Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
鴻 觜 -2-
とうの昔に歯車など狂っていた。
あとは外れるしか道は残っていない。
「銘華が身篭った」
まるで機械のように無表情に龍雲が宣告する。
「ちょうど四月めにはいるところだそうだ」
四ヶ月──といえば、ちょうど龍雲が本国へ帰った頃だ。
「父親はおまえだ、壮」
「違う!」
咄嗟に叫んでいた。
龍雲が本国に帰る直前に銘華を抱いているなら、どちらの子だと判断することなど出来ない。
人形のように青ざめていた顔にさっと朱が走る。龍雲は飾り棚の上に並べられた高価な彫刻や食器を腕で払い落とした。陶器の割れる身の竦むような音が静かな部屋に響き渡る。
落ちて割れた欠片の大きいものを拾い、更に床に叩き付けて割った。
その拍子に龍雲の手から血が一筋流れる。
「龍雲──」
「私の子であっていいはずがない!」
烈しい怒りか。悲しみか。戸惑いか。
龍雲の目は真っ赤に充血していた。
「おまえの子だ、壮──そのほうがいい」
「逃げるのか」
ひどく嗜虐的な気分になっていた。
「そうだ、俺の子なのかもしれん。だが、おまえの子である可能性も充分ある。おまえは銘華を──実の妹をあれだけ抱きつづけた癖にそれから逃げたいんだ。そうだろう」
「壮──?」
「生まれてくればわかるさ。きっとな。それまでお互い判決を待つ被告人のようなものだ」
龍雲は銘華を愛して抱いた。けれど兄妹の間の子など許されるわけがない。
宮岸は銘華とは他人だ。子を成したところで問題はない。しかし宮岸は銘華を愛しているわけでは決して無い。
いずれにせよ、その子供は誰にも望まれていない子供なのだ。
罪も無い胎児にその十字架を背負わせた罪人が誰なのか、いずれわかる。
龍雲は破片の散らばった床の上に座り込み、嗚咽を洩らした。
それを、宮岸は異常なほど冷静に見つめていた。
銘華はもともと部屋に閉じこもりきりであった為、妊娠しているという事実が外に漏れることはなかった。
もう随分と大きくなった腹を不思議そうに眺めながら、それでも以前と同じように人形遊びに興じたりしているという。
宮岸は銘華の妊娠が発覚してから、銘華とは会っていない。
──逃げるのか。
あのとき龍雲に向けた言葉。本当は自分自身が逃げているのだということを宮岸はわかっていた。
龍雲に対するあてつけで銘華を抱いた。もし産まれる子供が自分の子であってもそれを愛してやる自信など毛ほどもないのだ。
「宮岸さま」
遠慮がちな皺がれた声に、宮岸は我に帰った。見るとそれは銘華の世話係の老女だった。
「……お嬢さまが、壮に会いたい壮に会いたいとおっしゃって」
気は進まない。断ろうとして宮岸はしかし思い直した。
その子供の父親が自分だろうと自分でなかろうと、犯した罪は変わらない。逃げてばかりもいられないだろう。
宮岸は老女のあとをついて数ヶ月ぶりに銘華の部屋を訪れた。
広い窓から明るい光が降り注いでいる。椅子に深く腰掛けた銘華は眠っているようだった。遠目に見ただけで、腹が大きくなっているのがわかる。
静かに近くへ足を進めると、銘華が瞬きをして目をあけた。
「……壮」
銘華がにっこりと笑っている。
宮岸はその脇の床に腰を下ろした。
銘華は微笑んだまま宮岸の手をとると──最初に自分の胸にその手を導いたように──膨らんだ腹へとそれを導いた。
反射的に腕が縮んでしまう。その中に子供がいるのだ。
「おとうさまよ、赤ちゃん」
「銘華──」
背筋がざわざわと粟だった。
と、微笑んでいた銘華の目からぽろり、と涙が零れた。
──え?
「……お願い、壮。この子のおとうさまになってあげて。それならこの子は誰にも責められない」
「銘華──?」
「わたし、わかるの。この子は……おにいさまの子だわ。でもそれがわかったら呪われた子だっていわれる」
「銘華、きみは」
その口調は、どうみても正気の女だった。
いつのまに──いつから、銘華は正気に戻っていたというのだろう。
まるで初めて会う女を見るように、宮岸は銘華を凝視めた。
「ごめんなさい、壮。わたし、あなたにおにいさまをとられたくなかった。見てしまったの。あなたとおにいさまが抱き合っているところを……」
懺悔するように。
銘華の口からつぎつぎと言葉がこぼれる。
本当は銘華はこんな声をしていたのだ、と何故かそんなことを感じた。
「だからわたし、あなたを誘惑したのよ。あなたとおにいさまが離れてしまえばいいと」
そうか。
俺が銘華を抱いた時には、銘華はすでに正気に戻っていたのだ。そして、演技を続けていた。
銘華の涙は止まることなく流れている。
「それなのに父親になって、なんて都合よすぎる……そんなこと承知の上です。でもわたし、この子を守るためならどんな酷いことだって言うわ。わたしがあなたに無理矢理犯されたって触れ回ったっていいのよ」
弾かれたように宮岸は笑い始めた。
自分が狂ってしまったのかと思うほど、笑いが止まらなかった。
「きみはたいした女だ。しかし、だったら何故腹の子は俺の子だと俺を騙さない?龍雲の子だといいながら父親のふりをしろといって俺が承知するとでも思ってるのか」
「──」
「俺が本気にして父親面をするのは気に入らないか?」
「──」
「龍雲が本気にして本当にきみから去ってしまうのが怖いのか?」
銘華は答えなかった。答えられないということは図星なのだろう。
「……いい方法がある」
宮岸はそういって立ち上がった。
「その子供がいるからこんなことになったんだ。それを殺してしまえば元通り、龍雲はきっと可哀想なきみを気づかって再び愛してくれる。俺がとやかく言いさえしなければ俺も龍雲と別れずに済ませられる。なんなら龍雲と俺と2人できみを愛してやろうか」
銘華は目を見張った。顔が紙のように真っ白になっている。自らの腕を抱き寄せて腹を守る姿勢になった。恐怖でがたがたと震えているのが見て取れる。
満足げに鼻で笑うと、宮岸は銘華に背を向けた。
「どうするかはきみが決めるといい。きみが正気だとわかった以上、自分のことは自分で考えてもらう」
部屋から出ると、背後に銘華の泣き叫ぶ声が聞こえた。
銘華は子供を殺す事はしなかった。
昨夜から、龍雲は銘華の側から動こうとしない。もう既にまる一日近く経過している。
宮岸もまた、少し離れてそれをじっと見守っていた。
「……お産で死ぬ事をコウノトリのクチバシで突かれた、といってな」
ようやく口を開いた龍雲の声は、十も年老いたように掠れていた。
そこに寝かされた青ざめた銘華の顔は、もう呼吸もしていない。その冷たくなった頬を昨夜から龍雲は何度も何度も暖めるように撫でさすっている。
「龍雲──もういいだろう。きちんと葬ってやらなければ浮かばれもしない」
そういいながら、宮岸はどれほど自分が白々しい台詞を吐いているのかを自嘲せずにはいられなかった。
龍雲はおそらく銘華が正気に戻っていたことなど知りもしない。まして、宮岸が銘華に対してどれほど残酷なことを言ったのかなど想像だにしていない。
銘華は子供を守る道を選んだのだろう。
それで自分が死んでしまっては誰が子供を守るというのだ。
銘華に対してすまないという気持ちは自分でも驚くほどわいてこなかった。しかし、銘華が守ろうとした子供は──
くしゃくしゃの顔でどれも同じに見える新生児の顔だが、宮岸は確信した。
やはり、銘華の言った通りこれは龍雲の子だ。
この子には罪はない。俺たち3人がそれぞれこの子に対して罪を負っているだけだ。
宮岸は深く息をつき、龍雲の側へ歩み寄り背中から抱きしめた。
「さあ、もう行こう。いくら呼びかけてももう銘華は戻らない。それより銘華の遺した子に会ってやれ」
抱きしめたまま立ち上がらせようと力をかけると、龍雲はその手を払いのけた。
「そんな子供など遺して欲しくなかった!銘華さえ生きていてくれればよかったのだ──銘華を殺した子になど──」
胸が痛い。
龍雲は本当に銘華を愛していたのだ。
龍雲を抱きしめたまま、劉を呼んだ。
そして、阻止しようとする龍雲を押さえている間に銘華の身体を運び出させた。
「放せ!銘華をどこへ連れてゆく!銘華を──」
「龍雲!」
暴れる龍雲から手を緩め、正面に向き直ると龍雲を平手打ちする。一瞬、龍雲の動きが止まった。驚いたような目を一瞬見やり、噛み付くように接吻ける。
「壮──」
宮岸は何も言わず、龍雲の長身をベッドの上に押し倒した。
龍雲が、そして宮岸が何度も銘華を抱いた、そして銘華が命を終らせつい先ほどまで眠るように横たわっていた場所。
「やめろ、壮──」
宮岸はやめなかった。本気で抵抗するなら撥ね退けられるはずだ。愛撫を重ねるうちにすっかりそれに身を任せている。
「俺に、ずっと側にいろといっただろう?……離れないでくれと……ああ、俺はずっとおまえの側にいる。側にいておまえを愛してる。だから……」
だから。
銘華のことは忘れてしまえ。おまえには俺がいる。
夜が明けるまで、宮岸はそのベッドで龍雲を抱きつづけた。
外が騒がしい。
「鴻觜を見つけたぞ!そっちだ!」
下卑た男たちの濁声がいくつも響いている。
宮岸は顔をしかめて立ち上がり、早足で廊下を進むと一つのドアの前に立ちノックした。
「入るぞ、龍雲」
龍雲は窓の下を眺めながら煙管を揺らしていた。
「またやっているのか。いいかげんにしろ」
「鴻觜は私の持ち物だ。好きなようにして何が悪い」
「あれは銘華と──おまえの子だぞ!」
かん、と高い音を響かせて煙管で窓枠を叩く。龍雲は不機嫌そうにじろりと宮岸を睨んだ。
「私の子ではない。銘華の子ですらない。あれは銘華を殺した子供だ」
龍雲は子供に、鴻觜──と名付けた。
コウノトリのクチバシで突かれて死んだ銘華。
その罪の名だ。
あれからもう数年が経っていた。
「ほら、鴻觜が捕まったぞ。やれやれ、まだまだだな」
窓の外へ視線を戻した龍雲は、嘲るように笑った。眉を寄せそれを覗き込むと宮岸はすぐに目を逸らし、苦々しげに舌打する。
数人の男達がまだほんの幼い鴻觜を組み敷き服を毟り取って代わる代わる犯していた。
「何故あんなことを許しておく!おまえは銘華を輪姦した連中をあんなに憎んでいただろう!?」
「口出しするな。おまえがあれの父親なら身を呈して守ってやればどうだ」
龍雲は笑っている。宮岸はぞくり、とした。
「あの程度で取り押さえられるようなら成長しても使い物にならんな。まあ、自分の身を守りたければそのうち捕まらなくなる。子供は鬼ごっこが好きだろう?」
龍雲は鴻觜を将来なにか抗争でもあったときの戦闘用に育てているという。薬の専門家を使いまだ小さく抵抗力の少ない身体に少しずつ毒薬を与え薬に慣らしたりもしている。
しかし、その訓練の方法が異常だ。
まず、大勢の部下たちの目の前で鴻觜を龍雲自身が犯した。
そして、こんな目に遭いたくなければ追手から逃げ切れ、どんな手を使っても殺してもいいから逃げ切ってみせろと指示を与えたのだ。
──龍雲はおかしくなってしまったのかもしれない。
銘華が守ろうとした子供を、それでもあのような仕打ちをせずにはおれないほど憎んでいるのか。
そうさせてしまった責任の一端は間違いなく自分にもある。けれど、だからといって今龍雲がしていることを庇ってやる気にはとてもならなかった。
「悪趣味にも程がある」
吐き捨てるように言うと宮岸は踵を返した。
「壮」
声に足を止める。振り返りはしなかった。
「ちょうどいい。話があったのだ。そこへ座れ」
「──?」
漸く振り返ると示された椅子に腰掛けた。龍雲は煙管を置き、宮岸に向き直る。
「ここだけの話だ。本国で妾腹の弟たちが争っているらしい」
「……おまえの組織のことは俺には直接関係ない。そんな話聞かされても俺は」
「まあ聞け。それで──父も高齢でいつぽっくりいくかわからんのでな。私が本国へ戻ることになった」
本国へ──
それはこの町から手を引くということなのか。いや、それよりも──
「壮、おまえはこの国の人間だ。だからおまえはこっちに残れ」
がたん、と音を立てて宮岸は立ち上がった。
「どういうことだ。おまえは本国に本拠を移すということなんだろう?俺はこちらに残すということは──」
「そうだ。もうおまえとは──」
「冗談じゃない!!」
龍雲の就いている円卓を両掌で激しく叩く。
「ずっと側にいろと言ったのは嘘だったのか!離れないでくれと泣きながら頼んだのはおまえのほうだ!!」
龍雲は──
ほんの少し、表情を歪めると溜息混じりに笑った。
「人間は気持ちのひとつも変わるものだ。それに閨の睦言をいちいち真に受けるほうがどうかしているのではないか?」
「──」
「おまえも、そろそろやりきれないと感じていたのだろう?丁度いい潮時ではないか」
ぶるぶると。
身体が震えているのがわかった。
どんなに醜い想いも。
ただ龍雲と共にあるために自分の中に消化していった。
他人に対していかに恥ずべきことも、すべて。
ただ、龍雲と共にありたいがために飲み込んでいったのだ。
そのために、銘華を傷つけてもなんとも感じなかった。
それもすべて──
側にいろといわれたからではない。離れないでと頼まれたからでも。
宮岸自身が、龍雲の側にいたかった。離れたくなかったのだ。
「嫌だ」
宮岸の口から、殆ど無意識のように言葉が零れる。
「俺をおいていくくらいなら、殺してくれ」
しかし。
龍雲は答えず、ただ首を横に振った。
数日後──
「老板」
劉が声を顰め忍び足で龍雲の足元へ近付いた。
龍雲が本国へ戻る動きを察知した新興勢力が、鴻觜を擁してこちらの組織を叩こうとしている、という情報が入ったという。
「ばかばかしい。鴻觜をそうかんたんに味方に取り込める者がいるなら会ってみたい」
一笑に付した。
「それが、老板──宮岸が」
宮岸がその動きに加わっている、という。宮岸ならばあるいは鴻觜を丸め込む事が可能かもしれない。
「殺しますか」
龍雲は円卓の上の茶器を薙ぎ払うと──
静かに、頷いた。
──俺をおいていくくらいなら、殺してくれ
あの時の宮岸の声が、耳に蘇りこびりつく。龍雲はそれを振り払うように頭を激しく振った。
宮岸壮が取り押さえられ、拷問の末射殺されたのはそのわずか2日後のことだった。
拷問されている間もずっと、龍雲をよこせと。
殺すなら龍雲の手で殺させろと。
そればかりを主張していたのだという。
その願いは、聞き届けられることはなかったのだが。
「張、こちらへ来て見ろ」
テラスに腰掛けて酒をちびりと口に運びながら、室内にいる男に声をかける。
「おまえはここからの景色は初めてだったな。どうだ、見事だろう」
「老板、申し訳ありません。私は──」
夜だというのにサングラスをかけた男は苦笑して頭を軽く下げた。
「おお、そうだったな。すまん。おまえの立ち居振舞いを見ているとついおまえが盲だということを忘れてしまう」
山上の豪邸のテラスから下界を眺めると100万ドルとも言われる夜景が広がっている。それを李は目を細めて眺めた。
「張、おまえは先日まであっちにいたのだったな。どうだ、向こうは」
「どうだ──といいますと。中華街は盛況です」
「鴻觜は──」
「は?」
いや、なんでもないと苦笑すると李は張に下がるよう命じた。
宮岸が死んだ数日後には、あの嵯院七哉とかいう若者に鴻觜を引き渡し、李龍雲はここへ引き上げてきた。それ以来あの街には戻っていない。
李は生涯妻を娶ることはなかった。何人かの女に子を産ませたがどれも出来が悪い。
「近頃は昔のことばかりを思い出してな」
張を下がらせてもう1人になっているというのに、誰かに話し掛けるように李は呟いた。
「後悔ばかりだ。銘華を苦しめていたこと、鴻觜を許してやれなかったこと、それから──」
イルミネーションが滲む。
「……本当はおまえを憎んでいたのかもしれない。だからおまえに一番辛い死に方をさせてしまった……」
それでも、やはり愛していたのだ。
どうしても──どれほどおまえが望んでも。
私の手でおまえを殺す事などできなかった。
「……私ばかりこんなに長生きをして、これはこれでひとつの罰かもしれんな」
苦笑すると李はもう一口、酒を含んだ。
*the end*
*Note*
まあまあ酷いことを書いているので2021加筆修正の際に直そうかと思ったんですが、どうせ酷いなら酷いままにしておいてやろうと思い酷いままにしました。だいぶ酷いですね。
最後でやっとこれが紫の生い立ちの話ではないかと察することが出来る程度の書き方なんですが、そうですこの酷い目にあってる子供が紫さんです。紫さん中国人だったんですね。ってゆう。なお、お産で死ぬことをコウノトリのくちばしで突かれたと言うなんて慣用句は存在しません(多分)。完全に作者の創作です。考えすぎずに「紫」という字を使った名前でも良かったんだけど、たまたま部首が似ている漢字を探している時に「くちばし」を見てなんか思いついてしまったんですね。こじつけひどい。
本当は最後のとこに出てくる張さんって人、もっと本編に関わらせようともくろんでいたんですがタイミングを逸してまだ出てません。今後も出るかどうかわからん。この最後のとこ、実際に香港に旅行に行った時に色々妄想していて思いついたんですよね。
Relater: