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来 客

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 またあの季節が来る。
 美しいイルミネーションが街を飾り人々の心がうきうきと弾み始めるあの季節が───

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 普段ならまだ社にいる時間だった。
「珍しいですね、風邪の初期症状を訴えるなんて」
 注射の用意をしながら茜が笑った。その背中に向かって舌を出す。
「正月明けまで忙しいんだ。風邪なんかひいてる場合じゃない。注射でも点滴でもなんでもいいからとにかく今すぐ治せ」
「栄養のあるものを食べてぐっすりお休みになるのが一番なんですがね」
「そんな暇がないから薬を出せって言ってるんだ。つべこべ言わずにやれ」
 ちくりとした痛みに特に顔をしかめるでもなく椎多はすぐに立ち上がった。社に戻るつもりらしい。


 会社にも医務室はあるのだが薬に関しては例え会社で雇った医師でも信用できないのだと椎多は言う。そういったひとつひとつの何気ない言葉を耳にする度茜は椎多が実際に何度も生命の危機に晒されてきたのだということを実感した。
 

 どうかすると無防備にすら見えるのに──
 服を着替えたり歯を磨いたりするのと同じくらい日常的に、椎多は外敵から身を守っている。おそらくはずっと昔から。自分が運だけで生き延びて来たのとは大違いだと思うと苦笑が洩れる。

 

「クリスマスパーティーだの忘年会だの新年会だの目白押しというわけですか?呑みすぎにはくれぐれも気をつけて下さい。二日酔いの薬なんか出しませんよ」
 二日酔いなんかするもんか、という返事が返ってくることを茜は予測していた。しかし、その予測は外れた。
 椎多は一瞬遠い目をしたかと思うと、黙って背広を羽織っただけだった。
「……椎多さん?どうかしましたか」
「何が?」
 何が、と問われると返答に困る。黙って見送るように自分も立ち上がった。その拍子に電話が着信を告げ、茜は慌てて受話器をとった。
「椎多さん、待って下さい。来客だそうですよ」
「社に戻ったと言え。気が利かないな」
「女性だそうですが」
 少し眉を顰め、椎多は足を戻して茜から受話器を受け取った。屋敷にまで押しかけてくる女には心当たりはないとみえて首を傾げている。
「どんな女だ」
 開口一番そう訊ねているのを見て茜は苦笑している。若くて美しい女なら会うつもりだろうか。
 しかし、椎多の怪訝な表情はさらに険しく強張っていった。


「居ないといって追い返せ。──いや、待て。会おう。応接で待たせておけ」
 

 吐き捨てるように言うと椎多は受話器を茜に投げ返した。
 そして苛々とした大きな溜息をひとつ落とすと何も言わず茜に背を向けた。

 

 

 嵯院邸には応接室として使える部屋は多く存在しているが、突然の来客を通すのはたいていここと決まっている。
 美しい彫刻で飾られた重厚なオークの扉を重そうに開くと、来客は既にアンティークなソファに身を沈めしかし背筋をぴんと伸ばして座っていた。前に置かれた紅茶には手をつけた跡がない。扉を開ける音に気付いて来客の女はびくりとした動作で椎多を振り返った。
「お待たせしました──」
 にこやかに対外用の微笑みを浮かべて来客のもとへ足を運びかけて、椎多はあるものを発見した。
 同時に、感電したように身体が痙攣して動けなくなった。──と思ったのはほんの一瞬だったのだが。


「ご無沙汰しています」
 女はどこか可愛らしい、幼さの残る動作でぴょこりと頭を下げた。
「……こちらこそ。どうぞおかけ下さい」
 ようやく捻り出した声は、掠れていた。

「今日はどうされたのです、有姫さん」

 

 椎多は凍りつきそうな顔をなんとか笑わせて、自分も席についた。有姫の腕に抱かれた『それ』から視線を外すことができない。有姫はそれに気付いたのかようやく小さく微笑んだ。


「英悟といいます。渋谷の子供です。英悟、おじちゃまにこんにちはは?」
 

 その赤ん坊は、不思議そうにくるくると大きな目を動かしながら母親と椎多をかわるがわる見つめている。椎多は気の利いた愛想のひとつも言うことができずにいた。
「渋谷の母が亡くなりましたの。昨日、四十九日を済ませました。それで義姉とも相談したのですが、わたしは実家の母のもとへ帰ることに」
「それは……色々と大変でしたね」
「母ももう年ですし一人暮らしなので英悟と暮らせるのを喜んでいます。こちらで一緒に住もうと誘った時には一人の方が気楽だとか意地をはっていたのですがやっぱり孫は可愛いみたいで。ええと、すみません。それで、ご挨拶にと」
 椎多の知っている有姫より随分と落ち着いて見えるがしかし、それでも彼女の持っている愛らしさは色褪せてはいない。

 君の幸せを全部奪って全部壊したのはこの俺だよ。

 ふと、想像する。
 俺がもし英二にかかわることがなかったなら。
 夫の事業は軌道にのっている。夫の実家の料亭も順調だ。両親も健在だっただろう。夫の愛情を独占し、その子供をもうけ──今頃幸福の絶頂にいたことだろう。
 それを全て台無しにした。

 それを、この女は知っているのだろうか。

「夫が帰ってきたら──」
 有姫の声にびくりと顔を上げる。
「わたしは実家の母のもとにいるからと、伝えて下さいますか?探し回ることになったら可哀想だから」
「帰ってきたら──」
 鸚鵡返しに呟く。


 帰って来はしない。
 英二は、死んだのだ。
 あの一年前のイヴの夜に。

 

「帰ってくるとお思いですか」
 意地悪い椎多の質問にも有姫は笑った。
「ええ。わたしと英悟が待っているのですもの。きっと帰ってきてくれます。わたしも、英悟がいるからずっと待っていられますし」

 衝動的に、殺意を覚えた。

 

 それをかろうじて心の裡に押さえ込むと椎多は黙って頷いた。顔は、かろうじて笑っていた。

 お忙しいところ申し訳ありませんでしたと何度も頭を下げて小さな細い身体で英悟をゆすりあげながら有姫は去って行った。

 椎多は──
 暫くの間、来客の消えた応接室で放心したようにソファの上に身を投げ出していた。

 有姫は、知っているのだろう。
 あの、鼻や口元が父親によく似ている子供を誇らしげに見せびらかして。
 あなたの手元には何が残ったの?と──

 小刻みに震える指で煙草を一本抜き、口に咥える。火を点けると普段感じることのない刺激が舌を刺した。
 とたんに、吐き気が襲ってきた。
 洗面所までかろうじて持ちこたえたが、あとは胃が空になるまで吐いた。吐くものがなくなっても、吐き気はおさまらない。


「どうしたんです」
 主人の様子がおかしいのに気付いたメイドが呼んだのだろう。茜が背後から支えていることに気付くのに暫くかかった。
「なんでもない」
 手を振り払い、口元をタオルで拭いながらよろよろと洗面所をあとにする。後ろから茜が何事か呼びかけているが殆ど耳に入らない。


 そうだ、会社に戻らなければ。
 年末年始は忙しいんだ。
 クリスマスパーティだの忘──

 これだけ奪っても俺のものにならないならやっぱり殺すしかないか

 

 クリスマスなんか二度と来ない。

「椎多さん!すごい熱ですよ!」

 茜の声に突然我に帰った。
「薬が合わなかったってわけではないか──とにかく部屋へ戻りましょう」
「ばかいえ。まだ仕事が残ってるんだ」


「ばかはどっちだ!」
 

 熱があるから響いたわけではなく、今まで聞いた中で一番大声で茜が怒鳴った。それから少しばつが悪そうに咳払いをして声のトーンを抑える。
「俺は会社のことは知りません。あなたの健康を守るのが仕事ですから、外出は許可できませんよ」
「嫌だ」
 拒否の言葉は無視されなかば引きずられながら椎多は結局自室にまで戻らされてしまった。
「嫌だ。寝てたくない」
 はいはい、といなしながら茜は点滴の準備をしている。

 こんなところで静かに寝ていたら、俺は押しつぶされる。
 そんな感覚に、今まで何度か陥ったことがあった。
 年をとって少しは強くなったと思っていたけれど、俺はなにひとつ変わっていない。

「ほら、おとなしくして。刺しますよ」
 点滴の針を持った茜の手を払いのける。
 その返す手で茜の白衣の襟を掴み強引に引き寄せ、唇を塞いだ。すぐにそれは引き剥がされ、入れ替わりに怒ったような茜の声が飛び出してくる。
「危ないじゃないですか。針を持ってるんですよ」
「俺を眠らせるならやるのが一番てっとり早いぞ」
 茜は手にした針を置くと少し困ったように睨みつけた。
「何を言ってるんですか」
「おまえ、俺に惚れてるんだろ?そう言ったよな、うるさいくらいに。だったら有難く頂戴すればいいだろ。初めてじゃあるまいし」


 言いながら、似たようなシチュエーションが前にあった、と思った。
 俺はやっぱり進歩していない。
 今度は──
 茜を穴埋めに使うつもりか?

「それとこれとは別です」
 ゆっくりと、はっきりとした発音が耳に届いた。
「熱が下がってもその気があるなら有難く頂戴しますよ。今はとにかく寝て下さい。ここにいますから」

 そう言うと茜はてきぱきと椎多の腕を掴み、点滴の針を刺した。
「痛い」
 不満気にこぼす。
「下手くそ」
 構わず医師は液の調整を済ますとベッドサイドの椅子に腰をかけた。
「朴念仁」
「どうとでも」


 それから椎多は思いつく限りの罵詈雑言を茜にぶつけたがどれも不発に終った。
 

 やがて点滴がそろそろ終るころになってようやく──
 椎多は寝息を立て始めた。

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 その窓からは隣のビルの壁が見えるだけで、せいぜい空気取りとしてしか機能していない。それにしたところで清浄な空気が取り込めるわけでもなく──入ってくるのはエアコンの室外機から流れてくる濁った空気くらいのものだ──存在自体に意味のないものとなっていた。


 悔谷雄日はそれでもその窓に向かってぼんやりしていた。まるで、その窓の向こうに何かの景色を眺めているかのように。
「雄日、おいで」
 何度かめにようやく気付いたように雄日は振り返った。鴉は毛布を身体に巻きつけるようにくるまりベッドの上でころりと横になった。その命令に素直に従う。
「寒いからくっついてようよ」
 台詞は甘えているけれど、どこか命令めいている。雄日はやはりその命令に従った。
 毛布を一旦剥いで裸のまま細い身体を包み込むと再び毛布を羽織る。雪山で遭難して体温を分け合っているようだと思った。
「冷たいよ雄日」
 鴉の笑い声が聞こえた。
「明日仕事の打合せに行ってくるよ。今度のは一人でやってくれる?」
 黙って頷く。
「窓の外がどうかした?」
 やはり黙って首を横に振った。


 この部屋に限らず雄日が窓を時折気にすることがあるのに鴉はとうの昔に気付いていた。しかしそれには気付かないふりをして鴉はゆっくりと指を雄日の脚に滑らせ、頭を傾けて顎先に接吻ける。
「……もっとあったかくなろ?」


 機能していない窓の向こうから、クリスマスソングが微かに聞こえる。
 雄日は少し苦しげな顔をすると毛布にくるまったまままたその命令に従った。

 華やかなイルミネーションに飾られたツリー。
 その脇を通り、エレベーターに乗って予め調べのついている部屋へと迷いなく足を進める。
 ルームナンバーを確認すると、雄日はコートに隠した消音銃でドアノブを打ち抜いた。
 音もなくドアの中にすべりこむと、室内は暗い。が、奥のベッドの上ではスプリングの軋む音と女の切なげな声、男の荒い息遣いが聞こえる。
 行為に没頭中の男女は訪問者に気付きもしない。
 僅か数秒、狙いを定めると雄日は男と女に一発ずつそれぞれの頭を目掛けて銃爪を引いた。
 標的は繋がったまま動かなくなった。
 そのままとって返す筈が──


 ふと、窓に気をとられる。
 カーテンは閉められてはいなかった。大きな窓の外には夜景とイルミネーションが輝いている。

 下を歩いてるバカップルどもは折角のイヴが台無しになるな

 誰かの声が頭の中に響いた。
 びくりと身体を奮わせると雄日は自分の仕事がまだ完了したわけではないことを思い出し、するりと部屋を抜け出した。
 最初にツリーの脇を通ってから再びそこを通り、道端に停めた車に戻るまで僅か10分足らず。
「首尾は?」
 小さく何度か頷く。しくじりはしない。
「鴉──」
「ん?」

 

「鴉はいつか俺を殺す?」

 

 鴉は少し驚いているようだったが前から目を逸らしはしなかった。
「いつか、俺を殺す?」
 雄日はもう一度、ゆっくりと言った。

 

「……殺すかもね」
 

 大きい体を小さくしながら雄日がそう、と呟いた。


 それから助手席のシートを少し傾け、窓にもたれるようにして流れる景色を目で追う。
 一筋だけ零れた涙を、運転席の鴉に気付かれないように雄日はこっそりと拭った。


 

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*Note*

前章であんだけ滅茶苦茶やっといて自分だけさっさと幸せになられてもアレなので(酷)。

​てゆうかなんだかんだ言うて有姫ちゃんとちゃんとやることやってました、英二。『しぶや』が大変なことになってたのと有姫ちゃんが天然なのであのクリスマスの時にはまだ妊娠に気づいてなかったと思う(わかってたら英二が離婚するって言い出した時に言ってる筈だし)けどさすがに藍海誘拐事件より前ってことはないだろうから、あの後ですよね。あのやろう。

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