感じて英二は銃をとりおとしていた。
 誰かの手で喉元を押さえられる感覚。
 再び灯りがつく。

「──憂也」
 椎多の声が耳に遠く届く。


 何が起こったのか、理解できなかった。
 銃を構えた中腰の姿勢のまま、背後から喉を押さえられている。

 椎多の顔の横に落ちた銃を、別の手が拾い上げた。
「やばかったっすね、組長」
 ほっと息をつきながらKは拾い上げた銃を自分の腰に差し込んでいる。
 ようやく視線を巡らすと、ドアのチェーンとノブが弾き飛ばされたように破壊されている。おそらく銃だ。そんな音はまったく耳に入らなかった。

 

 携帯の着信音。

「……きっといい知らせっすよ。出てください渋谷さん」
 喉を押さえられていた手が外れ、後ろにいた男が離れる気配がした。英二は言われるまま自分の携帯の着信ボタンを押し耳に当てる。

『遅くなって申し訳ありません。ご安心下さい、藍海ちゃんは無事保護しました。今からお兄さんのところへ送り届けます』

 力が抜けた。立っていることも出来ずその場にへたり込む。

『何なら1時間後にお兄さんに確認して下さい。その頃には無事に再会できている筈ですから』
「康平は……」
『逃げたようですよ。大丈夫、すぐに押さえます。報復したいでしょうが今はまだ我慢して下さい。では』
 そう言って電話は一方的に切れた。英二は携帯を握り締めて耳に当てた姿勢のまま、身動きもできずにいる。


「英二」
 身を起こし座りなおした椎多が、腕を伸ばし英二の頭に触れた。
 そしてゆっくりと自分の方へ引き寄せ、胸に抱きしめる。
「何で俺に言わなかった」
「………」
「有姫ちゃんが誘拐されたときもそうだ。おまえはいつも自分だけで解決しようとする。回りくどい真似をするより話が早いだろうが」
 柔らかく頭と肩を包む腕と対照的な怒りの色が椎多の声に滲む。

 どうしても言えなかったのだ。

 椎多を殺せと言われたことも、藍海を人質に取られてそれをすぐに拒否できなかったことも。


 言葉がみつからずただ椎多の胸に頭を預けていると、きりっと耳を引っ張られた。
「もういい。兄貴のとこへ戻って一緒にお嬢の帰りでも待ってろ。卓、すまないがこいつを車で『しぶや』まで送ってやってくれ」
 怒りの替わりに声が笑っていた。
 卓と呼ばれた、先程英二を後ろから押さえていた男が少し不満げに口をかすかに尖らすと小さくはい、と答える。
 椎多が立ち上がり促すとようやく英二も立ち上がった。その表情を見て椎多が苦笑する。英二の頬を掌でぱちん、と叩いた。
「死にそうな顔だな。しっかりしろ」
 まるで全ての言葉を失ってしまったかのように何も言うことができず、もう一度椎多を抱きしめるとすぐにその手を離す。

 椎多が顎で合図すると、卓が英二を促し部屋を出て行った。

 背中を見送り、それが見えなくなると椎多は再びベッドに腰掛け、そのままごろり、と仰向けに横たわった。それをKが見下ろしている。


「……組長」
「ご苦労だったな」
「ほんとにやばいとこでした。すんません」
 Kが再びほっとしたように頭を下げる。

「思ったより歌姫は時間がかかったようだな」

 何度か小さく頷くとKは首を回し、ベッドの上に転がったビールを拾い上げて1本を椎多に渡し、1本を自分で開けた。


 睦月との交渉で、歌姫が澤から人質の拘束場所を聞き出す手はずになっていた。
 Kと卓は椎多からのメールでこのホテルの部屋番号を知り隣の部屋でもしもに備える。ホテルの外にはあと数名の人間がはりついていた。
 そして睦月と他何名かはこの場所を基点に半径5キロ以内の範囲に散り、歌姫から人質の居場所の報告を待っていたのだが、なかなかその報告がない。
 歌姫からの報告が入った時にはすでに9時半を過ぎていた。更に、半径5キロで待機していたのに拘束場所はもっと離れた場所にあったために救出までに時間を要してしまったのだ。
 澤の動きに備えていたチームが乗り込んだときにはすでに澤どころか歌姫の姿も消えていたという。情報を聞き出したあと歌姫が澤を逃がしたのかどうかはわからない。歌姫がその気になれば、見張りの目を誤魔化して逃走することなど容易かっただろう。


 ただ、英二と椎多を監視する為のモニターは生きていた。おそらく澤がそれを持ち出したり壊したりする余裕もなくそこから逃亡したのだということを物語っている。
 念の為椎多も盗聴器を身に仕込んではいたが、映像でチェックできればそれにこしたことはない。そのまま英二の動きに備え、動いたと同時にドアの前に待機していたKに合図を送ったという次第だった。
 いずれにせよ危ない賭けだった。

 英二の過去が明らかになったことと澤の動きがより不穏になっていたことから、椎多が英二と密会する際の送り迎えでちらりと顔を見る程度の隙にKは少しずつ英二に予備催眠を施していた。”あの音”がしたら全神経がそちらへ集中してしまうという風に。保険程度のつもりだったがまさか本当に使う時が来るとは、Kも思っていなかった。

 この状況でおそらく正常ではない精神状態の時に本当に効果があるかどうかも賭けだったが、とにかく一旦英二の動きを止めることは出来た。それでもあの体勢ではほんの少し指を滑らすだけで椎多の額は撃ち抜かれていてもおかしくなかった──


 人質を確保できるまではどんな仕掛けを指示しているかもわからないので迂闊なことはできなかったというのも手伝って、このような綱渡りになってしまった。もっと早く藍海を救出できていれば、英二のずっと待っていた合図をもっと早く送ることが出来た筈だ。

 そうすれば英二が椎多に銃口を向けることもなかったのだ。

「大丈夫っすか、組長?」


 Kの言葉に椎多は妙にきょとんと首を傾げた。
「何がだ?怪我も何もしてないぞ」
「いや、そうじゃなくて」
 言い澱む。椎多は手を伸ばしてKの腕を叩いた。微笑んでいる。Kが何を心配しているのか、椎多はわかっていた。

「大丈夫だ、俺は。つまらん心配するな」
 英二に銃を向けられたことなど、どうってことはない。今回のケースなら予測できたことだ。

 ただ、予測できていたのにあの時なんのリアクションもできなかった。

 完全に思考が停止していたのだ。
 それが、椎多は自分で納得がいかない。

 はっきりしているのは、英二は家族の無事とひきかえなら椎多に銃を向けることができるということ。
 英二ならそうするのだろうとなんとなく考えていた。それを確認したまでだ。
 大丈夫だ、とKに言ったのは虚勢をはっているわけでもなんでもない。意外なほどその事実を淡々と受け止めている自分がむしろ変だなと思うほどだ。


「──組長、帰りましょうか」


 Kの声に我に帰る。ん、と小さく返事して椎多は殆ど飲んでいなかったビールを一気に干して立ち上がった。

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 気分が悪い。

 吐きそうだ。

 乗り物に酷く酔ったように頭がぐらぐらふらつく。

 胸もむかむかする。
 ズボンのベルトのあたりに差し込んだ拳銃を麻のジャケットで隠し、その上から常に確認する。
 今はこれしか頼るものがない。
 ふらふらと歩きながら、澤は次第にむかつきと共に喉元に上がってくる笑いをこらえられなくなってきた。

──シゲちゃん。

 英二が殺したシゲの死に顔を思い出す。

 

──まだ足りねえんだよ。俺はもっとアイツを、生きてるのがやんなるくらい苦しめてやるんだ。

 おまえは可哀想なやつだ。

 夢をみているわけでもないのに、あの男の声が耳元に蘇る気がした。
 笑いが漏れる。嘲笑。

──まだだ。俺はまだ負けてない。俺はまだ生きてる。

 そう胸の中で呟いた。


 よろよろと、すでにひと気のおさまり始めた街を歩く。
 頭の中を様々なものがぐるぐると巡る。やがてそれはどうやってこの状況を切り抜けるかという現実的な事項を押しのけて脳裏を占領していく。

 背中を撫でる葵の掌の感触が長く忘れていた母の手を思い出させた。

 母は普段物静かな女だったが、時折酷い剣幕で父や息子の康平に当たった。殴られたことも何度もある。父は、康平を庇ってはくれたが母に対して自分が手を上げるということは決してしなかったように思う。今思えば、母は薬でもやっていたのではないだろうか。
 そんな母でも、落ち着いているときは優しかった。幼い時は膝に抱いて背中や肩を優しく撫でてくれたものだ。

 葵は自分の娘だといってもおかしくない若い娘だし、母とは似ても似つかないがあの手の感触はあの優しい時の母を想起させた。
 その葵も──澤を裏切った。
 信用していたわけではない。しかし、あろうことか敵方に寝返るとは。

──そうか、結局信用していたのか。俺もヤキがまわったな…。

 可哀想なひと。
 あなたの仲間はみんなあなたを裏切ったわ。ここもすぐ手が回る。
 私がこの部屋を出て100数えたら、あなたは自由よ。逃げなさい。
 あの人たちのことなんて放っておけばいいのよ。
 生きていればまたチャンスはあるでしょ。
 
 今思えば、あれも葵の暗示だったのだ。
 おそらくあの時点ですぐに英二にゆさぶりをかければ別の手を打てたのだろう。
 だからあの女は愉しそうに笑っていたのだ。俺を嘲笑っていたのだ。

 渋谷修一は泣きそうな顔をしながら俺をはめやがった。
 いや、あれは俺が油断しただけだ。あいつを侮っていただけだ。
 信じていて裏切られたわけじゃない。

 鴉が俺を恨む材料を提供したのは俺自身だ。
 恨めばいい。おまえの親父を殺したのは俺だ。

 思い切り蜂の巣にしてやった。恨まれることなんか俺はなんとも思っちゃいない。

 再び笑いが口から洩れた。


──そう、俺はいつだって一人だ。それがどうした。

 ぐらぐら歪む視界に酔いながら、ひとつのドアの前にたどりつく。

 数え切れないほどの年月と回数開けたドア。
 分厚く古い木のドア。

 薄暗い店内。

 客はいない。
 カウンターの中にいる男を除いては。

───シゲちゃん。

 

「康ちゃん?」
「静かにしろ」
 素早く銃を引き抜きマサルに照準を合わせ、後手にドアの鍵を閉める。

 ドアを開ける瞬間にふわりと手に漂った安らぎが一瞬で霞んで消えた。
 何故、ここへへ来てしまったのかはわからない。
 ここは今や敵の巣窟だといっていい。マサルにすでに手が回っていても不思議ではなかった。

「……康ちゃん、よしてよ。なんの真似?」
「鴉か。英二か。それとも睦月か。俺が来たら誰か呼ぶ手はずになってんだろ?」
「何のこと?康ちゃんまたなにかやばいことしたの?」
 マサルは怪訝そうに眉を寄せると洗っていたグラスを置いた。拳銃を向けられてもさして動じた様子はない。この店で子供の頃から暮らしてきたマサルにはそれは身近なものだったのだろう。
 困ったように息をつくと、マサルは今洗ったそのグラスに新品のボトルを開封して注ぎ、澤の前に置いた。
「見てたでしょ。今開けたばっかりだからまじりっけなし。とにかくちょっと飲んで落ち着きなよ」
「───」
 銃を構えたままカウンターに近寄る。マサルはまだ困ったように、しかしにっこりと笑った。
 グラスを左手で持ち上げるとちびり、と口に運んだ。口の中にぴりっと熱が広がる。ただでさえ悪酔いしたようにむかむかしている胸が更にむかついた。
「吐きそうだ」
「座ってよ、康ちゃん」
 病人をいたわるようにそっと腕に触れて座らせる。別のグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを注ぐと澤の前に置き、自分はぐるりとカウンターを回って澤の横の椅子に腰掛けた。
「……俺が来たら誰に知らせるんだ」
「誰にも知らせないよ。僕は中立だから」
 手を伸ばし、水のグラスを澤の前に置きなおすとマサルは酒の方のグラスをとり、一口含んだ。
 その腕を掴む。グラスの酒がこぼれた。
「康ちゃ───」
 マサルの腕を掴んだまま立ち上がり、ボックス席のテーブルを蹴飛ばした。そのままマサルをソファの上に押し付ける。
 銃はカウンターの上に残したままだ。
 目をぱちぱちと音がしているのではないかというほどまばたかせてマサルは澤の顔を見上げている。片方の肩を押さえ、シャツを引っぱり出す。ベルトを慌しく外し、ズボンを引きずり下ろした。
 マサルは、抵抗しなかった。

 悲鳴が聞こえる気がして目を開けると、マサルはぐったりと目を閉じている。マサルの悲鳴ではない。では誰の悲鳴だ。
 その気配に気付いたのかマサルが薄らと目を開けた。小さな息をひとつつくと、澤の頭を自分の肩口に抱き寄せる。その手が妙に優しい。
「……気が済んだ?」
 澤はマサルの上でじっとしている。無言。
「康ちゃん、変わらないね」
 マサルはどこか呆れたように小さく笑って呟くと澤の下から這い出し、ぎこちない動きでズボンを拾い身につけた。次に乱れたシャツやベストを整え、最後に髪を手で少し撫でつけた。そして蹴飛ばされたテーブルをもとに戻す。
 カウンターの上に残された銃を拾い上げ、自分の背中に差し込んだ。
「こういう物騒なものは僕が預かっておくからね」
「……なんで抵抗しなかった」
 ようやくソファに起き上がると澤は気だるそうにぽつりと洩らす。マサルは今更何言ってるの、と笑って澤のために入れた水を飲み干す。それからもう一度氷を入れて水を注ぎ差し出した。
 澤は立ち上がりそれを飲み干すとソファに戻り、再びごろりと横になる。
 何秒も経たないうちに、澤は寝息を立て始めた。

 目を覚ますと何かいい匂いがする。
「何か食べれそう?お腹すいたから食べるもの作ったんだけど。食べる?」
 奇妙なほど屈託ないマサルの顔を不思議なものをみるような目で見つめる。
 どれくらい時間が経ったのだろう。
 昼か夜かもわからない。
「もうまる一日近くたったよ。誰も来てない。安心して」
「なんで俺をかくまう」
 澤の言葉にマサルは笑った。
「かくまうも何も、康ちゃんがあんまり気持ち良さそうに寝てるからそっとしておいただけじゃない。上のベッドで寝れば?って何度も起こしたのに起きなかったんだよ」
 なにかばつが悪い、居心地の悪い気分がした。
 しかしあれほどの胸のむかつきも、たっぷり寝たせいかすっかりひいている。確かに腹が減っていることにようやく澤は気付いた。
 マサルの作った簡単な料理をひとくち胃に入れると、たちまち全身が空腹を思い出したようにそれを摂取する。
「康ちゃん、これ」
 顔をあげるとマサルはカウンターの上にごとりとひとつの鉄の塊を置いた。澤が持っていた銃。
「もう落ち着いたでしょ?返すよ」
「………」
 一瞬躊躇したように手を遠慮がちに伸ばすと、澤はそれを掴み、自分の懐へ戻す。
「康ちゃん、知ってたんでしょ」
「何がだ」


「シゲ爺が殺されてたってこと」
 

 ぐ、と言葉に詰まってマサルの顔を見ると、表情からは何も読み取れなかった。
「どうして教えてくれなかったの。僕がどれだけシゲ爺を待ってたか、康ちゃんだって知ってるじゃない」

 答えられなかった。

 マサルが待っていることを知っているからこそ、シゲがどうして、どんな風に殺されたのかなどどう知らせてどう説明すればいいのかも澤にはわからなかったのだ。

 だからずるずると言えなかったということすら、澤はマサルに言うことが出来ない。

「ほんと言うとさ、小雪ちゃんがね、シゲ爺が死んだってことだけは教えてくれたんだ。病気でぽっくりだったって。それも嘘だったんだね」

「……病気だったのは嘘じゃねえよ。シゲちゃんは引退する前からボロボロだった。おまえや小雪姐やんが心配してうるさいから黙っとけって言われてたんだ」

 そうなんだ……と呟くマサルの口元は小さく笑みの形を作っていた。

「だからってばか正直に黙ってるとかある?ひどいよ康ちゃん」

 涙を引っ込めようとするように深く息を吸うとマサルは澤の前にあった皿に手を伸ばし、それを下げながらそれでさ……、と話を継ぐ。

「康ちゃんは、知ってるの。誰が──」

 言いかけたと同時に、入り口のドアが小さな金属音を立てた。続いてノックの音。
 澤が鍵を閉めた、そしておそらくそのまま閉まっていたドア。
 マサルがそれを開ける為にドアへ向かった。

「──開けるな!」

 しかし、澤の叫びに耳を貸すこともなくマサルは簡単に鍵を回し、来客を確認する。
 戸惑うでも笑うでもなく振り返り、澤の顔を見た。
 その隙にドアが開く。
 来客はほんの少し開いたドアから顔を覗かせ、顔色を無くした澤を確認するとまるで友人を見つけたかのように微笑んだ。

「こんばんは、康平さん。お取り込み中ですか?」
「───」

 

 入って来たのは、睦月と、そして椎多だった。
 

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Handgun and  Ammunition_edited.jpg

*Note*

書いた時のことをだいぶ忘れてたのでここ、何がどう繋がって展開したんだっけとか混乱しながら整理しました(笑)。時系列をあっちこっちさせて混乱させるやりかたは好きなんだけどちょっとわかりづらすぎましたかね。あと作者が言うたらあかんやろっていうことを言うと、英二、なんで、まっさきに椎多に相談せんねん(わー言うたった言うたった)。殺し屋の過去も告白して澤との関係ももうわかっちゃってんだから、最初に本人に相談したら椎多は色々アイディア出してくれたと思うよ…。整理してみるとなおさら、英二はやっぱり間抜けで、俯瞰でものごとが判断できなくて、んで好きな人(=椎多)にはいいかっこしたいんだね。鴉には頼ったり多少カッコ悪いとこも見せちゃってる。──とこの先のことを考えると、自分でも「おっ?」となりますね。鴉のほうももうこのへんの時点で英二にちょっと甘い。そうか…そうだったのか…。

そして後半睦月さん大活躍の巻。普段は事務所にどっかり座って指示を飛ばしているだけなんだけど、人手が足りなかったのかたまには自分で動きたくなったのかはわかりません。まあ人出が足りなくて自分も待機してたら目的地に自分が一番近いから仕方なく向かった的な感じだけど。わかりづらいけど発煙筒入り紙袋は睦月自身が持ち込んで、ベランダで発見したような顔をして使ったもの。これは待機人員が一式用意してた装備のひとつ。睦月が向かうことになったので鴉にもちょっと仕事わけてあげた感じ。他の人が向かってたら鴉の出番はなかったので儲かりました。マンションでたむろって見張ってたチンピラはもちろん金で雇われたただのチンピラなので、睦月の部下のチンピラにケンカ売られて散らされて終わりです。

​なんでまっさきに椎多に相談せんねん。と作者がつっこんでいたわけですがもちろん椎多からもツッコまれております英二です。英二はほんとに自分は何も出来ない無力な人間であることをきちんと自覚して困ったらそっちの道の玄人に助けを求めることを覚えるべきだと思います。こいつ、ある程度のことなら自分で解決できると己惚れてるとこあるからな(作者からのダメだし厳しいキャラ)。

​一方康平は作者の寵愛を受けております(を

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