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火 種

 深夜───すでに明け方に近い時刻。


 枕元に置いた携帯電話が着信を告げる。
 普段は寝る時には電源を切っているが、ここ数日間は電源を入れたままにしていた。椎多は手探りでそれを手に取ると目を閉じたまま耳に当てる。
 電話の向こうから賢太の押さえた声が聞こえた。

 

『───奴らやりやがったよ、しーちゃん。火をつけやがった』
 

 そうかわかった、とだけ応え電話を切る。
 一瞬、失笑に似た笑みを浮かべると椎多は再び携帯を枕元に戻し、息をついた。

 

 また今日も眠れない。

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「社長、ちょっとよろしいですか」
 社を出ようとしたところを呼び止められ、振り返る。
「木島専務」
「なんだかお久しぶりですね」
 専務───木島は苦笑して英二の正面に回った。言われてみれば、互いに多忙のためか前回の取締役会以来顔を合わせていない。


 英二が会社を設立した当初からのスタッフである木島は、この会社を育てた人間の一人である。英二が帰国してから暫く勤めたフランス料理店の同僚で、外食産業を始めようかと真っ先に相談した相手であり、数少ない友人の一人でもある。


「あまり時間がないんだ。手短に頼めるかな」
 苛々した調子で英二は木島に先を促す。しかし、その様子を見て木島は首を横に振った。
「いえ、やめておきましょう。今出来る話じゃないようだ。来週の取締役会の時にしますよ」
「だったら最初からそうしてくれ」
 言い終わらないうちに車に乗ろうとした英二の背後から木島の声がかかった。
「渋谷、仕事にあまりプライベートを持ち込むな。下の者がやり難い」
 なんだと──と言おうとして振り返ると、木島は既にビルの中へ姿を消して行った後だった。

 

 思えば、あれは──木島は最後に俺を試したのかもしれない。

 

 会議室に居並ぶ取締役の面々が全員挙手しているのを英二は呆然と眺めていた。


「それでは、賛成多数により、渋谷英二氏の代表取締役解任を可決します」
 

 議長を務める取締役企画部長が淡々とした声で告げた。
 専務である木島の動議により、英二は代表取締役──つまり社長の任を解かれることになったのである。

 英二の会社は『しぶや』の子会社として設立された経緯から当初は英二の父や兄も役員に名を連ねていたが、そこから独立して以降は両名とも取締役から退いたのがまだ今年のことである。しかし残った役員も木島をはじめ気心の知れた仲間のようなものだった。派閥もなにもあったものではない。
 まさか木島がクーデターを起こすなどとは、寝耳に水だった。

 『しぶや』の食中毒騒動で、同じ外食産業であるこの会社の代表取締役をその一族である英二が務めていることで著しくイメージを損なう。

 それが解任理由である。
 

──仕事にプライベートをあまり持ち込むな


 確か、あの時木島はそう言った。
 それは何のことを指していたのだろう?
 確かにプライベートに多くの問題を抱えていることは間違いない。しかし、仕事に持ち込んだつもりはなかった。
 それとも、それに煩わされて自分が気づかぬ間に仕事に悪影響を与えていたのだろうか?


 自分が『プライベート』にかまけている間に、木島は着々と他の取締役に根回しをし、全て抱き込んだ上でこの動議を出したのだ。

 それほど手際のいい人間だとは思わなかった。

 いずれにせよ、表向きの解任理由は考えてみればさほど不自然なことではなく、これで解任を不服として訴訟を起こしたとしても有利な状況にはなかなか持ち込めないかもしれない。
 代表取締役を解任されたとしても、株主総会で取締役を解任されたわけでもない。他の役員を説得して回り、再び返り咲くことも不可能ではないだろう。

 しかし、英二は漠然ともう取締役も辞任してこの会社から手を引くことを考え始めていた。
 なにより、英二はもう戦闘意欲を失っていたのだ。

 

 

 夏にオープンしたリゾートタウンはもうクリスマスのイルミネーションに彩られ、寒そうに、けれどカップルなどは暖かげに寄り添いながら歩きすぎてゆく。
 取締役会の後、英二は無意識にここへ足を運んでいた。

 家と、会社と、兄貴と、嫁と、恋人。
 大事なものがたくさんあって大変だなと康平は言った。
 家は窮地に立たされ父の自殺にまで発展した。
 兄とは訣別したままになっている。 
 嫁──有姫とは別居中だ。
 そして会社──

 一度思い切って何もかも捨ててみればいいんだよ。

 鴉の言葉がふと頭に浮かんだ。


 兄のようにただ一つのものを守り続けていればどんなことがあっても手離さずにいようとしたのだろうか。しかし、どれも遠ざかりながらまだ手の届くところにあるのに、自分は手を伸ばそうともしていない。
 本当は、心の何処かで捨ててしまいたいという気持ちがあったのではないだろうか──。

 ああ、そうだ。
 有姫と別れよう。
 慰謝料くらいは払ってやれる筈だ。今の屋敷を売り払えば、小さいマンションか田舎にでも家を買うことも出来るだろう。
 『しぶや』は今大変だけれど、兄がなんとかするだろう。
 それから──

「ね、気楽でしょ」

 突然、背後で声が聞こえた。ゆっくりと振り返る。やはりどこか反応が鈍っているらしい。
 寒そうに肩をすくめながら笑っている、黒ずくめの男。
「どうする?今なら全部取り返そうと思えば取り返せると思うよ。とことん欲張りに生きるのもそれはそれでアリだと思うしね」
 楽しげに、英二の視界の外へ外へと移動しながら鴉は笑った。


 なぜ、この男が自分の周りにこんな風に現れるのかがわからない。それ以上になぜ自分の身辺についてそんなによく知っているのかもよくわからない。
 けれど、それもどうでもいいような気分になっていた。
「それとも逃げる?家から逃げたみたいに?椎多と別れた時みたいに?シゲさんを殺した時みたいに?──君は逃げるのも下手だからどうせあとでまた捕まってしまうと思うけどね」
 くすくす笑いが英二の耳の奥を不愉快にくすぐる。
 その不快さが、少しずつ英二を現実に引き戻し始めた。


 わかっている。逃げても無駄なのだ。
 鴉の言う通り、今まで嫌なことからずっと逃げてきた。けれど逃げ切れたためしがない。

 

「──逃げるところなんかないさ」
 ひとりごちた英二の言葉が耳に入ったのかどうか。
 鴉は変わらずくすくすと笑い続けている。
 ふ、と頭を上げ、振り返ると──
 鴉の姿は消えていた。

 あれは、死神なのかもしれない。

 自然にそんな考えが頭をよぎり、英二は苦笑した。
 逃げ場所を失った俺を収穫にでも来たか。
 しかしはいそうですかとついていくのも癪に障る。

 英二は深呼吸すると、歩き始めた。

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『しぶや』に足を運んだのは父の葬儀以来だ。


 営業を再開したものの、通常の十分の一程度の売上に落ち込んでいるという。
 そして、『しぶや』をめぐる陰謀が家族に及ぶ危険も考えて母と、藍海と、そして有姫は英二の家に移した。従業員も半数以下になった。自ら辞めたものもいれば、この売上では給料を払うこともままならないので仕方なく解雇したものもいる。夜半過ぎの家はひどくひっそりとしていた。

 しかし、憔悴はしているものの修一の目には力があった。『しぶや』はまだ死んではいない。
 互いに蟠りが解けたわけではないがそれはこの際保留しておきたいと修一は言い、英二もそれに応じた。

「──強いな、兄貴は」
 少し、笑った。
 この兄ならば、何があっても最後の最後まで決して諦めないだろう。

 家──『しぶや』のこと。修一のこと。有姫のこと。会社のこと。そして、椎多のこと。


 問題はひとつひとつ潰していかなければならない。今まで決断できずに有耶無耶にしてきたこともすべて。
 それでも、兄が『しぶや』を必ず守るだろうという確信は英二をひどく安堵させた。
 兄が有姫を抱きしめていたことも、自分が水に流せば済むことだったのだ。あの時兄がなぜああいう兄らしくない行動に出たのか、それは兄の心の中を覗かない限りわからない。本当は兄は有姫を愛しているのかもしれないけれど、それを許さないというなら自分はもっと悪質だ。有姫にも言われたけれどそのことで兄をとやかく誹謗する資格は自分には無い。

「英二」
 兄の声に、まばたきをして視線を戻す。


「──嵯院椎多と話をしたよ」


 不意をつかれて息を呑んだ。修一がなぜ椎多と──?
「おまえたちのことも、聞いた。言いたいことがないわけじゃないが、それについては今はいい」
 顔がひきつっているのだろう。表情がうまく作れないような気がした。有姫が椎多について言及していたのだからそのこと──英二と椎多の"関係"について兄に知られていても仕方ないとは思っていたが、面と向かって言われると気まずいのはどうしようもない。
 しかし修一はそんな英二の表情にはおかまいなしに、きっぱりと言い放った。

「『しぶや』を攻撃しているのは彼だ」
「──え?」
「少しも疑わなかったのか?彼はおまえが大切に思っているものをすべて奪い去ろうとしているんだぞ」

 

──少しも──

 疑わなかったわけではない。
 澤の──藍海の一件から、自分に対する椎多の態度が目に見えて変わっていったということは英二も気付いていた。
 いや、気付かぬようにしていたのかもしれない。それは。

 自分が椎多に銃を向けたことが原因だとわかっているからだ。

──俺は、ここでも逃げていたんだな。

 溜息をつき。
 もう一度頭を整理しようとする。
「……椎多がそう言ったのか?」
「自分がやったなど言うわけないだろう。ただ……あれはおまえをむしろ憎んでいる目だった」


 憎んでいる、目。
 

 その奥に潜んでいるものも修一は感じ取っていたが、あえて口にださなかった。
「おまえの会社の件にしたってそうだ。もう一度、背後関係を洗いなおした方がいいぞ。彼が糸をひいていたということがないかどうか」
「まさか」

 苦笑し──しかし修一の真剣な表情に再度顔を引き締める。確かにありえない話ではない。ただ、果たして自分だけのためにそこまでやるものなのかどうかにわかには肯定できないだけだ。

──やりかねないって思ったから実は背中が冷や汗でぐっしょりだ。

 いつか言った自分の台詞。そして、あのときの椎多の言葉がつぎつぎと脳裡に蘇る。

 本当におまえを手に入れたいと思ったらそのために彼女を──
 今おまえを殺したら永久に俺だけのものになる──

 椎多は、戯れであんなことを言ったわけではない。本当にそう思っているのだ。
 ならば、椎多は俺を手に入れるために『しぶや』を潰し──そして会社を奪い取ろうとしているというのか。

 英二は酷く苦しげに顔を歪めた。
「まだそうと決まったわけじゃない」
 いかに修一の言葉であろうと、そして自分でも椎多ならやりかねないと思っていたとしても。
 それは逃げではない。無条件で鵜呑みにはしたくないだけだ。

 まるで試すように、修一は弟の顔を観察していた。
「俺は、『しぶや』を守る。その為には彼を潰すことになるかもしれない。いいな」
「兄貴──」
 修一は、すでにそれを確信し、そして決断している。


 思えば、もうずっと昔から嵯院椎多は──いや、その先代である七哉の頃から彼らは表も裏も『しぶや』を舞台に甘い蜜を吸いつづけていた。昔、澤の所属した組織を潰したもうひとつの組織──あの名前も知らない金髪の青年のいた組織というのが椎多の配下だったのだ。つまりは直接椎多が他の企業家と同様に『しぶや』を利用した他にも、澤がやっていたような汚職や談合の仲介で稼いでいたということだろう。

 それに何故今まで気付かなかったのか。この店を舞台に展開された様々な駆け引きで最も利益を得ているのが嵯院グループだったということに──
 証拠の画像や音があるわけではない。確固たる書面があるわけでもない。しかし、来店履歴などをあたってゆけば道筋ははっきりするはずだ。それを然るべきところへ提出すればあとはそちらがやってくれる。但し、あれだけのやり手で裏にも通じているなら、「然るべきところ」を慎重に選定しなければ簡単にもみ消されてしまうことは予測できる。嵯院グループの手の届いていないルートを見極めねばならない。
 ただ修一は英二にもこの手の内を見せはしなかった。
 信用できないといってしまえばそれまでだが、慎重に慎重を期す必要がある。


 「──おまえはどうする」
 

 どうする、と。
 椎多を敵にまわし兄と共に『しぶや』を守るのか、その逆か。

 それとも何か別の選択肢があるのか。


「まあ、いい。おまえが仮にあちらについたとしても俺は一人で戦うだけだ。俺が生きているかぎり、そしてこの場所がある限りどんなに規模を縮小しても『しぶや』は生きているんだ。俺は最後まで諦めない」

 訊ねておきながら修一は英二の返事を待つことはしなかった。

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「御大がわざわざこんなところまでお運びとは何事でしょう。呼びつけて頂ければよろしいのに」
 椎多はそのソファにゆったりとおさまった老人に向かって柔らかく微笑みを投げた。


 七哉の代から懇意にしている企業の会長。企業の規模で言えば嵯院グループには及ばないが財界ではかなり影響力のある人間だ。老獪で油断のならない、しかし味方にしておけばかなり有利な老人だと椎多は位置付けている。
 老人は大声で笑った。
「じじいが足を動かさんようになったら本当に老け込むわい。この部屋もこんな30何階にあるんじゃなきゃ階段で上がって来たいくらいだからな。そんなことより椎多ちゃん」
「その『ちゃん』はよしましょうよ」
 苦笑すると椎多は老人に茶を勧めた。この老人にすれば椎多は孫のようなものだ。椎多がまだ幼児の頃から公の場に七哉が椎多を連れて来ているのに何度も会っているのだからいくつになっても「大きくなったな」などと言われてしまう。親戚のいない椎多にとっては”親戚のじいさん”に最も近い存在である。

「何の話かなんてわかっとるんだろう?……なかなか困ったことになったな」
「──ああ、その話ですか。私も実は御大にご相談にあがろうかと思ってたんですよ」

 内心ほくそ笑む。この老人は必ず動くと思っていた。動かなければこちらから揺さぶらねばならなかったがそうすれば多少目算が狂うところだったのだ。

「『しぶや』がああいうことになると、いろいろと──」

「うむ。あの若旦那はああ見えてけっこうやりおるからな。建て直しの為に的を絞って擁護を求めてくるかもしれん。その為に篩い落とされた者のつまらん情報が表に出ないとも限らんし、どこかで綻びができると芋蔓式に痛くもない腹を探られることになる。それは避けて通りたいところだろう」
「ええ。まあ……そこまでやるかはわかりませんが」
 椎多は神妙な顔をして見せ、大きく頷いた。

 修一が椎多を敵と認めて攻撃してくるであろうことは──椎多だけが知っている。

「なんとか手を打ちたいところだな。かといって自分で手を下すのも避けたい」
 独り言のように老人は呟いた。老いたとはいえこの老人の頭の中はめまぐるしく動いている。
「……確かにつまらない火種は消しておきたいですね。うちも御大も火薬庫みたいなものでしょう?もっとも、尻に火のついているところはもっとたくさんあるでしょうが」
「ふん、上林のところとかな。やつを焚きつけて掃除させるか。頭に血が上りやすいからちょっと尻を叩いてやれば勝手に潰してくれるかもしれんぞ」
 笑っている。
 あそこは遊軍も血の気が余ってますから──と少し困った顔をする。あまり事が大きくなるようなことも避けた方がいいのでは、とさりげなく止めるポーズをとりながら老人の表情を見た。
 老人は小さく何度も頷き、口元は楽しげに笑っている。すでにこの老人の中ではそのプランができつつあるようだ。
「背に腹はかえられんな。それでやつのところが下手をうって返り討ちにでもあったらそれはそこまでの器なんだよ。そうだな、椎多ちゃんのところのあっちの若いもんとかは使えるか?」
「いや、それこそ下手をして生け捕りにでもされたらウチはおしまいですからね。そういう危ない橋は渡りたくないんですよ」

 そう。
 今回は自分の手を汚さない。他人にやらせることが大前提だ。

 

「よく言う。椎多ちゃんも小狡くなったもんだな。おまえの親父さんもたいがいだったが」
「御大の背中を見てやってきましたからね、父の死後は。あなたが私の師のようなものですよ」
 老人はまた大声で笑った。機嫌がいい。
「誰もが耳を傾ける言葉を出せるのは今は御大しかいないでしょう。ちょっとつっついてみて下さいよ。放っておいても誰かがやるかもしれませんが早く手を打たないと手遅れになりますしね」

 あまり知られてはいないが基本的にこの老人は頼られたり甘えられたりするのが好きだということは椎多はよく知っている。彼に頼みごとなど出来る人間はそうそういない。だからこそ椎多はよくこの老人を頼りに行く。老人はそれが嬉しいのだろう、椎多を自分の息子や孫たちよりも見込んでいるし可愛がっているといっていい。

「しょうがないな……こんな隠居じじいのいうことに引っかかるかな?なにしろ小心者だからな、やつは」
「小心者だからひっかかるんじゃないですか?どうせ叩けば埃の出る体なんだし」

 話題に上っている人物は椎多と同じ二代目社長だが、経営手腕はもうひとつ高くないらしく業績は急激に悪化していて危機感は高い。しかも、裏工作に使っている組織も椎多に言わせれば頭の悪いやつの集団で、器用な工作など出来はしない。きっと派手にやってくれるだろう。極秘裏にその動きをこちらの人間に監視させておけば万一手抜かりがあったとしてもそれを動かしてあちらの仕業にしてしまうこともできる。

 と、すぐに老人は携帯電話を取り出し、どこかへ電話し始めた。件の社長に面会の約束をとりつけているようだ。現役を退いた今でも思い立ったらやることは早い。
 電話を切ると老人は茶を飲み干し立ち上がった。
「じゃあ、椎多ちゃん。うまくいかんかったらまた別の手を考えような」
「いい報せをお待ちしてますよ」
 重役フロアのエレベータホールまで見送ると老人は楽しげに椎多の腕を叩き、エレベータの中に消えて行った。下げた頭を上げるとくすくすと笑いが漏れる。


「せわしないじじいだな、まったく……」
 呟くと椎多は社長室へ戻った。椅子に深く沈み込み目を閉じる。

『しぶや』がこのあとどうなるのか。
 多分、数日で決着がつく筈だ。修一の命を奪うことになるかもしれない。

 

 修一は、あのあと英二に一連の謀略は椎多の仕業だと既に告げているだろうか。それならば、これも椎多のやったことだと英二は思うのだろう。
 そのとき、あいつはどうするのだろうか。

「ついでだからあいつの家もガス爆発でもしてもらうか?」

 くすくすとゲームを組み立てるように楽しげに笑う。

 英二の家には有姫と、母親と、藍海がいる。それも全部奪ってやったら。
 あいつはきっと俺を許さない。

 それでも俺はおまえを愛していると言ったらあいつはどんな顔をするんだろう。

 椎多は目を閉じたまま笑いつづけた。

 

 そして──2日後の夜。
 椎多の枕元の携帯電話が着信を告げた。

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『──料亭しぶやは全焼、料理長の渋谷修一さんが腕と脚に全治3週間の火傷を負った他4人が軽い火傷を負いました。死者はありません。また、ほぼ同時刻に渋谷修一さんのの弟で会社社長の渋谷英二さん宅及び妻の翠さんの実家で料理旅館の「はなや」にもそれぞれ火事が起こっており、料亭しぶやに恨みをもつ者による放火とみて警察と消防は取調べを行っております。……』

 睦月は机の上のリモコンを手にもったボールペンで押してテレビを消した。
「どうせやるなら皆燃やさなきゃ意味がないだろうに」
 ぼそりと呟く。

 ニュースを聞いた限りでは死者は出ていない。
 踊らされた実行犯たちにすれば、目的は誰かを殺すことでも『しぶや』を傷めつけることでもまして英二を苦しめることでもない。
 否、渋谷修一を殺すことができればそれがベストだったのだろうが、おそらく目的は汚職などの証拠となる書類を燃やしてしまうことだったのだろう。


「がんばって頭を捻ったんだろうけどねえ」
 

 書類を『しぶや』の店舗や住居ではなく、女将が持ち歩いている可能性だとか、英二や女将の実家に隠してある可能性も考えたのだろう。だから英二邸や女将の実家にまで火を点けたのだ。いずれにせよ上等な仕事とはとても言えない。
 それに、そんな重要書類だ。耐火金庫にでも入れられていれば全く何の為に火を点けたのだかわからない。
 しかし燃え残っていたとしてもおそらくそれは一旦警察が引き取るだろう。そうなれば、こちらの息のかかった警察関係者の手によってそれをもみ消すことは容易い。

 敵の切り札はなくなった。そして『しぶや』に大きなダメージを与えた。そういった意味では早晩簡単に逮捕されるであろう実行犯たちはよくやってくれたというところだ。
 

 しかし──


「いっそのこときれいに全員殺してしまえていれば、椎多さんも楽になったんだろうに……」
 いっそ。
 渋谷英二ももろともにあの一家を全員抹殺してしまったなら。
 すっきりするし話は簡単な筈だ。
 なのに、椎多はそれだけはしようとしない。

 英二の"大切なもの"は、まだ生きている。

 ダメージは与えただろうが、どれもまだ完全に失ったわけではない。


「手ぬるいなあ、椎多さんらしくない」
 睦月にしては珍しく少し苛々とした調子で呟くと、椅子に深く身を沈めて天井を仰ぎ溜息をついた。


 ふと──
 

 思いついたように携帯電話に手を伸ばし。
 ボタンを押すと睦月はそれを耳に当て目を閉じた。

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「看板を守る為に火の中に飛び込んだんだって?」
 病院のベッドの脇に腰を下ろすなり英二は苦笑した。

「初代から受継がれてきた看板だぞ。あれだけは燃やすわけにはいかないだろう」
 修一は笑っていた。腕と脚に大きな火傷を負ったものの、幸い手は無傷に近かった為だろう。料理を作ることには支障は無い。

「犯人は逮捕されたらしいな」
 どこかの組織の末端の小さな組の者たちだった。いずれ黒幕も判明するのだろう。
 修一の持つ資料が然るべきところへ出れば困る者が多すぎる。オリエンタル急行の殺人のように、全員が黒幕だったという可能性も無いとはいえない。だから──
「彼が無関係とはいいきれないがな」
 溜息のような呟き。
 英二はわずかに顔を歪めて兄の次の言葉を待った。それに気付いたのか修一は弟の表情を見て笑う。


「──俺は下りるよ、英二」


 下りる──?
 意外な言葉だった。

「おまえが、自分の決着をきちんと自分でつけてくれるならな。たとえ小さな小料理屋からでも、俺は本来俺がやるべきことをやろうと思う。翠もそのほうがいいと」
「義姉さんが──」
「俺は本当はずっとそうしてみたいと思っていたんだろうな。そう決めたら急に心が軽くなったよ」
 その言葉は嘘ではないのだろう。修一はここしばらく見た事のないような晴れ晴れとした顔をしている。


「おまえはどうする?」
 

 つい最近、おなじ問いかけを修一は英二に投げた。言葉は同じだが状況も意味も少し違う。
「俺は──」
 そう。
 例え今回の火事が椎多の思惑でなかったとしても。
 椎多の向ける刃を受けるのは自分だけでいい。椎多は刃をふるった返り血と同じだけの傷を自ら負っているはずだ。
「──決着はつけるよ。俺が。自分で」
 どう決着をつけるのか。それはまだ自分にもわからない。どうなるのが一番いいのかすらわからない。
 けれど。
 終わらせるのは自分にしかできないのだ。
 英二はもう一度、自分に言い聞かせるように自分でやる、と呟いて立ち上がった。

 修一と英二の母親は火事で煙を吸い込んだために酸欠状態となり、命に別状はなかったものの意識が戻るのに数日間を要した。ただ、後遺症で半身が殆ど麻痺した状態になっている。そういう意味で今回の火事で一番の重症だったのはこの大女将だったと言えるだろう。
 有姫は眠る姑の側に座りぼんやりとしていた。
 無数の小さなバンソウコウが決して無傷だったわけではないということを物語っている。
 ノックの音に顔を上げると、英二が立っていた。
「……大丈夫か」
「あたしは平気です……でもお姑さまが…目が覚めると死にたい死にたいとおっしゃって……」
 ちらりと姑の寝顔に目をやると、有姫の大きな瞳から涙が溢れそうになる。


 この娘に、どれほど救われてきただろう。
 それなのに、今の自分は有姫にこんな表情ばかりさせている。

 

「有姫」
 英二は有姫の前に足を進めると、膝をついた。その高さだと有姫の顔を見上げるかっこうになる。涙を溜め込んだ瞳を覗き込むとそこにまた怯えたような色が走った。それを見てとると、英二はかすかに微笑み、膝の上にきちんとそろえた有姫の手をとった。

 

「……別れよう」
 

 ぽたり、と今度こそ実際に涙が零れ落ちた。
「……あたしが……あなたのことを責めたから?」
 英二は首を横に振った。
「あたしが、おっちょこちょいでいい奥さんじゃなかったから?」
 首を振る。
「……あたしより椎多さんを愛しているから?」
 有姫の手を握り締める。英二の手にすっぽりと隠されたその下で握りこぶしになったその小さな手は震えていた。

 俺は、おまえも……椎多のことも愛していて。

 どちらか選ぶことができなかった。だから、おまえをこんなに傷つけた。

 それだけでももう俺はおまえの夫である資格はないよ。

 その上俺のごたごたにおまえをこれほど巻き込んでしまった。

 おまえをこれ以上巻き込みたくないしもう傷つけたくない。

 心の中の言葉は声には出さずにただ、頷いて見せた。

「もう、俺は社長でもなくなったし今までみたいな贅沢もさせてやれない。ただできるだけのことはするよ。今までありがとう」
 あらかじめ決めたスピーチを棒読みするように英二は言った。
 ゆっくりと──
 有姫の手を離し、立ち上がる。


「──いや」
 有姫の目から次々と新しい涙が流れてきた。離された手に縋りつく。
「あたし、英二さんしかいないの……。お願い……」

 愛しい。
 俺はこんなに有姫を愛している。
 けれど───

 

「すまない。悪いのは全部俺なんだ。憎むなら俺を憎んでくれ」
 有姫に、誰かを憎んだりさせたくはない。それでも、以前のように何事もなかったような顔で優しい夫を演じることはもう出来ない。

 いや。
 椎多の額に銃をつきつけたとき、有姫のことを欠片も思い出すことのなかった時点で自分は既に椎多を選んでいたのだ。

 縋りついた有姫の手をゆっくりとほどく。
 一刻も早くこの場から逃げ出したいのに、心の隅にここを立ち去れば二度と有姫とは元に戻れないぞと騒ぐ自分がまだいる。

 蜘蛛の糸に絡め取られたように身体がゆっくりとしか動かない。ようやくドアに辿り着くと英二は振り返りもせずそれを開け、そして───閉じた。
 胸が締め付けられるように苦しいのに、涙は出なかった。
 無理矢理小さく笑うと病院を後にする。


 せめて幸せになって欲しい、と願うのはそれも自分勝手だ。
 手を離したことによって有姫は不幸になるかもしれない。それを承知の上で手を離したのだから。

 


 車に乗り込むと英二は目をきつく閉じ口の中で小さくさよなら、と呟いた。

 

「もうすぐクリスマスだね。サンタさんにおねだりはないの?」
 

 後部座席から声が聞こえた。
 声がしたことで驚きはしたが、その声の主についてはもう驚きはしなかった。
「……あんた、なんで俺につきまとってるんだ?別に面白いことなんか何もないだろう?」
 知らない間に後ろに寝そべっていた鴉はそれには答えず小さく喉を鳴らして笑っている。
「前倒しになるけどサンタさんからこれをプレゼントしてあげよう。今、君が欲しいものってこれだろ?但しオレは悪いサンタさんだからこれを受け取ってあとで不幸になっても知らないよ」
 やや身を起こし、鴉がさほど大きくない紙袋を差し出した。袋の口はただくしゃくしゃと丸めてある。眉を顰めてそれを受け取るとずしり、と重かった。


 英二にとっては懐かしい、しかし忌まわしい重さ。
 

「……どういうつもりだ」
「欲しくても今の君じゃ手に入らないだろう?それをどう使うかはオレの知ったこっちゃないけどね。それを持ってるのと持ってないのでは気のもちようが全然違うでしょ。要らないなら返してくれてもいいけど」
「もし俺が椎多を殺したらあんたは困るんだろ?」
 袋の口を開けもせずにその重みを両手で確かめながら英二は小さく笑った。後ろから笑い声が聞こえる。
「なにもそれで椎多を殺せと言っているわけじゃないよ?自分の頭をぶち抜くっていう手もある」
 英二はそれもそうだな、と呟いてそれを助手席に置いた。バックミラーに既に見慣れた顔が移っている。

「──鴉、ひとつ仕事を請けてくれないか」

 

「仕事?今の君に報酬を支払う金があるの?言っとくけどオレは高価いよ?」
「残念ながら今は金はない。俺の手元に残った金は全部有姫に渡すつもりだから。そうだな、分割払いにしてもらおうか」
 英二は笑っている。鴉の笑い声が大きくなった。
「分割ね、そんなこと言う奴初めてだよ。それプレゼントしてやったんだから自分でやりゃいいじゃん。ならタダだよ?」
「俺には出来ないことなんだ──いや、多分あんたにしか出来ない」
「──おもしろそうだ。何考えてるの?聞くだけ聞こうか」


 鴉は首を傾げて身を乗り出した。口元の笑みがどこか意味ありげなものに変わる。
 英二はシートに深く身を沈め直すと目を閉じてゆっくりと息をついた。

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 藍海が抱っこをせがんでも火傷で包帯だらけの腕で抱き上げてやるのは至難の業だ。
 しかし、多少の痛みなど感じないほど修一は充実していた。

 あの火事の時、顧客名簿や来店記録のことなど完全に忘れていた。
 

──もう少しで、自分の本分を忘れるところだった。
 

 そうして、女将──妻が、背中を押してくれたのだ。

 

「……荒れてるな」
 ひとりごちる。こんな季節には珍しく、雨の上に風も強い。

 今日は妻の翠が藍海を連れて母の病院へ行くのに車を使っている。徒歩と公共の交通機関を使って外へ出たのは久し振りだった。
 傘も役に立っていないのではないかと思うほど吹き付けるのですっかりずぶ濡れになってしまった。帰宅したらすぐに風呂に入らなければ風邪をひいてしまいそうだ。しかし、まだ風呂につかることもできないことを思い出すと修一は苦笑した。コートの中へ隠している小さな手荷物が濡れてしまっていないかだけが心配だ。


 思えばいつも年末は店が忙しく、世間がクリスマスだと騒々しくてもそれは客の入りにどう影響するかという点でしか興味がなかった。
 本当は藍海も、人並みにクリスマスくらいしたいだろう。幼稚園の友達の家にはサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるのだから。


 修一は突然思い立って、翠にも藍海にも内緒で買い物に出かけた。

 こんな天気になるとは思っていなかった上に人ごみには閉口したが、妻や娘にプレゼントなど自分で選びに行くのは初めてでそれが修一にはひどく新鮮に感じられた。

 このプレゼントを渡したら翠や藍海はどんな顔をして喜んでくれるのだろう。
 そうだ、明日は3人で車に乗ってクリスマスツリーを買いに行こう。そして皆で飾り付けをして──

 これからは、新しい店を抱えながらもこんな風に家族で穏やかに暮らしていくことになるのだ。
 傘で強い風を懸命に遮りながら修一は小さく微笑んだ。


 橋を渡ると、更に風が強くなった。傘が飛ばされそうになる。この川を越えれば、我が家──とりあえず緊急で借りたマンションの一室ではあるが──までもう5分足らずだ。


 不規則に巻き起こる風に一瞬傘を取られた。
 離さぬように強く柄を握り直した──その時。

──息ができない。

 スローモーションのように、うねりをあげる水面が近づいてくるのが見えた。

 

──プレゼントが。
 

 絵を書くのが好きな藍海に新しいクレヨンと、翠には小さな宝石のついたネックレスを。
 コートの中の包みを、落とさないように握り締めたつもりだったが、手が言う事をきかなかった。

 喉にあいた小さな穴から血を流しながら増水した川へ転落した渋谷修一の身体は、

 二度と発見されることはなかった。

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*Note*

ぶっちゃけ作者、このへんでそろそろ不幸飽きしはじめてます(?)。前の修正の時に木島専務について一応触れたんだけど、ここまでの話で全く出てなかった人が突然出てきたなって印象はやっぱ否めませんね。まあ英二の会社の描写をそれほどしていないので、今回の加筆修正の中でも前もってどこかにねじこむのはちょっと難しかったかも。英二が木島とかと知り合った頃のことはどこにも書いていないのでしょうがないです。もしかしたらいずれ書く機会はあるかもしれないけど、そこ書く意欲はあんまりないですね。英二と有姫のロマンスとかそのへん。だって英二と椎多の出会いも再会も書いてないもんな。こんなすったもんだしてる主人公カップルの出会いを描いてないってどういうことなんですか作者。

修一兄さんには本当に幸せになって欲しかったんだよ作者は…。ごめんよ修一兄さんごめんよ。

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