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夕 立

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 はきだめに鶴とはこのことだと長部一之は思う。


 水原の住んでいる四畳半にはいつもむさくるしい野郎どもがたむろしている。長部はその一人だ。写真が趣味の水谷の部屋には最低限の生活用品と大学の教科書や資料以外にはカメラや三脚と、撮った写真を引き伸ばしたパネルが数点、壁に掛けられているだけ。そのせいで大学の友人どもの溜まり場にされていた。連中は集まっては近所迷惑この上ない下手くそなギターを弾いて歌ったり、麻雀をしながら次のデモの情報収集をしたり、大学側が強制的に撤去した立て看板を復活させる計画を練ったり、外国の戦争の是非について明け方まで語り合ったりしていた。

 その場にはまるでそぐわない育ちのよさそうな美少女が加わるようになったのは最近のことだ。まるで裸電球が蛍光灯に変わったように明るさまで違うように感じる。
 

 もともと大学の講座が水原や長部と同じだったので以前から知り合いではあったが、いつの間にか彼女と水原は長部の知らない間に随分と親密になっていたようだった。
 彼女──雛子はどうやら本当にどこかいい家のお嬢さまらしく夕刻になると名残惜しそうにではあるが帰宅するのが常で、その都度、水原はそれをどこかまで送っていった。

 雛子がいなくなると、途端に灯が消えたように薄暗く小汚い四畳半に逆戻りする。長部を含め5人の若者がただ沈黙の中汗を拭いたり団扇を忙しく動かしたりしている中、誰かがぽつりと言った。
「……雛は水原の彼女だもんなあ。しょうがねえよなあ」
 誰も水原や雛子にそれを確認したわけではないのに、全員がそうだなあ、と溜息を落とす。長部だけがどこか納得いかないような顔をした。
「ほんとにそうなら、俺は水原をぶん殴ってやる」
「勝負に出ますか。水原とおまえじゃどう考えても勝ち目はないって」
 からかう声に長部は眉を思い切りよせた。確かに、水原は背も高いし映画スターのように二枚目なのに対して長部は身長も雛子とあまり変わらないし映画スターというより喜劇俳優のようにとぼけた顔だ。女がどちらを好むといえば十中八九は水原を選ぶだろう。長部はむうっと口をとがらせて反論する。
「そうじゃない。あいつが本当に雛と付き合ってるんなら俺たちに何も言わないなんてみずくさいって言ってるんだ。俺ら、仲間だろう?」
 残りの4人は思い当たったようにそうだそうだと同意した。


 仲間だとか親友だとか同志だとか、そういう青臭い言葉がこの連中は大好きだ。実のところ長部はそろそろそういう集団行動に辟易し始めているのだが、水原を問い詰める度胸がないのを誤魔化すために──あわよくば、お節介な誰かがそれを確認してくれるのを期待して──そんな言葉を出してみたのだ。
 効果はてきめんだったと言えるだろう。


 雛子を送って水原が帰ってきたのはすでに夏の宵もとっぷりと暮れた頃だった。
「おい水原。そこに座れ」
 この部屋は水原の住まいだというのに何故か我が物顔で上座に座っていた一人が、円座に座った5人の中央を指差した。自分で誘導したにもかかわらず、長部はその光景がどこか滑稽に見えて笑いを必死で堪えている。まるで被告扱いの水原はきょとんと目を丸くして首を傾げながら言われた通りに腰を下ろした。
 殆ど家具のない水原の部屋だがそれでも男6人が座れば満員でしかも暑苦しい。全員が団扇を手にばたばたと派手な音を立てて風を起こしていた。
「……なんだよ」
 哀れな被告人は自分の罪状が何か見当もつかず困った顔をしている。
「正直に話したら許してやる」
「だからなんだよ」
「おまえ、雛と付き合ってるのか」
 一瞬の沈黙のあと、水原はぷっと吹き出し困ったような顔のまま笑い出した。
「違うよ。そんなんじゃない」
「でもおまえはいつも必ず雛を送っていってるじゃないか。それによく二人で一緒にいる」
「送ってくのは当然だろ?送りたいんなら譲るよ。それから一緒にいるっていっても大学でだろ、講座が同じなんだから仕方ないじゃないか。雛はただの友達だよ」


「──雛はそう思ってないぞ」
 

 長部が口を挟んだ。
「おまえは女子に人気があるから鈍感なのかもしれないけど、なんで雛みたいなお嬢がこんなとこに通ってくると思ってるんだ。ここにいたって雛はおまえのことばっかり見てる」
 今度は長部を除く他の5人が少し妙な顔をした。どうやら、長部が感じていたようなことはこの連中はまるで気付いていなかったようだ。その時、漸く──長部は、そこまで雛子を観察していたのは自分だけだったのだということに気付いた。
「なんだ、結局おまえが雛に気があるんじゃないか。みずくさいだのなんだの言って、水原に嫉妬してたんだろ」
 裁判長がハンマー代わりの団扇を長部に向かって投げた。どっと笑いが起こる。
「水原だったらしょうがねえと思うけど、カズには雛は取られたくないなあ」
「そういうなよ。協力してやろうじゃないか、え?同志たち」


 おそらく、長部は真っ赤になっていたのだろう。とんだやぶへびだった。逆恨みするように水原を睨みつけると──


 水原と視線がぶつかった。
 水原は、少し困った顔のまま、無言で微笑んでいた。

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 先程まで真っ青だった空が、あっという間に黒い雲に覆われてゆくのが行く手に見えた。
「やばいな、夕立が来るかも」
 長部は独り言のように言った。雛子はここでいいわ、走って帰るからと答えた。


 あれ以来、皆気をつかってくれているのか雛子が帰ると言えば長部にお見送りの役が回ってくるようになった。玄関先まで送ることは拒まれたが、どれが雛子の家なのかは見当がつく。結果、確かに本物のお嬢さまなのだと思い知らされた。ブルジョワジーという言葉がすぐに連想される。水原が、雛をただの友達と称したのが理解できる気がした。自分たち貧乏学生とは明らかにつりあわないのだ。友人以上の好意を持つことは不遜であるかのように──
 常々自分たちが論じている理想の社会と自分の心を支配するそんな諦めの気持ちとの矛盾に気付かされる度、長部は苛立ちを募らせるようになっていった。

 

 走って帰るから、と雛子が言った直後、大粒の雨粒がぱたぱたと音を立て始めた。二人で空を見上げた途端、閃光が走る。続いて地響きのような遠雷の音。
 きゃあ、と雛子が身を縮めた。
「大丈夫だよ、まだ遠い」
 そう言っている間にも雨は激しさを増してきた。
 ひとまず、側の商店の軒下へ雨宿りする。
「夕立だからすぐ止むよ」
 長部の言葉が聞こえているのかいないのか、雛子は両腕で自分を抱くように身をすくめている。徐々に稲光と雷音の間隔が狭まり、それが近づいているのがわかった。雨から走って逃げる人々が目の前を次々と横切る。
「雛は──」
 軒先からすでにぽたぽたと落ちる雨の雫を目で追いながら、長部が言った。


「雛は、水原が好きなの?」
 

 雛子は答えなかった。ただ、顔を長部に見えないように逸らした。
 何度目かの閃光にまた雛子が身を竦める。長部はその背中におそるおそる手を伸ばし──
 次の大きな音とほぼ同時にその肩を自分の方へ抱き寄せた。
 雛子は───
 少し驚いたようだったが、逃げはしなかった。雷が鳴る度長部の手に力がこもる。


「俺……雛が好きだ」


 心臓が口から出そうというのはこういうことか。服の上からでも自分の鼓動が見えるようだ。
 雛子は答えなかった。
「まだ止みそうにないし……俺の部屋へ行こう?すぐそこだから」
 雛子が小さく頷いたのを見てとると、長部は雛子の手を掴んで軒下から走り出した。その間にも雷鳴ごとに雛子は小さく悲鳴を上げていた。

 水原のそれと同じような四畳半の古い部屋。水原は比較的綺麗好きでしかも友人たちの集会所のようになっているのであまり散らかっているところは見たことがないが、長部はというとお世辞にも片付いているとはいいにくい。汚いところだけど…というのが謙遜には聞こえなかった。
 自分のまだ新しいシャツをなんとか探り出し、雛子に差し出した。
「あっち向いてるから、着替えなよ。風邪ひくよ」
 シャツを渡す時、手が触れた。どきりと手を縮めようとすると、その手を今度は雛子が握り締めた。


 やっとの思いで衝動を抑え込んでいるのに──
 

 箍が外れたようにその手を引き寄せ、雛子の唇に触れる。いつか洋画で見たようなスマートなキスなどできるわけがない。
 華奢な身体を抱きしめ、胸をまさぐると雛子は身体を堅くして長部を押しのけた。我に帰ったように、ごめん──と小さく呟く。


「……ハンガーはある?服を乾かしておきましょう」
 雛子の小さな声は少しうわずっていた。

「……水原とつきあってたわけじゃないんだ、本当に」
 雛子の小さく白い背中を慈しむように撫でるとそっと抱きしめる。
「……水原さんね、好きな人がいるんですって」
 顔を見せないように雛子は言った。少し涙声に聞こえた。


 ああ、そうか──
 

 やはり、雛子は水原を好きだったのだ。
 水原の好きな相手というのが一体誰なのかは全く見当がつかないが、雛子は水原に失恋したのだろう。
 だから、雛子は自棄になっていたのかもしれない。

 だから、自分なんかとこうして──


「ごめんなさい、長部さん」
 

 謝られては自分が惨めだ。長部は雛子の声を遮るように言った。
「雛……俺、もう学生気分の遊びはやめる。めちゃくちゃ働いて、金儲けして、それで雛につりあうような男になるから。だから、俺とつきあってよ」
 肩を布団に押し付けるようにして雛子の顔を覗き込むと雛子は哀しそうに微笑んでありがとう、と呟くように言った。


「ねえ長部さん、わたしを連れてどこか遠くへ逃げてくれる?」
 

 ごくり、と喉が鳴った。そこまでは考えていなかった。雛子のようなお嬢さまと付き合うにはそのぐらいの覚悟が必要なのかもしれない。
 しかし、すぐに雛子は首を横に振って笑った。
「嘘よ、ごめんね。わたし、これ以上あなたの気持ちに付け込むことなんてできない」

 雛子はゆっくりと身を起こすとハンガーにかかったまだ湿っている服を手に取った。
「帰ります。皆さんによろしくね」

 

 外はもうすっかり夕立が去って心地好い風が吹いている。今度こそちゃんと家まで送る、と言うと雛子は笑ってそれを辞退した。


 その日以来、雛子は水原の四畳半どころか大学にも姿を見せることは二度となかった。

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 水原は大きなカメラを大切そうに磨いている。


 寝る間を惜しんでアルバイトをして貯めた金でやっと買った中古のカメラ。
 まるで赤ん坊を風呂に入れるように優しく丁寧に磨くその手元を、長部はじっと見つめていた。


「俺、大学をやめようと思うんだ」

 ぽつり、と水原の声。声もなく長部は水原の顔に視線を移す。寝耳に水だ。
「やめてどうするんだよ」


「戦場の写真を撮りに行く」
 

 大国の論理に翻弄されている小さな国。水原や長部たちはその戦いの是非についてよく語り合ったものだ。
「こんな遠くで口だけで批判しているだけじゃ駄目だ。実際に写真に撮って、それを少しでも多くの人に見せたい。知り合いの出版社の人とは話がついたんだ。来週にも出発する」
「だけど、おまえはそんな写真───」


 長部は部屋中に目を巡らせた。壁には沢山の写真が貼り付けられている。それはどれも例外なく鳥の写真だった。
 少しでも暇が出来ると山に登って野生の鳥の写真を撮っていた水原。その写真はいつも優しい表情に溢れていた。そんな水原が戦場の写真を撮るなど──

 

「戦場にだって鳥くらいいるさ」
 柔らかく微笑むと、水原はカメラを丁寧に置いた。
 そして、壁に掛けた六つ切りの写真パネルを1枚取るとそれを長部に渡した。
「これ、雛に会う機会があったら渡しておいてくれ。あいつ、それがお気に入りだったんだ」

 雪の中の真っ白い梟の写真だった。

 

「雛は学校にも来なくなっちまった。渡せるかどうか約束はできない」
「機会があればでいいよ」
「水原──」
 唇を噛み締め手元の写真をみつめる。本人にそんなつもりは無いのかもしれないがまるで遺書を託されたような気分でやりきれない。


「……俺、雛と寝た」
「そうじゃないかと思ってたよ」
「雛はやっぱりおまえが好きだったんだよ。水原さんには好きな人がいるんだって……哀しそうだった」
 水原も、悲しそうな顔をした。
「なんでだよ?おまえに好きな人がいるなんて聞いたことない。嘘なんだろ?雛が可哀想じゃないか」
「嘘じゃない」
 腰を浮かせて長部の前に座り直す。
「絶対に、おまえたちには言えなかったんだよ。でも、俺はずっと前から好きだった」
 悲しそうな顔のまま、微笑んだ。

 

「──おまえだよ、カズ」
 

「えっ?」
 あまりに意外な展開に長部は手に持ったパネルをぱたりと取り落としてしまった。

「俺がずっと好きだったのはおまえだよ。だから雛の気持ちには応えられない」

 だって俺は──と言いかけて、言葉が止まる。
 言葉ごと、口を塞がれていた。
 煙草の臭いがする。
 自分が雛子にしたのとは比べ物にならないくらい優しく刺激的な──
 不覚にもそれに流されそうになった瞬間、唇が離れた。


「……すまん。ちょっと頭冷やしてくる」
 顔を真っ赤に紅潮させた水原はそのまま立ち上がり部屋を出て行った。

「嘘だろ……」

 それでも、あんな水原の顔は初めて見た。
 なによりも驚いたのは、自分がそれを気持ち悪いだとかそんな風に思わなかったことだ。


 今のうちにこの場から逃げ出そうか水原が帰って来るまで待つか、少し迷った。迷っている時、開け放したドアの向こうからごめんください──という声が聞こえた。
「どなた──」
 部屋の主は頭を冷やしに行っているけれど、ひとまず応対する。高そうなスーツを着た、若いけれど金回りのよさそうな男が丁寧にお辞儀をして名刺を出す。


「水原──茜さまでいらっしゃいますね。私、茅総合病院秘書室の高井と申します。本日は折り入ったお話がございまして、お差し支えなければお通しいただければ幸いなのですが」


 お通しもへったくれもない。少し考えたが、茅総合病院というところにひっかかって上がらせることにした。
「私どもの院長の一人娘である雛子さんと、あなたが親密にご交際なさっているとお聞きしまして」
 姓からそうではないかとは思っていたが、やはり雛子は大病院の院長令嬢だったのだ。それが水原とつきあっていると──親しい友人である自分たちがそう勘違いしていたくらいなのだから、周囲がそう思っていたとして不思議ではない。長部は何を答えるでもなく先を促した。
「実はこの度、雛子さんに良縁がございまして、近々ご結婚のはこびとなりました。つきましては、水原様には雛子さんとのご交際をやめていただきたいと。そんな次第で」


──そういうことか。


 それで、雛子は姿を消したのだろう。自分のせいだけではなかった、とほんの少し安堵した。しかし、雛子のあの悲しそうな顔を思い出すとはいそうですか──とは納得することができない。長部は少し考えると、勘違いされるに任せて水谷のふりを続けた。


「あのね、俺と雛は愛し合ってるんですよ。それをそんなに簡単にはいそうですかと別れられると思います?」
 

 そんな反論は最初から予想の範囲内だったのだろう。高井はまるで動じる様子もなく、にっこりと微笑んだ。
「では、どうさせて頂けばよろしいでしょう?わかりやすい形で誠意をお見せすれば?」
 高井はそういって手に持った茶封筒からがさり、と札束を出した。テープの捲いてある札束など初めてお目にかかる。


 文字通り──目が眩んだ。
 

「わかった。金輪際雛子には会わない、それでいいんだろう」
「あなたが物分りのいい方でよかった。よろしくお願い申し上げます。あ、それと私がここに来たことは口外無用に願います」
「わかってる。さっさと帰れよ──そうだ、これを持って帰ってくれ。必ず雛に。そんな願いくらい、聞いてくれてもいいだろう?」
 そう言って長部は梟の写真パネルを拾い上げ、高井に押し付けた。この男に渡したところで雛子の手に渡るとは限らない。けれど、それ以外にもうこれを雛子に渡す方法が無くなってしまった。
 高井が帰ると、そこに残されたのはぽつんと束になった聖徳太子のみ。

 

 これを──どうしよう。
 

 どうせ、雛子は自分を好きになってくれはしないともう諦めていた。こんな金など貰う筋合いではなかったのだが、金で片付けようというやり方をする人間が相手なら、貰うものは貰わなければと思ったのは事実だ。
 

「──駄目だ、返しに行こう」
 いつからそこにいたのか、水原が札束を掴んで言った。
「こんなものを受け取って、どういうつもりだよ」

 長部はその札束をひったくるように水原から取り返す。
「おまえは悔しくないのか?こっちが貧乏学生だからって、その程度の金で雛と縁を切れって言うんだぞ?それを貰わなくてももう雛とは二度と会えないかもしれないとは思ってたけど、でも、あんな風に──」
「カズ!」
「雛と知り合わなきゃよかった!そうしたら、つりあわないとかブルジョワだとかそんなこと実感せずにすんだ!もう少し──前みたいに机上の空論でも理想の世界が少しは信じられたのに──!」


 畳の上に、札束がぼそりと鈍い音を立てて落ちた。
 

「俺は、おまえみたいに自分も危険な場所へ行って戦争反対を訴えようとか、そんな立派な志はもってない!デモに参加するのもヘルメットを被るのも看板を書くのもそれが今かっこいいからだよ!もうそろそろ飽きたからやめようかと思ってたところさ!資本主義も社会主義も知るもんか!俺は金持ちになってやる!金持ちになってあいつら見返してやる!」
「カズ──」


 いつのまにか、長部は水原の肩に顔を押し当てて大声を上げて泣いていた。自分はちびだちびだと思っていたが、確かにこうしてみると自分の目線が水原の肩あたりになることが初めてわかった。


「なんだよ、せっかく頭冷やしてきたのに……」
 吐息交じりの声が耳元で聞こえる。

 水原の両腕が自分の背中を締め付けても、それを振りほどく気にはならなかった。
 

 なんとなく──
 あの夕立の日、自分に身を任せた雛子の気持ちがわかる気がした。

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「あぁ、あっちいなぁ」
 木の根元にだらしなく座り込んだ岩田が、近所のパチンコ屋で配っていた団扇をこれでもかと扇ぎながら言った。


「暑い暑い言うな。よけい暑くなる」
 

 長部一之は水道でぼろぼろになったランニングシャツを洗うとついでに自分の全身を洗い、さっぱりした顔で木と木の間に張った洗濯紐にそれを乾した。
「長さんって昔はどっかの社長さんをやってたって聞いたけど、順応してるよね」
「ここで昔のことを聞くのはルール違反だよ、岩ちゃん」
 ブルーシートを風通しのいいように捲り上げると、ごろりと横になる。ひんやりと土の冷たさが心地いい。

 水原は結局、予告通り翌週には戦地へ出発した。
 水原の作品は基本的には契約した出版社へ送られていたが、何ヶ月かに一度は長部宛に直接手紙とフィルムが送られてきた。
 長部に届けられたのは、子供と、動物と、鳥の写真ばかりだった。

 そして。
 戦争は終わったのに、水原は帰ってこなかった。契約先の出版社に問合せても、死体が見つかったわけではないが行方不明だとその一点張りで──

 長部は学生運動からは手を引いたがとにかく大学を卒業し、事業を興した。一時は上場もして優良企業だったと思う。しかしそれでは満足できなかった。
 まだだ。まだ、やつらを見返すことはできない。
 そして、足元を掬われた。

 

 結果、今では住む家もなくなった。だがこれはこれで慣れれば結構快適だと長部は思っている。

 

「長さん、オサベカズシさんて、長さんのこと?」
 遠くから誰かが声をかけた。
 フルネームで本名を呼ばれるなど何年振りだろう──
「お客さんだよ」
 胡散臭げにその客人を見ると、若い男だった。
「不躾にすみません。この写真集の写真を提供されたのがあなただとお聞きして」
 今時の若いのにしては礼儀正しいな、と思って長部は身を起こし座りなおす。青年の手に握られていたのは、水原が送ってきた写真を使って一度だけ出版した写真集だった。
「……そうだけど、あんたは?」
「あ、失礼しました。茅茜といいます」

 長部は背中に電気が走ったようにびりっと背筋を伸ばして青年の顔を凝視した。

──茅、茜だって?!

「この写真を撮った、水原茜というのは多分僕の父だと思うんです」
「それは──」


 ということは、この青年は雛子の息子なのか。
 そうだとしてもそんな筈はない。
 長部が雛子を抱いた時、雛子は処女だった。まして、水原は──

 

「君のお母さんが、そう言ったの?」
「はっきりとは言いませんでしたが、でも母がこの──」
 茅茜はそういってカバーの折り返しに掲載した小さな写真を指した。そこにはあの白い梟の写真がある。
「この梟の写真をひきのばしたパネルをとても大切にしていて……それに僕の名前がこうでしょう?」
 長部は答えに詰まった。
 結婚しても雛子はきっと水原が忘れられなかったのだろう。
 長部が水原を忘れられなかったように──
「……水原があんたの父親かどうかは俺はわかんねえなあ」

 

 この若者は──
 自分の子供なのかもしれない。
 しかし、今更そんなことを言ったところで始まらない。真実を知っているのは雛子だけだ。しかし、もしそうだとしても雛子は彼の父親が長部だとは認めたくないだろう。水原の子だと夢みていたいならそれでもいいと長部は思った。


 自分の雛子への想いは若い頃の淡くて切ない思い出のようなものだ。
 色あせた写真のように、ただ懐かしくて美しい──

「水原茜は、死んだんでしょうか」
「さあ、それもわからねえ。ベトナムで消えちまった。案外どっかで生きてるかもな」

 さりげなく言うと大事そうに隠した貯金箱からコインを数個取り出し、岩田に渡す。
「お客さんに大盤振る舞いだ。そこの自販機で冷たいコーヒーでも買ってきてやんな。くすねんなよ」
 長部はそう言ってにいっと顔を崩した。


 

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*Note*

​この章、実は昔話が多いです。本来なら「昔日」の章に入れていい話なんですが、人間関係上こちらに入れておいた方がいいかなと判断しました。水原君のベトナム後の消息に関しては「The Name of the Bar」の「ドライブ」という話に。雛ちゃんの話はこの次の話でまた触れます。

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