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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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女 郎

 高井亮輔が目指す法曹界への道を断念したのは決して能力が劣るからではない。事実、超難関の司法試験をあっさりと突破したのだから同期の学友に比べればトップクラスの優秀さだったといえる。
 断念した──というより、自ら進んで方向転換したというのが本当のところである。

 亮輔が就職したのは、街一番の大病院だった。
 病院だからといって医者と看護婦だけが働いているわけでは当然ない。事務局の職員として採用されたのである。
 

「高井君は望めば弁護士にでも検事にでもゆくゆくは裁判官にでもなれただろうに、なんで病院の事務局なんかに就職したのさ」
 同期の人間にやっかみ半分でからかわれたりもする。そんな時は、司法試験合格はまぐれで、本当は法曹界になど行く気はもともとなかったのだと答えることにしている。


 本当は、どうしてもここに就職して確かめたいことがあったのだ。
 ただ、それは自分ひとりの心の中に留めねばならない事だったのだが──

 事務局の仕事など、所詮地味で目立たぬものである。
 しかし、亮輔の仕事ぶりはすぐに院内の評判になった。何を頼んでも正確かつ的確で早い。人当たりも悪くないので出来すぎるからといって上司から嫉まれるということもさほど無かった。まったくないとは言わずとも、周囲はむしろ亮輔の肩をもつ。環境に恵まれていたとも言えるだろう。
 実力第一主義の院長は最初から亮輔の働きには注目していたようで、亮輔の直接の上司である事務局長の報告を満足そうに聞いていたという。

「──秘書室を設立?」
「そう、そろそろ病院の規模も大きくなってきたことだし私だけでなく各部の部長にも秘書が必要になってきたでしょう。事務局から秘書業務を独立させた方がいいかと思いましてね。室長は山村さん、あなたににやってもらうつもりだが他の人選を頼む」
 事務局の中で院長秘書を務めている山村と呼ばれた中年の男はそれ以上質問を返すでもなくはい、と答えた。 
「──基本的に人選はあなたに任せるわけだが、一人だけそれに加えてもらいたい」
「承知しております。高井君ですね」
 痒いところに手が届くこの男の実直な仕事振りには院長は常に全幅の信頼をおいている。望む返事だったのだろう、院長は満足げに微笑んで頷いた。

「大抜擢だなぁ。今日はおれが奢るよ、お祝いだ」
「お祝いだなんて大袈裟だよ尾花君。単なる人事異動じゃないか」
「まあまあ、水くさいことを言うな。親友だろ」
 自称親友の尾花は、安い酒をついでにんまり笑った。
 もっとも、亮輔は尾花と特別親しくした覚えはない。単なる同期にすぎない、と思っていた。
「……まったく目覚しい出世だよ。まあ院長は実力主義だというからな、君のような優秀な人間はすぐに目をかけられると思っていたさ。だから……つまらん事を言うやつがいても気にするなよ」
 注がれた酒をちびりと口に運ぶと小さく顔をしかめて亮輔は首を傾げた。やはり安酒は不味い。不味い、と思いながら尾花の言葉尻を捕まえる。
「つまらん事って?」
「いや……まあ君の出世ぶりを見て妬む輩もいるってことさ。気にするなって」
 尾花は薄笑いを浮かべて誤魔化している。亮輔は意味ありげにその顔を覗き込むとにやりと笑った。尾花の言葉の意味するところなどわかっている。


「はっきり言っていいよ。高井は院長の稚児だ、女郎のように身体で院長の気を引いて出世したってな」
 

 尾花の顔色がさっと赤くなるのを見て亮輔は吹き出した。
 そんな噂がごく一部で流れていることなどとうに知っている。秘書室への異動が決まる前から──出世と呼べる異動も昇進も何もしていない時からそんなものは耳に入っていた。
「ばか言うな。な、なにが稚児だ。き、君がそんな」
「尾花君もそう思ってるんだろう?」
 親友などと自称して親しげにしてくるけれど、所詮、出世頭の亮輔と今のうちに仲良くしておいて自分の将来に少しでもよいコネクションになるようにという計算の上のことだ。そんな下心が隠しきれていないあたりが尾花は小物だと思う。


 江戸時代か何かでもあるまいし、男が男の色仕掛けで出世するなどそうそう身近である話ではないだろう。様々な特殊な業界ではそういうこともあると聞いたことはあるが色仕掛けといえば女が男に仕掛けるものと相場が決まっている。本当は尾花もそんなことを真に受けているわけではない。ただ現実的ではなくとも屈辱的なことであるには違いない。それは例え女であってもそうであろうが──
 亮輔を妬んで貶めたい人間にとってはちょうどいい程度の誹謗だと思われているのだ。いや、むしろ尾花など進んでその噂を広めている側だと思う。


 からかうように亮輔は隣に座った尾花に擦り寄るように肩を密着させ、更にわざと耳元に息がかかるように囁いた。
「なんだったら、君も試してみるかい?本当に女郎のようかどうか」
 尾花はそれきり黙ってしまった。

 

 

 湿った草と土の匂いに混じって、どぶ川のような腐った水の臭いが鼻をつく。
 伸びた雑草が露出させた素肌に当たっていちいち痛痒い。
 虫の鳴き声に混じって笑い声とも呻き声ともつかぬ尾花の声が時折耳に届く。
 亮輔はいかにも慣れぬ尾花の動きから導き出される痛みに顔をしかめながら自分の腕のシャツを噛んだ。


──下手くそめ。


 おそらく、尾花は女を抱いた経験もさほど積んでいないのだろう。
 少し動いては達しそうになるのを堪えるように動作が鈍る。
 

──さっさと達けよ。


 不快そうな顔で──もっとも、亮輔は地面に向かって顔を伏せた格好になっていたので尾花からは見えないが──わざと腰を大きく動かしてやった。中で全部出された日には面倒なのでそのまま引き抜く。余裕のない尾花はそれを逃がさないよう捉えることもできず、そのまま地面に向かって滴を迸らせた。


「──この、女郎め」


 息を乱したまま、罵るような声音が亮輔の頭上から浴びせられる。
 同期だの親友だのと卑屈そうに話し掛けてきていた尾花とは別人のような声だった。
 経歴も能力も上司の評価もかなわない亮輔を『征服』することで尾花は全ての上位に立ったかのような錯覚に陥っているのだろう。
 尾花は何事か吐き捨てると剥き出しにしていた下半身を手早く衣服に収め、笑いながらその空き地を去っていった。


 空襲で焼けてそのまま空き地になっている場所がまだこのあたりにはそこここに存在する。管理者もなく草がぼうぼうに生えていて、草が伸びていれば隠れて何かするには格好の場所ではある。しかしこんな叢など青姦に向くわけがない。


──なにが女郎だ。


 もぞもぞと衣服を直しながら亮輔はその湿った土と草の上に仰向けに転がった。星が見える。これでは女郎ではなく夜鷹だ。いや、夜鷹でも筵を敷いてやるだけまだ上等ではないか。

 実のところ亮輔にはこんなことはそう珍しいことではなかった。
 勿論最初から相手を誘っていたわけではない。どういうわけかそういう嗜好の人間から目をつけられやすいらしく、子供といって差し支えない年頃から悪戯されたりしていたし、力づくで犯されるような目にも何度かあっている。しかも、同じ相手に繰り返しということも度々あった。
 金を置いていった者もいる。


──女郎。


 そう望んだわけでも、金を稼ぐ為にそうしているわけでもないのに。
 そして自分は紛れも無く男なのに。
 何故か男どもが引き寄せられてくる。もともとその気のない尾花のような男でさえ。
 軽くからかっただけで殆ど迷いなく食いついてくる。 
 亮輔の出世の裏には院長との肉体関係がある、という噂が立つのも仕方ない気がした。

 尾花が借金の挙句病院の金を使い込んだというかどで解雇され、消息を絶ったのは半年後のことである。

 秘書室には当初山村室長を含め4名の秘書しかいなかった。山村と亮輔、あとは女性秘書が二名。いずれも独身の若い娘だった。山村は院長の信頼こそ厚かったがなにぶん定年に近い年齢で、定年後はきちんと退職し隠居することを望んでいる。それは日頃から公言していたことだ。その為山村退職後の室長は自動的に高井亮輔と誰もが思っているといっても過言ではなかった。
 山村の耳にも亮輔の良からぬ噂は届いていたが、山村が亮輔に対する態度を変化させたことはなかった。それどころか自分が退職した後を亮輔に一任する為だろうか、早い段階から重要な仕事を任せることも少なくなかった。


 あるいは──
 仮に本当に亮輔が院長の──そういう意味での──お気に入りになったとしてもそれは構わぬ、とでも言わんばかりの態度である。

 尾花は亮輔の予想通り、あの叢以来も何度も亮輔に関係を迫ってきた。
 なまじ女慣れしていないだけに嵌り易かったのかも、と思う。
 黙っていてやるから言う通りに抱かれろ、と脅しにならぬ脅しをかけてくるのが滑稽だった。
 男に誘惑されて男に嵌っているなどと世間に知れたら自分だってみっともないだろう。
 あまりに可笑しいので、女郎だと思うなら金を払えと冗談で言ったことがあった。


 僕は君との関係が世間にばれたところで痛くも痒くもない。病院を追われることになっても、他の土地ででもそれなりにやっていく自信はある。脅しても無駄だよ。
 

 そう余裕たっぷりに言ってやったのだ。その上でどうしても僕との関係を続けたいなら、どうせ女郎だと思っているんだろう、それなりの金でも払えばどうだい。そうすれば君の望み通り好きなように抱かせてあげるよ。


 もともと気も小さな小物の尾花である。
 脅しが脅しにならぬと判ればもう亮輔の玩具のようなものだった。
 結果、尾花は本当に金を持ってくるようになった。
 

──そこまで馬鹿とはな。


 安月給である。
 実力主義の院長のもとでは能力のあるものは出世もするし給料も上がるが能力の劣るものはいつまでたっても安月給だし下手をすれば解雇だ。尾花も到底出世など見込めない程度の能力だった。
 生活するのがやっとの月給では「女郎」を買うための金など捻出できない。
 尾花の給料ではこんなに頻繁に金を持ってこれるわけがない、と思いながらも亮輔はその金を受け取りつづけた。それはいつしか尾花の給料ではなく出所のいささか怪しい借金となっていったのだ。ギャンブルで殖やそうともしたらしいがそれも上手くいかず、借金はいや増すばかりとなった。結果──


 病院の金に手をつけたことが発覚し、警察沙汰にはされなかったものの病院は解雇され、残った借財の為だろう──消息を絶ってしまうことになった。
 おそらく、尾花はそのまま消されてしまったのだろう。
 もしかしたら殺され分解されて、血やら目やら腎臓やらを売りさばかれてしまったかもしれない。女ならそれこそ「女郎」として生きたまま売り飛ばすことも可能だろうが尾花のような冴えない男では生きた状態で売るよりも部品で売った方が高く売れる筈だ。

 そこまで想像してみたものの、尾花に対する憐憫もなにも湧いてこなかった。
 あの男が堕ちたのは自分のせいではない。きっかけを与えたのは自分かもしれぬがあちらが勝手に転がり落ちた。自業自得だ。

 尾花の使い込みが発覚した頃──
 亮輔は室長の山村から飲みに誘われた。
 あの朴訥で無口な初老の男は立ち飲みの安酒を嘗めながら、尾花と亮輔の関係について質したのである。
 

 この男には嘘はつけない──


 直感的に亮輔は山村に降伏していた。理由はわからない。ただ、どんな嘘を言ってもこの親爺には見抜かれそうな気がした。
 亮輔は山村にすべて包み隠さず告白し、尾花から受け取った金を病院に返すと言った。もとより金が必要で要求したものではなかったので使わずに全て貯め込んでいたのだ。
 山村は尾花が使い込んだだけの額を亮輔から返還させて、この一件を警察沙汰にしないと約束した。警察沙汰になっては亮輔もただではすまなかっただろう。そして、亮輔のしたことについて何ら批難はしなかったけれど、ただ一言だけこう言って笑った。


──あまり、自分を安売りしなさんな。

 その件は院長にも報告されただろうと思う。しかし亮輔の待遇が変わることはなかった。尾花が亮輔との関係を無差別に吹聴することがなかったことも手伝って、病院内で立場が悪くなることもなかった。
 それは山村の尽力だったのかもしれない。何故そこまで庇ってもらえるのか理解はできなかったが──その見返りを山村が要求することも全くなかった。

 やがて、室長のポストこそ山村のままだが実際の院長の秘書業務の殆どは亮輔が引き受けるようになっていった。山村は着々と引退への準備を進めているようである。
 自然と、院長と行動を共にすることが増えた。

「高井君のご両親は健在かね」
 不意に院長が尋ねた。
 高井の履歴書や身上書など、秘書の仕事をさせる折に穴が開くほど見ているだろうに──いや、選んだのは山村で、院長は自分の身上書など目を通してもいないのかもしれないと思った。
「母は健在ですが病気がちで、空気のよいところで静養しております。父は早くに他界しました」
 そうか──と院長は奇妙な表情──と亮輔は思った──で何かを考え込んでいた。
「父上はどんな方だった」
「……私は父が老いてからの子供でしたが、戦前は教師をしていたそうです。おおらかで優しく博学な人でした。私が中学生の頃に他界しましたが今でも尊敬しています」
 院長はまたそうか──と言った。


「──母上は──なんと仰ったかな」


 微かに眉を寄せ院長の表情を見つめる。
「母の名ですか?しづ、と申しますが何か」
 いや、何でもない──院長は奥歯にものが挟まったように言葉を濁した。
「何でもない。それはそうと、先日来調査している医師の調査結果が一件届いてな。採用することにしたからまたこの書簡を届けてもらいたい」


 普段の快活な口調に切り替え、引き出しから一通の封筒を取り出し亮輔に渡す。亮輔は封筒を受け取りながらその手元をじっと見つめ、きりっと唇を噛んだ。

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 院長には一人娘がいる。名を雛子という。
 すでに大学生になっていたが近頃どうにもがらのよくない学友と付き合いがあるらしく、院長はそれに頭を痛めているようである。
 目に入れても痛くないほど可愛がっている娘だ。先年、妻を亡くした院長は尚更年頃の娘が心配で仕方ない。やり手の院長といえど人の親だということだ。
 

 何度か、院長に頼まれて娘──雛子の様子を伺いにいったことがある。
 家の近くまで背の高いすらりとした二枚目の青年に送られているのを亮輔は何度も見た。親しげではあるが、どうも恋人同士のような雰囲気には見えなかった。
 亮輔が見ていることに気付いた雛子はひどくばつの悪そうな顔をした。
「まだ暫くお父様には黙っていてね、高井さん」


 学生運動をしている連中と付き合いがあるなどと父に知れたら叱られるとでも思っているのだろう。亮輔はどうせ院長に報告するのだがその場ではわかりました──と言っておく。
 そのまま屋敷までの短い距離を送り届けるその間、雛子は恥ずかしそうに告白した。
「わたし、好きな人がいるの。でもきっとお父様は反対なさるわね。……どうしよう、わたし本当にあの人が好きなの。どうしたらいい?」
「どうして、お嬢さんは私などにそんな相談を?」
 院長──父親に近い立場の亮輔に相談することで何か橋渡しでもしてもらおうというのだろう。もっとも、おそらく相手は例の二枚目だろうが亮輔の目には単なる雛子の片思いで、相手は雛子のことをなんとも思っていないようにしか見えなかった。それとも、亮輔の読み違いだろうか。いずれにせよ父と娘のそんな橋渡しなどしたくもない。
 しかし、雛子の答えは少し違っていた。


「どうしてかしら……わたし、きょうだいがいないでしょう?なんだか高井さん、お兄さまみたいなんだもの。高井さんみたいなお兄さまがいらしたらよかったのに」

 亮輔が院長の命令で雛子の恋人と思われる若者に金を渡しに赴いたのはそれから3ヶ月と経たぬ夏の終わりのことだった。

 


 医師の香坂洋がここ最近頻繁に仲間の医師や看護婦を自宅に呼んで馬鹿騒ぎをしていることは知っていた。今日は秘書室の連中が誘われたが山村が年寄りは遠慮する、というので女性秘書を連れて訪問した。香坂は最近妻と離婚したせいかどこか箍が緩んでいるようにも見える。
 一方──亮輔も珍しく不機嫌だった。もっとも、亮輔が不機嫌だなどと気付く人間はいなかったのだが──。

 馬鹿騒ぎの合間にもふと頭をよぎる。
 雛子が、恋人に金をやって手を引かせたのが亮輔であること、本人の知らぬ間に大学を退学させられていたこと、それらを知ってしまったのだ。
 

 高井さんなんて大嫌い──
 お兄さまみたいだって思ってたのに──


 目を赤く泣き腫らして自分を詰る雛子の顔が脳裡から離れなかった。
 それが亮輔の神経を苛々と逆撫でる。

「高井さん、香坂先生が──」
 秘書室の中では一番年かさの女性秘書の笑い声に気付くと、香坂が既に酔いつぶれていた。
 時間を見るともう深夜に近い。
 あとの面倒は独身の自分がみることにしてタクシーを呼び、女性たちと妻帯者を先に帰した。


──さて、どうしたものか。


 ひとまず酔っ払いを寝室へ運ぶ。決して大柄ではないが酔って力の抜けている人間に階段を昇らせるのも一苦労だ。寝室に入ると、女房に逃げられた男らしく乱雑な状態になっていた。ただ二つ並んだベッドのうち片方はベッドメイクされた状態のまま長く使われていないように見える。もっとも、物置のように脱ぎ散らかした衣服などがそのベッドの上には散乱していたのだが。
 香坂はずっとちくしょう、だとかバカにしやがって、だとかその合間に俺が悪かったなどとグズグズ言っている。
 要するに、逃げた妻に未練たっぷりのように思えた。


 少し──
 悪戯心が頭をもたげた。
 苛々していたから、気晴らしもしたかった。
 てきぱきと介抱したあと、そのまま寝入りそうな香坂の顔を見下ろすと目尻に涙が滲んで見えた。


 みっともない──
 女に逃げられたのがそんなに寂しいものか。それとも悔しいのか。


 笑いがこみ上げてきて、それを噛み殺すように香坂の唇を塞ぐ。
 反応した。
 出来るだけ濃厚に、刺激的に──
 香坂はそれに反応して自ら舌を絡めてくる。
 自宅で院内の人間を呼んでバカ騒ぎをしているようでは、外で女遊びをして発散しているというわけでもなさそうだ。
 酔っ払いだから、こちらが男だなどという意識もなくただ唇や舌に反応だけしているのだろう。


──酒臭い。


 なんだか興が殺がれた。
 そのまま、さらなる悪戯を試みることもなく亮輔は立ち上がり、そのまま部屋を後にした。


──なにをやってるんだか。


 自嘲するような笑みが漏れる。
 雛子の泣き顔がまた脳裏に浮かんだ。

 香坂の視線が変わったことに亮輔はすぐに気付いていた。
 今まで何度となくそういった事があったので、視線に下心が含まれているか否かの判別などたやすい。もっとも、興味が全くないわけではなかったがわざわざ自分から誘ってやるほどの気にはならなかった。
 それにしても判り易い男だ。
 出世したいという欲はある。しかし今のところ院長に心酔しているのも本当らしい。妻に逃げられて寂しい、人恋しいというのも態度にありありと出ているし、酔った時に受けた接吻ひとつで亮輔を意識しているのもまるわかりだ。
 あまりの判り易さが微笑ましくさえ感じる。
 しかしここまで判り易い相手と関係するのは危険だと思った。それでなくても、もともとその気のある人間よりもない人間の方がなりふり構わず嵌ってくることが多い。尾花がいい例だった。
 じらしているようなつもりは無いが、何事もなかったように振舞って香坂がどこか焦れている様子を見るのは内心愉快ではあったのだが──

「雛子のことだがね、高井君」
 院長が珍しく遠慮がちに切り出した。
 他の仕事の時にはそんな事は無いがやはり娘のことはプライベートとあって秘書に相談するのは少しきまりが悪いとみえた。
「ずっと考えていたのだが、雛子には婿をとってこの病院を継いでもらわねばならん。例の学生と別れさせたのもその為なのだが──私はな」
 亮輔は黙って聞いていた。あまり好ましい話題ではない。


「香坂君がいいと思っている」
 

「香坂先生ですか」
 意外な人物の名前が挙がった。
 確かに、医師としての腕は高い。高給を以って隣町の大学病院から引き抜いた医師ではあるがその値打ちは十分にあった。
「でも香坂先生は離婚暦がありますよ、構わないんですか」
 一般的な事を言ってみた。普通、父親は娘の婚姻に関してそういう些細なことも気になるものではないのだろうか。まして大事な箱入りの一人娘だ。
「香坂君の人となりはどうかね。彼の離婚の原因は仕事や論文に熱中するあまり家庭を顧みなかったせいだと聞いているが」
 確かに、妻に逃げられたとは言っても暴力をふるっていたとか酒やギャンブルが過ぎたとかそういう理由ではないだろう。ただそれは夫婦間の問題で、実際のところはわからない。
 院長は、香坂の能力を高く評価しているのだろう。だから、離婚暦というマイナス要因があるにもかかわらず雛子の婿にと考えているのだ。そして院長もまた、香坂の「判り易さ」にどこか安心感を持っているように思えた。
 裏のありそうな人間を病院の後継者に指名したら後々ややこしいだろうから──


「院長は──」
 姿勢良く直立した背中に組んだ指。無意識に力が入る。
「雛子お嬢さんを道具になさるおつもりですか。あれほど大切になさっていたのはより良い道具にする為なんですか」
 院長が一瞬、酷く驚いた顔をした。怒りではなく、ただ驚いて──少し哀しそうにも見えた。


「我が子の幸せを願わぬ親がいるものか」
 

 院長は、亮輔の瞳をじっと見つめたまま呟くように言った。亮輔の方がその視線を受け止めきれずに逸らしてしまう。
 正体不明の感情が喉の奥で大きく膨れて蠢く。それに圧迫されたかのように目が熱くなるのをかろうじて堪えた。

──高井さんなんて大嫌い

 雛子の声が耳の奥に蘇る。
「──香坂先生は」
 やっとのことで声を絞り出す。
「院長の仰る通り、ただただ研究や医療に熱心な優秀な医師です。院内の人間関係も良好で裏表がありません。向上心はありますが野心家ではないと思います。雛子さんとは少々年が離れていますが、一度失敗していることもありおそらくその反省を踏まえてよい家庭を築かれるかと」
 院長は満足げに頷いたが、顔は笑いはしなかった。

 雛子と香坂の見合いを兼ねた食事会が設けられたのはわずか数日後のことである。


 亮輔も同行したが雛子は結局一度も亮輔の顔を見なかった。
 院長親子を見送った後、香坂をタクシーに乗せたら──今日は気分がくさくさするのでどこかで飲んで帰ろうかと思っていた。が、香坂が開放してくれなかった。
 この判り易い男は、今日の食事会が見合いだなどとまるで気付いていなかったようだ。
 まだ二十歳の娘を、子連れやもめの自分と結婚させて病院の後を継がせる──そんなやりかたがこの男の院長に対する信頼を揺るがせることになるとは、当の院長も思ってはいなかったのだろう。
 亮輔は香坂が院長に対して失望していくのがまるでサーモグラフィーを見ているようで滑稽に思えた。それでも、香坂がうん、と言うように説得するのも仕事のひとつか…と思う。

「君は随分院長のことをよく知っているんだな」
 香坂は失望の腹立ち紛れのように言った。
 その言葉が亮輔の胸の中のなにかを鋭く刺した。

 

 よく知っている──

 ええ、よく知ってますよ。
 彼がどれほど恥知らずで厚顔なのか。

 正体不明だったもやもやとした感情が、突然形を成した。


 これは──”憎悪”だ。

 しかし香坂は違う受け取り方をしたようだった。
「高井君、君──院長と」


 まただ。
 僕が院長の愛人だとでも思ったのだろう。
 判り易い香坂の目の色が変わっているのを感じた。
 面白い。
 そう思いたいならそう思えばいい。
 香坂がのしかかってきて亮輔を何事か詰問する。亮輔の耳には殆ど入っていなかった。
 唇が覆われる。思う存分応えてやる。
 気分が高揚している。
 もしかしたら今まで色々な男と寝てきた中で一番──

 どうする?
 僕が院長の愛人だったらどうする?
 院長の愛人を征服することで、院長を超えた気分にでもなる?

 

 大声で笑いたくなった。
 香坂のものに手をやり刺激してやる。自分のその手を見てさらに体温が上がった気がした。

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 亮輔の母が他界したのはそろそろ燕も飛ぶかといういい季節のことだ。

 母もなんだかんだといって長生きしたと思う。
 亮輔ももう世間的には老年にさしかかったといっていい年頃になっていた。

 香坂洋は雛子と結婚し、雛子の産んだ別の男の子供を跡取にと考える院長──現在は理事長となっている──と対立するようになっていた。


 今までの男と同じで香坂もどんどん亮輔に嵌っていったし、亮輔のこぼす小さな一言一言にいちいち反応しながら院長への反感を募らせていった。あの「判り易い男」の内にある小さな野心がみるみる大きくなっていくのを、面白い見世物を見ているかのような気分で眺めたものだった。
 院長は亮輔のそうした行動にはなにひとつ気付いていないようであったし、気付いていながら見て見ぬふりをしているようにも思えた。香坂と違って院長はどこか亮輔に読みきれぬ部分があったのは確かだ。

 母の葬儀に院長が出席すると言ったがそれは辞退した。
 普通なら長年勤めている秘書の実母なら告別式に上司が顔を出すのは当然だろう。しかし亮輔は頑なにそれを拒んだ。
 その代わり──ひとりの小さな老人が訪ねてきた。
 老人は亮輔の顔を見ると神妙にご愁傷様です──と頭をさげて悲しそうに小さく微笑んだ。


「──山村さん」


 それはかつての亮輔の上司、秘書室長であった山村だった。

 山村は定年退職後、田舎に引っ込み自家農園などを耕しながら老妻と静かに暮らしていたという。
 病院で共に働いていた頃に比べて随分と小さくしなびた老人になったが、朴訥で誠実そうな表情は相変わらずだった。


「高井君は変わらんなぁ」
 亮輔の出した茶をすすりながら山村は笑った。
 田舎の小さな一軒家。季節が良くなったので縁側に腰をかけて空を眺める。
「昔からしゃんと背筋が伸びてえらい二枚目だったが白髪が出てきても二枚目ぶりは変わらんわ」
 皺だらけの老人に二枚目などと誉められてもたいして嬉しくもないが、久しく感じていなかった安らぎを感じる。昔から不思議な空気を持った男だった。
 山村は母の遺影に視線を移し暫く眺めた。遺影は母がまだ皺くちゃの老女になる前に撮影された、小奇麗にしている頃の写真である。
「お母さんは綺麗なおひとだったんだねえ。君はお母さんによく似ている」
「……そうですか」
「高井君、きみは──」
 言いかけて山村は残った茶を飲み干し、ほう、と空に向けてひとつ息を吐くと亮輔に向き直った。

「きみは、院長先生の──」

 亮輔は山村の言葉を遮り、首を横に振った。口元は微笑んでいる。


「仰いますな。知っています」
 

「……そうか……」

 老人は再び深呼吸のように深く息をすると立ち上がった。
「わしはな、戦争に行った時に院長と初めて会ったんだよ」
 そんな話は、あまり聞きたくはない。
 しかし、老い先短そうな老人の告白を聞いてやらねばならない……そんな気もした。


 山村は招集された戦場でチフスにかかり死に瀕した。その時の軍医が院長──茅良祐だったのだという。山村は一命を取り留めたがそのことで茅を命の恩人と思うようになった。
 完治するまでの数日間、年も近く出身地も近かったことから意気投合した茅と山村はわずかな時間を縫って互いに様々な身の上話をし合ったという。
 その時山村が聞いたのは、茅が軍医学校に入校する直前に出会った女性のことだった。
「──それがね、遊郭の女郎さんなんですがね」
 恥ずかしそうに茅は言った。
「私は別に最初からナニをしに参ったわけじゃないんです。遊郭の外でその女郎さんとふとしたことで知り合いましてね。会いたければ店に行くしかなかったんです」
「照れなさんなよ先生。遊郭へ女郎に会いに行ってナニしないってな女郎さんにも失礼でしょうよ」
「からかわないで下さいよ。私は、その、筆おろしもまだでね。どうしていいやらもわかりゃしない」
「それで、その初めてのお相手をしてくれた女郎さんが恋しくて仕方ないんですか。純なこってすな」
 山村は普通の会社員だったが若い頃はなかなかの遊び人だったらしく、その遊郭のことも女郎のことも知っていた。
「あれぇ、鷺乃屋のおタヱちゃんですか。名前はよく聞きましたよ。人気があったようですね。残念ながら私はお目にかかったことがないんですがね」
 女郎の話をしているというのに、人気者と聞いて茅の顔が曇った。
 こいつは本気で惚れちまったんだなぁと山村はなんだか気の毒に思ったものだった。

 山村が終戦後ようやく引き揚げて故郷へ戻ったところ、街の至る所が空襲で破壊されていて──まるで知らぬ街にやって来たような気分がしたという。一旦家族の無事を確認に帰宅し、落ち着いてから茅を訪ねてみることにした。
 茅の実家の診療所もまた空襲で破壊されたというが、当の本人は戦争も終わったからこれから病院を大きくしてやると意欲に満ちていた。聞けば、茅の両親は戦前に既に亡くなっていたという。


「それで先生、おタヱちゃんは見つかったんですか」
 

 多分、それどころではないということは判っているが──こんな話題で場が和むかもしれないと思ったのだ。
 茅は諦め顔で首を振った。
「鷺乃屋自体が焼けて無くなっていましたよ。もちろんそこのお女郎さんたちがどうなったかも……焼け死んだ人もいたし生き残った人も散り散りに逃げたとか」


 ああ、本当に帰国して真っ先にタヱを探しに行ったのか、と山村は少し感心した。
 

 思えば、おタヱという名だっておそらく本名ではないだろう。遊郭が燃えて、例えば故郷へ帰ったとか別の街でやはり娼婦をしているとか、進駐軍相手の立ちんぼになっていることだって考えられるがいずれも同じ名前で仕事しているとは思えない。
 それでなくとも引き揚げ者や空襲で焼け出された者たちなど、身内の消息ですら辿れない人も多いのだ。名前も身元もわからぬ女郎など探し出すのはほぼ不可能といっていい。
 

 いずれ、茅も諦めたのだろう。
 病院の再建になにかと手を貸してくれていた幼馴染の女性とそのまま結婚した。
 そして山村は、命の恩人に何か恩返しがしたいと言って、茅病院で事務の仕事をしながら再建の手助けをするようになったのである。

「……故人の恥になることですが、もうご存知のようなので言いましょう。そう、その女郎の『タヱ』という女が私の母の『しづ』です」
「ご本名はしづさんとおっしゃったんだねぇ」
 亮輔は目を軽く閉じて頷くと微笑んだ。
「母は、店が焼ける直前に父に身請けされたんだそうですよ。父は当時小学校の校長をしていたそうでね、そんな教職にある人が女郎を身請けするというのもある意味剛毅なことです。しかも戦時中、そろそろ雲行きが怪しくなってきていた頃ですよ。まあ、国内では日本が勝ち進んでいると言われていたんでしょうが…いずれにせよ暢気な話です。いや」
 山村は振り返り、再び縁側に腰をかけて耳を傾けている。
「その時、母は妊娠していたんですよ。お人よしの酔狂者だった父は、このご時世に腹ボテになった女郎がどんな運命を辿るのか不憫に思ったんでしょうね。お腹の子供ごと引き受けてくれたのです。その腹の子が──私でした」
「そんな話は──どなたから」
 山村は聞きにくそうに言った。
 女郎から足を洗った母親が自分の息子にそんな話をするとは思えない。
 亮輔は、他人事のように笑う。
「口さがない人がいるものでね。幼い私に、おまえの母親は女郎だった、父親のわからぬ子供よと苛める人がいまして。まだ男女の営みのこともよくわからないような子供におまえは女郎の血が流れているといって悪戯する卑怯者がね」
「──」
「しかし子供心にそれを父母に問い質すことはしてはならないような気がしていました。父は母や私のことを本当に優しく大切にしてくれていましたし、母も貞淑な妻であり優しい母親でしたから」
 しかし、年老いていた父は亮輔が中学生の頃に病に倒れた。その時、亮輔はたまらず母の目を盗んで父にことの真相を尋ねてしまったのである。
 父は自分の死期を悟っていたのだろう。まだおまえには早いかもしれんが、と前置きして母と自分のことを語って聞かせてくれた。
 ただし、このことで母を責めてはならん、ときつく言われた。
 女郎として身を売ることでしか生きて行けなかった女。それを軽蔑してはならないと。自分を産み慈しみ育てくれた母親こそ、しづという女の真実であると。
 

 亮輔は、そう言った父こそが自分の実の父親であると思うことにした。たとえ、自分に血をわけたのがどこの男かわからずとも──

 その父が程なく他界したとき、母は悲嘆にくれていた。
 母もまた、あの父を恩人としてだけでなく愛していたのだろうと思う。

 しかし、大学卒業を目前にした頃、亮輔は父の仏前の供え物に隠された紙片を発見してしまった。
 古い、変色したぼろぼろの書き付け。父の筆跡ではなかった。
 そこには──茅良祐の名前と茅診療所の住所が読みづらい鉛筆書きの文字で記されていた。

「それで、法曹界ではなく茅病院を選んだんですか」
 

 ええ、と返事して亮輔は山村の湯呑みに茶を注ぎ足した。
「何と言うのですか、いてもたってもいられなくなったんですね。私の父は高井だと思う一方で、女郎遊びをしてその女郎が孕んだことも知らずのうのうとお医者さまなどをやっている男はどんな人間なのか、と。何故でしょう、ただ名前と住所が書かれていただけなのに、父の仏前に上げてあったのに、それが自分の本当の父親の名前だと……直感とでも言うんでしょうか。母はあの書き付けを捨てることは出来ず、でも二度とこの人には会いにゆかないという誓いのために仏前に置いたのではないかと思ったのです」
「そして、本当に院長が父親だと確信した──院長の指を見て」


 くすっ──笑いを零して亮輔は自分の右手の親指に視線を落とした。


 生まれつき妙に曲がった指。小さな爪。左手のそれとは形がまるで違う。
「最初はこれが変な形とは思わなかった。やがて、これは奇形なのだと思い始めた。でも院長の指を見てああ、と思ったんです。同じ形だった。これは遺伝ですね」
「院長のお父上も同じような指だったそうだよ」


 院長も私の指を見て、これは自分の血を引く者だと判ったんでしょうか──
 呟くような亮輔の声に山村は微笑んだ。


「面接の写真を見た時から、院長は高井君がタヱさんの子供だと分かったんだね。院長室に呼び出されて、タヱさんの息子だ、それに違いないとひどく興奮してねえ」
「そんなに──似ていましたか」
 似ているねえ、と山村の声が小さく響く。
 そして、亮輔本人に会って、指を見て、あの一度きりの逢瀬で出来た自分の子だと判ってしまったのだろう。

「……やはり、院長はご存じだったんですか。そんな事は一度も」
「結局、生真面目な人なんだよ。女郎だったからといって決していいかげんな気持ちではなかった。真面目に惚れていたんだ。ただ、そんな女性とその自分の子供が現れたからといって──自分にはもう女房も娘もいる。この人たちもとても大事だし愛している。迷った挙句、院長は高井君に親子の名乗りをすることはせず、せめて能力をできる限り発揮して出世できる環境を提供してやりたい、タヱさん──いや、しづさんにも陰ながら出来る限りのことをしてあげたいと言ってね」


「──なんですって?」
 

「高井君は知らなかっただろうけどね、わしが代わりに立って何度も君のお母さんをお訪ねしてお話させてもらったんだよ。金銭的な援助を申し出てもひたすらしづさんは断り続けられた。亡き夫の残してくれたものもあるし、息子も仕送りしてくれている。老女ひとり暮らしてゆくのにはそれで十分、とうに生き別れた昔の女などかまわず、今の奥様お嬢様を大事になさって下さいとね」
 亮輔は静かに母の遺影を振り返った。
 そのようなこと──知らなかった。

「院長はそれでも、亮輔は自分の息子だ、父親らしいことは何一つしてやれずにいるがそれだけは否定しないでくれと。本当は、院長は高井君に病院を継がせたかったんだよ」

「──私は──院長の座など──病院など──興味は」

 脈拍が──
 微かに上がった気がする。
 院長が、自分を後継者にと考えていただと?

「それはむしろわしの方が感じておったんだろうな。そして君のよくない話もわしは聞いていた。君に病院を継がせるなどと言い出せば、やはり高井は院長とできているなどと言うやつもおろう、かといって高井は院長の隠し子だったと知れるのも好ましくない。わしの判断で院長をお引止めしたんだ。恨みに思うなら院長ではなくわしを恨みたまえ」

「私は──」

──我が子の幸せを願わぬ親などいるものか。

 あの時、じっと亮輔の目を見つめて言った院長。
 雛子の話をしながら、あれはおそらく亮輔のことも指していたのだろう。

「いや、院長は我が子だからという理由だけで君を重用していたわけでは決してない。もちろん君の能力は十分に買ってのことだよ。そうでなければ誰も君にはついてこない」
「いいえ、私は──」

 私は。
 何をしてきた?
 きちんと質しもせず、事実を明らかにもせず、ただ独り善がりに院長を恨み──
 香坂という敵を引き入れてしまったのは──
 妹の雛子をさらなる悲しみの中に陥れたのは──

 嗚咽をもらす亮輔の背中を山村は優しく叩き、そのまま青い空を眺めた。
 燕の雛の鳴き声が、軒下から聞こえてきた。

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 茜が立ち去って暫くするとノックの音がしてドアが開いた。
 よたよたと足元のおぼつかない老人が入ってくる。
 亮輔はそれを振り返ると微笑み、椅子を明け渡した。


「駄目でした。せめて理事長の望み通り茜さんを後継者にすることが出来ればと思ったのですが」
「仕方ありませんなぁ」
 

 山村は変わらぬ朴訥そうな笑顔を浮かべてよっこらしょ、とベッドサイドに腰掛ける。
「高井君はやるだけのことをやりなさった。先生も怒りはすまいよ」
 会話を聞きつけたようにベッドの上の眠っていた筈の老人が目を重そうに開ける。
 

「先生、茜ちゃんは自分のやりたいように人生をまっとうするそうですよ。その方が幸せだ。もういいでしょうよ」
 

 うん、と小さな声が聞こえる。
 聞こえているのかいないのか──
 老人は皺だらけの瞼の下の濁った瞳を巡らせ、亮輔の姿を見つけるとのろのろと手を差し伸べた。
「りょうすけ」
「はい、なんですか」

──おまえは、幸せか。

 声にならない唇の動きを見て、亮輔はその、いつの間にか自分より細く小さくなってしまった手を握りしめた。

「幸せですよ、お父さん」

 

 息子の答えに茅良祐は満足げに微笑むと、再び目を閉じた。

*the end*

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*Note*

​「梟」の章で妙に目立っていた茅病院理事長秘書・高井の物語です。

これを書くにあたって昭和初期、戦前の遊郭のことなんかをざっと調べてみたんですがいまいち空気感が掴みきれなかったので山村の思い出話の中の伝聞として書いてみました。

「梟」の章で最初は茜ちゃんの状況をなんとなく勢いで「血の繋がらない父や兄から命を狙われている」みたいに書いてしまって実はあとで困っていました。そんななんでもかんでも暗殺(笑)なんかに走る危険人物ばっかりなのもなんだかなぁと。ずっと書いているうちに微妙に考え方が変わってきたのかもしれない。

根っからの悪人とか迷いのない悪人も書いていて面白いんですが、弱さやちょっとした間違いや小さな誤解から悪い方へ悪い方へ変わってしまうちっちゃい人間や、ある目的を達成するために一生懸命になるあまり他人を傷つけることに鈍感になってしまう人間とか、そういうのを描く方が楽しくなったみたいです。

高井は「ロボット」の話の時点では理事長が憎かったんですよね。だから香坂を利用して痛めつけてやりたいと思っていた。

​でも、自分の憎しみが見当違いだということがわかって、その償いのために180度方向が変わったという感じです。

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