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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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醜 女

 美世子は自分が美しくないことを十分承知していた。
 というより、承知しすぎてコンプレックスになっている。


 まだ若いのに鶏がらのように痩せているし、顔も笑われるほどの醜女ではないとは思うが目は細くてつりあがっているし鼻は筋は通っているが裾で変な広がり方をしているし口元もよほど気をつけねばとんがって不満げな顔に見える。要するに、素にしていてもいつも不機嫌そうな顔に見られてしまう顔なのだ。

 肌だけはにきびもなく不満はないが、まだ若いのだからあるていど肌が美しいくらいは当然だと思う。要するに、いずれ年をとれば損なわれるだろう肌の美しさくらいしか自分で満足のいく部分がない。


 父はまあまあの規模の会社の経営者なのでとくに不自由な思いをさせられた覚えはないが、両親の顔の良くない方の部品ばかり集めてしまったような顔が不満でしかたなかった。弟の方がどちらかといえば可愛らしい顔で、小さな頃から周囲から可愛い可愛いとちやほやされていた。さほど年が近いわけでもないので特別そのことを妬んだり憎んだりなどはしないが、それでもやはり羨ましいと思う。せめて目元だけでも弟と取り替えれば自分ももう少し可愛らしい顔立ちになったのではないか、などと空想したりする。もっとも、そんなことを思ったのは最も多感な思春期の頃だけで、成人してしまうともうそんなことは思わなくなった。取替えなどできるわけないことを考えても仕方が無い。

 もう少し自分の容姿に自信が持てたら服装や髪型も可愛らしく女らしいものを選ぶのだろうが、そういったものはどうにも自分に似合いそうだとは思えず、結局のところ飾り気のない地味な服装に落ち着いてしまう。父が地位のある人間であるからその手前公の場に出る時には最低限恥ずかしくないものを身に着けはするものの美世子は極力そういう場に出たいとは思わなかった。服装云々より、自分の容姿が恥ずかしいのだ。


 結果、あまり外出はせず読書に没頭したりなどしている。外出するといえば書店か図書館か。映画を見たいと思うこともあるが、映画館などは不良があつまる繁華街にあることが多くてどうしても足が向かない。
 週何回か図書館に出かけ、半日はそこで本を読んで過ごし、新しい本を借りて帰る。仕事をしていない美世子のそれが日課になっていた。寄生虫のように父の財産で養われるより仕事でもした方がいいのだろうが、人付き合いが苦手だから働かなくても暮らしていけるなら働かずに済ませたいのだ。

「これ、面白かった?」
 

 図書館で本を選んでいる時のことだった。不意に聞きなれない男の声が背後から聞こえてきたのでまるで幽霊の声でも聞いたように美世子は吃驚した。
 振り返ると、若い男がにこにこと微笑んでいた。知らない男だ。
「あ、ごめん。いつも来てますよね。こないだこの本読んでたでしょう?僕も読もうかと思ってたから……感想を聞こうかと思って。失礼しました」
 少しおどけたように男はペコリと頭を下げた。学生か、それに準ずる程度の年か…いずれにせよ、自分とさほど変わらない年頃だろう。愛想のいい、どちらかというと甘い顔立ちの青年だった。

 見ず知らずの相手に愛想を振りまくような男は信用ならない。

 ええ、とかまあ、とか適当な受け答えをして美世子はその場を逃げ出した。
 つまるところ、異性に免疫がないのだ。
 いつも来てますよね、ということはあの青年もよく図書館に来ているのだろう。しかし美世子は他人の顔をじろじろ見る趣味はないし、だいいちすれ違う他人になど興味がないのでまったく見覚えがなかった。


──なに、あのひと。気持ち悪い。
 

 見ず知らずの相手に声をかけてくる気さくな好青年を、美世子はそう断じた。

 気持ち悪いと思ったせいか図書館へ行く頻度が少し落ちてしまったが、かといって図書館通いの日課が無くなるのも嫌だし何よりそんな理由で自分の生活パターンを崩されるのはなんとなく癪に障るのでやめてしまうことはなかった。
 行くと、あの男がいた。
 今度は無闇に話しかけることはなく会釈をしてこんにちは、とだけ挨拶する。そんなことが何度か続いた。
 他意はなかったのかもしれない。気持ち悪いなどと思って悪かったかしら──美世子は少しだけ反省した。といっても、面と向かって気持ち悪いと言ったわけではないのだが。

 

 だいたい、他意とはなんだ。

 若い男が若い女に声をかけるというだけで警戒はしてみたものの、よく考えてみれば自分は知らない男に声をかけられるような美人ではない。下心などあろうわけがないのだ。

 何を勘違いしているの、私ったら。あつかましいわ。身のほどを知りなさいよ。

 

 自分に言い聞かせるように嘆息した。
 だからといって、いつも会釈をしてくれる男に自分から話し掛けるなどという勇気は美世子にはなかったのだけれど。

 どうして──

 あんなふうに微笑んでくれるのだろう。
 私は多分、笑ってはいない。こんにちはと返事をして頭を下げるだけだ。
 やめて欲しい。
 そんな笑顔を向けられたら、恥ずかしくて何の言葉も出せなくなるから。

 いつの間にか、美世子は図書館に来ると真っ先にあの青年の姿を探すようになっていた。名前も知らないのに。

「こんにちは、新刊読みました?」

 

 こんにちは、以外の言葉を聞いたのは最初に彼が話しかけてきてから実に1ヶ月が経過してからのことだった。美世子は今度はいきなり身を引くことはなく、それでも消え入りそうな声ではい、とだけ返事した。
 ようやく美世子が青年と怖気づくことなく会話できるようになるには、さらに3ヶ月を要した。
 もともと読書好きだから、好きな本の話になれば随分リラックスして話すことができることもできるようになった。

「美世子さんて、笑うと可愛いなぁ」
「え?」

 

 目を青年に移すと彼はデスクに頬杖をついてにこにこ微笑んでいる。
「普段はどっちかというと綺麗な感じだけど、笑うと可愛らしくなる」
「からかわないで。わたし、……ぶすだもの」
 綺麗だとか可愛いだなんて言われたためしがない。自分の容姿のことは自分が一番わかっている。しかし青年は不思議そうな顔をしただけだった。
「またまた謙遜して。美世子さんは美人だよ。もっときちんとお化粧して、あとモデルさんみたいに背が高くてすらっとしてるんだからしゃれた洋服を着たら僕だけじゃなくて他の男だってほっとかないと思うな。美世子さん、自分の綺麗さを知らないんじゃないの?」
「やめてよ……」
 顔がみるみるうちに熱く火照っていくのがわかる。多分、真っ赤になっているだろう。
 絶対、からかわれている。あとで笑うのにきまってる。
「わたしみたいな子をからかって、何が楽しいの?」

 青年は、ずっと微笑んでいた顔を曇らせて真っ直ぐに美世子の目をみつめた。他人と視線を合わせることが苦手で、ついそれを逸らしてしまう。
「からかってなんかいないのに。美世子さんはそんなに僕が信用できない?」


 涙が──
 出そうになった。


 本をつかんだままの手を、青年の手が握り締めた。反射的に引っ込めようとしたが、その手は緩まなかった。
「そんなに信用できないなら、僕とつきあって下さい」
 他の人間もいる図書館で、そんな会話をしたりあまつさえ手を握るなんて──今までの美世子ならば絶対に許せなかった。
 しかし、今はそれどころではなかった。
 結局のところ、美世子はとうの昔に恋に落ちていたのだ。

 

──嵯院七哉という青年に。

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「美世子は最近綺麗になったなぁ」
 珍しく父も揃って夕食の席についていたある夜、突然気が付いたように父がぽつりと言った。


 多忙な父は、夜はたいてい会議か接待などで遅くなることが多い。家族四人が揃って食卓につくことなど月に何度もあるわけではなかった。美世子も父と顔を合わせたのは久しぶりだった。
「好きな男でもできたのか」
 からかうように父は笑った。
「よして下さいお父様」
 もともととんがった唇をさらに尖らせて美世子はうつむいた。照れている。
「おまえも年頃だからなあ。図書館通いばかりしてあとは家に閉じこもっていると聞いていたから心配していたんだが……そうなればそうなったでちょっと寂しいな、父さんは」
「よしてってば」
「どんな男だ?おまえのことだから変なやつを選びはしないだろうが、一度父さんにも会わせてくれよ」
「……そのうちに」


 交際といってもまだ図書館の帰りに喫茶店に寄って本の話をしたり、せいぜい買い物に行って服を見立ててもらったりとそんなデートをしている程度である。自ら箱入りになっていた娘は自分の彼氏と夕食を食べに行ったりあまつさえ酒を飲みに行くことなどまるで禁忌のように思っていた。父に好きな男がいると見咎められたことが、なんだか悪いことをしてそれが発覚したかのように後ろめたい。なんら──後ろめたいことなどしていないのに。
 しかし父親が娘の変化を敏感に感じ取るまでもなく、美世子は確かに以前に比べ美しくなっていた。以前は誰に見せるつもりもないので飾り気ひとつなかったが、やはり好きな男ができれば少しでも綺麗にして見せたいから化粧や服装に気をつかうようになるし相手の好みのファッションを取り入れたりしようともする。
 美世子自身、男のためにそんな風に努力する自分など想像も出来なかった。
 それでも、最初は嫌だった綺麗だね、可愛いね、という言葉のひとつひとつがいつの間にか美世子にコンプレックスの固まりだった自分の容姿に対する自信を与えているのは間違いなかった。

 食事が済んで自室へ戻ろうとした時。
 父の秘書の一人でもっぱら自宅のことを取り仕切っている、秘書というより執事のような仕事をしている男が美世子を呼び止めた。
「お嬢さま、少しお耳に入れたいことが」
「なあに、加野さん?」
 男──加野は少し逡巡したようだが声を殊更潜めた。

「お嬢さまのお相手の男性は、およしになった方がよろしいかと」

 

 美世子はひどく顔を顰めて加野の顔を見上げた。
「出すぎたことかと思いましたが、少々調査させて頂きました。大事なお嬢さまにおかしな虫がついては社長に申し訳がありませんから」
「どうしてそんな勝手なことをするの」
 咎めるような美世子の言葉にかまわず、加野は続けた。
「あの──嵯院七哉、という青年は確かにわずか数年で事業を起こしてそれを成功させているやり手です。すでに財産もかなりあります。しかし、そこへいたるには色々と汚いこともしてきているようで。お嬢さまに近づいたのも社長にとりいって我が社をのっとるつもりなのに違いありません」
「違うわ!」
 美世子にしては大きな声で加野の言葉を遮る。


 嵯院七哉が会社の経営者であることも、実はけっこうな財産家であることも、実のところ美世子が知ったのは最近のことだった。
「わたし達は図書館の常連で、それで知り合ったの。あの人だって最初はわたしの父が社長だなんて知らなかったわ」
「最初から、あなたを美世子さんだとわかっていて知り合う為に図書館に通っていたんですよ。第一、その証拠に……あの男には女がいます。女と同棲しているような男がどうしてあなたと知らぬ顔をしてつきあうんですか。もし会社が目的でなかったとしてもそれだけであなたは馬鹿にされているのと同じです」
「嘘よ!」
 美世子はそれ以上加野の言葉を聞かなかった。そのまま加野の横をふりきって階上の自室へ向かう。

──あの男には女が
──女と同棲している男がどうして

 そういえば、七哉の家に行ったことはない。男の家になどそう軽々しく行くものではないと思っていたから、行きたいと思ったこともなかった。


 女がいるなんて嘘だ。
 だって、七哉さんはわたしのことを綺麗だ、可愛い、好きだと言ってくれたもの。
 わたしを綺麗だとか、可愛いだとか、ましてや好きだなどと言ってくれる男がどこにいたのよ。

 

 美世子は枕に顔をおしつけて随分長い間、泣いた。泣く時に声を上げるのはみっともないから、必死で声を殺して。

 深夜に差し掛かった頃、美世子はようやく泣き止んで紅茶でも飲もうと階下へ降りると、加野が電球を取り替えたり邸内の器具の点検をしていた。
 気まずい。
 加野は美世子に気付くと姿勢を正して頭を下げた。
「先程は申し訳ありませんでした。お嬢さまのお気持ちも考えず」
「……いいんです。加野さんに悪気はないんでしょう?それより、加野さん」
 加野の顔を見もせず美世子は言葉を切りながら小さく呟いた。
「七哉さんが今、どこにいるかあなたは知っているの?わたしを七哉さんのところへ連れてって下さらない?今から」
 こんな時間には七哉が何をしているのか、美世子は知らない。
 自分の目で確かめなければ──眠ることなど出来はしない。

 こんな深夜に外に出るなどということは美世子には殆ど経験がない。
 加野の運転する車の後部座席で、ぼんやりと流れる灯りを目で追う。
「今どこにいるかは定かではありませんが、とりあえずよく夜に立ち回っている先を回ってみます。よろしいですか」
 返事はしなかったが加野はそれを了解と受け取ったらしい。
 下卑たネオンの輝く街並みをスピードを緩めて通り過ぎる。こんな深夜だというのに灯りであたりは昼間のようだ。中華街や繁華街を車はうろうろと走りまわった。
「もう帰宅しているのかもしれません」
 さすがに、家にのりこむ度胸はない。訪ねていってもし加野の言う通り女が出てきたらどう対処していいかもわからない。


「いえ……お待ちください。いました。あそこです」
 

 殊更スピードを落とし、加野は車を停めた。目立たぬように指をさしたその先に視線をやると──


 そこに、図書館でいつも会うあの優しい顔が見えた。

 嵯院七哉は酔っているようだった。
 傍らには、女がいる。七哉に親しげに腕を絡めている。
 他にも、二、三人の若者と一緒だった。


「……あれ、七哉さん?」
 独り言のように呟く。


 嵯院七哉は車の中にまで届くような大声で笑っている。言葉までは聞き取れないが、何か大声で叫んでいる。隣の女も笑って、時々七哉の肩をひっぱたいている。逆に七哉が女の頭を小突いたりもしている。
 楽しそうだ。
 七哉は美世子といるときは徹底して優しかった。
 笑うときもにっこり微笑むばかりで、声を上げて笑うのを見たことなどない。
 美世子の見たことのない七哉がそこにいた。

 七哉の隣にいる女は──美しい女だった。
 多少服の趣味や髪型などが下品には見えたけれど、目のぱっちりとした華やかな顔立ちをしている。多分、10人中10人が美人だと評するだろう。

「加野さん、もういいわ。帰りましょう」

 美世子はそれだけ言うと目を瞑った。
「……あの人は別の人よ。わたしの知っている七哉さんは、あんなに下品な笑い方をする人じゃないもの」
 

 そのまま美世子は自宅へ帰りつくまで、目を開けはしなかった。

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 美世子は七哉と別れようとはしなかった。
 それどころか、数日後には自宅へ七哉を招待し、両親に紹介した。
 父は、実業家としての嵯院七哉のことはよく知っていたらしい。一部で良くない評判はあるものの、経営の手腕のことは大いに認めている。父親は娘とその男との交際を単純に喜んでいるようだ。


 そうこうしているうちに、七哉はついに元華族の屋敷だったという広大な土地と屋敷を手に入れた。
「美世子、七哉くんはおまえを女王さまのようにあのお城に住まわせてくれるらしいぞ」
 父は、経営者としてはもしかしたら人が良すぎるのかもしれない、と少し思った。最初に加野が疑ったようなことは、父はこれっぽっちも疑っていないように見える。
 しかし美世子はただ、それに微笑んで返すだけだった。

 そのドアの前に立ったのはそうしたある日のことだ。
 七哉は出張で外国へ行っている。
 ベルを鳴らすとほどなく返事があり、かすかにドアが開いた。


「あなた、リカさん?」
 

 ドアの隙間からのぞいた女の顔に声を投げる。
「そうですけど、どなた」
「嵯院七哉さんのことでお話がありますの。もう少し開けていただけない?」
 小さな溜息が聞こえ、ドアの中の女は美世子をドアの中へ導いた。家に上がることを促されたがここで結構、と断る。
「わたし、高城美世子と申します。もうすぐ嵯院七哉さんと婚約しますの」
 リカは不審者を見るような目で美世子を見ている。

 それはそうだ。おそらく、この女は七哉に他の女がいて、それと結婚しようとしていることなど知らないのだろう。
「何がいいたいの?」

「おわかりにならない?わたしが七哉さんの妻になるのよ。だからあなた、七哉さんとお別れしてちょうだい」
 以前の美世子なら、こんな風に他人に高圧的な態度にでるなど思いもよらなかった。しかし、美世子はすでに自分の変化にすら気付いていなかった。

 必死だったのだ。
「あたしはまだ七さんから何も聞いてないんだ。他人が何言っても、あたしは七さんの言うことしか聞かないから。あんたに別れろなんて言われる筋合いないよ。悪いけど」
 他人、というところに力を入れてリカは言い放った。


──下品な女。


 ”七さん”だなんて慣れ慣れしい。
 あの人はきっとこの女に騙されているんだわ。
 こんな美人なくせに、他の男からももてるだろうに、どうして七哉さんなの──


「用事が済んだら帰って」
「……いの」
「何?」
 搾り出すような声が聞き取れなかったのかリカはさらに不審げに美世子を睨んだ。

「あなたみたいな綺麗な人、七哉さんじゃなくたっていいじゃないの。どうせその見た目であの人をたぶらかしたんでしょう?あなたにもっとお似合いの下品な男はいくらでもいるわ。あなたみたいな人にはわたしの気持ちなんてわからないのよ!」
 美世子の目から涙が溢れていた。
「七哉さんしかわたしのことを可愛いなんて言ってくれた人はいなかった。きっと他にもいないわ。わたしのことを好きになってくれる男の人なんて、他にはいやしないのよ。わたしにはあの人しかいないの。お願いよ、あの人と別れて。あの人をわたしにちょうだい。お願いだから……」
 リカは酷く困惑した顔に変わっていた。
 すがるようにリカの腕を美世子が掴む。リカは抵抗できなかった。


「……ごめん。でもあたしだって七さんが一番好きなの。七さんが、あんたのためにあたしと別れるって言うなら仕方ないけど……あたしにだって七さんの代わりの男なんていないんだ。今あんたにわかりましたって言うことは出来ない」
 

 美世子の嗚咽はもう言葉を成していなかった。リカは唇を噛み締めて美世子の手を自分の腕からはずす。
「ごめん。もう帰って」
 もう一度ごめん、と言うとリカはまだ泣きつづける美世子をドアから追い出し、そのままドアを閉めた。


「──ひどい女!」


 車で待機していた加野が駆けつけてくるまで、美世子はその場で泣き叫び続けた。

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 話はとんとん拍子に進み、ほどなく美世子は嵯院七哉と結婚した。
 父の言う、女王さまのようにお城に住まう生活が始まったのだった。
 しかし──
 七哉は結局、リカとは別れなかったらしい。

──馬鹿にして。

 妻となった優越感が最初は勝っていた。いくら別れなくても、結局妻の方が立場は上だ。こうなればあちらはただの愛人にすぎない。
 それでも、どうしても七哉がリカでなく自分を選んだのだとは思えなかった。
 七哉は当初は結婚前と変わらず優しかった。両親や弟にもよくしてくれるし、父の信頼を得て仕事上でもよく協力しているようだ。
 しかし、徐々に──
 女王は城に取り残される日が増えていった。
 忙しいんだよ、という言葉が段々に信じられなくなってきた。きっとリカと会っているに違いない。リカの住むあの家に「帰って」いるのかもしれない。


 わたしが、何も知らないと思っているのね。
 何も知らずにいるわたしを、あの女と二人で笑っているんでしょう?

 

 七哉の顔を見ればなかなか帰ってこない理由を詰問したりヒステリックになってしまう自分に気付き愕然とすることがある。かつての自分は、自信がないあまり人に面と向かって攻撃的になることなど有り得なかったのに。
 じっと、鏡を見つめる。
 自分の貌はなにも変わってなどいないではないか。七哉の甘い言葉を真に受けて、もしかしたら自分は自分が思っているほどのブスではないのかもと思っていたが──それはただの思い違いなのだ。
 それどころか。
 嫉妬や不満や憤りや、もろもろの負の感情がくっきりと顔に浮かんでいる。

──なんて醜い女。

 知らなければよかったのに。あんな女の存在を、知らなければこんな風に嫌な女にならずにいられたのに。否。
 今すぐにでもあの女と別れてくれたなら、これ以上醜くならずにいられるのに。

 こうして迷路に迷い込んだ美世子の想いは、一番理解してもらいたい恋しい相手である筈の夫に対する攻撃へと変質してしまうことになる。
 それがさらに自分から夫を遠ざける結果になってしまうというのに。


 その日、何日かぶりに屋敷へ戻ってきた夫を捕まえることに美世子は成功した。
「随分お忙しいのね。父はどんなに忙しくても遅くなっても帰宅してましたのに」
 そんな嫌味を言っても仕方ないのは判っているのに言わずにいられない。七哉は嫌な顔をした。
「君のお父さんとは違うよ」
 うんざりとした声で短く返事する。
 あんなに優しかったのに、もう最近は視線も合わせてくれなくなった。
「大事なお話がありますの。たまにはわたしのお話も聞いて下さらない?」
 あからさまに面倒そうな顔をして、七哉は先を促した。ソファに腰掛けようともしない。
 美世子は一旦唇をきゅっと結び、何かに縋るような目をした。

「妊娠しましたの」

 

 七哉は──
 まばたきをして何かひどく意外な事を聞かされたような顔をした。
 その顔を見て──
 美世子のどこかに残っていた気持ちがぷつり、と切れた。


「そう、おめでたですって。3ヶ月めに入ったところです。どうしたの?喜んで下さるでしょう?」
「──」
「あなたは父親になるのよ。だから、もう遊びは終わりにして下さいね」

 知らないふりをしてきた。しかし、この切り札を使うのは今しかない。

「あの女と別れて下さいますよね?」

 出来得る限りの微笑みを作った。

 夫はわたしがあの女の存在を知っているとは思ってもみなかったのだろう。鳩が豆鉄砲でもくらったような顔をしている。ああ、いい気味だわ。どんな気分なの?本当に父の会社が目当てなんだったら、わたしには逆らえないはずよ。

「……栄養をとって身体を大事にしなさい」
 七哉はそれだけ言って背中を向けた。慌てるでも取り繕うでもなく、まして子供が出来たことを厭うでも喜ぶでもなく──
「──待って!他に言うことはないの?」


──いっそ。
 罵倒でもしてくれた方がましだ。そんな子供なんか要らないとでも言ってくれた方がずっとましだ。慌てて、みっともなく言い訳でもしてくれたなら少しくらい許してあげてもいいものを──


 そんな風に、どうでもいいことのようにあしらわないで。
 

「──すぐに別れてくれなければ父に言うわよ?」
 夫は振り返ると、笑った。
 知らない男の貌で、冷たく笑った。

「──君にはそんな無様なことは出来ない。父親思いの、優しい娘だからね」

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 美世子が妊娠してからはそれまで以上に七哉が屋敷に戻る回数が減った。


 夫を繋ぎとめる切り札だと美世子が思っていたものは、何一つその効力を発せずむしろ、逆効果でしかないと思い知らされた。それでも実際に産まれれば自分の子供だ、可愛くなるのではないだろうか。少しはそう思ったこともある。
 けれど、陣痛が始まっても、難産でまる一日以上苦しんでいても、七哉は帰ってきてはくれなかった。

 なんのためにこんなに苦しい、痛い思いをしてるんだろう。
 誰も、この子供を待っていないのに。
 あんな冷たい夫の子供を、どうしてこんな思いをしながら産まなければならないの。
 わたしがこんなに痛くてつらい思いをしているのに今ごろ夫はあの女といちゃいちゃしているにきまってるんだわ。

 

 子供は仮死状態で生まれたが医師の尽力で蘇生した。
「……無理に生き返らせなくてもよかったのに」


 こんな子供、いらない。
 なんの役にも立たないんだもの。

 美世子は、結局自分が産み落とした子供を腕に抱くこともしなかった。

 

 出産後、何ヶ月かは体調が戻らず、美世子は殆ど床に伏した状態になった。最初は、ベビーシッター替わりのメイドが子供を連れてきたりもしたが美世子は追い払うように子供を避けている。
 何も知らない両親が子供の顔を見に来た時だけ、ぎこちなく抱っこしてみせたりはした。
 七哉の看破した通り、美世子は両親には要らぬ心配をされたり叱責されたりするのが嫌で表向きの幸せを繕わずにはいられなかったのだ。
 そのうち──
 メイドが子供を連れてこなくなった。最初は自分が避けていたのだから煩わしくなくてよかったが、ふと気になり始めると止まらない。
 子供はどうしているのかと尋ねると、メイドは答えにくそうに言葉を濁してばかりになった。


 やがて。
 美世子の産んだ子供は、七哉がどこか他で育てているらしいと耳に入った。
 どこか、など聞かなくてもわかる。
 あの女のところだ。

──いい笑いものだわ。

 妻の産んだ子供を愛人に育てさせるなんて。
 いらないとは思ったけど、あの女にくれてやるなんて言った覚えはないのよ。
 どこまでわたしを馬鹿にすれば気が済むの。

 両親は、美世子の体調がいつまでも回復しないから子供を他に預けていると思い込んでいる。否、七哉に言いくるめられているのだろう。
 それでも、子供がいて父に利用価値があるうちは自分がここから追い出されることはない筈だ。これで離婚でもされて追い出されたりしたら惨めなことこの上ない。もう嵯院七哉からの愛情などとっくに諦めてしまったけれど、これ以上惨めになるのだけは我慢できなかった。


 父に──利用価値があるうちは──

 それは、美世子が思っていたよりもずっと早く訪れた。
 嵯院七哉は順調に美世子の父親の会社の内部に喰いこみ、わずか数年で喰いつくしてしまったのだ。まるで、身体に卵を産み付けられいいように喰い荒らされて最後に食い破られていく虫のように。
 両親と弟は事実上追放され、外国へ追いやられてしまった。
 七哉が美世子と結婚した目的はこれで達成されたのだろう。

──次はわたしだ。

 頼みの綱だった父の利用価値も七哉にはなくなってしまった。とすれば、わたしと結婚関係を継続する必要はない。
 さっさと縁を切られ追い出され、そして───
 あの女と結婚するつもりだ。
 それだけは許せない。
 あの女に何もかも負けたまま終わるなんて、死んでも許せるものですか。


──そうだわ。


 まだ、あの子供がいる。
 わたしは、あの子供の母親なのだから。
 あれを獲り返せば──

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 前に、この家の前に立ってからもう5年近く経っている。


 あの時は、七哉が恋しくてただ独り占めしたくて、その一心でここに立ったのだ。もう何十年も経ったような気がする。
 あの時と同じように、加野に来てもらった。両親が外国へ追いやられたため失業した加野を、美世子の権限で雇い入れていたのだ。やはりあの時と同じく、家の外の車で待たせる。
 

 この数日、加野に頼んで人の出入りの時刻やタイミングを調べてもらっていた。
 先程、若者が一人出て行った。今リカは家に一人の筈だ。
 ベルを鳴らした。
 あの時聞いたきりの、同じ女の声が聞こえた。
「入れて下さらない?お話があるの」
 あの時と同じように言う。
「──何の用ですか」
 リカの声はあの時の何倍も攻撃的に聞こえた。
 リカは以前に増して美しくなっていた。子育てをしているせいか、以前感じたけばけばしいような下品さはまるでない。
 まるで普通の母親のように──飾り気はないけれど、それがこの女の本来の美しさを引き立てているようだった。


 美世子は深呼吸をして、出来るだけ高圧的に、リカを見下した態度を作る。
「あの子を返してもらいに参りましたの。あなたが替わりに育てて下さってたんでしょう?どうもありがとう。お礼はのちほどたっぷりさせて頂きましてよ」
「──何言ってんの?」
「下品なところは相変わらずですのね。何を勘違いなさってるか存じませんけど、わたくしはあの子の母親なのよ。子供は母親のもとで育てるのが当然です。わたくしがずっと体調がすぐれなかったからお任せしてましたけど、もうご心配なく。あの子はわたくしの手元に置きます。あの子はどこかしら」
 そのままずかずかと家の中へ進もうとするとリカは手を広げてそれを阻んだ。
「今更返せ?何寝ぼけたこと言ってんのよ!」
「もう一度言います。あの子の母親は、あなたじゃなくてわたくしなのよ。わたくしがおなかを痛めて、痛い思いをして産んだの。そこをどきなさい」


「ふざけないで!」
 

 リカは顔を赤くして激昂している。

「あんた、しーちゃんのおしめを変えたことあるの?ミルクを作ってあげたことは?お風呂に入れてあげたことは?鼻水を口で吸い出してあげたことは?夜泣きで寝不足になったことは?かわいくて愛おしくて何があっても守ってあげようって思ったことは?無いでしょう?!」
 あの時のリカは、もっと落ち着いていた。むしろ、美世子の方が逆上していた。
「しーちゃんがいつはいはいを始めたのか、どこでつかまり立ちしたのか、どんな風に歩き始めたのか、最初になんて言葉を喋ったのか、知らないでしょ?どんなテレビが好きで、おかずは何が好きで、どの絵本がお気に入りで、泣いてる時にどうしたら機嫌が直るのか、あんた何にも知らないじゃない!そんなことも知らないで何が母親よ!よく返せなんて言えたもんね!」
「──愛人のくせに偉そうに。まあ、ここまで育ててくれたことには感謝するわ。でもあなたがなんと言おうとあの子にはわたしの血が流れているの。七哉さんとわたしの血が。あなた、所詮他人なのよ。ただの乳母なのよ。さ、あの子はどこ?」
 リカを押しのけて中に入る。
 玄関先の騒ぎを聞きつけたのか、ドアのひとつから幼児がちらりと顔を見せた。目をこすって眠そうにしている。
 美世子はその部屋をめがけてすたすたと足を進めた。リカが慌ててそれを制そうとする。
「しーちゃんに関わらないでよ」
「どこまであつかましい女なの、弁えなさい」


「あんた、七さんの奥さんになれたじゃない!七さんの奥さんになりたかったんでしょう?なれて良かったじゃない、もう十分でしょ?!」


 発作的に、手を振り下ろす。美世子の手はぴしりとリカの頬で鋭い音を立てた。
「馬鹿にして──」
 そのまま室内へ入ると、そこは居間のようだった。テレビはついていない。居間だが子供用の布団が敷いてある。小さなテーブルの上には剥きかけの林檎があった。
 美世子はそのまま身をかがめてその場で目を丸くしている子供の肩を掴んだ。


「椎多ちゃん、お母様よ。さ、お母様と一緒におうちへ帰りましょう。こんな小さな家じゃなくてお城みたいな大きなおうちよ」
 しかし、子供──椎多は怯えと怒りを精一杯目に浮かべて美世子の手を小さな腕で振り払った。そしてありったけの力で美世子の手を殴ると小さな顔を真っ赤にして叫んだ。

「りか、いじめるな!」

 美世子の目の色が変わる。
──これは、わたしの子じゃない。
 すっかりこの女に手なづけられて──
 何もかも、何もかも、何もかも、わたしはこの女に勝つことができないのか。

 呻き声とも叫び声ともつかない声が美世子の喉の奥から溢れてきた。
 幼い椎多の首を、両手で掴む。
 この女にやるくらいなら、無かったことにしてやる──


「何すんのよ!やめなさい!!」
 リカの半狂乱の声も美世子の耳に届かない。リカは必死で美世子の手を椎多の首から外させようとするがびくともしなかった。
 鈍い痛みを後頭部に感じて一瞬意識がゆらぐ。その拍子に手は椎多の首から離れた。ゆっくりと振り返ると、リカが灰皿のようなものを持って肩で息をしている。
 あれで殴られたらしい。
 もう十分に逆上していたはずの美世子は、喉が緩んで泣き叫ぶ椎多を放り出すように突き飛ばすとゆらりと立ち上がった。


 目の端に、剥きかけの林檎が目に入る。そこには、林檎をむいていた果物ナイフが──

 そして、美世子はそれに手を伸ばした。

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「嵯院氏はことが公になったり警察に入られると色々困ることがあるので、通報はせずに内々に片付けようとするはずですからご心配なく」


 加野が奇妙なほど冷静な声で言った。
 美世子は自分の血まみれの手を見下ろして放心している。
 

「いっそのこと警察のご厄介になった方があなたの身の安全は確保されるかもしれませんが。相手は所詮やくざです。警察と違って証拠のあるなし関係なくあなたがやったと判断すれば報復に来るかもしれません」
「脅しているの?加野さんもわたしを軽蔑しているんでしょう。ばかな女だと」
「いいえ」
 加野は運転しながらちらりとも振り返らずに言った。


「私は美世子さんがまだ中学生のころから存じてます。あなたは本当は繊細で傷つきやすい女性だということはよく承知しておりますよ。あなたが嵯院七哉氏に純粋に恋しておられたことも。こんなことになるくらいなら、あの時あなたがどれほど傷ついてもおふたりの交際をお止めすればよかった。申し訳ありません」
 

 もう遅いわ──
 小さく呟き、皮肉そうに笑った。
 運転席を透かして前方を見やるとバックミラーに自分の顔が見えた。

──醜い女………。

「ねえ、あのころ七哉さんはわたしのことを綺麗だ、可愛いと言ってくれたのよ。わたしを騙すために心にも無いお世辞を言ってたのかしらね」

 信号が赤に変わる。
 車を停めると加野は初めて振り返った。
 

「あの頃の美世子さんは、お美しかったですよ。とても可愛らしかった」
 

 あなたがわたしをおだてて騙しても何も出ないわよ──
 笑った。

 わたしは、人殺しをしてきた帰り道にこんな他愛も無い話で笑えるような人間なのだ。

 これ以上醜いことがあるだろうか。


 憎い女の血で固まった掌で、顔を被う。乾いてはいるが血の匂いが鼻をついた。


*the end*

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*Note*

「醜女」は「ぶす」と読んで下さい。

椎多の母の話は序盤にちらっと出て来てたけど、どんな女性だったかというのを具体的に書いていなかったので書いてみようかなというのが出発点でした。

この女性のイメージがきちんと固まるまでは、序盤で記述したような「どこかの大企業の令嬢だというだけで美しくも気立てがいいでもない、気位ばかり高くて鼻もちならない女」というくらいのイメージだったんですが、いざ描いてみようと思って色々考えてるうちにこの女性は最初は本当に七哉の事を好きだったんじゃないかと思い始めて、そこからどんどん膨らみました。

​あと、リカが殺された経緯もただ犯行現場のこととか状況とかしか書いてなかったので実際は何があったのかも書いてみたかったんですけどね。

本当に大好きなのに振り返ってもらえない、妻にはなれたけど愛してもらえない、自分の産んだ子供は愛人に取られる、そりゃ殴り込みにでも行きたくなるわなぁという組み立て。

多分彼女は自分が思っているほど不細工ではなかったんだけど、自分の容姿が嫌いで自信がなくて、だから嘘でも好きだと言ってもらえたことだけが頼みの綱だったわけです。

「醜女(ぶす)」というタイトルですがそれはもちろん、外見の美醜ではなく心の醜さのことを指しています。

美世子を「醜く」したのは七哉なんだよね。女の敵め。普段は七さん大好き大好き~って紫みたいな気分で書いてることが多いんだけどこの話を書いてる時だけはこの男マジ許せん殺す、とか思いながら書きました(笑)。

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