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卒 業

 いつも困った顔をしている──椎多が困らせているのだが──名張が、困ったを通り越して泣きそうな顔をしている。

「おい、なんて顔してるんだ」
「だって社長、いきなりすぎるじゃないですか」
「多分おまえが一番大変だろうな。すまない。謝る」
 接待の時でさえめったにやらない、直角に腰を曲げて頭を下げた椎多に名張は何も言えないでいる。名張の手にはプリントアウトしたA4の書面が、半ばくしゃくしゃな状態で握られていた。
 椎多が用意し、校閲しろと渡された原稿データを印刷したものだ。
「こんなプレスリリースなんて出せませんよ。社内だって混乱するし取引先も──マスコミからも何を憶測で書かれるかわかったもんじゃない」

 それは──
 嵯院椎多がグループ全体の会長職と母体の社長職を退く、というプレスリリースの原稿である。

「気まぐれのわがままもいいかげんにして下さいよ。社長、今いくつ案件抱えてると思ってるんですか」
「どのプロジェクトもちゃんとリーダーがいて実質そいつらが動かしてる。ここまで会社がでかくなったらトップひとりちょっと変わったところでちゃんと業務もプロジェクトも動くしそうなるように作ってきたつもりだ。嫌になったらいつでもやめられるようにな」
 椎多はついさっき直角に頭を下げていたとは思えない尊大さでチェアに沈み込み、半回転させた。何故か得意げだ。

「それにしたって」
「当分は連絡がいつでも取れるようにはしておくが本当に困った時だけにしてくれ。日常的に俺がしていたことで下に割り振れないことは妻に回してくれればいい。青乃は俺よりゴルフが得意そうだから接待に駆り出してもいいぞ。ただ子育て中だからあんまり無茶は言うなよ」

「やめて……どうするんですか」
 名張は怒りとも不満とも困惑ともつかない複雑な顔でじっと椎多の目を見ている。

 ああ、こいつ、たいていどんな時もこうやって正面から目を見てくるし、俺が目を睨みつけてやっても絶対逸らさない。そういうところが気に入ったんだったな──

「……そういやおまえ、ちょっと痩せたんじゃないか?ついに彼女が出来たっていう噂は本当だったのか」
「話を逸らさないで下さい。おかげさまで彼女らしき人は出来ましたし食事管理もしてくれてますけど」
「そうか、良かったな。もし結婚までこぎつけたら祝儀ははずんでやるから絶対報告しろよ」
「そうじゃなくて──」
 絶対目を逸らさない名張が初めて視線を外した。恋愛話に関してだけはいつものようにはいかないらしい。と、秒で切替えたのだろう再び椎多の目を睨みつけてきた。
「せめて1年くらい準備期間をくれませんか。こんなに突然本日をもって辞めます、なんて痛くもない腹を探られますよ。警察とか検察とか税務署とかから、とくに」
 痛くもない、というわけでもないがそのあたりに探られて困るようなへまはしない。
「俺がやめようがやめまいがそいつらはずっと嗅ぎ回ってるだろ。でも尻尾は掴めない。ほっとけ」
「でも──」
 名張はなおも食い下がろうとする。

 自分でも無茶を言っていることは十分わかっている。
 何も退任までしなくても、休職するという手もあるだろう。現在進行中の仕事をそれぞれのリーダーに完全に任せるという点では変わらない。


 ただ──
 完全に手を離したくなったのだ。
 両手を完全に自由にして、それをただ茜の残り時間のためだけに使いたい。
 だから、1年も待っていられない。すぐでなければ意味はない。

 茜の手術は3日後に決まった。
 術後の経過がよければ退院はすぐ出来ると担当医が言っていた。あとは定期的に通院して治療を続ける。
 屋敷も離れて静養させようと考え、静養先に例の高原の別邸も考えはしたが、車で何時間もかかり雪に閉ざされれば身動きが取れなくなる場所では通院にも不便だし万が一容態が悪化した時に手遅れになりかねない。茅病院になるべく近い保養地で景色のいいマンションか別荘を探しているところだ。それくらいの距離なら、青乃が英悟を連れて遊びにも来やすい。

 あのクリスマスの日──
 英二が訊いた。
 俺の為に何もかも捨て去ることが出来るのか、と。
 嵯院グループも、組も、奥方も、あの屋敷も。
 椎多は答えた。
 出来るよ、と。
 出来ると答えたけれどきっと自分には出来ないことを、椎多はわかっていた。

 今。


 ただ茜のために、
 茜を手に入れるためなどではなくただ茜のそばにいるためだけに。
 椎多は何の迷いもなく自らグループを手放そうとしている。
 茜の治療が長引けばあの屋敷も手放すことになるかもしれない。

 組はもともと解散の方向で睦月と話し合ってはいて、千代の了解も得た。こうなれば睦月の仕事は早いはずだ。
 そもそももう殆ど椎多の手からは離れていた。
 青乃は──むしろ、そんな椎多の背中を押してくれている。

「そこに書いてる通り、正式には期末での退任だがひとまず臨時の代理として青乃を社長に就任させる。次の取締役会で正式な後任を決めてくれ」
「どうしても──ですか」
「どうしても、だ」

 椎多の目をじっと睨みつけていた名張の目から、ぽろっと小さな涙粒が落ちた。

「え。どうしたどうした」


「情けなくて」


 ぱちぱちとつぶらな目をまばたかせると表情は変えずに指で涙を拭い、名張は少し赤らんだ鼻をぐすんとすすった。

「私が社長付き秘書になってから何年経つと思ってるんですか。15年ですよ、15年。新卒2年目だった私がもうアラフォーですよ。なのにこんな重大なことを決めるのにひとっことの相談もしてもらえないなんて。情けないです。自分が情けない」

 少し痩せたとはいえまだまだふくよかな身体をぷるぷると小刻みに震わせながら唇を噛みしめている。
 椎多は見たことのないそんな名張の様子に慌てて立ち上がった。
「おいおいちょっと待て。悪かった。これはほんとに俺のわがままで、プライベートな事情で決めたことなんだ。おまえが頼れるからこそこんな急でもなんとかしてもらえると……ほんとに頼りにしてるんだよ。だから泣くな」
「泣いてません!」
 苦笑しながらデスクを離れ、名張の顔を覗き込む。拳で腹に軽くパンチをくれてやると予想以上の弾力で跳ね返された。思わず声を出して笑う。
「おまえ、なんかゆるキャラの着ぐるみみたいだな」
 部屋の隅にいたKまで笑っている。

「俺がいつも突然思い付きで何かを始めたり投げ出したりしながらどんどん仕事を拡げていけたのは、おまえやそれぞれのプロジェクトの連中がしっかりやってくれてたからだ。おまえらを信頼してるから俺は自由に前に進めたんだ。感謝してるし、だからこそこれからのことも任せられる」


 餅のような名張の頬を指でつまんで引っ張る。

「べそかいてる暇はないぞ。あとは頼んだ」

 虫を払うように椎多の手を振り払うと名張はむすっと口を尖らせて姿勢を正した。
「……しまいまで横暴ですね。もし社長がやめた後たちまち誰かが逮捕されるとかM&A仕掛けられるとかでグループのどこもかしこもボロボロになったとしても全部自業自得ですから、私たちを恨まないで下さい」
「わかってるよ」
「あと──」
 一瞬視線を落とし、再び戻す。

「社長じゃないただの無職の人になって、ちょっと落ち着いたら、一度食事でも行きませんか。私の彼女を紹介したいです」

 おう、いいな、という椎多の声に被せるようにKが部屋の隅から声を上げる。
「名張さん、やめときなって。この人、人の彼女とか関係なくちょっかい出すから」
「うるさいぞ憂也」
 ついに説得を諦め、椎多とKのやりとりを見てほんの少し笑うと名張はどこか自信に満ちた顔をした。

「大丈夫ですよ。よかったら桂さんも一緒に」

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 落ち着いたシックな調度品、主張しすぎない花がセンスよく飾られた個室。

「こういうの久しぶりだな」
 椎多は立ち上がって壁に飾られた絵画を眺めている。

 嵯院椎多が"社長じゃないただの無職の人"になって2ヶ月ほどが経ち、そろそろ桜の季節が近づいているのが空気からもわかる。

 予告通り名張が食事に招待してきたのは以前もよく利用していた高級フレンチの個室である。もっともここを利用する時はたいてい重要な接待の時で、料理を心置きなく楽しんだ覚えがない。
 椎多と同等の賓客として隣の席に就かされたKに至ってはこの部屋は隅かドアの外で立っているのが常で、食事などしたこともなかった。座っていてもそわそわと落ち着かない。


「それで、噂の彼女は遅刻か?」
 椎多とKの向かい側に座った名張が携帯を確認しながら椅子から立ち上がった。仕事の時にはどんなに張り詰めた接待の場面でもたいして緊張などしない男が緊張しているのが表情や動作から伺える。
「いえ、主役は遅れて登場してもらおうと思って。来たようです。少々お待ちを」
「もったいつけるな。どんなお姫様がやってくるんだ」
 ドアからあたふたと出て行く名張の背中を見送りながら椎多は笑った。
 主役到着というのだから、席に戻って姿勢を正す。

 ノックの音、静かにかちゃりとドアを開く音がした。
 開いたドアの向こうに、女が立っていた。
 春らしい柔らかな色のふんわりとしたワンピースにボレロ。艶のいい真っ黒な髪を優雅に結い上げ、上品なピアスが両耳から提がっている。貴婦人はその場で微笑んで頭を下げた。

「ご無沙汰しております」
「──柚梨子───」

 そこに立っていたのは10年前に椎多のもとを去っていった、柚梨子だった。

 頭が真っ白になって何も言えずにいる間に、名張も続いて入室しドアを閉めた。椎多の向かいの席の椅子を引き、柚梨子を座らせて自分も着席するとソムリエを呼んでいる。その間も椎多はぽかんと口を開けたまま何も言えずにいた。ふと気づきちらりと隣のKを見るとやはり口をあけてぽかんとしている。

「お元気そうで良かった。桂、あんたもね」

 柚梨子の声に突然我に返る。


「ちょ、ちょっと待て。名張の彼女っていうのはおまえだったのか?!おまえら、いつから?!」


 再会を懐かしむ言葉も出せずにいきなりそんな事を言ってしまった。あまりにも予想外の展開だったのだ。
 名張と柚梨子は顔を見合わせて苦笑している。
「おつきあい……みたいになったのはまだ1年くらいです」
「101回目のプロポーズどころじゃないです。10年かけて好きです、付き合って下さいってもう何万回も言って、去年やっとOKしてもらえました。諦めなければ夢って叶うんですね」
「根負けしちゃいました」
 ふふふ…と柚梨子の懐かしい笑い声がテーブルを転がって椎多のもとへ届く。

 そこへソムリエがやってきて、話は中断した。
 続きが気になって、ワインを選ぶどころではない。
 今日の料理に合うものを見繕って持ってこいとだけ指示し、戸惑ったまままずは乾杯する。
 ほどなく料理が運ばれ始めた。

「ゆりちゃん……桐島さんが辞める時、引き継ぎでもし緊急で確認したいこととか出来た時のためにって連絡先を教えてもらったんです。他の誰にも絶対教えないって約束で。で、仕事の話を口実にお誘いして。それが口実だって最初の2回くらいでバレてしまったのでしばらくはメールの返事ももらえなくて。嫌われたかなって思ったけど諦めずに連絡し続けて」

 柚梨子が前菜の一口めを口に運んだ時には名張の前菜はもう無くなっていた。よほど照れているのか、額に玉のような汗をかいているのを柚梨子が自分のハンカチで押さえてやっている。
 その何気ない動作だけ見ても、この二人が本当に恋人同士であることが伺えた。

「おまえ、それは殆どストーカーだろ……」
 そうですねえ、ギリギリですよね、と名張は気まずそうに笑った。
「でも連絡をくれるにもちゃんと節度はあったし家に押しかけてくることも無かったのでストーカーだとは思わなかったんですよ。名張さんの人となりは知ってますもの」
「そうやって1年ちょっとくらいかな?粘ってたらやっと返事をしてくれるようになって。電話にも出てくれるようになって。電話で話したりしているうち、食事に付き合ってくれるようになったんです。ここまでに3年かかりました」
「おまえ……」

 仕事上での粘りや根気強さは十分知っていたつもりだったが、惚れた女に対するアプローチもそういう正面突破しか出来なかったのだろう。他のテクニックは皆無なのだ。

「さてやっと食事やお酒には付き合ってくれるようになって、ちょっと元同僚じゃなくて友達くらいには昇格出来たかと思ったんですがそこからがまた長かった。なんなら酔わせてどさくさ紛れにどうにか出来ないかと思ったことも無くはないんですが彼女は僕よりずっと酒が強くて、飲み過ぎるといつも僕が介抱される側で。僕はその間もずっと告白してははぐらかされを繰り返して、それでも絶対友達とそれ以上の境界線は踏み越えてくれないし家にも上げてもらえないし僕の家にも来てくれない。それを5年、6年?続けまして」
「お、おう……」

 絶対真似できない……と思いながら料理を口に運ぶ。せっかくプライベートで初めて来た店のに、料理を味わうどころではない。

「そんなのを5年も6年も続けてたらその状態がちょうどよくなってしまうんじゃないか。なんでまた急にOKする気になったんだ」
 柚梨子は椎多の目をちらっと悪戯っぽく見たかと思うと、少し照れくさそうに首を傾けた。

「月並みなんですけど……、二人で飲んでいた帰りに絡まれたんです。若いチンピラの人たちに」
「ほら僕、こんなデブじゃないですか。デブのおっさんがこんな綺麗な女優さんみたいな女性と歩いてたから、からかわれて。ちょうどひと気のないところだったから多分僕をボコボコにしといて彼女に悪さしようとしたんでしょうね」

 そこで名張が柚梨子を守るために戦ったのか?
 この、格闘技の試合でも屁理屈で口喧嘩に持ち込もうとしかねない男が?

「相手は3人組だったんですけどね、まず一人が僕をどんって突き飛ばして。そしたら僕ほらこの体型じゃないですか。そのまますぐころんって倒れてしまって、そしたらそいつが僕の上に馬乗りになって殴りかかってこようとしたんです。そしたら、そいつ、襟首掴まれてぐいって。ふっとんでいきました」

 ああ、と椎多は全てを理解した。
 戦ったのは名張ではない。柚梨子の方だ。

「僕は一瞬何が起こったのかわからなかったんですが、起き上がってみたらあとの二人ももうその場で倒れてて。ゆりちゃんが3人とものしてたんです。うわぁ、かっこいいなって惚れ直してしまいました」
「もういいでしょ、恥ずかしい……」
 柚梨子は思わず両手で顔を覆ってしまっている。

 そりゃあそうだろう。
 柚梨子は伯方から格闘の基本を叩き込まれ、その上で紫が一人前に鍛えた娘だ。
 酔っ払いのチンピラなんか、10人束になってかかってきたって捕まえることすら出来ないだろう。

「……とっさに身体が動いてたんです。守らなきゃって」
 顔を覆っていた手を下ろすと柚梨子はほんのり赤らめた顔を上げ、椎多の顔を見つめた。

「あたし、このひとを守ってあげなきゃって……思ったんです」

 一瞬流れた沈黙の中で──
 携帯電話のバイブレーションの音がそれを破る。
「ああ、申し訳ありませんこんな時に。ちょっと失礼します」
 名張が慌てて携帯を手に部屋を出ていく。休日など関係なく名張に電話があるのは日常的なことだ。

 名張が退出したことによって何故か一気に力が抜けた。
「そうか……。おまえが名張となあ…」
「あたし、あなたのお側から離れたあともう一生誰のことも愛さない、ずっとひとりで生きていこうって決めてたんです。結局最初から彼があたしをひとりにはしてくれなかったけど」
 照れ隠しのように柚梨子は自分の手元をみつめている。
「でも──」

 あたしが彼を守ってあげようって。
 ずっと守ってあげたいって。
 あのあと──初めて、思えたんです。

「不思議なんだけどそう思ったらもう急に彼が可愛いくて可愛いくて」
 頬を赤らめたまま肩をすくめて笑う。
 容姿はあの頃とまるで変わらないのに、はにかんだ表情がまるで若い娘に逆戻りしたようだ。

「──おまえが幸せなのは顔を見ればわかるよ。おめでとう。安心した」

 自分のもとを去った柚梨子がどうしているのか。不幸になってはいないかとずっと気がかりだった。毎年誕生日とクリスマスにきちんと送られてくる送り主の名のない花。それを柚梨子からのものだと思ってきっと今も無事に生きていてくれると思い返すようになっていた。
 だから、思っていたよりずっと近くで、孤独でも不幸でもなくこれから幸せになろうとしている柚梨子に会うことが出来て本当に心から安心する。
 名張は仕事の時は口うるさいし偉そうだが、誠実で信用できる男だ。
 きっと柚梨子をずっと幸せにしてくれるだろう。

 ありがとうございます、と律儀に頭を下げると一言も発せずにいた弟に向き直った。
「桂も、ずいぶんしっかりしたみたい。あんたはずっとこの方をおそばで守ってあげてくれたのね。ありがとう」
「──」
 Kも椎多の側にいて様々な場面に遭遇しては未熟さを突き付けられたり選択を迫られることも少なくなかったが、そんな時きまって"紫さんなら""姉ちゃんなら"と思い浮かべたりしたものだった。

 いつ頃からだったろう。
 "姉ちゃんなら"なんて考えなくなったのは。

 名張がしつこく10年も諦めずに口説いてくれたおかげで、姉は孤独にならずに済んだのだ。そして名張を愛することが出来たから──やっと姉は"嵯院椎多"から解放されるのだろう。
 姉の顔を見た瞬間から言葉ひとつ出てこなかったKがようやく姉ちゃん、と声を出した。

「卒業おめでとう」

 椎多が卒業か、うまいこと言うな──などと笑っている。
「ずいぶん長く留年してしまったけど」
 柚梨子も笑っている。
 外はちょうど卒業のシーズンだ。

「いつも花を送ってくれていたのは柚梨子なんだろう?」
「おわかりでした?」
「もうおまえは名張の恋人なんだから、今年から送ってこなくていいぞ」
「もう年中行事みたいなもので送らないと落ち着かないです。お嫌じゃなきゃこれからも送らせて下さい」

 それに、あなたに対する気持ちが愛でなくなったとしても、感謝は消えないから。

「それなら次からはちゃんと送り主の名前を堂々と書いて送れ。開店祝いみたいにでかい札つけたっていいんだぞ。ああ、それと──」
 椎多がKに合図をするとKは自分のバッグからメモとペンを取り出し椎多に渡した。その様子を柚梨子が興味深げに目で追っている。受け取ったメモにさらさらと走り書きをするとそれを柚梨子の前にひらりと投げた。


「しばらくは──多分何年かは屋敷じゃなくそこで暮らしてる。そこへ送ってくれ。良かったら一度遊びにくればいい」


「お屋敷じゃなく──」
 椎多はメモとペンをテーブルの端に追いやりながらにっこりと笑った。

「次は俺がおまえに紹介するよ」

 俺がやっと巡り合えた、ただ素直に大事にしたいと思える人間を。

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 窓を開け放つと熱された外気とともに潮の香りのする風が舞い込んだ。
「磯臭いな」
「椎多さん、言い方」
 茜が笑っている。

 手術自体は成功し、春になる頃には放射線治療も一段落した。その後月一度化学療法のために茅病院へ通院している。
 危惧されていたほどの重大な後遺症は無いように思われたが、右半身に軽い麻痺が起こるようになっていた。リハビリも兼ねて室内では極力車椅子や杖は使わず自力で歩いたり意識的に右手を使うようにしている。
 強い光や大きな音など、外からの刺激に過敏になったり、新しいことを記憶するのが少し苦手になった。
 放射線治療と化学療法の副作用で脱毛もあり、残った髪も戦時中の子供のように丸刈りにした。開頭手術の傷痕がまだ生々しい。また月の半分くらいは体調がすぐれない。
 それでも、想定された後遺症よりは随分軽いのだという。

 季節は夏になっていた。

「もうちょっとしたら青乃と英悟が来るぞ」
「そうでしたっけ。あ、誕生日だ。椎多さんの」
 青乃たちが来るということは数日前から何度も言って、今朝も言ったがやはりそれは覚えていないらしい。しかし今日が椎多の誕生日だということは覚えている。

 インターホンの音がした。


『椎多さん、いつものあれ、届きましたよ』
 マイク越しにKがにやにやしているのがわかる。
 玄関を開けてやると小柄なKの上半身がすっかり隠れてしまうほどの花束を抱えて入ってきた。
「でかい花瓶とかあったっけ……」
「あの隅に置いてる壺、こういう時花瓶に出来るだろうと思って持ってきてあったんだ。使えよ」
「この壺って何百万もするやつじゃなかったすか?」
 綺麗な花を飾ってもらって壺も本望だろうよ、などと言いながらリビングに戻る。
「送り主、ちゃんと記名されてたか」
「もちろん」
 花束を一旦置くと、Kは伝票を椎多に手渡した。
 伝票にはきちんと"桐島柚梨子"という名と、住所が記されている。

「すごい、大きな花束ですね。綺麗だなあ」


 茜がゆっくりと、三脚を取り付けたカメラを時折杖がわりにしながら歩み寄り、輪に加わる。
「撮っていいですか」
「いいけど、どうせならちゃんと生けてからにしろよ」
「芸術的な素養のなさそうなおじさん二人が苦労してお花を生けてるドキュメンタリーを撮るんですよ」
 からかうように笑うと茜は三脚を立て、花束を中心にKと椎多を収めるようにファインダーを覗いた。その中で椎多がレンズを睨みつけている。
「うるせぇ!見てろ!!」
 笑い声を立てながら、茜は小刻みに震える指でシャッターを切ってゆく。

 新しい記憶が書き込みづらくなった脳の替わりに、

 その光景をフイルムへ焼き付けていくように。


 

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*Note*

考えてみたら柚梨子がいなくなる話って「Re:TUS」の「分水嶺の先」「硝子の箱庭」あたりに書いただけで、こっちにはどこにも書いてないんですよね。「告白」の章の現在時間の時にはもういないので、過去を書いた「紫」や「呪文」にしか出て来てなかったのに、ちょいちょい「花を送ってくるのは柚梨子」みたいな書き方をしていただけで。

で、去った柚梨子がどうしているのかはあまり詳細には考えていなかったんで意外と暎や伯方と近くにいるんじゃないかとか程度に思っていました。

そこへ名張というキャラが名前を付けた途端急にキャラ立ちして、しかもなんとなく柚梨子に気があるらしいみたいな匂わせ(?)をしたことで、急に柚梨子と名張というよもやのカップルが出来ることになりました。キャラ立ちが過ぎるぞ、名張君。

しかしそうやって書いてるうちに、柚梨子が時間をかけてちゃんと椎多から卒業出来たことを書くことが出来て良かったです。

さてこの後なんですが。いよいよ「終わり」に向かっていくかと思います。

でも実はまだ何も考えていません。

​とりあえずひとつだけ、書くことが決まっているものがあるんだけど、それをどんな場面で、どんな風に出すかは決まってません。がんばろう。

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