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「へえ、綺麗になったな」

 花の咲き乱れる花壇をながめて、椎多は独り言のように呟いた。


 花壇の手入れをしていた庭師の男が振返る。
「あ。ええと、旦那様」
「そんな呼びにくそうに言うなよ。呼び捨てでいい。俺の叔父さんだろ?」
 椎多は笑って花壇の前にしゃがみこんだ。花の香りが椎多の鼻をくすぐる。
「そういうわけにもいかんでしょう」
 庭師の男は帽子を上げ汗を拭きながら苦笑した。

 高城保史である。
「それに、叔父だなんて思ってない癖に」
 椎多は声を立てて笑った。
「あんたには悪いけどあんたの姉さんのことを母親とは思ってないもんでね」
 姉が、我が子である椎多に対して母親らしい振る舞いなどしてこなかったことも、偶然を装い何度も実の子である椎多の命を狙ったらしいことも、ここへ来てから聞かされた。だからもう椎多にそんな風に言われてもたいして腹も立たなくなった。


「──それよりあんたに聞きたいことがあるんだ」
 不意に真顔になった椎多を見て、保史はもう一度汗を拭い、手袋を外した。少し緊張した面持ちになる。

 保史が自分の身の上を嘆く余り椎多を逆恨みし、殺害を試みたのはもう季節が2つ3つ通り過ぎる前のことだ。その後、以前庭師の仕事をしたことがあるということで庭師としてこの屋敷に雇われた。

 思った以上に性に合っていたのか、今はその仕事に満足している。

 元来小心者でおとなしい人間だったのだろう。

 ここへ来た時はがりがりに痩せて血色も悪く、髪も髭も手入れされずにどこからどう見ても不潔で下品なごろつきにしか見えなかった。ぎょろっとした目は何か薬物でもやっているかと思うほどだった。

 それが今では庭仕事のおかげかすっかり健康的に日焼けし、毎日の食事にも困らず入浴も出来るおかげであの不潔そうな面影はすでに消えている。人当たりや言葉遣いもすっかり以前の下品な様子は陰を潜めた。

 ちゃんと眠れる場所があり、腹いっぱい食って、そして達成感のある仕事が出来ているなら勝手に正気に返る──と椎多は踏んでいたがそれは正解だった。

 保史自身、花や植木を扱っているうち冷静になっていた。よく考えることが出来るようになってみれば、義理の兄である嵯院七哉を恨んだとしても椎多を恨むのはお門違いだということがようやくわかってきたらしく、負い目は残るが恨む気持ちはすでに消えている。

 こうして、また椎多を狙うのではないかと危惧する人間ももういなくなりつつあった。

「聞きたいこと?」

 保史が聞き返すと、椎多は一歩近づき少し声をひそめた。

「あんたが使った狙撃手のことだ。どういう奴なのか、どうやれば連絡がとれるのか知りたい」

 保史は"狙撃手"の一言で一気に苦虫を嚙み潰したような顔になった。

 都合よく自分のしたことを忘れたいというわけではないが、思い出したくはない過去の最大の汚点の件だ。
「……連絡と取るって、何のために?」


「使うために決まってるだろう」

 にやりと笑って椎多はこともなげに言った。

 自分が付け狙っていた時は、嵯院椎多がここまで危険な人間だとは保史もよくわかっていなかった。自力で嗅ぎ回っていても所詮は素人だ。あの殺し屋がこの甥の隠された顔を次々に目の前に並べて保史の憎しみを増幅させていったのだ。

 捕まって目の前に引っ張り出された時、こいつは本当に自分を殺すかもしれない──とこれまで感じたことのない恐怖を味わって初めてとんでもない相手に手を出してしまったのだということを知った。

 比喩でもなんでもなく、この男は邪魔だと思えば"殺す"ことを何とも思っていないのだ。

 殺し屋を”使う”とはそういうことだ。


「まだ、これからも殺す気なんですか」
「当然だろ。やるときはやる。それだけだ」


 ポケットから煙草を取り出して笑う。

 1本咥えようとするのを保史がとりあげた。なんとか平静を取り戻そうとしたのかもしれない。
「またこんなの隠し持って。一つで頑張ってる肺が可哀想でしょう」
「誰のせいだと思ってるんだ。青乃やらKやらがいつも睨みをきかせてて全然吸えないんだから1本くらい大目に見ろよ」
「みんなあなたを心配してるんですよ。とにかく花の上で吸うのはやめて下さい」
 箱ごと煙草を取り上げる。いまいましげに保史に向かって土を蹴り上げると椎多は吹き出した。
「こんな時だけ叔父さんづらか?それより誤魔化すなよ。その狙撃手のことだ」

 再び保史は表情を曇らせた。
「俺はずっと不思議だったんだ。あの時あんたは確かに食い詰めて一文無し同然だった。それなのに腕のいい狙撃手を雇うなんてことがどうして出来たんだろうと。そんなにそいつは安く仕事をしてくれるのか、それともプロではなく素人だったのか」
「彼を使うのはやめたほうがいい」
 視線を逸らしたまま、保史はぼそぼそと言った。


 その狙撃手──殺し屋とは酒場で知り合った。

 酔ってくだをまいていた時にたまたま隣り合わせただけだったのだが、何の弾みか憎む相手の名を漏らしてしまった保史に相手の方から話し掛けてきた。そして、その日の勘定をもつというだけの報酬でこの仕事を請けたのだという。それだけでなく、計画の大半もそれに必要な調査も自分から進んで提案してきた。つまり今回の計画はほぼその殺し屋主導で実行された事だ。


「彼は、あなたを知っていたのだと思います」
「つまりそいつ自身にも俺を狙う理由があったってわけか。俺を殺したい理由が」

 多分ね、と保史は頷いた。
「本当ならあなたを撃った時にも頭や心臓を狙って即死させることだって出来たはずだったんだけど」
 椎多もそれは感じていた。

 本当に腕のいい狙撃手が、殺すべき相手に銃弾を3発も使ってそれでも殺せなかったなどということはありえない。腕が悪いのか、または殺すつもりではなかったのかのいずれかだ。


「彼は一発で楽に殺してしまったら勿体無い、と言っていたんです」
 

 言いにくそうに、それでもこうなったら自分の知っていることは話さねばならないだろうと思ったらしくきっぱりと言った。
「それは相当憎まれたもんだな……。しかしあれ以来誰かが狙っている気配はないぞ」
「ポリシーがあるらしい。報酬無しの仕事はただの殺しだ、と。俺が捕まったことで仕事は終了したと判断したんでしょうね」
 ポリシーねえ、と笑って椎多はさきほど保史のとりあげた煙草の箱を奪い返した。わざと花壇から少し離れたところまであとずさり、火を点ける。

「おもしろいな。是非会ってみたいよ、そういう奴には。で、背格好とか名前とかは教えてくれないかな」
 保史は少し呆れ顔になって息をついた。全然懲りていない。
「若く見えたけど、多分あなたとさほど変わらないくらいの年か、それ以上かと。背は俺より少し高いくらいで痩せていて、顔は時々変えてると言っていたから今はどうか。こちらから連絡をつける方法も知らりません。いつもあちらから接触してきてたので。それから」
 保史は一拍おいて、うまそうに煙を吐き出す椎多に向き直った。


「──カラス、と呼ばれていました」

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 薄暗く猥雑な、煙草の煙で前も見づらい店内。棚には悪酔いしそうな安酒しかない。いかにも金のなさそうな汚い身なりの男どもがあちこちで酔っては大声で話している。
 若い頃よく遊んでいた街をふと思い出したがそれよりもまだくたびれた感じだ。

 あちらはまだ元気のある若い連中がうろつき回っていた。

 こっちはすでに人生を諦めた負け犬の吹き溜まりのようだ。


 カウンターにとまり、とりあえず酒を注文したが、どうも居心地が悪い。
「見ない顔だね。間違えて入って来たんじゃないの、坊や」
 いやらしい真っ赤な口紅をつけた小太りの女主人がからかうように言った。
 椎多は無言で苦笑する。


──いい服は着てこなかったつもりだったんだがな。
──それよりこの年で坊やかよ。


 折角Kの目を盗んでひとりで抜け出して来たのだからゆっくり遊ぼうと思ったが、とっとと用事を済ませて帰ろう。


「カラスに会いたい」
 

 女主人は、おや、と小さく呟いて笑った。
「さあ、どうだろうね。来ないとなったら1年顔を見せないってこともあるからね」
「どうしたら会える?」
「知らないよ。ここに来ないときにあいつが何やってるかなんて」


 笑いながら、女主人は厚化粧の下の目をくまなく動かして椎多を値踏みしているように見える。おそらく”カラス”が来た時に細かく報告されるのだろう。


──もう少し待ってみるか。


 そうたびたびここに足を運ぶわけにもいかない。不愉快な店だが仕方ない、と椎多は煙草に火を点ける。しかし、それを吸い終わる前に背後から声がした。


「ここは君みたいなお金持ちが来るとこじゃないよ」
 

 反射的に振り返る。
 シャツにパンツにジャケットまで全身黒い服を纏ってご丁寧にサングラスまでかけた、少し長い髪を束ねた男がそこに立って笑っている。そのあたりで見かけたらどこかのバンドマンのように見える。


──なるほど、カラスね。わかりやすい。
 

「君、ラッキーだな。オレを訪ねてここに来た奴でこんなにすぐ会えることなんてまずないよ」
 カラスはそう言いながら椎多の隣に座った。


 違う。おそらくカラスは店のどこかで見ていたのだ。
 

「あんたが」
「そう、お探しの『鴉』はオレだよ。遅かったな、いつ会いに来てくれるかとわくわくしてたのに」
 鴉はへらへらと軽薄そうに笑っている。
「会いに来て欲しかったんならもう少し手加減してくれても良かったのに。おかげで随分長い間部屋に閉じ込められてたんだ。おまけに煙草の量まで減って前より健康になっちまったよ」
 椎多の不満げな声を聞いて鴉はさらに爆笑した。ひとしきり笑うと、身を乗り出し声を顰めた。


「……君の善良な叔父さんは元気かい?」


 この男は保史が捕らえられたあと椎多の屋敷で雇われたことも知っているようだ。
「あんたが唆したんだろう?」
「人聞きが悪いね。まあ、オレに会わなきゃあの人はきっと一生ああやって飲んだくれては愚痴を言って君に会うこともなくのたれ死んでいったんだろうけど。あ、それを唆したっていうのか」
「たいした商売だな」
 皮肉を込めて椎多は鴉を睨みつけた。口元は笑っている。


「商売なら、俺がクライアントになるっていうのもありか?」
 

 一瞬、鴉が真顔になった。かと思うとまた爆笑する。椎多もよく笑うがこの男ほどではない。
「おかしな人だねえ君は。オレ、君を撃ったのよ?そんな相手を普通雇う?」
「腕のいい殺し屋は味方につけるにこしたことはない」
 鴉は椎多の前に置かれたグラスの安酒を飲み干すと立ち上がった。
「仕事の話はここではしないんでね。場所を変えさせてもらっていいかな」
 椎多の返事も聞かないうちに鴉は満員の客の間を縫うように店を出て行った。

 それを椎多は慌てて追いかける。ポケットの中であの飾り銃を握りなおした。

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 迷路のような薄暗い路地をすたすたと鴉は歩いてゆく。急いでいる風でもないのに随分早足だ。追いかける椎多は既に息が上がっている。撃たれて片方の肺がほとんど機能しなくなってしまったために、体力まで落ちた気がする。
 やがて、鴉は薄汚いビルの裏口の扉を開けて我が物顔で中へ入った。
 階段を一階上がり、通路突き当たりの部屋の前に立つ。ポケットから左手を出して鍵を開けている。

──やめておけ。

 椎多のどこかで警報が鳴っている。
 保史の話では鴉は椎多を憎んでいるのだ。部屋に入った途端ズドンとやられる可能性も否定できない。
 しかし、この男に興味があるのも事実だった。何故自分を憎んでいるのかも知りたい。

 なにより今更尻尾を巻いて逃げるのは自分で許せない。


 意を決してドアのところまで足を進めると、鴉は掌で椎多を制した。そして自分は室内で笑ったままジャケットを脱いで上下逆さにして振ってみせる。次にズボンのポケットを引きずり出した。
「お望みなら身体検査をどうぞ。仕事の話をするときは丸腰って決めてるんだけどなかなか信用されなくてね」
 鴉はそう笑って椎多の前に立った。椎多は苦笑し首を横に振る。隠しておくならこの部屋のどこにでも銃など隠すことができる。本人だけを丸腰だと確認したところで意味が無い。
「というわけなんで」
 一瞬の隙をつかれて椎多の右手が捻り上げられた。手にはあの銃が握られている。
「そちらにも丸腰になってもらわないと不公平ってもんでしょ。これはどこかへやっておこうか」
 捻り上げた腕をドアにうちつけて銃を落とさせる。隙の無い動きだった。落とした銃をさらに蹴飛ばして手の届かない場所に転がした。


「どうぞ」
 

 椎多の腕を放すと鴉は妙に丁寧な仕草で室内へ招き入れた。右腕を大袈裟に振り、睨みつけながら椎多はそれに従う。
「言っておくが今具体的な仕事があるわけじゃない。ただ頼みたい時に引き受けてくれるのかどうかを確認したいんだ」
「それは気分次第だね」
 なにかの事務所のようでもあるが、埃っぽい、長く使われていないような部屋だった。鴉は粗末な応接セットの埃を簡単に払い、腰掛ける。
「報酬は?」
「そうだなあ」
 ポケットに手をつっこんだまま立ち上がると鴉は、少し離れて立ったまま話していた椎多に近づいた。その左手をゆっくりとポケットから出し人差し指を立て──椎多の額に向ける。


 椎多は瞬きもせずそれを睨みつけていた。
 

「悪魔の契約。最後に君の命を頂戴するっていうのはどう?」
「俺の命で支払うって?じゃあ何千人殺してもらわなきゃいけないかな」


 にやりと笑う。面白い。椎多は右手を上げ、自分の額を撃ち抜こうとする鴉の指を掴んだ。ぎりっと力を込める。
「あんた、左利きなんだろ?この指を折ったら商売上がったりなんじゃないのか?」
 薄暗い部屋に鴉の笑い声がこだました。


──次の瞬間。


 何が起こったかわからなかった。
 背中をしこたま打ちつけて息が止まる。仰向けに倒されていた。
 油断したつもりはない。しかし、一瞬の動作で鴉に足を払われたのだ。
 すぐに起き上がろうと身を起こした時にはもう鴉は椎多の腹の上に馬乗りになっていた。まだ鴉は声を立てて笑っている。
「惜しかったね。オレは右利きなんだよ。大事な商売道具を敵の目の前に差し出すなんて間抜けをやると思うかい?」
「───」
「君もお坊ちゃまにしてはなかなか手練れだと思うよ。感心した。でも所詮素人は素人だ」
 笑いながら鴉は抵抗する椎多の腕を片方ずつとって自分の膝の下に押さえる。
 楽しそうに。
 椎多のシャツのボタンをゆっくりとひとつずつ外した。
「やめろ!」
「ああ、これか。オレの撃った傷跡は。見たのは初めてだよ。他の標的はみんなすぐ墓に入っちゃうもんでね」
 鴉はその3つの銃創をゆっくりと指でたどる。
 一瞬顔を歪めて、椎多は押さえられた両腕を取り返そうとあがき──


──はずれた。
 

 漸く自由になった両腕で鴉に掴みかかろうとするが、楽に避けられてしまう。それが逆に隙を作ったのか。鴉ははだけさせた椎多のシャツで、その両腕を容易く絡めとった。シャツを巻き込みその端を縛っただけで、後手に腕を縛ったのと同じ状態になる。
「くそっ、何のつもりだ!!」
 何故これだけのことで腕を外すことが出来ないのか。
 椎多は必死に暴れて逃れようとするが無駄な抵抗にすぎなかった。それどころか、そろそろ頭がふらついてきている。


──くそ、役立たずめ。
 

 機能していないらしい片方の肺を罵ってみてもはじまらない。
 と、額に冷たい物が当たった。

 

──銃?
 

 それは、先程鴉が部屋の隅に転がした筈の椎多の飾り銃だった。
 椎多の抵抗が止まる。

──いつの間に。


 鴉は楽しげに笑いながらそれを椎多の額から外すと目を椎多から逸らすことなく銃口に軽く接吻け、そして舌を出して銃身をなぞった。
「ああ、ここにもあった」
 何度か銃に接吻けると、その銃身を愛しげにみつめて鴉は微笑む。

「オレの撃った傷跡」

 

「なんだと?」

 鴉は指で銃をつまんだかっこうで椎多の目の前にぶら下げて見せた。
「これの前の持ち主に聞かなかった?この傷のこと」
 椎多がその傷を発見したのは紫からこの銃を貰い受けて間もなくだった。紫に訊ねても知らない、ととぼけられてしまった傷だ。それをこの男は自分の撃った傷跡と───

「オレはちゃんと心臓を狙って撃ったんだよ。でも、そいつが邪魔をした」
 それは、いつのことだったのだろう。おそらく、父の存命中で紫がまだ自分のもとに来る前の話だ。

 

「ねえ、あの人は君には優しかった?それとも君にも冷たかった?」
 

 ひやかすように、嘲るように鴉はくすくすと笑いつづけている。


 椎多は気を抜くとぼやけてしまう意識を繋ぎとめながら懸命に鴉を睨む。その顔を、銃を持った右手で殴り鴉はそれを床に静かに置いた。椎多の口の中に血の味が広がる。
「オレが殺すはずだったのに。君は彼をあれだけ独占しておいて、オレの最後の愉しみまで奪っちゃったんだよ」
 鴉は身を折り、先程指でなぞった椎多の胸の銃創を今度は舌でたどってゆく。
 身をよじり逃れようとしてもその術はない。
「彼は君をどんなふうに抱いたの?」

──紫。

 

 嬲るようにゆっくりと。鴉は椎多の残りの衣服を剥ぎ取り足を広げさせる。

 もう抵抗する力も残っていなかった。ただ、耳元に鴉のくすくすという笑い声だけが響いていた。

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 呼吸の苦しいのはおさまったがまだ頭は痛む。
 身動きをする気にもならなかったがなんとか力を振り絞り、散らばされた服を身につけた。最後に埃で汚れ皺だらけになったシャツを羽織る。そのまま応接セットの椅子のところまで這うようにして行きそれを枕がわりにもたれかかった。
「───返せ」
 大きな声も出ないが、向かいの椅子に腰掛けて足をテーブルに投げ出している男に言った。
「嫌だね。これはオレがもらっとく」
 これ見よがしに例の飾り銃を椎多の目の前にちらつかせたあと、鴉はそれを自分の懐へおさめた。
「返せ!」
「あんな目にあったのにまだ随分元気だね。意外とああゆうプレイが好きなんじゃないの?」
 鴉はそこで大笑いしている。
 それを忌々しげにじっと睨みつけていた椎多は力尽きたように目を閉じたがかわりに口を開く。


「殺そうと思うくらい紫を愛していたのか」

 目を閉じてはいるが、鴉が動揺している空気が伝わってくる。沈黙がその場を支配した。
 

 愛してくれないなら殺してしまおう。
 それはたまたま人を危める道具を持った子供の衝動にすぎないのだと、鴉はどこかで気づいている。
 しかしそう思いつづける標的を失ってしまったことで、鴉の箍は外れてしまったのかもしれない。

 

「さあ……今となってはよくわからないなあ。憎んでいたのかもしれない。ただ残ってるのは君が憎くてたまらないって気持ちだけだ」
 椎多は力無く笑った。
「それじゃ愛の告白と変わらない」
 鴉は懐に一旦しまった銃をすばやく取り出し椎多に狙いをすませた。顔は笑っている。
「どういう思考回路をしてるの、君は」
「俺も、似たようなもんだ」
 向けられた銃口にいちいち反応する気にはなれず、ただだるそうに椎多は言った。

 

「……優しかったよ、冷たかったけど……優しいときはすごく」
 

 鴉の顔から笑いが消える。ただ眉を寄せて椎多をじっと凝視めた。
「だけど」
 うっすらと微笑みながら、椎多は再び目を閉じた。


 俺があいつを愛しているなんて認めたくなかったのに。

 愛されてるのは俺じゃないと思うと憎かった。
 ほんの少し、素直になれば済むことだったのだ。


 椎多は独り言のようにそう呟くと、目を開け、少し身を起こして鴉に向き直った。
「言っといてやるよ」
 自分に銃口を向けたままの鴉を睨み、出来る限りの挑発的な笑みを浮かべる。

「紫はな、俺を愛していたから俺を殺そうとしたし俺に殺されることを望んだ。俺はあいつを愛してたから殺したんだ。つまり、殺すことも出来なかったおまえなんかの入り込む余地はこれっぽっちもないんだ!ざまあみろ!!」

 目を、閉じる暇もなかった。
 髪が何本か落ちる。見ると、頭を乗せていた椅子のクッションに銃弾の撃ちこまれた跡。
 視線を戻す。


 鴉が、銃を構えたまま小刻みに震えていた。今までの軽薄そうな笑いはどこにもない。椎多は小さく息をつくと更に挑発する。


「どうした。こんな至近距離で当てられないのか?腕がいいってのも怪しいな」

 鴉は素早く立ち上がり、テーブルを蹴飛ばして椎多の胸座を掴んだ。握ったままの銃座で殴る。一瞬目が眩んだ。
 しかし、椎多はすぐに鴉を睨み返す。口元には笑いを浮かべたままだ。対して鴉は怒りの為か顔をひきつらせ、椎多のこめかみに再び銃口を当てた。
「今度は何だ?またやるのか?悪いな、俺はあんなことちっとも堪えてないぞ。やるんなら気が済むまでやったらどうだ」
 鴉の顔が更に歪む。

 

 それは、その男が初めて見せた隙だった。
 

 一瞬身を沈め、左手で鴉の右腕を払う。

 その手首を掴んで鴉の鳩尾に蹴りを放り込む。
 鴉は今度は苦しげに顔を歪めて膝をついた。
 すぐに──さっきまで身動きもままならなかったとは思えない動きで──立ち上がり、椎多は鴉の右腕を捻って銃を落とさせる。

 床に倒して更に2,3発蹴りをくれた。
「素人は素人でも、くぐるもんはくぐってきてんだよ」
 床の上で身を屈め苦しむ鴉を見下ろして、椎多はそう言い捨てた。
 そうして、落とした銃を拾い暫くそれをみつめていたかと思うと天井に向かって一発、発砲した。天井からぱらぱらと砕けた天井材の欠片が降ってくる。

 この銃には2発しか弾丸はこめられない。弾切れとなったそれを倒れた鴉の目の前に投げ落とした。


「それはおまえの弾丸から紫の身を守ったもので、俺が紫を殺した銃だ。貸しといてやる。それを眺めてマスでもかいてろ、ばーか」
 

 鴉が顔を上げ何か不思議なものでも見るように椎多を見た。椎多は、先程までの嘲笑ではなくただ微笑んでいる。
「貸すだけだからな。返してもらうぞ。商売の話はまた今度だ」
「………」
 おぼつかない足をよろよろと、それでも背中を見せないように椎多は出入り口のドアへ向かった。


「待てよ」
 

 鴉が顔をしかめながら床の上に座り直し、胸のポケットから何かを出した。それを椎多に向かって投げつける。
 咄嗟に受け取ると、それは小さなマッチ箱だった。

 あの店のマッチだ。
「内箱に書いてある。そこに連絡をいれてくれれば必ず1日以内にはオレに連絡がつくことになってるから。仕事のときはそうしてくれ」
 鴉はそう言って、悔しそうに笑った。
「悪魔の契約は嫌だな。それと仕事の話はこっちが指定した場所に出向いてもらう。こういうのは懲りごりだからな」
「ふん。金持ってる奴からは思い切りふんだくってやる」
「どうかな。本当に腕がいいってことを証明してもらわないと」
 椎多も笑っている。


 部屋を出てドアを閉めると、中から鴉のけたたましい笑い声が聞こえた。
 それを背中に聞きながら階段を下りる。
「……痛ってえな」
 呟いて、殴られた頬をこする。血が滲んでいた。
「腫れるな、こりゃ…。冷やさせてもらえばよかった」
 Kに叱られそうだ。

 入ってきたビルの裏口のドアを開けようとして、椎多は突然何かがこみ上げた気がしてそこに立ちすくんだ。

 額をそこに預け、唇を噛み締める。


 あれからもう何年経ったのだろう。
 手についた紫の血はもう塗り込められたのだろうか。

 

「……ごめんな、紫」

 

 何に対して謝っているのだろう。撃ったことか、信じなかったことか。
 はからずも鴉を挑発する為に言ったことが、今までで一番紫に対して正直な言葉だった。
 自分は紫に甘えていただけだったのだ。
 ぽたりと、埃っぽい床に雫が落ちた。
 どうやら、英二と別れたあの日から自分の涙腺は人並程度には働くようになったらしい。

 袖を目に押し当てて、それでも押し殺しきれない嗚咽が漏れる。
 

 幽霊でもいいから今ここに紫が現れてくれないか、と思った。
 そうしたら、今度はちゃんと言ってやるのに。

 

 不意に、背中が暖かくなった。
 心臓が止まるかと思う程驚く。気配もなにも感じなかった。

 鴉なのだろう。しかし、振り返る気にはなれなかった。
 背中の体温の主は両肩に置いた手をゆっくりとまわし、椎多をやわらかく抱きすくめた。項に唇のあたる暖かい感触がする。
 背の高さも、腕の太さも、紫とは全然違う。
 それでも、これが紫の腕であって欲しいと願ってしまう。

 涙が、止まらない。

 

 手は洗えばきれいになる、と妻は言った。
 この涙が自分の手を洗い流してはくれないだろうか、と椎多は思った。


*the end*

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*Note*

鴉登場。鴉は初登場から気に入ってノリノリで書いてるキャラの一人です。

作者的には「告白」までと「鴉」からで方向が変わったというかTUSからほぼ脱した気がした 感じ。鴉の登場はその合図みたいな。

保史は英二に似たウザさを醸し始めたので、その後の出番はほとんど無くなったなあ(笑)。もうちょっと使えるキャラかと思ったのに。失敗失敗。せめて口調を変えたらちょっとマシかと思ったんだけど、愛着湧くほどじゃないよねしゃーない。

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