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罪 -21- 分水嶺の先

 青ざめた顔はそれでも美しいな、と思った。

 時計を見ると、日付が変わった深夜である。
 早々に就寝しようとしていた老医師を叩き起こし、龍巳に刺された柚梨子の応急処置をさせた。
 狙った相手ではない柚梨子が突然目前に現れたことで、驚いて切っ先を避けようとはしたのだろう。狙い通りであればもっと深く、しかも刺したナイフでさらに抉ってきていてもおかしくなかった。そうされていては命は無かったかもしれない。龍巳の咄嗟の判断のおかげで助かった。
 念のため外部で開業医をしている柊野の息子、航輝を緊急で呼びつけたが幸い重大な臓器に損傷を与えるような傷ではなかったらしい。運が良かった、と柊野は言った。手術オタクの航輝は柚梨子の疵を出来る限り残さないように丁寧に縫ったと得意顔だ。


 柚梨子は痛み止めが効いているのか、静かに眠っている。

 Kに龍巳を殺すように指令したが、まだその後の報告は届いていない。

 

 青乃が桧坂紋志を屋敷に連れ帰ってから、まだ10日も経っていない。中でもこの3日ばかりはさすがの椎多でも勘弁して欲しいと思うほど色々な事がありすぎた。
 この上、柚梨子まで手放すことになるのか──

 紫が右手首より先の機能を失った怪我をした時のことを、椎多は思い出していた。
 郊外の料理旅館で政治家の接待をしていた時だ。帰ろうとする椎多を狙っていた賊を取り押さえようとした時、敵のナイフの切っ先を避けきれなかった。おそらくほんの数ミリずれていれば、そこまで重大な怪我ではなかったと聞いた。

 紫でも武器で傷つければ大きな後遺症を残すような怪我もする。命を落とすこともあるかもしれない。
 それに考えが至った時の心臓が潰れるかと思うほどの恐怖を椎多は忘れることが出来ない。
 だから、いっそ自分の側から手放そうとした。あの恐怖に耐えきれなかった。それがあそこまで紫に絶望を与えることになるとは思いもしなかった。
 失うことが怖くて手放そうとしたのに、結局自分で壊してしまったのだ。

 

 ポケットからあの小さな飾り銃を取り出し、指で細かく施された装飾をなぞる。先ほど発砲したばかりだから、まだ硝煙の匂いがする。

 柚梨子も、もしほんの少し運が悪くて、ほんの数センチ、数ミリずれていたらどうなっていたかわからない。

 柚梨子の顔の脇に頭を落とし、椎多は深く息を吐いた。

 

「──旦那様?」

 

 吐息のような声が聴こえた。反射的に頭を上げると柚梨子はうっすらと目を開いていた。
 まだ痛み止めが効いているのだろう、強い痛みはまだ戻ってはいないがろくな発声も出来ずにいる。
「大丈夫だ、命に別状はない」
「申し訳ありません……あたし……」
 頬を撫でてやりながら頭を横に振る。
「あたし、だめですね。あなたの代わりに刺されるんじゃなくて、敵を取り押さえなければならないのに……紫さんに叱られます」
「もういい、もう一度寝ろ。安心したから俺も部屋へ戻って寝る」
 うふふ、と笑い声を漏らすと柚梨子はぎこちなく腕を上げて椎多の手を取った。

「あたし、刺された時もうこのまま死んでしまってもいいって思ってました」


 ぎょっとして思わず手を握り返す。
「あなたのお側を離れたあと、自分がどうしたらいいか全然思い浮かべることが出来なくて」

 ほんの1時間でも、あなたがあたしの恋人になってくれたから──
 ここで死んだら、あなたの恋人だったあたしのまま死ねるのかなって──

「馬鹿言うな」
 握り潰すほどの力で柚梨子の手を握る。
「おまえは本当ならこんな風に誰かを守って傷ついたり戦ったりする側の人間じゃない。好きな男から愛されて甘やかされて守られて幸せに笑って生きていける側の人間だったんだ。だけど──」
 握った手を額に当てる。祈りを捧げるように。


「それは、俺じゃない」

 ふふ、とまた笑い声が聴こえる。

「俺に出来るのはおまえにつらい想いをさせたり危険な目に遭わせたりすることくらいだ。つまらん男に惚れたな。もうやめておけ」
「そうですね。でも」
 
 あたし、これでも幸せだったんですよ。
 ここに来たことも全部、最初はあたしの意思じゃなかったけど。
 秘書も、ボディガードも、殺し屋も。それになるための厳しい訓練も。
 あなたが孤独な時に何もせずに側にいることも。
 あなたに抱かれることも。
 あたし、ちゃんと幸せだったから。
 だからそんな顔なさらないで。
 あたしが居た年月を、毎日を、間違いだったみたいに言わないで。

「柚梨子──」
「今だからついでに言っちゃいますね。あたし、紫さんみたいになりたかった。最後はあなたに殺されるくらい愛されたかったんだと思います」

 自分で顔が強張っているのがわかる。
 紫と自分のことを、その想いの深いところまで、知っているのは柚梨子ひとりだ。

「それを認めたくなくてあなたを自分だけのものにしたいんじゃない、ただずっとおそばにいたいだけだって自分に言い聞かせてきました。でもこれ以上あなたのお側にいたら、紫さんみたいじゃなく嫉妬深いただの女になってしまうかもしれない。そんなのは絶対嫌なんです。だから離れるのが一番いいって思ったんです」

 あたしを幸せにしてくれるのがあなたじゃないから──そんな理由じゃない。

「明日の会食、ご一緒できなくて申し訳ありません。名張さんに頑張ってってお伝え下さいね。動けるようになったら引き継ぎに行きます。旦那様ももうお休みになって」
 声に力はないまま、口調だけは朗らかに変えて、柚梨子は笑った。
 言いたいことがもっとあった筈なのに──
 椎多はただ握った柚梨子の手に接吻けるとそれを離し、立ち上がる。
「おやすみ」
 扉のところで振り返って声をかけると、柚梨子は微かに手を振ってそれを見送っていた。

 部屋を出ると一旦扉にもたれかかって天井を見つめ、息を吐いた。


 胸のどこかがちくりちくりと痛む。それとは別に、ほのかな暖かさが灯っている。
 そうか。
 紫がいなくなった後、柚梨子はこうして俺の心を毛布みたいにくるんでくれていたんだな。
 幸せだったと言ってくれたことがせめてもの救いなのかもしれない。
 
 それでも──
 だからといって、俺はそれに甘えていてはいけないのだ。

 椎多は深呼吸をすると自室に向かった。

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 殺せ、と椎多は命じた──が。
 あの距離だ。本当に殺す気があるなら自分で撃てば済むことではないか。
 そういえば椎多が銃を持っているのは知っているが撃っているところを見たことはない。そもそも腕前がどんなものなのかは知らない。あの距離で、しかもあの小さな銃なら重みも反動もたいしたことない筈だ。
 射撃が下手なのか。
 それとも実は自分では殺せないビビリなのか。

 Kはあれこれ考えながら、龍巳を殺す必要はない、と結論付けた。

 航輝が柚梨子を診るために屋敷に来ているのを発見するとKはこっそりと声をかけ、肩を撃たれた龍巳も診るよう頼んだ。もともと組の方に居た頃には航輝の医院にもよく出入りしていたので顔馴染みだ。航輝にすれば口径が小さく破壊力も無い上銃弾が貫通してしまった銃創など、たいしてやることがない、つまらん、ということらしいが出血が多いことだけは興味をそそったらしい。何食わぬ顔で開業医などしているが、普通に平時にはこの医者に診られたくはないなと思う。
 意識は無い状態のまま痛みに耐えきれず大声で叫ぶものだからタオルを噛ませて、それでも騒ぐし暴れるからというので鎮静剤で少しおとなしくさせる。この状態では催眠術もかけようがない。
 大量に出血したように見えたから焦ったが、輸血が必要なほどではないという。
 航輝が処置をする為に脱がせたあの軍服のような制服の下には、少し驚くほど白い身体があった。数え切れない大小の古い傷がそこにペンキで描いたように散らばっている。
 龍巳は伯方のように本物の戦場に居たわけではない。外部の警備会社に勤めていた時でも、日常的に賊と格闘していたわけでもあるまい。これはおそらく、日々の訓練の中で刻んでいった傷が大半だ。

 ばっかじゃねぇの……

 今度一杯奢れよ、と言い残して帰っていった航輝を見送るとKは所在なく椅子に腰かけ、煙草に火を点けた。

 


 龍巳が矢島恭太郎を殺せと青乃に命令されたと聞いたその夜のうちに、Kは『恭太蕗』へ向かった。

 閉店時間まで粘り、酔っぱらってカウンターで寝てしまったフリをして様子を見る。
 近所の常連らしき親爺たちがそれぞれ帰っていき、恭太郎は暖簾を店内へ仕舞っている。外の赤い提灯の灯りが消えた。
「お客さん、起きて下さいよ。そろそろ閉めますんで」
 笑い含みの声に寝ぼけた顔をつくって頭を上げる。もう客は誰も残っていない。
「どうぞ」
 カウンターの向こうから汁椀を渡される。蜆の味噌汁だった。うまい。
 てきぱきと片付けをしている恭太郎を見ていると、たまに目が合う。目が合う度ににいっと笑う。
 俺と気が合いそうな兄ちゃんだなと思った。まず料理がどれも旨かった。少し遠くて面倒だが通いたいくらいだ。

──こういう目的でここへ来たのでなかったなら。

「大将、ちょっといいすか」
 うん?と振り返った恭太郎の目の前に、1本立てた指を翳した。

 

 その翌日の開店前『恭太蕗』はガス爆発とそれに伴う火災で半焼した。矢島恭太郎は爆発に巻き込まれて吹っ飛び、ほぼ即死だったという。

 龍巳は青乃の命令を受けて矢島を殺すタイミングを伺おうとしていた。しかし龍巳はおそらくまだ本当に人を殺したことがない。なかなか踏ん切りがつかなかったようで、実行日を決めたのは命令を受けた翌朝だったらしい。
 龍巳がそれを実行する前に矢島が先に"事故"で死んでしまえば、龍巳の手は汚さないし青乃に処罰されることもあるまい。

 俺はさ、まあ組長に拾われる前にも何人か殺してるし。別にどってことない。
 だから、俺があの日恭太蕗に行ったことも矢島恭太郎に催眠術で次の日に自分でガス管を外すように指示を与えたってことも、俺以外誰も知らない。龍巳にも教える気はない。俺が墓場まで持っていけばいい話だ。

 

 

 ぼんやりと考えているうちに、ろくに吸ってもいない煙草が根元まで灰になっていた。
 慌てて灰皿に放り込んでもう1本を咥える。
 小さなうめき声が聴こえた。
「おう、起きたのか」
 状況を把握するのに時間がかかっているらしい。痛みで目が覚めたのか、額には脂汗が玉のように浮かんでいる。
「自分は………」
「組長を殺そうとしたけど庇った柚梨子を刺して、組長に肩を撃たれた。以上」
「そうか………」
 立ち上る煙を追っていた視線を龍巳の顔に落とすと、横向けに逸らした目から滝のように涙が流れている。何故かぎょっとして煙草を取り落としそうになった。
「自分はまた何も出来なかったのか……」

 青乃様を守ることも。
 命令を遂行することも。
 そのお心を少しでも楽にしてさしあげることも。
 憎い男を排除してお見せすることすら。
 自分は何ひとつ出来ない。

「居ても何の役にも立たないなら自分など消えてしまえばいいのに──」

 Kに聴かせるためではないのだろう。
 龍巳は涙と一緒にうわごとのように言葉を漏らしていった。
「あのさ、おまえ」
 Kは次第に苛々し始めた。吸っていた煙草を、火のついたまま灰皿を投げ込む。
「バカかバカかと思ってたけど、ほんっとにバカだったんだな」
 龍巳が目線だけをKに向ける。
「おまえ、青乃様が死ねっつったらその場ででも死ぬんだろ。自分の生き死にを他人に全部押し付けて楽してんじゃねえよ!」
「…んだと……」
 龍巳の目に怒りが灯ったのが見えた。起き上がろうとするが激痛が襲ったのか身体がうまく動かない。
「おまえがそんなに痛い思いをしてたって青乃様は痛くも痒くもなけりゃ、おまえが痛い分あの人の痛みが減るわけでもねえんだよ!そんなの無駄なんだよ!!いい加減わかれよ!!」
「黙れ──黙れ!!嵯院の手先の貴様にそんなこと言われる筋合いはない!!」
 痛みを振り切るように勢いづけて起き上がった拍子に、肩に包帯を巻くために自分の衣服が脱がされていることに初めて気づいた。ギクリと自分に被せられていた毛布を手繰り寄せる。
「貴様──見たのか」
「おう、見たさ」
「そう──か」
 龍巳はベッドの上で膝を立て、左手で頭を抱えた。Kはやれやれ、と溜息をつく。

「おまえ、青乃様に惚れてるのか?ただの忠誠心だけじゃあそこまで思い詰められねえだろ」
「そういうのじゃない。決して、そうじゃない。ただ忠誠を誓ってる、それだけだ」 
「でも──」

 本人が気づかないだけでそれは恋愛感情に最も近いのかもしれない。だとしてもこんな歪ではどうせいずれ崩壊する。現に、もう殆ど崩壊しているではないか。

 龍巳は立てた膝に顎を乗せて、これまで見たことのないような遠い目をして、ぽつりぽつり漏らし始めた。

 


 龍巳は葛木家の経営していた児童養護施設にいた。
 その養護施設から葛木邸に移される子供はそれより以前は葛木紘柾の閨の相手をする役目にされていたが、紘柾が自分の子供たちの成長に伴いその趣向をやめて以降経営を手放すまでは伯方が勘のいい子供を選んで警護人の育成に充てていた。龍巳はその中の一人だった。
 伯方は子供相手でも容赦なく厳しく、訓練に耐えられず脱落した子供はまた施設に戻された。
 施設に入る前、親に虐待されていた龍巳はとにかく力を欲していた。一方的に殴られて泣いているのは嫌だ。だから厳しい訓練にも耐えた。
 そんな時、庭を犬たちと散歩している青乃が通りかかったのだ。

──まあ、あざだらけで痛そう。伯方、かわいそうよ。どうしてこんなにぶつの?

 泣きそうな顔で伯方に言い募る青乃に、伯方は膝をつきまだ幼い龍巳を青乃の前に立たせた。

──龍巳といいます。この子はお嬢様をどんなものからもお守りすることが出来るようになるため、懸命に訓練に耐えているのですよ。
──どうぞ、励まして、褒めてやって下さい。

 青乃は龍巳の顔をまじまじと見つめ、自分よりもまだ随分と小さい子供の頭を、そして頬を撫で、頷いた。

──よく訓練に耐えているのね。えらいわ。
──あなたはきっととても強い人になるのね。
──そうしたら、わたしを、守って下さいね。

 龍巳は返事をするのも忘れてぽうっとその笑顔を見つめていた。
 絶対に、このお嬢様を守りきることの出来る人間になる。
 そう心に誓いながら。


 幼い時のそんな、たった一場面のために──
 龍巳は自分の命と自分の人生を青乃のためだけに捧げてきたのか。
 そんな出来事があったことすら、青乃は覚えてもいないかもしれないのに。

「──そう誓ったのに、自分は青乃様をお守りするどころかお心を乱す元凶を排除することも出来ない……こんな無力な自分など存在する意味はない……!」


 また振り出しに戻ってやがる。どうしょうもねえな。
 Kは腹の底でふつふつと何かが沸いているのを感じた。
 ムカムカする。

「おい。ちょっと来い」


 Kは突然龍巳の左手を掴むと引っ張った。ベッドから転げ落ちそうになるのをなんとか立ち上がり足をつく。
 龍巳が倒れそうになるのもおかまいなしに腕を引っ張ったままKは部屋を出た。そのまま大股でどかどかと廊下を進んでいく。龍巳は足がもつれて何度も転びそうになっている。
「待て、どこへ行く…」
「いいからついて来い」
 廊下を歩いている間に、数人の警備員の同僚が声を掛けてきたが無視する。


 そのうち、新館と旧館を繋ぐ渡り廊下──Kのいう『国境』を通り過ぎる。行先の見当がついた龍巳は血相を変えて掴まれた腕を振り切ろうとするが全く外せはしなかった。
「待て!やめろ!離せ!」
「うるせえ!つべこべ言ってると催眠術かけんぞ!」
 ぎりっと歯噛みするが掴まれていない方の腕はまだ痺れていて思うように動かない。大量に出血したせいか頭もふわふわしたままで、結局Kに片手で引きずられるまま──

 数人のメイドが行き来している扉の前に到着した。
 Kの形相と、半裸で包帯を巻いた龍巳の姿にメイドが小さく悲鳴を上げて道をあける。
「いるのか」
 そのうちの一人に顎をしゃくってそれだけ訊くと、メイドは怯えた顔で何度か頭を盾に振った。

「K!頼むやめろ、やめてくれ!」
「黙ってろ!行くぞ!!」

 そうして──

 Kは青乃の部屋の扉を開け放った。

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 とうに遅番の退勤時間は過ぎて、本来ならもう自室に戻ってビールでも飲みながらテレビの深夜番組でも見るなりしている時間だ。


 みずきは青乃の手を握ったまま居眠りをしていた。

 ふと気配に目を開けると、青乃がベッドから降りて窓の外を見ている。確か以前青乃が自殺未遂を繰り返しこの寝室の窓からも何度も身を投げようとしていたことから、開かないように溶接してしまったと聞いたことがある。
「ごしゅじんさま」
 駆け寄るように側に行くと青乃はやはり犬のようにみずきの頭を撫でた。目線は窓の外へ投げたまま、しかし先ほどまでの興奮は落ち着いたようで奇妙なほど静かな表情をしている。

「やっぱり殺してはくれないのね」

 みずきは青乃の腕に絡みつき、その肩に頭を擦りつける。


 本当に、本当に殺して欲しいのなら命令してくれればあたしが殺してあげるけど──
 本当は死にたいと思っているわけではない、とみずきは感じていた。
 青乃は幸せになりたいだけなのに、どうすればこのコールタールみたいな粘っこくて真っ黒いものから脱出できるのかわからない。

 ごめんね、あたしもどうすればそれが出来るかがわかんない。

「ごしゅじんさま、あったかいココアでも作ります。ちょっと体を温めましょ」
 腕に絡まったまま、カウチやテーブルセットのある次の間へ導く。カウチに座らせてココアを作る間少し目を離したが戻った時も青乃は同じ姿勢のままぼんやりと空間を見つめていた。


 金切声でわめきちらしたりものを投げて家具や食器を壊したりされるのも困るけど、こう静かにされるとそれはそれで心配にもなるし落ち着かない──


 ココアをそっと手渡しすると青乃はおとなしくそれをすすっている。
 カウチの脇の床に座ると青乃はみずきの頭を自分の膝の上に乗せた。顔を撫でる指が先ほどより暖かくなっている。みずきはその指を取り、唇でそれを噛んだ。


「あたし、お仕事でここにいるんですけど、くびにされなきゃずっといますから」
 小さく、笑ったような吐息が聴こえる。
「もうそんな約束、いらないの。そんな約束したって結局わたしのもとから離れていってしまうんでしょう。だったら最初からいらないのよ」


 胸の中のどこかが締め付けられる気がした。
 膝の上の頭を上げて身を起こすと青乃を抱きしめる。そのまま唇を重ねると青乃はまるで待っていたように応える。啄んだり奥まで探るように繰り返すと甘い吐息が漏れるのを感じた。そのままの距離で、青乃の瞳をまっすぐに見つめる。
「じゃあ約束なんてなくていいです。今あたしがここにいて、明日もここに来ます。それが毎日続けばいいんでしょ」
 青乃はおそるおそる、というようにぎこちなく笑顔を作った。
「おまえ、本当に不思議な子ね」
「変な子からちょっと昇格しました」
 語尾に音符のついた調子で言うとみずきは再び青乃の膝に頭を戻し擦りつけて甘えてみせた。

 ほんの短い時間漂った安らぎ──

 扉の向こうが急に騒がしくなり、それはあっというまに霧散する。
 みずきが頭を上げて立ち上がった。
 その直後、派手な音を立て──扉が大きく開いた。

「Kくん?!」

 そこに立っていたのはKと、Kに腕を掴まれ今にも床に膝を付きそうに身体を折りまげた龍巳だった。

 

「どしたのKくん。何時だと思ってんの」
「どけ、みずき」
 Kはみずきを押しのけるようにして部屋の中へずんずんと歩を進めてくる。みずきは青乃を庇うようにその進路を妨害しようと試みるがKにはまるで障害物など無いようなものだった。
 青乃の座ったカウチのすぐ近くまで来るとKはようやく立ち止まった。

「──なにごとなの。龍巳、これはどういうこと」
 普段の、苛々としたきつい口調に戻っている。みずきは口の中で小さく舌打ちした。
 龍巳はなんとか姿勢を正そうとするがいつものきびきびした動きではない。呼びかけられた龍巳ではなく、Kが口を開いた。
「あんた、いい加減にしろよ」


 低く、静かな声。それでいて早口になっている。
 これは兄のKが普段の何倍も攻撃的なモードに入っている時のサインだとみずきは気づいている。


「あんたがものすごく気の毒な目に遭ってきたことは知ってる。だけどだからって何やっても許されると思うなよ。見ろ」
 Kは腕を大きく振るようにして龍巳を自分より前に──青乃の目の前に立たせた。
「こいつをよく見ろ。この包帯はな、あんたの為に、あんたに酷いことをしてきたあんたの旦那を殺そうとして、失敗して撃たれたんだ。あんたがすやすや眠ってる間にな」
「よせ、K!自分が勝手にやったことだ!」
「あんたがくれた『わたしを守って』だかいう言葉ひとつで、こいつはガキの頃からずっとそのことだけしか考えずに生きてきたんだ。傷いっぱい作って、他のことは何も考えもしないで──あんたと同じ、女なのに!」

 龍巳は傷よりももっと痛そうな顔をして、晒で押さえつけた自分の胸をそれでも腕で隠そうとしている。
「ほら、良く見ろよ。こんなちっこい細い身体に必死で筋肉付けて、でかいオッパイ締め付けて、こんな白くてきれいな肌してんのに傷だらけだ。それでもこいつは自分がそうしたくて、あんたの為に生きてきたんだ。なのにあんたこいつに何してきたよ?」


「Kくん、やめてよ!」
 みずきがKの前に割って入る。
「いいのよ、みずき。言わせてあげなさい。聞くわ」
 青乃の声に振り返ると青乃は怒りでも皮肉な笑いでもなく、無の表情でみずきに目くばせをした。みずきは渋々青乃の脇に戻り、青乃の手を握る。
 妹の行動にほんの少し怪訝な顔をしたもののKは再び表情を戻した。

 

「──こいつ、あんたのことだけ、あんたを守ることだけを考えてあんたに従ってきたのに」

 こいつ一人ではどうしようもなかった事を責めて罰して。
 やさしい言葉も労いの言葉も笑いかけてやることもせずに。
 一人だって誰かを殺したこともないこいつに、
 カンタンに矢島を殺して来いだなんて命じたんだろ。
 それも罰だったのか。
 生憎だったな、あれはただの事故だ。ただのガス漏れの事故だ。
 龍巳の手は汚れてなんかいない。
 それなのにこいつはそれが出来なかったまた自分の無能のせいだと自分を責めるんだ。

 あんたは本当に可哀想なんだろうよ。
 酷い目にあってきたんだろうよ。
 だからみんながあんたを腫れ物みたいに扱って甘やかすんだ。
 かわいそうな人だから好きにさせてさしあげろってな。
 だけどそれは何をやってもいい免罪符じゃない。
 あんたが酷い目にあってもそうやって周りが可哀想可哀想ってちやほやしてくれるのは、
 親が元華族で、酷い夫が嵯院椎多だからだ。
 みんな親か嵯院の使用人だから、お嬢さんで奥様のあんたを甘やかしてくれてんだ。

 あんた、知らないだろ。
 腹を減らして食いもんのために盗んだり殺したり、親が15の娘を風俗に売り飛ばしたり。
 終戦直後とかの話じゃねえぞ。つい何年か前のことだ。
 それでも絶対死なねえって、誰を殺したって絶対生きてやろうとしてるやつらの世界のことなんて。
 かわいそうな目にあったって誰にも甘やかされることも、許してもらえることも無く野垂れ死んでくやつらの世界のことなんて。

 想像も出来ないんだろ。

「──何がかわいそうだ。何が地獄の苦しみだ。本当の地獄を味わってから言えよ!」

「K、もうやめてくれ!」
 龍巳が力を振り絞るように掴まれた腕を振り払い、Kに殴りかかるがそれも簡単に避けられその拍子に床に倒れこむ。そこから立ち上がることも困難なように龍巳はその場にうずくまり、顔だけを上げた。
「もういい、自分は望んでやっていることだ!青乃様に仕えることは、自分がしたくてしていることなんだ!おまえが怒ることじゃない!もう引っ込んでてくれ!!」

「──わかったわ」

 青乃の声は奇妙なほど落ち着いて静かだった。
「わたしはわたしを蹂躙した男に養われて人形のように黙ってひっそり年老いるまでただ生きていけばいいの?おまえの知っている地獄を確かにわたしは知らないけれど、わたしの地獄もおまえにはわからないわ」
 みずきが青乃の手をぎゅっと握り直した。

「ねえ、どうしたらいいの。おまえにはわかる?どうしたらわたしは救われるの?今までのことは決して無かったことには出来ない。刻まれた恐怖も、失った愛も、犯した罪も。元通りにしてやりなおすことが出来たらどれほど──」

 長い沈黙が流れた気がした。
 実際にはほんの数秒だったけれど。

 

「Kくん……忘れさせてあげることは出来ない?」

 ふと思いついたようにみずきが言った。

 Kくんの催眠術で。
 今まであったつらいこと全部、忘れて最初からやり直しをさせてあげられないの?

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 暎がこまごまとデスク回りの書類を整理しているのを柾青はぼんやりと眺めていた。


「それ、助かることは助かるけど別料金の給料は出せないよ」
「あ、いいんです。時間が空いた時の退屈しのぎなんで。僕、掃除とか整理整頓とか好きなんですよね」
 ふうん、と言ってまた手元のファイルに目を落とす。そうしながらも時折暎の動きをちらちらと盗み見る。
 それほど重要書類というわけではないが、持ち出しされたりはしたくない。という程度にはまだ暎への信用は確立していない。それ以上に暎については若干の気がかりな点がそのままになっていた。

 元の火傷は順調に回復している。
 ここへ運ばれた2日後くらいにはベッドから起き上がることは出来るようになった。部分的にはまだ水疱が引いていない部分やもう少し重傷で時間がかかりそうな箇所もあるが、軽傷の部分の痛みや炎症が収まってきたとみるやベッドから降りてうろうろし始めている。そうしてたまに暎に叱られてもいるがじっとしていられないのだろう。今も天気がいいからと庭に散歩に行っている。

「──で、何を探してるの?」
 ふとかまをかけてみようと思ったのは、元が外へ行っているからだ。
 案の定、ほんの少しの間が空いた。
「何を?とは?」
「君が見たいのはもしかしてこのファイルなんじゃない?」
 膝の上に広げていたファイルを手に掲げて暎に見せる。
 暎は困惑したような、気まずいような、妙な顔をして笑った。
「なんで僕がそれを探していると思うんですか?」
「多分君の知りたいことってそれじゃないかと思って」

 腕に抱えていたファイルの束を棚に戻しベッドサイドへと移動すると暎はおずおずと柾青の持つファイルに手を伸ばした。それをひょいっと避ける。


「その前に答えて欲しいんだけど──君がここへ来たのは何か目的があった?」


 顔に貼り付いている笑顔が一瞬消える。が、すぐにまた貼り付ける。
「僕がうちの病院に就職したのは偶然ですよ。僕が行ってた看護学校の最初の就職先はほぼあそこなんで」
「そのためにわざわざその看護学校を選んだのでは?」
「まさか」
 肩をすくめ、苦笑をこぼす。
「僕は本当は医者になりたかったんですよ。でも兄が急に亡くなって収入が断たれてしまったもので、まあもともと医学部に行くお金なんか無かったんですけどね、で、それでも医療系に行きたくて看護学校に行ったんです。その時は普通に車の事故で亡くなったと思ってましたし」
「車の事故じゃなかった……と?」
 膝の上でファイルを開き、捲っていく。
 その手を止めたページには──

 別邸の書庫管理人、幡野椎英の写真と身上書がファイルされていた。

「彼、僕は会ったことは無いんだけどね。この頃にはもう使用人の管理を僕がデータ化していたから写真は見てた。君が来た時にどこかで会ったことがあるような気がしたんだけど──よく似てるんだね。お兄さんと」

 貼り付けたものではなくにっこりと笑った顔は、そこにファイルされている椎英の顔とそっくりと言っていいほど似ている。

 よく言われます、と笑い暎はそのファイルに挟まった兄の写真を懐かしげに見下ろした。


「あの日、兄は久しぶりに僕や妹に会いに来てたんですよ。日帰りだったけど。おんぼろの車に乗っててちょっと動作が怪しいから整備に寄ってからお屋敷に戻るって言ってました。何日かして、兄の車が炎上したって連絡があったんです。遺体が黒焦げですぐには身元がわからなかったって。歯医者の記録でなんとか特定できたみたいですね」
「それが事故じゃないと思い始めたの?」
 座っていいですか、と言葉を挟み、暎はベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「兄は本当に車の整備に寄ってたみたいで、そこの整備士は間違いなく整備した、古い車だからってそんな簡単に炎上なんかしないって言い張ってたみたいです。あと、知り合いの法医がその解剖を担当してて、どうも生きたまま焼け死んだ様子じゃないって。死んでから死因を隠蔽するために焼いたんじゃないかって言う。しかもその所見がどこかで握りつぶされたって。警察がそういう面倒くさそうな案件は事故のまま処理したかったんじゃないのかとも言ってましたけど、なんとなく僕は」


「何らかの力が働いた──と」

 ファイルを柾青から受け取ると兄の写真の顔を指でなぞる。

「兄の本当の死因を知りたいだけです。もし何か事件に巻き込まれていたら僕や妹にも危険があるかもしれないって思ってたけどこれだけ年数経ってなにもないなら少なくともそういう類の事件ではなかったんでしょうね」
 柾青は暎の顔をじっと観察している。暎の言葉がすべて本当かどうかも計りかねた。

 幡野椎英は文学の博士号を持った研究者で、葛木紘柾が唯一存命中には処分させなかった不動産である高原の別邸に設えた書庫を管理する仕事を任せていた。以前は葛木邸で警備の責任者を務めていた、現在は嵯院邸での警備責任者である伯方照彦の紹介で雇った者だ。


 あの夏の初めごろだったか、伯方がやってきて暫くあの別邸を使わせて欲しいと申し出てきた。嫁いで間もないはずの妹・青乃がひどく体調を崩し、静養のために滞在させたいというのがその使用目的だ。
 当時柾青はすでに母の靖子と協力しながら父の負債を減らしていくために諸々の不動産や価値のある調度品などを処分し始めていたのでよく覚えている。
 父の紘柾はあの別邸に所蔵されている多くの文献だけは処分したくなかったらしく、他のものはしぶしぶ売却を受け入れていたがあれだけはどうしても承知しようとせず困っていたところだった。あの貴重な文献の山はそれなりの価格で売れた筈だ。もし二束三文であればどこかに寄付をするという手もある。図書館どころかものによっては博物館が涎を垂らすようなものもあっただろう。しかし父はどうしても売ると言わない。
 嵯院もこちらの窮状を知っているからなのか、他人でもないのにわざわざ使用料を支払うと言ってきた。
 あるだけで利益を生むわけではない、それどころか管理費用もばかにならない別邸に家賃をくれるというのだから断る理由はなかった。

 幡野椎英が車の事故で死亡したと報告があったのは、秋の始め頃だっただろうか。
 まだ青乃の静養にあの別邸が使われていた時だ。
 確かに、休暇で外出した椎英が車の整備不良か何かで炎上しそのまま焼死したという報告だった。このファイルにもその旨が記載されている。当初は柾青も特に疑問にも思わず、それでは蔵書の管理人の代理の者を探さねばならないのではと思った程度だった。
 その後間もなく青乃たちは別邸を出て嵯院邸に戻ったが、青乃の体調について尋ねると主治医の芙蓉は口ではずいぶんお加減は良くなりました…などと言っているのに酷く苦々しい顔をしていたのがどうしても引っかかっていた。
 かといって、それを追及する気など柾青には無かったのだが。


「僕がうちの病院に就職したのは本当に偶然ですけど、ここへ派遣される看護婦を交代させるって話が出た時に女性より男の僕の方が良くないですかって自薦はしてみました。兄さんが亡くなった時の勤務先だなと思ったら気になって。選んだのは上の人なんですけどね」
 なるほど、と口の中で呟く。
「わかった。だけど申し訳ないが僕も君が知っていること以上のことは知らない。その頃あの別邸を使っていたのはこの家の者ではないからね。君の望む情報はうちには何もない。残念だけど」

 しかし暎は特に残念そうでもなく、やはり笑顔を貼り付けたままでいる。
「いいんです。もし真実が判ったとしてもだからって何が出来るわけでもないですもんね。生前の兄のことを知っている人がいたら話を聞きたいなって思っただけです。亡くなった時のことというより、生きてた時どんな感じの人だったのかって」

 ああでも柾青さんは兄に会ったこともないのか……と呟くと初めて少し惜しそうな顔になった。

「じゃあ兄の話を聞ける人って、あなたの妹さんくらいですか?きっと顔を合わせたりはしてますよね」

 

「どうだろう、居たことくらいは知っているかもしれないが、接点は無いだろうしあまり期待はしない方がいい。じゃあこのファイル、戻しておいて。僕もすっきりした」

 自分が柾青から懐疑の目で見られていたことなど気づいていなかったのだろう、すっきり?と不思議そうな顔をして暎はファイルを受け取ると立ち上がった。

 そのタイミングでちょうどドアが開き、元が戻ってきた。
 柾青が睡んでいる際はドアからの目隠しになっている布製のパーテイション。司令官が活動している時にはベッドからもドアが見えるように開けてある。その視界の中で元はすぐに入って来ず、ドアの外と中を見比べながら首を出していた。
「うん?どうした?入っておいで。お日さま浴びたての匂い嗅がせてよ」
 やだよ、と言いながら元は一歩部屋の中に入る。


「あのさ、お客さん。入ってもらっていいの?」

 

「お客さん?アポイント無しで?」
 首を傾げると元の入ってきたドアから二人の人物がゆっくり入ってきた。暎はそそくさと陰へ下がっていく。

「あれ──伯方?珍しいね」

 

「柾青様、ご無沙汰しております。お加減はいかがですか」
 伯方照彦は落ち着いた様子で丁寧に頭を下げた。
 客人たちが手招きに応じ応接セットのソファに着席するとこの部屋の主は向かい側へ座る。
 元は少し居心地悪げにベッドサイドの椅子に腰かけ、暎は客人たちに背中を向けて柾青のベッドシーツの交換を始めた。
「父の葬儀の時は色々世話になったね。ありがとう。僕は相変わらずだよ。そちらの方は?」

 

「昔こちらでお世話になっておりました、桧坂紋志です。お目にかかったのは初めてかと」

 

 ああ、と頷く。元がしきりに気にしていた彼だ。
 あの後、嵯院にそれとなく紋志の所在を知らないかを確認したら思ったよりあっさりと嵯院邸に滞在しているという回答を貰っていた。詳細は分からなくても無事にしていることが判って元は安心したようだ。

「元、彼とちゃんと話は出来たの?」
 なかなか戻ってこないと思ったらそこで話し込んでいたのか。元は少し気まずそうに頷いた。
「まさか『恭太蕗』の火事に巻き込まれたお客さんが元だなんて知らなくて。本当にごめんね」
「だから何で紋志が謝るんだって」
 ここに来るまでにすでに繰り返しその会話のやりとりをループさせていたのだろう。最後には元は笑ってしまっていた。


「──それで、わざわざ来てくれたのは何?」
 友人同士のループ会話を断ち切るように伯方へ声をかける。

 

「失礼しました。まず一件目は彼からです」

 元と微笑みながら会話していた紋志は急に自分に視線が集まったことに気づき、姿勢を正した。


 ふう、と大きく呼吸をして、提げていた鞄から大事そうにポーチのようなものを取り出す。さらにその中から出してきたのは、一冊の預金通帳だった。

 

「これは僕がこのお屋敷からお暇を頂いた時に渡されたものです。少し使わせて頂きましたが、もとの額に戻すことが出来たのでお返しに来ました」

 

 不思議そうにその通帳を受け取り、柾青は中を確認した。
 五千万円の通帳。
 紘柾が独断で執事の早野に指示し渡したということで妻の靖子に叱られていたことを思い出す。柾青も家の負債を解消するために奔走し始めていた頃だったからそれを聞いてうんざりしたものだった。
 使ったとは言ってもたいした額ではないが細かく増減を繰り返し、おそらくこの通帳は何冊目かのものなのだろう。最後は五千万丁度に戻っていた。
「これは君にあげた、いわば退職金みたいなものだよ。返す必要なんて無いのに」
「僕は青乃さまのおそばにいますと約束していたのに、それをそのお金で売ってしまったみたいなのが嫌で、どうしてもお返ししたくてやってきたんです。受け取って頂けませんか」


 今ではもうほぼ父の負債は完済のめどが立っている。そのまま紋志がそれを自分のものにしたところで葛木家には特に問題はない。しかしそこに刻まれた細かい入金額は紋志の思いそのものだ。

 

 うん、と一旦天井を見上げて思案すると柾青は座り直して紋志に微笑みかけた。
「わかりました。これは受け取りましょう。でも、一旦使った後にもとの額に戻した金額はあなたがしっかり働いて自分で貯めたお金です。その金額分は、今度こそあなたの退職金として支給させて下さい。のちほどそれは届けさせます」
「いえ、でも──」
「いいですか」
 身を乗り出して手を伸ばし、紋志の膝の上に揃えた両手を握る。


「それは、あなたの心を買い取って好きに動かすためのお金じゃない。あなたが受け取っていい正当なお金です。受け取って下さい」

 

 紋志はぱちぱちとまばたきをしながら柾青の顔を見つめている。唇をきゅっと噛むと、はい、と頷いた。

 そのやりとりを見ながら少し安心したように微笑むと伯方が今度は座り直し姿勢を正した。
「さて、もう一件の用件を、よろしいですか」
 柾青が紋志の手を離し伯方に向き直る。

「主人の嵯院椎多より打診があったかと思うのですが、例の高原の別邸を買い取らせて頂けないかと」

 

 確かに昨日椎多からの電話であの別邸を買い取りたい旨の話は出ていたが、多忙のため詳細を詰める話をしに葛木邸に出向くのは来週になるなどと言っていたはずだ。あの別邸のことは葛木家の財産の中で処分可能なもののリストの一番上にある程度の認識だったのでそれはありがたいと返事した。

 しかし──
 つい先ほども暎との会話に出てきたあの別邸。
 暎の兄の死の疑惑がふと頭の隅を掠める。
 暎は退室せずまだ背中を向けて書類の整理などを続けている。この会話に耳をそばだてているのかもしれない。

 

「あの別邸をこれまで売ってこなかったのは、父があの蔵書を手放したくなかったというだけの理由でね。父が亡くなった今、あの蔵書を売るか寄贈して土地建物も売ろうと思っていたところだ。高く買って頂けると助かるね」
「その話がきちんと決まるまでは以前のように使用料を払わせて頂いても良いと申しております。蔵書を売る業者にも心当たりがあるから高く買い取ってもらえる筈だと」

 気持ち悪いくらい至れり尽くせりだ──
 苦笑が漏れる。
 そうまでしてあの別邸を手に入れたいのは何か理由があるのだろうか。

 

「あれをまた使うの?別荘にしたってスキー場やゴルフ場が近くにあるでもなく本当に静養するくらいしかない場所だと思うけど」


「──青乃様が、あの別邸をたいそう気に入っておられまして。また暫く滞在したいと仰います。それで主人が度々お貸し頂くのも面倒だから柾青様さえよければいっそ」
「買い取ってしまおうと。お金持ちの発想だよね」
 自身も『お金持ち』の階級にいるにもかかわらず、柾青は皮肉げに笑った。

 

「青乃はどうしたの?また体調でも崩したの」
「いえ」
 伯方の代わりに紋志がにっこり笑って返事をした。

「とてもお元気で、ご機嫌よくお過ごしですよ」


 

Note

​ここ数編、ほんの数日の話だったんですよね。やっと長い3日間(もうちょっというと9編かけて10日ほど)の出来事が終わりました。スポーツものの少年漫画の試合か!(わかりづらい)

この話の最後のセクションはそれから何週間か経った後の話です。次の話ではさらに何か月か経ってると思いますが。

龍巳が実は女の子というのは、オリジナルを書いてた時には喜んでもらえたところでした。龍巳はほんとに青乃様に対して劣情ゼロで、みずきみたいに可愛がって欲しい、または可愛がってもらってるみずきが羨ましいとか全く思わないんですね。ピュアすぎて危ないです。もともと恋愛系の感情が発達してないんだと思うけど。龍巳がそういうキャラなせいか、Kは「おぅ、こいつ女だった。しかも意外と胸でけぇ」とか思ったとしても急にドキドキしたりとかはなかったみたいです。Kも恋愛関係謎。性欲は人並みにある筈なんだが。

んで龍巳はさておいてみずき×青乃の百合描いてたら、前にスピンオフの方でこのふたりがセットで出てくる場面がちょっと「おっ?」ってニヤニヤしてしまいますね(作者のくせに)。なおKはこの時はまだ椎多には「ただで飯食わせてくれる雇い主だからとりあえず飼われておこう」程度の気持ちしかありません。これが最終的に「失恋」(梟の章)くらいの気持ちまでに育つんだなと思うとこれもニヤニヤです。

さてこっから最終章といっても良いかと思います。それぞれのキャラがどんな決着を迎えていって、スピンオフの方へ繋がっていくのか。

​基本の展開はオリジナルに沿って書きますが、また色々膨らみそう。

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