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熱帯夜

「お義父さま足のおかげんはいかがですか?」
「大袈裟なんですよ、店を修一に任せきりにできるようになったからって甘えてるんです」
「おい、つまらんことを言うな」

──蝉の声。

 

「有姫さん、ちょっとこちら手伝っていただける?」
「あ、はいお義姉さま」
「藍海はどうした?」
「お昼寝中だよ、お姫さまは」
「英二、あなたのところは赤ちゃんはどうなってるの。いくら有姫さんが若いからっていつまでも新婚気分じゃ」

 

──風鈴の音。

 

「それもそうだが藍海の弟を早くつくってやれ修一。しぶやの後継ぎが決まらんとどうも落ち着いて隠居できん」
「お父様ったらいっそ辻井の息子を藍海の婿にして後を継がせるとかおっしゃるのよ。あの子だってまだ今年ここのつでしょう」
「親父、気が早すぎるんじゃないの」
「馬鹿を言え。修一の代で終わらせるつもりか?婿にとるならとるでそれなりに修行させねばならんだろう。早すぎることなぞあるものか」
「皆さん、西瓜が切れましたよ。藍海ちゃんを起こしてきていいんでしょうか?」
「ああ、すまん。頼む」

 老舗料亭『しぶや』は盆の時期、法事の会席や普段は請けない仕出しの注文などでひどく多忙になる。このピークが終わるとようやく、所謂盆休みのように家族が集まる。この日は店も休業し、住み込みで修業中の若い者たちもすべて家へ帰っている。家族だけの団欒を楽しむ数少ない機会となっていた。
 年老いてはいるが矍鑠とした両親、兄夫婦にその幼い娘、そして英二と有姫。それは夏の午後の平和な家族の一場面だった。


 『しぶや』と昔から懇意にしている割烹旅館の末娘・翠と修一が結婚したのは5年前だ。親同士が懇意でもあり、きちんと躾を受けたしっかりした娘だったので父が気に入り修一の嫁にしたのだった。翠は『しぶや』の若女将として期待以上に出来のいい娘だったし、凛として美しく、でしゃばりすぎることも無かったのでこの結婚は成功だったといえよう。やがて娘が生まれた。

 現在渋谷家で子供はこの娘──藍海ひとり。そのたったひとりの幼い娘の存在が家族の潤滑油となっていた。

「英二さん、藍海ちゃん二階のお部屋でお昼寝してたんですよね?」


 有姫が怪訝な顔で階段を下りてきた。一斉に皆の注目が集まる。
「ああ、さっき俺が寝かしつけたんだから間違いないが……どうした」
「タオルケットはそのままなんですけど姿が見えなくて──お手洗いも見たんですけど」


 全員の顔色が変わった。
 まだ4歳の幼い娘だ。何かの拍子に窓から落ちたりはしていないか、家族が談笑している間に勝手に外にでも遊びにいったのではないか──もっとも藍海はおとなしい娘で、黙って一人で外に出たりしたことは一度もない。


「探せ!藍海にもしものことがあったら──」
 

 叫ぶ修一の背中を見ながら、英二は背中からじわじわと粟立つ感覚に囚われていた。
 有姫が誘拐されたときのことが頭をよぎる。

──まさか──

 振り返った修一と一瞬目が合った。
 修一も、おそらく同じ人物を頭に浮かべている。
 そう、直感的に英二は思った。

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 手帳のカバーに挟んだ小さな紙片を取り出し、じっと睨みつける。くしゃくしゃになったそれには携帯電話らしき番号が記されていた。
 一度は握り潰し、そのまま捨てようと思ったメモ。思い直して残しておいたのが幸いだったのか。しかしここへ電話することは相手の思うツボであることは明らかだ。
 英二は何度も逡巡した。しかし──自分の直感を信じるとするならたとえどんな手がかりであっても見逃すわけにはいかない。


 決意するとその番号を押した。
 

 呼び出し音が聞こえる。つまり、この番号は生きている。
 10回ばかりコールしたが、誰も出ない。さらに10回。

 ついには出てくれ、と祈るような気持ちになってくる。

 通話が繋がったのは、実に32回目のコールだった。

「もしもし」

 すでに全身が脂汗でじっとり湿っている。 
 電話の向こうの男が笑っているのがわかる。その微かな笑い声が澤のものだとわかる。


『商売、する気になったか?』
 

「とぼけるな。俺がなんで電話したか……あんたが一番良く知ってるだろう」
 くすくすくすと、楽しそうな笑い声が耳に入る。不快なことこの上ない。

『さて、なんで電話くれたんだろうな。思い当たることがありすぎてわかんねえ』

 怒鳴りそうになるのを懸命に堪える。万が一澤ではない可能性を考えて名前を出すことは避けたかったがこうなると澤以外には考えられない。

「いい加減にしろ。藍海をどこへやった」

『おとなしいが人見知りしないいい子だ。それに美男美女の両親に似て実に可愛らしい。将来が楽しみなことだなあ』

 やはり、澤か。


「何の為にそんなことを……」
『只の嫌がらせだよ』


 あの男は昔からこうだった。何か目的があったとしてもなかなかそれを明かそうとしない。焦らして冷静な判断力を殺いでいくのがあいつのやり方だ。

 藍海を人質にとって、今更身代金でもあるまい。

 ならば澤の目的は自分か、それとも修一か──。

 いや、澤の標的の中には椎多も入っている筈だ。とすればやはり自分がらみなのか。

 ごく僅かの沈黙の間に英二の頭の中はフル回転していた。


 電話の向こうの笑い声で我に帰った。
『俺は幼女趣味はないからその点は安心しな。また電話する』

「康平!待て!!」

──切れた。

 すぐにリダイヤルする。しかしすでに相手は電源を切ったようでコールもしなかった。

「………澤…か」
 ぎくりと振り返る。背後に修一が立っていた。呼吸が止まったように息をのむ。次の瞬間修一の腕が弟の胸座を捉えていた。
「どういうことだ。何故おまえが澤を知っている?いや、そんなことより藍海を……あの男が………?」
「兄貴──」


 板場に立つ厳しい、しかし冷静な表情とはまるで違う。これほど怒りに歪んだ兄の顔を見たことは無い。それは当然といえば当然だ。

──父親なのだから。
 だとしてももう二度と修一を澤に係わらせてはならない。

 英二はゆっくりと修一の手を解き、その両肩に手を置いた。自分を落ち着かせるように深く息をする。
「今はゆっくり説明している時間はない。あとで、必ず、きちんと話すから──藍海は俺が助ける。兄貴は下手に手出しをしないでくれ」
「英二──?」
「俺に何かあっても兄貴は知らぬ存ぜぬで通せばいい。藍海を助けることは俺にもできるが店を守ることは兄貴にしかできないんだ。いいな」


 修一は疑わしげに弟の顔を凝視めていたが、やがて覚悟をきめたように頷いた。

 ようやく、冷静さを取り戻したように見える兄に微かに笑い、英二は表情を引き締める。手の中であのメモがまたくしゃくしゃに潰されていた。

 10分後、あの番号から電話が鳴った。

「──話を聞きたい。場所を言ってくれ」
 澤に何も言わせず、英二はそう切り出した。また笑い声が聞こえる。
『"決心”がついたのか?』

 その言葉は無視して澤の指定した場所を英二は書きとめることもなく頭に叩き込む。

 電話を切る前から身支度を始め、家を後にした。

 家のことは修一がうまくやってくれるだろう。下手に騒いで警察を呼ばれたりしては大事だ。もっともあの父が『しぶや』の看板に傷がつく真似をするわけがないから、修一さえ冷静でいてくれればそれはない。警察になど澤のしっぽがつかめるものか。


 澤に指定された場所へ向かいながら、ふと英二は足を止め一度大きく深呼吸をした。目を閉じ、右手を何度か握ったり開いたりする。


 こんなに自分から銃が欲しいと思ったことはない。
 素手で何ができるものか。耳の後ろでかつて殺し屋だった若い頃の自分が呟いている。

 銃を持ったらまた誰かの頭を吹っ飛ばせるんだぜ。封じ込めたはずの気狂いが嗤っている。

 違う。銃など持たずに藍海を助けなければならないのだ。
 行かないわけにはいかなかった。

 澤が痺れをきらせば容赦なく藍海を殺すだろう。あの小さな身体なら片手でも殺す事ができる。


 目を開けると英二は再び歩き始めた。

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 盆を過ぎたというのにまだ暑い。すでに夏の宵もかなり暗くなっていた。


──今夜も熱帯夜か。


 シャツの背中が汗でじっとりと湿っている。
 ただでさえ暑いというのにここは建物のクーラー室外機の熱が直撃する。繁華街の裏路地にある小さな植え込みの一角だった。
 この場所を指定した澤はまだ来ない。


──場所を間違えたわけではないはずだ。


 そう思ったときショートメールの着信音で我に帰った。慌ててそれを見るとこの場所から次の場所への移動ルートが指定されていた。
 仕方なくその通りに移動を始める。それを何度か繰り返すうちに、すでに時間は夜半近くなっていた。
 こうやって、集中力と体力を落とさせる作戦だろう。いずれにせよ卑怯なやりかただ。


──そうはいくか。


 やがて繁華街の賑わいが少し落ち着くほどの時間になって、一軒の寂れた店にたどりついた。営業しているかどうかもあやしいような古ぼけたその店の中に、澤康平は座っていた。


「康平──」
「お疲れさん。飲み物でもどう?」
「生憎だが自分で持ってる。毒でも盛られちゃたまらないからな」
 澤は大声で笑った。まだ余裕がある。こちらより優位に立っているという自覚がそうさせているのだろう。


「……藍海は無事なんだろうな」


 英二の言葉に薄く笑うと澤は携帯でどこかに電話をかけ小声でなにごとか話したかと思うと英二に手渡した。耳に当てると、泣き声が聞こえる。
「──藍海!」
「ほら、もうお子様はおねむの時間だからな。無理に起きてもらったから泣いちまったみたいだ」
 無言で澤を睨みつける。どこか他所の子供の声ではなく間違いなく藍海だということはわかったが、生きていること以外は確認できなかったのと同じだ。とても無事を確認したとは言い難い。

 

「修一が来るかと思っていたがおまえが来たか。やっぱりお兄ちゃん大事なんだなあ、ん?」
「兄貴が来たらどうするつもりだったんだ」
「そりゃあ、久し振りにやらせてもらうんだよ」
 澤はあくまでも楽しそうににやにやしている。もし銃を持っていたら撃っていたかもしれない程瞬間的に頭に血が上った。かろうじてそれを抑える。あれもこちらの判断力を鈍らせるために英二を怒らせようとしているのだ。乗ってはいけない。


 おそらく、修一が来ても英二が来ても、何某かの条件は用意していたのだろう。修一を抱くというのは本気で言っているのかも定かではないがどうせおまけにすぎない。『しぶや』で得た情報を要求する、といったところか。


「あ、おまえがやらせてくれるってんならそれでもいいけどなあ」
「俺が来たら何なんだ。とっとと言え」
 懸命に怒りを抑えて声を絞り出す英二が面白いのだろう。澤は笑いながら自らの脇においたグラスの液体を呷った。おそらく酒ではなく茶かなにかだ。澤は決して酒に強い方ではない。つまり今日は本気だということだ。


「仕事を一件引き受けてもらいたい」
 

「こんな手を使ってまで?」
 カウンターの向こうの冷蔵庫へ足を運び、そこからペットボトルを出してグラスに注ぐ。冷蔵庫は生きているのだろう。
「そりゃあ、おまえが適任だからだよ。心配すんな。ちゃんとやってくれりゃお嬢ちゃんは返してやるしギャラもやる。それきりだ」
 それきりですむわけなどない。

 一度やってしまえば仮に藍海を返してくれたとしてもこんどはそれを盾に次々と手を染めさせるつもりだ。澤にはあまりにも弱みを握られすぎている。
 その不信が表情に出ていたのだろう。それを確認するように英二の顔を覗き込むと澤は一層楽しそうに頬を緩めた。
「なに、ひとり殺ってくれりゃいい。それも、おまえならかなり楽にやれる相手だ」
「誰を殺れというんだ」
「先に返事をしてくれないとな。ターゲットを聞いてから嫌だと言われたんじゃどうしょうもねえ」
 嫌だと言って引き下がらせるくらいなら人質をとったりしない。

 いずれにせよ藍海を救出するための時間と情報を稼ぐためには、一度は首を縦に振る以外方法は無いのだ。


「──わかった。一人だけだ。それで藍海を返してくれるんだな?ただし藍海の身体にかすり傷ひとつついていてみろ、あんたを殺してやる」

 

 絞り出した英二の声に澤がにっこりと笑う。満足げに頷くと、結構、と小さく言った。

「標的は、嵯院椎多だ」

 思考が、停止した。
「あいつはおまえのことはまるで警戒してないし、逢引するのにガードをつけるわけもない。殺すのにこれほど楽な相手はないだろう?」
 かまわず澤は話を続けている。


「なんで俺が椎多を──」

 自分の声が震えているのが判った。大きく息を吸って整えようとするが、吐く息さえ震えている。
「お嬢ちゃんがどうなってもいいのか?」
 ギクリと身体がこわばる。
「俺はたまたま幼女趣味はなかったってだけでああいう幼気で可愛らしい女の子が大好きな変態は世の中にいくらでもいるんだぜ?売り飛ばしゃ一人前の女の何倍もの金になる」

「やめろ!!」
 頭に上った血が血管を駆け巡っているのが感じられる。目の毛細血管が切れて充血しているかもしれない。

 

「………なんで………椎多を………」


 おそらく澤の望んだ通りの反応を英二が見せたのだろう。

 酔ってもいないのに頬を高潮させている。


「もともとあいつらぁ気に入らなかったんだがな。ずっと目障りでしょうがなかった。そろそろ本腰を入れて消しておかねえと俺の商売がやりにくくてしかたねえ。それに、おまえも、修一も。俺に掌を返したやつにはきちんとお返しをしたいんだよ。一石二鳥だ。特におまえには──」
 堪えきれないような笑いを頬に浮かべ、澤は目を細めた。


「たっぷり苦しんでもらわねえとなあ……」
 

 澤の言葉が最後の方は耳を素通りしていくように頭に入らなかった。

──俺が、椎多を殺す?

 そんなことが出来るわけがない。

 時間を稼がなければ。

 藍海の居場所をつきとめ、

 助け出す。

 そうすればこんな馬鹿げた条件を飲む必要はない。


「仕事の期限は火曜の深夜11時。1分でも遅れたら藍海は二度と戻らないと思え」
「──火曜?!2日しかないじゃないか!」

「おいおい、お嬢ちゃんには2日でも長すぎるだろ。ひでぇおじちゃんだな。可哀想に。ま、お嬢ちゃんのことを思って明日といいたいところを1日余裕をやってるんだ。言っとくがつまらない真似をするなよ」

 時間を──

「無理だ、相手はそう簡単にスケジュールを空けられるような人間じゃないんだぞ」
「恋人だろ?どんな手を使ってでも呼び出して殺れ。殺し方は好きにしていい。ああ、それから俺を先に殺したら藍海は死体になって店に届けられると思っておけ。そういう手はずになっているからな」

 耳の後ろで、澤のいうことなど聞く必要がないと囁く自分がいる。


 渋谷の家族など捨ててしまえと。
 まして、こんどの天秤に乗っているのは有姫ではない。姪の藍海だ。

 そのために椎多を殺す必要などどこにある。

 椎多は──

 あの気狂いごと俺を受け入れてくれたんだぞ。

​ その椎多を殺す気か?

 英二はふらふらと店を出た。冷房のついていなかったあの店の暑さに比べれば外の方がまだましな気がする。それでも熱帯夜の湿った空気は容赦なく英二の判断力を鈍らせていく。

 

 椎多の声と藍海の泣き声が交互に耳の奥に蘇る。

 鐘の音がそれを搔き消していく。楽し気な小さな足音がリズムを取るようにそこに交じる。男の祈りの声。銃声。銃声。銃声。

 実際に聴こえているわけではないそれらがやがて交じり合って耐えられない騒音のように耳の中──英二の頭の中じゅう響き渡っている。


 セカンドバッグに無理矢理押し込んでいた小さなペットボトルを開け、半分ほど残った中身を飲み干す。すでに生ぬるく喉の渇きをいやす手助けにはならない。英二は自動販売機で冷たい飲み物を買い直し、それを一気に呷った。

 まだ、やることはある筈だ。なすすべもなく澤の思い通りになどしてはならない。


 英二は頭を激しく振ると、両手で自分の頬を音の出るほど叩き、一歩を踏み出した。

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送信しました。ありがとうございました。

*Note*

​この話、英二のウザポイントがいっぱい詰まってるんだけどこれだけはどうしようもなかったです(泣)。ここを変えてしまうと結末が変わってしまうし、この章の結末が変わると次の章に繋がらないんで!なんでお前ってやつは!!と思いながら泣く泣くほとんど加筆修正なしで垂れ流します。このやろう!!(2021/8/3)

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