Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
天 使
「ううん、ジョバンニはパパじゃないの。でもあたしはパパよりジョバンニの方が好き」
ソプラノの心地好い声が耳をくすぐる。金髪の巻き毛。青い瞳。天使というのはこういう姿をしていたのではなかったか。
マリーの背中に羽根が生えていたとしてもきっと俺は驚かないだろう、と英二は思った。
「だって、パパはなかなか会えないんだもの。ママは大好き。とってもいいにおいがするの」
「マリー」
話に夢中になっていたマリーは呼びかける声に跳ねるように立ち上がった。
「ジョバンニ!おかえりなさい!」
白い顔を紅潮させてマリーは腰を屈めたジョバンニの首に小さな腕を巻きつけ、頬にキスをする。ジョバンニはそのままマリーを片手で抱え上げた。もう片方の手には、スーパーの袋が下がっている。
「お待ちかねだったよ」
英二は階段に腰掛けたまま二人を見上げて微笑んだ。ジョバンニはただ会釈するように小さく頭を下げ、マリーを抱えたまま階段を上っていった。
──愛想のない男だな。
苦笑が漏れる。
ジョバンニとマリーがこのアパートに引っ越してきてからもう2週間近く経つが、ジョバンニとは殆ど会話したことがない。対照的にマリーはやってきたその日からアパートの住人たちのアイドルとなっていた。
最初は親子かと思ったのだがどうやら違うらしい。
わけありなのだろう。
ジョバンニはマリーがアパートの人気者になることをあまり好ましく思ってはいないようだった。常に周りに目を配り、警戒しているようにすら感じる。いや。
おそらくは、ジョバンニはマリーのボディガードなのだ。
階段を上ってゆくジョバンニの背中を見送りながら英二はゆっくりと立ち上がった。ジョバンニの黒髪の向こうに、マリーの金髪が揺れているのが微かに見えた。それを追うように、少し間を置いて自分も階段を昇り、ジョバンニとマリーが消えたドアの向かい側のドアを開ける。
「おう、邪魔してるぞ。久し振りだな」
まるで我が家のようにくつろいだ調子で客人が声をかけた。英二は返事をせず少しうんざりした顔でキッチンに向かい、ケトルを火にかける。
「お待ちかねの仕事持ってきたぜ」
「あんたの仕事は疲れるんだよ。遠出が多いから」
「ついでに旅行ができていいじゃねえか。旅費は全部経費扱いなんだから。ああ、今回のは近場だ。多分、メトロに乗ることもないくらいな」
客人──澤康平は表通りででも買ってきたのか、紙袋に入った焼き栗を口に放り込みながら笑い声を立てた。
澤康平の活動拠点は日本だが、その仕事の延長で欧米やアジアに飛ぶことが少なくない。時には南米あたりにまで飛んでいるらしいのでこいつの仕事というのはいったいどうなっているんだ、と英二はよく思う。
湧いた湯でコーヒーを入れていると俺も、と向こうから康平が声をかける。英二はふん、と鼻を鳴らした。
「あんたに飲ませるコーヒーなんてないね。とっとと資料をおいて帰れよ」
「冷てえなあ。いや、詳しいことはもうちょっと裏をとってからだ。近々仕事があるってことだけ覚えといてくれ」
康平は笑いながら席を立った。英二に嫌われているのは今に始まったことではない。そもそも康平も英二を気に入らないと思っている。それでも仕事はまずきっちりやってくれるのでこうして運んでくるだけのことだ。おまえみたいなヒヨッコ、シゲちゃんの足元にも及ばないがな──と口癖のように嫌味を言うことだけは忘れない。
かつて『悔谷雄日』と呼ばれた凄腕の殺し屋、谷重宏行──”シゲ”は、数年前老齢を理由にその稼業からも表の商売であったショットバー経営からも引退し、日本を出てこの街に落ち着いた。シゲの住み着いたこの古いアパートに渋谷英二が転がり込んだのは、その翌年のことである。
シゲの最後の弟子として殺し屋の技術を叩き込まれた英二は、今では康平の運んでくる『仕事』も一人前にこなしている。欧州での仕事で北欧や東欧に走った事も数多い。
ソファに寝そべったまま康平が出て行くのを目で追っていたシゲは英二に視線を戻すと笑った。
「ソリが合わねえってのか虫が好かねえってのか、おまえはよっぽど康平が気に入らねえらしいな」
「しょうがないだろ。そりゃあ、康平には色々世話にもなったけど、どうも気が合いそうにないんだよ。あっちも俺を嫌ってるだろ?俺から見たらなんでシゲさんがあいつと長年付き合ってこれたのか不思議なくらいだ」
「そうだなあ、考えてみりゃ、あいつがまだおまえがここに来た位の年の頃からだからけっこう長い付き合いだ。まあ、あいつは商売は上手いからな」
あははは、と大きな笑い声。
シゲはたいていいつでも笑っていた。
目尻と無精髭の下にあってもわかる頬のくっきりとした笑い皺、えくぼ。常に機嫌良さそうに笑っている顔は、かつて失敗したことが一度もないと言われた伝説の殺し屋だとはとても思えない。
殺しを仕事にするなんて、その世界でしか生きていけない人間がやるものだ──
それがシゲの持論である。
つまり、英二は”この世界でしか生きていけない人間"なのだとシゲが判断したということだ。
しかし英二には殺し屋として致命的な欠陥がある、ともいう。それを克服しない限り、一人前とは呼べない。
それさえ克服すれば俺も思い残すことはないのになあ──
欠陥。
それが一体なんなのか。英二には自覚できずにいる。
技術的には問題はない筈だ。シゲにも、技術だけならもう教えることはないと言われた。現実に、康平が運んでくる仕事は易しいものばかりではないが、当初こそ康平のフォローを必要としたりもしたものの現在ではなんとか失敗せずにやってこれている。
一体、何が欠けているというのか──
問い質しても、シゲは自分で気づけ、というばかりだ。
「気付くことができなかったら、いずれそれが原因で命を落とすことになるぞ」
それも、シゲの口癖だった。
その夜、シゲはいつものように飲んだくれて早々に自分の部屋へ引っ込んでいた。昔はいざ知らず近頃ではこんなところを狙われたとしても気付かぬまま殺されてしまうだろう、と思う程よく眠っているようだ。
英二は本を読んでいてなかなか眠れずにいた。
本に集中していた神経を、ごく微かなノックの音がひきつける。
ノックしているとわかってほしいような音ではない。
英二は銃を片手にそろりとドアに近寄り外の様子を伺った。同じようなごく小さなノックを返してみる。
「──ジョバンニだ。開けてくれないか」
警戒しながらノブを廻す。少し開いたところでジョバンニが音も立てずに入ってきた。
腕にマリーを抱いている。もっともマリーは夜着のままで殆ど眠った状態だった。
部屋に入ると小さく息をつき、ジョバンニは険しい表情のまま英二に視線を移す。
「朝まで何も聞かずマリーを預かってくれ」
それは断ることを許さない強い視線だった。
「何故俺に?」
「今は質問に答えている余裕がない。頼む」
頼むといいながら命令しているようなものだ、と思いながら英二はジョバンニからマリーを受け取る。マリーはまだうとうとして首がぐらついていた。
「……マリーにもしものことがあったらあんたを殺す。いいな」
言い残すとジョバンニは入って来たときと同じように音も立てず部屋を出て行った。部屋を出たあと階段を上ったのか下りたのか、それすらわからない。完全に気配を消している。
いきなりやってきて幼い少女を押し付けた上、殺すとはなんて身勝手な話だ──とは思ったが、不思議に腹は立たなかった。
英二はマリーを自分の部屋へ連れてゆき、毛布をかけてベッドのわきに座った。手に銃を握ったまま、本の続きを読む。
結局、外が明るくなるまで英二は一睡もしなかった。
橋を渡ったところに、小さな教会がある。こぢんまりとしたその庭に、古い墓標を覆うようにして3つの死体が重なっていたというニュースはたちどころに周辺へ広まった。警察や報道や野次馬で普段比較的静かな住宅街であるこのあたりが一気に大騒ぎとなっている。
それが英二の耳に届くころ、ジョバンニが何事もなかったように訪ねてきた。
「お姫さまはご機嫌斜めだよ。寝ぼけている間に俺に預けられてあんたが帰ってこないものだから」
「……マリー。いらっしゃい」
しゃがみこみ、手を差しのべる。マリーは不満げにふくれ面をしたまま英二の脚に隠れていた。
「黙っていなくなったりしませんから。ほら」
おずおずと脚の陰から出てきたマリーはその途端ジョバンニの広げた腕に向かって駆け込む。ジョバンニはそれを受け止めると軽々と抱き上げ、金髪の巻き毛に愛しげに頬擦りし、接吻けた。
機嫌が直ってからも、暫くの間マリーはジョバンニのシャツを掴んだまま離れようとはしない。英二はジョバンニとマリーを座らせ──マリーはジョバンニの膝の上に陣取り動かなかった──コーヒーと、マリーの為にはミルクたっぷりのカフェオレを入れてやった。
英二はジョバンニにいろいろ訊いてみたいことがあったが、マリーの前では口に出すこともできない。ジョバンニもあえて英二と会話する話題などないから、必然的に沈黙が流れる。時折マリーがジョバンニにじゃれついて笑い声を上げるくらいだ。
そのうち、落ち着いたのかマリーは階下の老婆の部屋へ遊びにゆくと言って席を立った。
「昨夜はいきなりすまなかった」
マリーの背中を見送ったあと、ぽつりとジョバンニが口を開いた。
「まだこのアパートは見付かってはいないと思ったが念には念を入れたかった」
「追われてるのか」
沈黙が、肯定の返事であるということを示していた。
「あの教会の死体はあんたか」
答えない。それも肯定ととれた。
「あの子はあんたの何なんだ」
「……あの子は、俺の命だ」
囁くような、小さな声でジョバンニは初めて返事した。微笑んでいる。
「あの子を守ることが俺の生きている意味なんだ。俺はその為に神に生かされているのだから」
神の庭を血で汚しておきながら、神に生かされているとは冒涜ではないのかという気もする。しかし、そう語る時のジョバンニの顔は今まで見た事のないような安らかな表情をしていた。
「……あんたは、俺と同じ匂いがする」
ぽつりぽつりと、ジョバンニは小さな声を落とす。
──同じ──硝煙の匂い。
「しかし、マリーはあんたになついた。マリーは、自分に危害を加えようとする人間がすぐわかる。だから、あんたは俺たちの敵ではないと思った」
自分にとって味方か敵か──まだ幼いあの少女がそれを見分けることができるようになるまで、いったいどれだけの敵に出会ってきたというのだろう。
「マリーの両親は……」
ジョバンニは少し、眉を顰めてみせた。僅かに、首を横に振る。
「……味方になってくれとは言わない。せめて敵にはならないでくれ。マリーがまた傷つくことになる」
祈るように手を組み、ジョバンニは最後まで小さい声で言葉を落としていた。
「あの子は天使だ。あんたもそう思うだろう?あの天使を守る為なら俺は悪魔になってもいい」
英二は答えることができなかった。沈黙が流れる。
ぱたぱたと、階段を駆け上る小さな足音。英二にもその楽しげな音がマリーのものだとわかる。
「ジョバンニ!」
勢い良くドアをあけるマリーの声。ジョバンニが立ち上がり微笑むとマリーは紅潮した顔でジョバンニに駆け寄った。
「ジョバンニ、ミケーレが来たの」
ジョバンニの顔色がさっ、と音を立てるように変わる。
「やあ、探したよ、ジョバンニ」
ドアの前に、人の良さそうな初老の男が立っていた。
「ミケーレ……何故ここが…」
「ジョバンニ。安心しろ。私はマリアを迎えにきたんだ」
「え……?」
ミケーレと呼ばれた男はマリーの髪を撫でながらにこにこと嬉しそうに笑っている。
「ドンが──すべて片付いたから、マリアを迎えたいと。早く可愛い孫娘に会いたいから一刻も早く探し出せと言ってね」
いい報せの筈だった。しかし、ジョバンニの顔は苦しげに歪んだままだ。
「ジョバンニも、長い間マリアを守ってくれてありがとうと。おまえが昔望んでいた通り、もうファミリーとは無関係に生きていっていいと仰っている」
「待ってくれ、ミケーレ──俺は──」
「マリア」
ミケーレはマリーの前にしゃがむと、ゆっくりと頭を撫でながら微笑んだ。
「これからはおじいちゃまと一緒に暮らせるんですよ。よかったですね。私と一緒に参りましょう」
「……ジョバンニは?」
マリーは小さく首をかしげた。ジョバンニの様子がおかしいのを敏感に察知しているのだろう。
「ジョバンニとはここでお別れです」
「どうして?あたし、ジョバンニといっしょじゃなきゃいや」
「マリア……聞き分けのないことをいわないで。こんな小さなアパートでこそこそと暮らさなくてよくなるんですよ」
「いや!ジョバンニがいっしょでなきゃ行かない!ここは英二もおばあちゃんもいるもの、あたしここがいい」
「──マリー」
困り顔のミケーレに替わってジョバンニがマリーの前にしゃがみこんだ。マリーの頬を両手で包み込むようにして、涙の溢れた眼を拭う。
「ミケーレが困っています。あなたはおじい様のところへ帰るのが一番幸せなんですよ」
「いや……」
それでもマリーは小さく何度もかぶりをふった。そこへ、居たたまれなくなった英二が口を挟む。
「あの……マリーも突然のことで戸惑っているみたいだから、どうでしょう。あと2、3日間をおいては」
「英二。あんたは部外者だ。口出しは──」
「判りました」
あっさりと、ミケーレは頷いた。
「それでは2日後に迎えに来ますからね。マリア、それまでにジョバンニとちゃんとお別れするんですよ。ジョバンニはこれからは自由になるんですから」
自由になる──
そんな言葉の本当の意味が、幼いマリーにわかるわけがない。
ただ、大好きなジョバンニと離れろと言われてそれは嫌だと言っているだけなのだ。
ミケーレが立ち去ったあともマリーの涙は止まらなかったし、ジョバンニは放心したように立ち尽くしていた。
泣き疲れたマリーがようやく寝ついたのはもう夕刻になってからだった。
英二が簡単な食事を作ってやったものの、ジョバンニは手を付けもせずじっとテーブルに腕を組んだまま顔を伏せている。
ふと、我に返ったように顔を上げるとジョバンニは自嘲交じりの笑みを浮かべた。たった数時間でやつれたようにすら見える。
「……いつかこの日がくることはわかっていたんだ……」
組んだ指の色が変わるほど力が篭っている。
「これで俺の役目は終わりだ。もう俺は必要ない。確かに昔俺は自由になりたいと望んだけれど──」
音もなく、ジョバンニの前にコーヒーが滑らされる。けれどやはりジョバンニは手をつけない。
「俺が望んだのはこんな自由じゃない──」
祈るように。
組んだ指に顔を伏せる。
──俺からあの子をとりあげないでください。
──あの子をとりあげられたら俺はもう生きていけません。
──俺の天使をつれていかないで下さい。
──お願いです、神よ。
けれど、自らの手を血で穢し続けた男に神が微笑むことはないと──
ジョバンニ自身が一番よく知っていた。
「仕事、決まったぞ」
康平がいつもの調子でふらりと入って来た。
マリーがミケーレに伴われて去ってから10日あまり過ぎている。マリーが去った翌日にはジョバンニも姿を消していた。
しかし、英二の耳からはいまだにあのジョバンニの悲痛な祈りが消えることがない。
「……仕事する気分じゃないな」
「何甘えてんだ。ほら」
ばさりばさりと、資料の束が封筒から投げ出される。
「標的はこれだ。2人」
ファイルを気なしに覗き込み、英二は目を疑った。
「──マリー?!」
「ああ、ここに住んでいたんだよな。もっと早く決まってれば楽な仕事だったんだがクライアントが慎重すぎてな。ちょっと厄介な仕事になっちまった。勿論その分上乗せはもらうから心配するな」
「ふざけるな!なんでこんな小さな女の子を殺さなけりゃならないんだ!しかも」
──あの、ジョバンニの天使を。
「このお嬢ちゃんはな、とあるファミリーの後継ぎ娘なんだよ。ついこの間まで誰を後継ぎにするかでえらく揉めててな。お嬢ちゃんのパパ、つまり今のドンの長男だが、これが暗殺された。それでファミリー中ひっくり返すような身内の抗争があったんだ。結局反対勢力を全部潰しちまったのさ。このドンは。一番可愛がっていた息子の、可愛い娘にあとを継がせるためにな」
康平の声が耳を素通りしてゆく。
「まあ、ようやく落ち着いたその跡目争いだが、今回のクライアント──日本の某企業なんだがな。こいつが、ここのドンを潰したいと思ってるわけだ。いろいろと利権がらみでな。というわけでじじいと孫を殺す。あとは潰された派閥の残党に金をやって企業に有利な組織に組替えさせたい、とこういうわけだ。判ったか?」
「嫌だ。そんな仕事できるか!」
「いつからそんなに偉くなったんだ。え?英二よ」
できるわけがない。
マリーを殺すなど。
「やれ、英二」
シゲの声が耳に飛び込んできた。
「おまえはだからいつまでも一人前じゃないっていうんだ。これは『仕事』だぞ。ガキだろうが坊さんだろうが、金受け取ったらそんなことは忘れろ。指が鈍ったら最後、殺られるのはおまえだ」
「シゲさん──でも、俺は」
シゲとて、マリーを可愛い可愛いと言っていたではないか。なのに、何故そんなに簡単に殺せ、と言えるのか。
──欠陥。
そうか──
俺が殺し屋をやっていく上の致命的な欠陥。
こんな時、シゲや康平のように仕事と割り切って銃爪を引くことができないでいる。それが──
「どうする。もっともおまえが請けないというなら俺がやるぞ」
「──」
今のシゲにこの仕事ができるわけがない。
マフィアのドンと、その後継ぎである孫娘。警備も並ではない筈だ。まして、つい最近お家騒動が収まったばかりだとすれば。
「やるよ。俺が──やる」
英二の、握り締めた拳が小刻みに震えていた。拳だけではない。
──全身が、震えていた。
雨の降りそうなどんよりとした空。手の届きそうな雨雲。
英二は、聖堂に忍び込み塔の上に登った。
──冒涜、か。
いつか、ジョバンニに対して思ったことがふと頭をよぎる。
場所云々よりも、殺しを生業にしていること自体が冒涜だ。
いや、俺はジョバンニのように神を信じたりはしない。
この建物にしても、英二にとっては単なる歴史的建造物にすぎないのだ。
どうも、ジョバンニに感化されている。
そのよく太った老人は、額に銃弾を受けあっけなくその場に転倒した。蜘蛛の子を散らすように周囲の人間が集まったり散らばったりするのがここからは手にとるようにわかった。マリア──マリーを、英二は見失わない。
マリーを抱き上げたボディガードが周囲に気を配りながら建物に駆け込もうとしている。
スコープを覗き直し──
銃爪に指をかけた。
──味方になってくれとは言わない。せめて敵にはならないでくれ。
頬の筋肉が痙攣するようにぴくぴくと震える。
そして、英二はゆっくりと──指を、引いた。
汽車に乗って自分の街へ帰ってきたものの──
真直ぐ部屋へ帰る気はしなかった。
あのアパートへ帰れば、マリーとジョバンニを思い出す。センチメンタルに過ぎると言われても、今はどうしてもそんな気にはなれない。
ただふらふらと街を歩いていた。
──俺が、天使を殺した。
ああ、彼女が本当に天使で、神というものが本当にいるなら。
俺の銃弾を彼女に届かせることはなかったのだ。
マリーは天使なんかじゃない。
ひとりの、6歳の、愛らしい少女だったのだ。
それは英二にとっては天使を殺すことよりもずっと重い罪のように思えた。
橋の側の教会──いつか、ジョバンニが追手の死体を置いたあの教会にさしかかった時、深夜だというのに庭に立ち尽くす人影が見えた。
「ジョバンニ──?」
心臓が、爆発するかと思った。その場を逃げ出したくなる。しかし足がそれとは裏腹に釘付けにされたように動かなくなった。
「やあ、英二」
まるで幽霊のように、憔悴しきった顔を微かに笑わせている気配がする。
「マリーが殺されたよ」
ぎくり、と息を飲む。
「こんなことならあの子を手放すんじゃなかった。俺が側にいたならどんなことをしたってあの子の命だけは守ったのに」
「ジョバンニ……」
「これで、本当に終わりだ。なにもかも」
次の瞬間──
ジョバンニの手に握られた拳銃は、その持ち主の頭を撃ち抜いていた。
逃げた。
全速力で走ると、10分足らずでアパートにつく。
階段を上ると、マリーを抱き上げたジョバンニの姿が見えるようだ。
鍵を開けるのももどかしく部屋のドアを開けると、シゲがグラスに新しいワインを注ぐところだった。
いつもならこの時間、シゲはもうとっくに寝ている筈だ。
「おう、おかえり。ごくろうだったな」
おそらく英二の仕事の首尾はとうの昔にシゲのもとへ報告されていたのだろう。飲むか、とワインを注いだグラスをひとつ英二に差し出した。英二はただ首を横に振る。
「──ジョバンニが死んだ」
聞こえていないようにシゲは何気ない動作でチーズをひとかけら齧る。
「俺が殺したのはマリーだ。だけどマリーが殺されたから、ジョバンニは自分で自分の頭を撃ちぬいた。俺は、ジョバンニまで殺す気はなかったのに。ジョバンニも俺が殺したのと同じだ」
「それがどうした」
英二に断られたグラスを自分で乾し、自分のグラスのものも呷る。赤いワインが血の色に見えた。
「おまえが今までやってきたのも同じ事だ。おまえが殺した標的にもそれぞれ家族や恋人がいる。そのせいで残された者たちが破滅したり自殺したり、そんなことはいくらでもある話だ。今回たまたまおまえが標的を知っていたからそれがわかっただけで、今までにもずっと同じ事をしてきたんだぞ。いちいち苦しんでいちゃこんな仕事はできやしないんだよ」
英二は表情を凍らせたまま立ち尽くしている。いつのまにか目から涙が溢れていたことにも気付いていなかった。
「どうする?足を洗って日本に帰るか?足を洗ったところでおまえがしてきたことが綺麗になるわけじゃないぞ。忘れたのか?おまえはもうこの道でしかやっていけねえんだ」
もう、あともどりなど出来ない。
一度手を染めてしまったのだから、死ぬまで殺しつづける他ないのだ。
チーズをもうひとかけら齧ると、ワインを口に運びながらシゲは溜息をついた。
「この仕事をこなすことができたら、おまえはやっと一人前になると思ったんだがなあ。せっかく康平と相談してあの子が標的になるようにうまく細工したのに」
「──え?」
「ドンの方が不利な状況だったのを、対抗派閥が弱体化するようにこっちで細工したんだ。そうすればあの子が後継ぎになる。標的になる、そんな筋書きだな」
「シゲさん………」
頭の中でがんがんと鐘が鳴っている。それは弔いの鐘に似ている。
本当は、マリーを殺さずにすんだかもしれないのに──
「諦めろ、英二。もうおまえはこうやって生きていくしかないんだ。無理だってんなら」
つい数秒前までワイングラスをつまんでいた右手に、黒光りする塊が見えた。銃口が英二にぴたりと定まる。
「もうこの世にはおまえの居る場所はねえんだよ」
──笑った。
実の父親や兄に反発してきた英二にとって、シゲはもうひとりの父親のようなものだった。
笑い皺だらけの顔。頬を覆う髭。人の良さそうな目。
ピアノを教えてくれた。
おまえは大丈夫だと言ってくれた。
銃には手を出すなと言ってくれていた。
けれど、俺は結局大丈夫じゃなかった。銃にも捕まってしまった。
それを救ってくれたのはシゲではなかったか?
救ってくれたのではなく、絡め取られたのか?
頭の中で鐘が鳴り続けている。
もう聴こえなくなったと思っていたこの鐘の音。弔いの鐘。
鐘の音が大きすぎて、もう何も考えられない。
そして──
頭の中で鳴り響く弔いの鐘は、シゲのためのものに変わった。
*Note*
本編中でシゲさんが生きてて活動してるとこを書いたのはこれが初めてだった。それまでは「もういないあの人」とか回想の中で声が聴こえてきた的な登場ばかりだったので。「銃爪」の章とはちょっと違う康平も登場。英二が書きにくい書きにくいと文句ばっか言ってるんですが話としてはこの話は気に入っています。基本的には改行位置を調整したり台詞のちょっとしたニュアンスをいじったりする程度の修正しかしてませんが、シゲさんの最期の言葉だけ付け加えました。
ジョバンニは、紫さんタイプの人の別ルートの破滅を書きたくて、わりと意識してイメージを被らせています。かといって椎多は天使ではありません。
主要登場人物はイタリア人なのでイタリア人ってすぐわかる名前(ジョバンニとかミケーレとか)にしました。康平が出てくるとことか英二とシゲの会話は日本語だけど、ジョバンニたちとはフランス語、英二はイタリア語は自分で喋れるほどではないけど難しくない会話くらいなら聞き取れるくらいというイメージ。マリーはフランス語を喋ってますがママンがフランス人とかそういうのではないかと思います。なお作者はフランス語もイタリア語もわかりません(潔い)。