罪 -4- 墓掘り人
ふと、外の気温が随分違うことに気づく。
高原はもう肌寒くなっていた。
伯方照彦は窓の外に散見される白樺を眺めていたが息をひとつつくと、ゆっくりと目を閉じた。
──書庫番の男、か……。
紫に呼び出されて恫喝されたその内容を自分が知らなかったことが苦々しく喉の奥に残る。
それ以上に心が重い。
こうなっては、「相手の男」を何らかの形で処分しなければ嵯院は納得すまい。紫の言ったことは脅しでもなんでもなく、おそらく本当に実行される。仮に青乃本人を処分しなかったとしても、青乃の実家関係者を全て嵯院邸から排除するだろう。嵯院側にとっては葛木家の関係者は邪魔なだけで、渡りに船の口実を与えてしまうことになる。
自分たちの命が惜しいわけではない。しかし、今の青乃を一人残して全員が排除されたとしたら──
青乃は今度こそ壊れてしまうのではないだろうか。
彼女は父親の無能や放蕩癖に翻弄されただけの可哀想な娘なのに、どこまで彼女を苦しめれば気が済むのか。
それならば、紫が皮肉で言ったように『おじょうさまを逃がしてさしあげる』方がどれほど良いことかと思えてくる。
嵯院椎多が妻に対して暴力をふるっているという報告は内密で芙蓉や部下の警護の人間からも受けている。そんな結婚を続けさせるくらいなら、愛する男と駆け落ちでもさせてやった方が彼女にとっては幸せではないのか。
しかし──
お嬢様育ちの青乃と、あの貧乏な男が逃げ延びたとして、生活してゆけるとは思えない。
一度は逃げ延びることが出来ても嵯院家は執拗に捜索を続けるだろう。それに怯えながら、誰からの援助もなく、貧しく慎ましい生活を維持してゆけるのか。
ずっと二人のその後を見守り続けることが出来るわけでもないのに、一時の同情の為に危険を冒して二人を逃がすということは自己満足の無責任な行動でしかあるまい。
ならば、添い遂げさせてやることまでは出来ずとも相手の男だけでも逃がしてやることは出来ないか。
否、紫は、見せしめになるように相手の男を処分──つまり、殺せ、と言っているのだ。死体を差し出さねば納得しないだろう。
かつてはその歩いた後には墓が次々出来上がる、ということで「グレイブ」という有難くもないコードネームで呼ばれていた。
命がけで警護対象の盾になり数え切れぬ敵を殺し、そうして任務を果たしたとしても次の日にはあっけなく爆弾ひとつでそれを失うなどということも一度や二度ではない。
やがて積もり積もった虚しさが臨界点を超え、伯方は戦場から去った。
帰国してからも単なる警備だけならまだしも、気づけばまた殺す殺さないの世界に身を置く羽目になる。もううんざりだったのだ。
それでも葛木家を辞去し、街で子供たちに接する教室を始めてからは自分は随分と人間らしさを取り戻すことが出来た、人は生まれ変われるのだと思っていた矢先──
結局、またしてもこの世界に戻ってきてしまったのだ。
もう、逃れられはしないのだろう。
いつか自分が誰かに殺される日が来るまで──
伯方は夜陰の向こうに見え始めた別邸の小さな灯りを発見し、このままあそこに到着しなければいいのに……と思った。
「やはり──事実だったんだな」
龍巳は伯方の前で身動きも出来ず気をつけの姿勢のまま顔色をなくしている。
「おまえにはここを任せていた筈だ。何故何の報告もしなかった」
「隊長、自分は──」
「問題は私に報告が届く前に紫の方に情報が入っていたことだ」
龍巳はあっ、と一言小さく声を上げて歯を食いしばる。
──冴、か。
あの、あの手この手で青乃から信頼を勝ち取った嵯院家のメイド。確か昨日から休暇を取っていてこの別邸には居ない。やはりあの女がスパイだったのだ。
「私の耳に先に入っていればもう少し手の打ちようもあったものを」
「申し訳ありません」
身体を二つ折りにするほど深く頭を下げた龍巳を振り返りもせず伯方は室内をうろうろと歩き回った。
「それで、書庫番の男──椎英はどこにいる」
「今日は休暇で外出しています。もう戻ってくる筈──」
──戻って来るな。
──戻って来たら──おまえを殺さねばならない。
しかし、その願いは叶わなかった。程なく、伯方が伴ってきた部下の一人から、椎英が戻った旨が報告されたのだ。伯方は深く息をするとドアへ向かった。それを遮るように龍巳が伯方に縋る。
「隊長、どうか──」
どうか、椎英の命だけは。
青乃様をこれ以上苦しめないで下さい。
声にならない叫びが龍巳の目の中で凝っている。伯方は小さく首を振って、龍巳の肩を叩いた。
「椎英にこの仕事を紹介したのは私なのだ。私にも責任がある。──私が一人でやるから、おまえは青乃様についていて差し上げろ」
「隊長──」
小さく微笑み、伯方は部屋を出た。
ドアには鍵はかかっていない。それどころか、細く開いたままになっていた。
椎英は何の警戒もしていないようだ。
開いたままのドアを小さくノックすると戻ったばかりの椎英が振り返り、伯方の姿を認めると大きく顔を崩して笑顔を作った。
「テル先生!どうなさったんですか、こんな時間に!」
「やあ」
「今日、久しぶりにアキラと鞍子に会ってきたんですよ。アキラなんてもう高3ですよ。いつも先生に会いたいって言ってます。鞍子も随分大きくなりましたよ」
「そうか──」
椎英は離れて暮らす弟と妹の名前を出した。椎英の弟妹は伯方が街で道場を営んでいた時の生徒で、その縁で両親も既になく弟妹を養っていた貧乏学者の椎英にこの仕事を紹介したのだ。
それが、まさかこんな事になるとは──
「椎英、私は今、龍巳の上役をやっているんだ」
まだ話が尽きなそうな椎英の言葉を遮り、伯方は重い口を開いた。椎英の顔が曇る。
「つまり、現在は私は嵯院家の所属だということだ。何故私が君の前に現れたか、わかるね」
「──」
「椎英──君はなんということをしてくれたのだ」
「──青乃さんのことですか」
一瞬のことである。
伯方は椎英の背後に回り、首にナイフを突きつけた。
椎英は何か言おうとしたのだろう。
しかし次の瞬間、椎英は膝から崩れ落ちた。
血飛沫を防ぐために切っ先を押さえたタオルがみるみるうちに真紅に染まり、やがてぼとぼとと真紅の雫を落とし始めた。
──これが私の仕事だ。
足元に血溜まりが出来てゆく。
椎英の顔は不思議なほど穏やかだった。
「──芙蓉先生、椎英は今日帰ってくるのよね?」
青乃は退屈そうに窓の外を眺めていた。
「青乃様、もう何度もお答えしましたよ。今日の休暇は日帰りで、ちゃんとこちらに戻りますって椎英さん、仰ってたでしょう?」
芙蓉のくすくす笑いに照れている。他愛も無い、ただの少女のように。
「そういえば青乃様、先程伯方さんがいらしたようですよ」
「伯方が?こんな夜分に?どうして?」
「さあ……私もまだお会いしてませんので判りませんけど」
さっ──と青乃の顔に不安が差す。
伯方がわざわざここに足を運ぶというのは、しかも日中ではない、こんな時間にというのは、何か特別な事態が起こったということではないのだろうか。
その予感は的中した。
もう日付も変わるかという時間。
椎英はまだ帰って来ない。
そわそわと不安げに歩き回っていた青乃の部屋をノックしたのは龍巳だった。
「龍巳、椎英はまだなの?今日帰って来るって──」
龍巳の顔を見るなり、そう詰問しようとして──青乃は言葉を飲み込んだ。龍巳はまるで今の今まで泣いていたような赤い眼をして、沈痛な面持ちでそこに立っている。何かが起こったのだ。それは明白だった。
「奥様、ご無沙汰しております」
龍巳の背後から声を掛けたのは伯方である。
「伯方──」
「ご報告いたします。当屋敷の書庫管理人、幡野椎英を処分致しました」
青乃はただ眉を微かに寄せて、首を傾げた。
──処分?
──処分って、どういうこと?
「どういうこと?椎英に何をしたの?」
「彼は人の妻である貴方を誑かし辱めた者として、秘密裏になきものにしたということです」
「なきものって──何を言ってるの?」
まるで別の言語を聞いているように意味が取れない。
青乃は思わず笑ってしまいながら尚、詰め寄った。
龍巳がその時、うつむいたまま口を開いた。
「お嬢様、隊長は……嵯院様に強要されて……椎英を殺したんです」
「冗談はよしなさい!そんなに簡単に人を殺すなんて──」
「簡単なんですよ、青乃様。この国でも、人を殺すことなんて簡単なんです。椎英も、ほんの5秒でこときれました」
あえてそうしているように冷酷に、伯方は言い放った。
「嘘でしょ……」
「いいえ、嘘ではありません。彼は、愛してはいけない人を愛してしまった。その報いを受けたのです。青乃様もご軽率でした。貴方が何故嵯院家に嫁ぐことになったのか、覚えておいでですか。このような不祥事を起こされたとなれば、ご実家の葛木家への援助も打ち切られ、それどころか潰されてしまうかもしれませんでした。しかし旦那様は間男を処分することでとりあえず今回のことは不問にするという温情でこの件は収めて下さるということです」
その口上には何の感情もこもっていなかった。
龍巳も振り返って呆然とそれを凝視めている。
「隊長──そんな言い方──」
「ばか言わないで!」
屋敷中響き渡るのではないかという程の甲高い叫び声。
「そんなことを言ってわたしと椎英を引き離そうとしたってだめよ!わたし、もうお父様やお兄様なんかどうなったって構わない!だってわたし、お父様の犠牲になってこれほど辛い目にあってきたのよ?もうお父様のために何かを我慢するなんてたくさんなの!」
倒れそうになりながらも叫び続ける青乃を芙蓉が支える。
「椎英を出して、どこへ隠したの、椎英を出してよ!」
「お嬢様!」
伯方が青乃の両肩をがしりと掴む。
「──やむを得ません。おいでください」
「隊長、まさか!それだけは!」
龍巳の言葉など聞き入れず、伯方は青乃の肩を抱いて屋敷の一室へと導いた。
そこには、まるでモノのように床に寝かされたままの──
青白く色を変えた椎英の姿──
青乃はそのまま失神した。
「青乃様、ごらんになって。雪ですよ」
芙蓉がカーテンを開きながら微笑んだ。
青乃は返事をしない。
嘆息すると芙蓉はあとのことを看護婦に任せ、部屋を後にした。部屋の外には龍巳が控えている。
「──本格的に冬が来る前に、やはりここは引き払った方が良いわ。ここに居ては良くなるものも良くならないでしょう」
「ここを出て、嵯院邸に戻るんですか。それではまた──」
龍巳は吐き捨てるように呟いた。
あの後、青乃は数日間は一言も口をきかず床に伏したまま食事も摂らずぼんやりとどこかあらぬところを見つめ続けていた。
そうかと思えば突然ベッドから起き出して窓から身を投げようとしたり、食事用の箸やナイフやフォークで喉を突こうとしたりするので一時たりとも目が離せない日が続いた。
──死なせてよ。
──椎英のところへ行くんだから。
そんな日が何週間か続いたある日、青乃がぽつりと呟いた。
「わたし、死ぬことも自由にさせてもらえないのね」
「青乃様──」
「もう、どうでもいいわ」
それ以来、青乃の自殺騒ぎは収まった。しかし、もう誰とも言葉を交わそうとしなかった。足も萎え、幽霊のように青白く痩せてしまった。
ここに居ては、いつまでも椎英との思い出を追ってしまうだろう。ここは出た方がいい──そう提案したのは芙蓉だった。しかし、嵯院邸に戻れば全ての元凶である、青乃の夫がいる。ここに居るよりもっと悪いのではないかと龍巳は危惧している。
青乃の体調が回復するまでは極力、嵯院椎多を青乃に接触させないということを取り決めさせたのは伯方の尽力だった。それは砂のように脆い協定ではあったが、今回の不祥事があったために別の邸宅に移るということは認められず嵯院邸に戻るしか道がないとなれば、無いよりはましな協定だったのである。
出来ることならもう二度とここには青乃を帰したくなかった──
そう思いながら青乃の乗った車椅子を押して嵯院邸に入ると、龍巳はぎくりと立ち止まった。
接触させないという協定はどこへやら、そこで青乃たちを出迎えたのはすべての元凶・嵯院椎多である。
しかし、青乃は表情ひとつ変えなかった。
まるでそこに誰の姿も見ていないように。
椎多は一瞬怪訝な顔をして、妻の元へ歩を進めた。龍巳がいつでも青乃の盾になれるように身構える。
「おかえり」
この家の主人は、何事もなかったように微笑んだ。
──いけしゃあしゃあと。
ぎりっと歯噛みして、今度は青乃が何かしでかさないように視線を戻した。
と、青乃はゆっくりと首を動かし、今までどこを見るでもなかったような目を夫に向けた。何の感情もこもらない目を──そして、小さいけれどきっぱりとした声で言い放った。
「ひとごろし」
「──なんだと?」
龍巳は自分の身体を盾にするように向き直り、刺すような視線を館の主に向けるとそのまま青乃の車椅子を押し始めた。
まるで、何の身の覚えもないようなあの顔はどうだ。
青乃様に対してこのわずか1年弱の間にどれほどの地獄を課してきたか──あの男は、その自覚すら無いのだろうか?
怒りで手が震えている。
──何があっても。
もうこれ以上、青乃様を傷つけさせない。
たとえ解雇されても居座ってやる。たとえ殺されてもそれならば幽霊になってでも居座ってやる。
そして、青乃様には指一本触れさせない。
龍巳はそう心の中で何度も何度も自分に誓った。
Note
椎英、めちゃくちゃあっさり殺されてます(笑)。あ、当時はもちろんHN借りてる本人もそのお遊びチャットに参加してたので「はいはい!僕!すぐ殺されます!青乃様のために!!」みたいなノリだったと思います。TUSでこのあたりのくだりを書いていた頃、私は病んで…というほどではないんだけど死ぬ場面で会いたい人に会って最後に何か言葉を遺せるとか、心に秘めた想いを最適なタイミングでちゃんと口に出来て相手に伝えることが簡単に出来るんだったら苦労せんわ、みたいなちょっとひねくれたとこがあって。本当に伝えたいことが伝えられないもどかしさとか切なさとかを書こうとしてたんだと思います(その集大成が紫さんの悲劇になるわけだけど)。
TUSの完結はここではまだ語らないけど、読んだ友人に「あ~!もう!!もどかしい!!!」って怒られました。すれ違うまま終わるストーリーが書きたかったんだろうね、私。
伯方さんが「グレイブ」と呼ばれてたとか他にも元傭兵という設定が何故かやたら出てくるのは、TUSのチャットの中心にいた2人ほどがミリオタで、なんかっつーと傭兵設定つけたがったせいだと思います。こっちに書くにあたって、物語世界を現実に近づけるのはいいけど今の日本で傭兵とかやってる人いるの?って調べる羽目になりました…。軍事訓練を受けてるって意味では別に元自衛官でもええやん、と思ったんだけど実戦経験があって欲しいという要望だったので。まあ別にどうしても生かさねばならない設定ではなかったんだけど活かしておける設定はなるべく多少の形は変えても残したかったというのはあります。