Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
海 風
真っ暗だ。
何かから必死に逃げている。
見えないのに、背後から巨大な何者かが追いかけてくる気配がする。
あれに捕まったら喰われてしまうことを自分は知っている。
飲み込まれて消化されやがて骨まですべて溶けてあいつの一部になってしまう。
真っ暗だから、前に進んでいるのかどうかもわからない。
足は必死に動かしているのに、どこに向かっているのかすらわからない。
ただ、視界の先に糸のように細い光が見える。
あれはこの世界から外へ脱出する扉だということを何故か知っている。
あそこに辿り着きさえすれば──
「おい、風邪ひくぞ」
飛び起きると頭が鈍く痛んだ。
脳の異物を取り除く前ほどではないが、いまだに咄嗟に体勢を替えるとぼんやりとした痛みがある。
薬の副作用で全身が怠く、一日寝たり起きたりして何もせずに過ごしてしまった。なのにまたソファに横になったまま眠ってしまっていたらしい。
「どうした。大丈夫か」
ソファの前に腰を下ろした椎多が顔を覗き込んでいる。
「うん」
とだけ答えてソファの上に座り直し、深く身体を預けて大きく息を吐いた。
「なんか消化のいいもんでも食うか。腹が減ったら調子がいい時でも気分悪くなるだろ」
「食欲ない……」
「馬鹿。無理してでも食え」
椎多が携帯で何か指示している。
この下のフロアには嵯院邸から交代で常駐している料理人とメイド、そしてKが居を置いている。たまには椎多が料理に挑戦していることもあるが、もともとそういう素養はないのだろう、たいていは結局下の階から料理人を呼びつけて作ってもらうことになる。
手術後暫くして放射線治療が始まる頃に、茜と椎多はこの海辺のマンションに移った。
あろうことか、椎多は経営から全て手を引いてしまいここで茜とずっと共に暮らしている。
──そんなこと、俺は望んでないですよ。
──今からでも退任なんて取り消して下さい。
そう言うと椎多はよくやるように茜の頬をつねり上げて笑った。
──おまえの為じゃない。
──おれがそうしたくて決めたんだ。おまえにとやかく言われる筋合いはない。
茜のためにやめるというのに、茜に言われる筋合いがないなどと支離滅裂だろうと思う。
手術が済んでしまえば、特に数週間密に病院に通わなければいけない放射線治療が終われば、月一度抗がん剤の投与を受けに通院するだけだ。屋敷にいたままでも続けられただろう。
それなのに椎多は頑としてわざわざ探してきたこのマンションに二人で移るのを強行した。
──仕事も何もかも全部ほったらかしにしてただおまえとイチャイチャしたかったんだ。悪いか。
そう言われてしまってはしょうがないなと笑うしかなかった。
下の階から料理人が持ってきてくれたのは、中華粥だった。少し冷ましながら口に運ぶ。食欲がないと思っていたのに、食べ始めるとするすると完食できた。腹は減っていたのだろう。
「食って落ち着いたらもうこんなとこでうたた寝じゃなくてベッドで寝ろよ。ほんとに風邪ひくぞ」
「うん……」
見るといつのまにか──茜が粥を食べている間にか──椎多はシャワーでも浴びてきたのか、髪が濡れている。ああ、もしかしたら椎多がそう声をかけていたのに自分はそれを覚えていないだけなのかもしれない。よほど意識しておかないと以前より物覚えが随分悪くなった。これも後遺症のひとつらしいが、老人になったら、あるいは認知症になったらこんな感じなのだろうか。
そして右半身に軽い麻痺──麻痺というか常に軽く痺れている状態になっている。うかつに歩くとバランスが取れずに転びそうになる。指は動くし感覚も無くはないが細かい作業は難しい。 シャッターを切るにも、三脚でカメラを固定してやらないと手持ちではぶれてしまうのだが、これは訓練と慣れでなんとか出来ないかとは思う。
ドアひとつ向こうのベッドルームにいくのも遠く感じる。ワンルームならここにベッドを置いておくのに、と思うのだがそんな配置にしたらそこから動かなくなるから、と椎多がベッドは隣の部屋に置いたのだ。
まだ治療は始まったばかりで──まずは敵が再生しないことを祈りながら残骸を丹念に殺していくことを続けるしかない。まずは5年生き延びることを目標に我慢強くやっていくしかない。
それでも──
椎多に時々支えてもらいながらベッドに辿り着く。
「おとなしく寝ろよ」
そう笑って背を向けようとした椎多の手を咄嗟に握った。
もう冬ではないので椎多の指はそれほど冷たくない。
「椎多さん、今日一緒に寝よ?」
「なんだおまえ、食欲無いくせに性欲はあるのか」
「しなくていいから一緒に寝てよ。怖い夢見るから」
「子供かよ」
ちょっと待ってろ、と言い残して椎多は一旦部屋を出ていった。
電気を点けていない部屋は真っ暗だ。カーテンの向こうは海で、外から漏れてくる光もない。
あの夢のように細い光の線だけが見える。
うしろに、あの巨大な怪物が息を潜めてはいないだろうか?
こんなに物覚えが悪くなってしまったのに、いつもなら目覚めた瞬間忘れてしまうような夢のことばかり何故こんなに覚えているのだろう。嫌になる。
あの怪物がいるのではないかとありえない妄想に背筋が寒くなり、背後を振り返ることが出来ない。
暫くするとリビングの照明を落としたのだろう、光の線が薄くなり、扉が開いた。
──開いた。
大きな安堵が茜を包む。
椎多は手に持った水のペットボトルと缶ビールをベッドサイドに置くと、茜の隣に潜り込んだ。茜の頭に手を添えて壊れ物をそっと置くように枕に沈めると軽く唇を重ねる。腕枕をするように首の下に腕をくぐらせて茜の身体を抱き寄せた。
暖かい。
もう寒い季節ではないのに、体温が心地いい。
ああ、自分は不安だったのだな、となぜか他人事のように納得した。
あの背後から追ってくる巨大な怪物は、自分の脳の中にいた、いまもしぶとく息づいているあの異物なのだと思っていたけれど──それはもしかしたら自分自身の心の中にある不安の姿だったのかもしれない。
あの扉を開けて飛び込んできて魔物を倒してくれる勇者は、椎多だった。
「……な、ほんとにしなくていいのか?」
笑い含みの勇者の声が聴こえる。
茜は笑いを堪えながら返事の替わりに目を閉じたまま探るように椎多の首筋に接吻けた。
「週一回の問診になんでこんな行列が出来てるんだ」
医務室の外にまで並んだ行列を目で辿って椎多は苦笑している。
「常駐してる時にはそんなに毎日誰かが来てたわけじゃないだろ」
「みんな茜先生と話したいんでしょ。人気者だったんすね」
Kが行列と椎多の顔を見比べてにやにやしている。
夏の終わりには月一度、秋になってからは週一度程度のペースで茜は嵯院邸の医務室での仕事を再開した。
手術の後遺症との付き合い方にも少しずつ慣れ、化学療法の副作用もある程度落ち着いた状態であることからむしろ他人と接して話をする機会を作った方がいいとアドバイスされたのだ。
茜が入院した後、医務室は看護師だけが残って後任の専任医は置いていない。
茅病院との連携が密になっていることから、医師の処置が必要な際はそちらに融通をきかせてもらうことで話はついていた。また、椎多が経営から手を引いたことで以前ほどには厳しい警戒が必要無くなってきていることも理由のひとつだ。
新しい情報を記憶することがすんなりとは出来なくなったとはいえ、その都度しっかり記録しておけば常駐医の問診程度ならさほどの問題もなかった。だいいち問診といっても大半は愚痴や世間話や近況で、茜の現状を承知の上で毎度同じ話をしに来る者もいる。
なるほど、自分は気づいていなかっただけで茜はこの屋敷中の人間から慕われていたわけか。
茜は問診を1人終えるごとに写真を撮った。
茜が入院してからここに勤めるようになった新顔はおらず、一通りの顔は覚えている筈なのだが写真を撮るのは記憶の助けにするためではないという。
以前は野鳥ばかり撮りに行っていた茜は、手術後再びカメラを手にしてからは"人"も好んで撮るようになった。撮った写真はアルバムに残し、焼き増しして一枚は次の問診の際に本人に渡している。茜と一緒に写りたがる者も増えてきた。
「おまえら、いい加減にして自分の持ち場に戻れよ。茜も病人なんだぞ。あんまり疲れさせんな」
声をかけると行列の者たちははーい、という気の抜けた返事をした。
このまま治療が奏功して茜の病が治ったら──
またこの部屋で日がな暇そうに欠伸をしたり居眠りをしたりする日々が戻ってくるのだろうか。それともこの屋敷を手放すのが先か。今のところまだ再発を抑えている程度で、予想以上に長い闘いになるかもしれない。
医務室を後にしてダイニングと隣接した遊戯室を覗くと英悟が隼人とじゃれながら遊んでいた。隼人もそろそろ老犬になり、英悟を仔犬のようにあしらっている。青乃がそれを眺めていた。
「あ、おとうさんだ!あかねは?」
英悟が駆け寄ってくる。
こいつ、おとうさんより茜か。
「茜は仕事中だ。あとでな」
「はーい!」
そうか。
親父から見て自分が死んだ後に紫が俺とああいうことになるっていうのは、俺が先に死んで英悟と茜がそういうことになるみたいなもんなのか。
俺や英悟にはまだ青乃がいるからいいが、もし青乃がいなかったら俺だって茜に「英悟を頼む」と言い残すかもしれない。
それは──嫌だな。
うん。それは嫌だ。
親父には悪いことをした。
もっとも英悟がそれなりの年になる頃には茜はもうじいさんだ。そういう事にはなるまい。そもそも茜はそこまで俺に従順じゃない。
と、そこまで考えて椎多は可笑しくなり笑いを零した。青乃が何ですの?と訊くともなく呟くがもちろん返事はしない。
一旦社長職を仮に引き継いだ青乃だが、現在ではもう役員として名を残すのみで青乃もまた社からは手を引いていた。子会社の経営陣としては残っているが実際には大きな経営判断のある時に座に加わる程度である。
あとはこの屋敷をどうするかだ。
このままここに住み続けるのか、あるいは手放すのか。
椎多にとっても青乃にとっても多くの悲劇を目撃してきた屋敷。
茜にとってはかつて憧れた古い写真の舞台であった屋敷。
──あの幽霊は今でもここにいるのだろうか。
──俺がここを手放したらあの幽霊は怒って俺をとり殺しに来たりはしないだろうか。
そんな幽霊よりここを手放すとしたらこの敷地の中にそれなりの数埋まっているだろう死体はどうすべきか。
ここで命を落とした者の死骸の多くは身元不明や死因が辿れない状態にして外部に廃棄されているが、それが困難なもののいくつかはおそらく敷地のどこかへ埋めてある。多くは紫や伯方の采配によるもので当然記録も残っていないし椎多は把握もしてはいない。七哉の代まで遡ったらもうどうなっているかなど見当もつかない。おそらくは裏山に埋めているはずだ。あれを切り崩したりしない限りは大丈夫だろうとは思うが、そこが迂闊にここを開発目的で売ることのネックになっている。
「結局お売りになるの?」
「その方向だが、ここを手放したら従業員の大半は辞めてもらうことになる。それがな」
「解雇を躊躇ってらっしゃるの?お優しいこと」
「ベテランも少なくないからそういう連中は早期退職を募って退職金をはずんでやるとして、若い連中は行先の紹介くらいしてやりたいなと思ってさ。他の金持ち連中とか警備会社とかホテルとか」
伯方は嵯院家を退職したあと、昔の部下が経営している警備会社──かつて邨木佑介を紹介してきた男だ──の役員に収まっている。嵯院邸の警備を担当していた者の一部はそこで引き受けてもらえるよう打診しているところだ。
この屋敷を手に入れた父・七哉はしかし、この屋敷に執着があるようには、少なくとも椎多には思えなかった。
父にとってはこんな明治期の華族の大邸宅を"手に入れる"ことに価値があって、そこに住むこと自体はそれほど魅力と思っていなかったのかもしれない。
そういえば昔、千代に聞いたことがある。
父が会社を創業した当初は、リカと二人で6畳一間のアパートに住んでいた──と。
そんな父が、ここではリカとは暮らしていなかったのだ。
これだけ部屋があるのにここには住まわせずに、リカとの暮らしは別の小さなごく普通の家で送っていた。
この屋敷はきっと、父にとっては"マイホーム"では無かったのだ。
自分にとっては──?
生まれ育った家に対する郷愁とは違う何かに引き留められている感覚は少しある。
ここは、椎多の罪の多くを目撃してきた一番の証人なのだ。
「ここを売るなら──」
青乃の実家である葛木邸とその庭園を小さな街に改造した前例はある。
現在も運営を仕切っているのは青乃の庶弟である元だが、浮き沈みやテナントの出入はあるものの芸術や音楽を志す者にとってはすでに定着した場所になっているという。あれに倣ってこの邸宅を中心に街を作ることも不可能ではないがコンセプトをはっきりさせなければゴーストタウンになりかねない。周到に調査とシミュレーションを重ねて──
「あなた、もうそういう街づくりする会社の社長じゃないんですよ」
青乃が吹き出しているので我に返り、椎多も苦笑する。
「癖ってのは抜けないもんだな」
「あなたの育てたスタッフに任せればいいじゃないですか。あなたが思いつかないような面白いことをしてくれるかもしれないし」
うん、と言ってごろりと床に寝転がった。隼人がのしのしと近づいてきて椎多の顔を舐める。全身黒いはずの隼人の口元の毛は部分的に白くなっていた。
犬も白髪になったりするんだな、などと思う。
「ねえ、このお屋敷を手放すというならわたし、目を付けてるタワーマンションがあるの。英悟が一人前になるまではそこがいいわ。でも年を取ったらあの高原の別邸で余生を送るからあそこは売らないでいてね。あなたは──ずっと、あの海辺のマンションで住んでらしたらいいわ、茜先生と二人で」
青乃は「ずっと」を強調して言った。
まだ手術から1年も経っていないのに、治療の効果がみられないことに焦りを感じ始めていることを青乃は感じとっているのかもしれない。治ったと言い切るためには最低でも5年、どうかしたら10年は必要なのだ。焦っても仕方ない。
「あ、お揃いで」
行列の問診が終わったのだろう、茜がゆっくりと遊戯室を覗いた。
「あかね!!」
英悟が茜に駆け寄っていく。
海辺のマンションに遊びにきたときに、以前のように飛びつこうとして叱られたことを覚えているのだろう。英悟は茜の足元でうずうずと待っている。
茜がゆっくりと床に腰を落とすのを待ち構えていたように抱きついた。茜もそれを赤ん坊を抱っこするように抱きしめて背中をとんとんと叩いてやっている。
それを眺めながら小さく笑みが漏れた。
おい英悟。
それは俺の男だ。
おまえにはやらんからな。
季節が変わるにつれ、壁の写真パネルが増えている。
2フロア買い取ったリゾートマンションのすべての部屋の壁が大小のパネルに埋め尽くされつつあった。
茜と椎多の主な生活スペースである、40畳のLDK。その壁面の中で一番目が行く場所には、全紙サイズのパネルが2枚並べて掛けられている。
入院前の茜が何年も上流から下流までくまなく、足しげく通っては撮っていた、嵯院邸からほど近い川の鷺の写真だ。
より良い写真は撮れないかと粘っていたが、手術と後遺症とこのマンションに居を移したことであの川で鷺を撮ることはもう無くなっていた。
他の壁の多くはここへ移ってから撮った写真で、特に気に入ったものがあれば大小に引き伸ばしてパネルに貼っている。パネルに貼る作業も以前に比べて倍ほども時間がかかるようになってしまったが、時間だけはたっぷりある。
茜は街の中に居ては撮れなかった海鳥も時折バルコニーにやってくるからと一日中カメラを用意して窓と睨めっこしている日があったと思えば、一階の共有部である庭園まで降りて撮ったりもしている。
さすがに闘病を始めてまる2年目にもなると、庭に行く程度ではいちいち椎多が付き添うことも無くなっていた。
海を臨むこのマンションの海側の部屋はその下がすぐ海になっており、新築当初の価格はこの景観の値段だけを残して下落したような気がする程度には見事だ。特に最上階のバルコニーは海上に浮かんだかのような眺望で、睦月が見つけてきた当時の広告では『シーサイドビューを独り占め』といったキャッチコピーがついていた。
南欧風のエントランスから出て少し下ると両隣の街に繋がる国道、それに沿って少し歩くと階段があり、ごく狭い砂浜のある海岸がある。海岸は50mも行けば次の岸壁にぶつかり、途切れる。夏でもここで泳ぐのは地元の子供くらいのものだ。バルコニーからの眺望はまさにリゾート地なのに、一歩外へ出るとどこかうらぶれた、開発に取り残された昭和の漁村の趣が色濃い。このマンションの人気があまり出なかったのもそのせいかもしれない。
共用の庭園は海に釣り糸を垂れるには少し高いが、眺めが良いので数少ない他の住人である何組かの老夫婦がベンチに腰をかけて海を眺めていることが多い。敷地の外はクロマツが多く植わっているが、あくまで南国リゾート風に造りたかったのだろう、この庭園にはシュロやソテツ、エントランス脇にだけはオリーブが植えられている。
その日──
茜は三脚を杖替わりにして、マンションのエントランスを出た。
椎多は茜が一人でマンション敷地の外へ出ることを嫌がるが、波打ち際に集まってくる鳥たちを撮りたくて時折黙って出てくることも近頃はよくある。
ゆっくりと、足元を確かめながら階段を降り、国道の路側帯を少しだけ歩く。すぐに海岸へ降りる階段へ到達する。
海岸に降りる階段の手摺に手を掛けた時、茜の横をすり抜けた車が背後で停まる音がした。
「茜ちゃんじゃねえか」
声にゆっくり振り返ると、ピカピカのスポーツワゴンから髪を茶色に染めてヒゲを生やしサングラスを掛けた胡散臭そうな男が降りてきた。目を細めて見ると満面の笑顔を浮かべている。見覚えの無い男だが、さっき聴こえた声には確かに覚えがある。
男はサングラスを外してさらに顔をくしゃくしゃに笑った。
「俺だよ、俺!」
「え……長さん……?」
かつて──茜が父を探して見つけ出した父の友人、長部一之。その時はホームレスで、茜は嵯院邸に雇われるまで日本に居る時は長部の"公園のマイホーム"にたびたび厄介になっていたものだった。
茜の知っているのはホームレスの、顔も手も真っ黒に汚れ、髪も大半が白髪でボサボサ、歯が何本も抜けて、背中を丸めた、おそらく実年齢よりずっと年上に見えていた姿しかなかった。
目の前にいるのは、それなりに年は重ねているがダンディとでも言うのか、とにかく椎多とは少し方向性が違う金持ちにしか見えない。何か怪しい商売でもしていそうだ。白いジャケットの下の柄シャツの胸元は大きく開いていてゴールドの太いネックレスが光る。薄汚れたようにしか見えなかった浅黒い肌は日サロにでも行っているかのようにつやつやしているし、抜けていた歯も綺麗に揃っている。しかも真っ白だ。
「この先にマリーナあるだろ。昨日からダチのクルーザーで遊んで帰るとこだ。どうだ、見違えたろ」
「うん、なんかまだ本人か信じられない。宝くじでも当てたの?」
茜の言葉に長部は大声で笑った。そういえばそのマリーナには何度か連れて行ってもらったことがある。椎多はクルーザーなどは持っていないので散策して食事をして写真を撮っただけだ。そのことも自分で撮った写真を何度も見てやっと覚えたことだった。
それでも、写真を見ればその時の楽しかった感情などは蘇る気がする。だから写真を撮るのは意味があると思う。
「……水原のカメラは受け取ってくれたか?」
その言葉で、この長部が間違いなく茜の知っている『長さん』であることが判った。
思えばあのカメラを置いて、長部はあの公園から姿を消したのだ。あの後あの公園を訪ねることも無くなったが、おそらく長部はあそこへ帰ることはなかったのだろう。
「うん──残ってたフィルムも現像した。だから俺はもう水原茜を探すのをやめたよ。探されたくないってメッセージなんだろうと思って」
長部はそうか…とだけ言って小さく何度も頷いている。
「長さんはあのカメラ、いつ預かったの。俺が遊びに行ってた時にはくれなかったよね。もしかして、水原茜と会ったの?」
探さないとは決めたものの、そのことはずっと心に引っかかっていた。長部はあのカメラをどうやって手に入れたのか。
しかし長部は聴こえていないかのようにその質問には反応も答えもしなかった。
それは、訊いてはいけないことだったのだろう。
「──それで茜ちゃんも写真撮るようになったのか」
顎で三脚を示す。茜は自分の右脇に抱え込むように地面に下ろしていた三脚のカメラに視線を落とした。
「ただの趣味だよ。鳥を撮るのって面白いね。水原茜も──鳥だけ撮ってたらあんな風にカメラを置いてしまうこと無かったのかな」
「そうだな──」
目の前にウミネコが鳴きながら通り過ぎる。
「茜ちゃん、体、どっか悪くしてんのか」
おぼつかない足。髪はある程度再生したがずっとごく短髪に揃えニット帽をかぶっている。とはいえ体調自体はそう悪くない。意識もはっきりしているし、声も普通に出ていると思う。長部の知っている頃と比べても、むしろ少し太った。あの頃は戦場の医療活動に行ったりしていたから今よりずっと痩せていたのだ。
「やだな、そんなに病人の雰囲気出してる?ちょっと考えなきゃ」
「そりゃまあ、あんまり外出する服装じゃない」
自分の着ている服を見下ろして、確かに寝間着替わりのスウェットそのままでコンビニに買い物に行くニートみたいだな、と思った。最近はろくに外出もしていないから外出に適した服装がどんなものだったかカンが狂っている。
服かぁ、と言って笑った。
しかし長部はそれ以上追及しようとせず、茜もそれ以上は話さなかった。
自分の命が遠くない未来に失われるだろうことは。
茜はずっと左手で握りしめていた、海岸へ降りる階段の手摺に視線を落とす。
階段は急で、20段ほどはある。階段の終点はすぐに砂浜ではなく、少し岩場になっている。
「長さん、あのさ」
うん?と長部の声が背中から聞こえた。
「例えばちょっとよろけたふりでもして──俺にぶつかってここから突き落としてくれないかな」
「はあ?!」
長部の素っ頓狂な声が波音に消える。
別のウミネコがまた、みゃお、と鳴きながら二人の間を横切っていく。
茜は手摺をしっかりと握ったまま顔だけを振り返らせ、ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。
*Note*
そろそろ終点が見えてきました。あんまり闘病中の描写はしないでおこうと思っていたんですが、茜ちゃんのことをもう一度ちゃんと描いておかないとねと思いまして。
突然イケオジに変身した長さん再登場。で、久しぶりにちょっと不穏な感じで続く。
次の話が最終回になるかと思います。
あー、最後の一文自分は何て書くのか。まだわかりません。