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信 仰

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 襟足を短く刈り込んだ項を、指が撫でてゆく。
 熱い。

 この男は体温が高いのだろう。指の辿ったあとに熱が残っている気がする。
 つぎに唇のあたる感触がして、軽い痛みを覚えた。
 修一は眉を寄せ、目をかたく閉じてそれに耐える。


「……弟、帰ってきたんだって?」


 薄く目を開けて、返事の替わりに修一は苦々しげに小さく息をひとつついた。
 首筋から背中にかけて這いまわっていた唇が、胸元へ移動している。
「嬉しいだろう?大事な弟が目の届くところに帰ってきて」
「澤さんには関係ないでしょう」
 何も感じていないわけではないということは、時折乱れる呼吸が物語っている。


 この男と寝たのは初めてではない。けれどいつも最初はひるんでしまう。身体は慣れても心が慣れることができないでいた。
 澤はそれが逆に面白いらしい。
 くすくすと楽しげに笑いながら澤は修一の顎を掴むように持ち上げ、固く結んだ唇を親指でなぞった。拒絶していたかに見えた唇が条件反射のように開き、その指を迎え入れる。指に吸い付く感覚に澤は満足げに笑い、ゆっくりとそれを引き抜くと自らの唇で覆った。
「愛してるよ」
「……信じません」
「強情だな」
 澤はやはり面白げに笑っていた。

「それで帰ってきた弟はちゃんと更生したのか?」
「さっきから何ですか、弟弟って。弟まで狙ってるんじゃないでしょうね」
 澤はベッドに寝転んだまま爆笑すると、服を着始めている修一の腰を引き寄せた。
「おまえがいつも気にしてる弟のことだから俺も気になっただけだ」
「……言っておきますが何も喋りませんからね」
 言葉と同時にぴしりとその手をはねのける。この男が、他の目的があって自分を抱くのだということは最初からわかっているし修一自身もこの男を利用している。お互い様だ。だからどんな甘い言葉を囁かれたとしてもやすやすと信じることはない。

 しかし、心のどこかでそれと割り切ることのできない自分がいることに修一は気付き始めていた。

 何年も外国へ行っていた弟の英二が帰国したのはつい先日のことだ。
 十代の頃ぐれて殆ど家にも寄り付かなかった英二は突然何かから逃げ出すように外国へ行ってしまい、それから6年だか7年の間一度として帰ってくることはなかった。最初は何か面倒なことに巻き込まれたり何か犯罪でも犯して逃げたのではないかと心配したこともあったが、それについて両親や修一を追及に来る者はなかったので、そういう理由ではなかったのだろう。時折、母のもとには短い手紙が届き、なんとか真面目にやっているようだ、ということくらいはわかっていた。
 帰国した英二は、穏やかだった。
 口うるさい兄を疎ましく思い嫌っていた弟の笑顔を見たのは子供の頃以来だ。とはいえ、あからさまに嫌な顔をしない程度には大人になったというだけのことで兄に対する態度だけはやはりよそよそしい。

 自由奔放な弟を羨ましいと思ったことは無い。むしろ、自分には叶うべくもないその生き方をずっと続けてくれればいいとすら思う。

 ただ───少し、心配なだけだ。

 そういったことが気にかかっていたのは確かだが、それを澤に見透かされていたというのが少し癪に障る。

 澤の前でそんなに弟の話をしたのだろうか。

 自分はこの男についてたいしたことは知らないし本人に尋ねたところではぐらされてしまうだけだった。身なりだけは一見普通のビジネスマンのようだが、堅気の人間ではないことくらいは先刻承知の上だ。


「前から思っていたんですが澤さん、いつも政治家や大企業の方たちとご一緒ですが本業はなんなんですか」

 直接会話するようになる前からわかっていることを白々しく訊ねてみると、ん?と意外そうに目を見開いて澤は笑った。そういう表情の時はこの男は妙に愛嬌がある。
「俺か?そうだなあ……まあ仲人みたいなもんだ」


 つまりは、何か便宜を図ってもらいたい企業の人間を、それに最適な政治家に引き合わせる橋渡しのようなことをしているのだ。ヤクザか何かの組織に所属していて、その報酬を上納しているといったところだ。

「そういう使い方は遠慮していってもらえる方向に持っていきたいんですが、私は」
 『しぶや』の長い歴史の中では、政治上の争いに巻き込まれて何度か存続の危機に立たされたこともあるという。
 料亭としての本来のあるべき姿として、純粋に料理だけを楽しみに来る客をもっと増やしたいのだ。それは『しぶや』の後継者としてではなく、料理人としてのプライドでもある。しかし、澤は笑って手を振った。
「無理無理。頭にチョンマゲがのってる時代からこうなんだから。伝統は守ろうよ、修一君」
「だったらあまり危ない人は連れて来ないで下さい。うちの店で捕り物なんて御免ですよ」
 含みのある修一の言葉に澤はくすくすと笑っている。
 不愉快そうに眉を顰めると修一は立ち上がり、それ以上その話には触れずに立ち去ろうとした。

 

「修一」


 呼び止める声がいやに優しい。
 振り返らずそのまま行こうとすると、背中から突然抱きすくめられた。


「おまえ、いつもそんなに張り詰めていて、大丈夫なのか?」
「張り詰めてなんか」
 背中越しに澤は修一の横顔に接吻ける。そのまま頬をくっつけて両腕にもう一度力を入れた。
「そんなに警戒しないでくれよ。俺はおまえが『しぶや』の若旦那だからこうしてるわけじゃない」

 

「……嘘だ」
 

 修一は小さく搾り出すように呟いてゆっくりとその腕をふりほどいた。そして澤の顔を見ないように、部屋を出る。


 今の自分の顔を見られたくない。
 きっと今自分はひどく情けない顔をしている。

 

 その背中でこの男が舌を出して嘲笑しているような気がして、どうしても顔を見ることができなかった。

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 部屋を出て駐車場に向かうと、修一の車のところでひとりの男が佇んでいた。鼻歌などを口ずさんでいる。修一の姿に気付くと片手を上げて小さく頭を下げた。
「こんなところに来なくてもいいでしょう」
 困ったように修一が言うと男はどこか子供っぽい笑顔で金色に染めた短い髪をがりがりとかき回している。
 修一も決して長身の方ではないが、この男はさらに小柄で、見た目でいうとかなり若く見える。
 仕方なく修一は男を助手席に乗せひとまずこの駐車場を後にした。うっかり澤に見られでもしたらどうなるかわからない。


 走り出したところで金髪の男は世間話でもするかのように切り出した。
「例のヒト、そろそろらしいっすよ。今大詰めの捜査中らしいんであと一、ニネタが上がればすぐにでも逮捕状が出るとかで」
「ではそれをうまくリークしてやってくれませんか。ネタはいくつでも持っているでしょう?」
「あんたに貰ったネタもね」
 屈託無く笑うと男は運転席の修一にむかって掌を差し出した。
 修一は片手をハンドルから離し、ジャケットのポケットから剥き出しの札を何枚か出し、無造作にその掌に乗せる。
「あの人の予約が10日後に入ってるので、それまでにカタがつくようにお願いします。残りの報酬はその時に。キャンセルになるつもりでいますから間違いなく宜しく」


 10日後の予約。
 それはいつものように澤がセッティングした、贈収賄の現場になる筈だ。そんなものを「最後のネタ」にされてあまつさえ検察が店に踏み込んだりしまっては店の名に傷がつく。それはなんとしても避けねばならない。


「オレがいうのも妙な話っすけど、あんたこんなことやってて大丈夫なんすか?あっちにもこっちのネタを売ったりしてるんでしょうどうせ」
「さあ。売られて困るようなネタを、あんたのところはわたしに掴ませないようにしてるんでしょう?」
 表情を変えず、修一はそこで車を停めた。

「ここでいいですか。わたしも早く店に戻って明日の仕込をしておかないと」
 

 金髪の男は苦笑すると車から降り、今度はうちの人間が行きますんでよろしく、と声をかけて手を振った。
 名前も知らないあの若い男は、澤の所属するのとは敵対関係にある組織の人間らしい。裏の組織の力関係や住み分けなどはさほど詳しく知っているわけではないが、『しぶや』で暗躍する有象無象の中でも勢力が強いのはこの二つといっていい。他はこのどちらかの顔色を伺いながらそっと活動しているような印象だ。
 今は危うい均衡の上で表向きトラブルは起こっていないが、最近澤の暗躍によって、澤側の組織が勢力図を拡げつつあるという。このバランスが半端に崩れると今度は店が抗争の場にもなりかねない。修一はそれを最も恐れている。

 バランスを取り戻させるか。
 それでなければ、一気にどちらかを潰すか。

 自然の流れに任せておくことなど出来ない。父も、祖父も、『しぶや』の看板を背負った男たちはそうやって店を守ってきたのだ。


 それが例え、誰を欺き、裏切ることになっても──
 

 修一は小さく溜息をつくと、店に向かってアクセルを踏んだ。

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 澤康平が『しぶや』に出入りするようになったのは、修一がまだ板長になる前のことだった。だからいつからのことかの記憶は定かではない。

 最初はもっと上役──おそらくは澤が所属している"組"の──に伴っての来店だったらしい。修一が板長になって、客人に挨拶をするようになった頃にはすでに澤は単独で来店するようになっていた。

 この男が、店を舞台に様々な政治的な駆け引きの手引きをする役割の人間であることは、父から内密に引き継ぎされていた。だから最初は我ながら異常なほど緊張して挨拶に向かったことを覚えている。

 警戒を解くことはなくとも、最初の緊張感が薄れる程度には顔を合わせる回数を重ねた頃だったか。

「一度外で、別の店で食事でもどうです」と誘われた。

 当然、何らかの目的があることは予想された。

 この店では澤の所属する組織以外にも似たような有象無象が似たような暗躍をしている。おそらくそれぞれがお互いに承知の上で牽制し合いながら共存しているようであった。澤はそれらを出し抜いて自分の組織でここでの"商売"を独占したいと思っているのだろう。その為に、修一と親しくなって少しでも自分に有利にことを運びたいだの何らかの情報を得たいだの、そういう目的であることは明白だ。

 その誘いに修一は乗ってみることにした。

 相手の目的が判っていればやすやすとそれを遂げさせてやることもないし、場合によっては逆に利用することも出来るのではないかと思った。相手に修一を取り込んだと思わせれば、うっかりあちらの情報を漏らさせることも出来るかもしれない。

 澤がそういうものに容易く掛かるタイプの男かどうかもまだ判断つきかねたが、修一にも父親に跡取りとしてもっと信頼されたいという多少の焦りはあったのかもしれない。

 澤は修一に酒を勧めながらもたいした話はしなかった。どうでもいいような世間話や修一の修業時代の苦労話を聞きたがったりするばかりで、核心に触れそうな話は一切しない。

 しかし修一はうっかりしたことを話さぬように、あるいは聞き逃してはいけないことを澤がいつ口にするかと緊張して酒を飲んでも全く酔いがこなかった。

 それからも、時折澤は修一を外の店へと連れ出し、その度世間話をした。

 そういう時の澤は、店に”偉いさん”を連れて来ている時と打って変わって、魚市場の威勢のいい魚屋のような口ぶりの人懐っこい男であった。丸い形の大きな目はくるくるとよく動き、表情も豊かで、よく喋るし聞き上手でもあった。

 警戒を解いてはいけないと心の中に警報を仕込んではいたものの、修一は次第にこの男と話すことが楽しみになっていた。

 単純に、話していて楽しかったのだ。

 老舗料亭『しぶや』の跡継ぎであることを、澤と話している時の数時間だけ忘れることが出来るような感覚に陥っていた。

 そうやって、何週間かに一度、外で食事をして話すだけの友人のように一年ばかり過ごした頃だっただろうか。

 うっかり、心の中の警報を切ってしまっていたのだろう。

 少し飲み過ぎてしまった。

 もともとそれほど酒に強い方ではなかった。ただ、緊張感が酔いを抑えていてくれただけだった。緊張感という箍が外れてしまえば、酔っぱらってしまうことも無くはない。

 送ってやると乗せられた車の後部座席で、澤は修一の腰を引き寄せ、襟足を短く刈り込んだ項に唇を押し当ててきた。そして鼻がくっつくかというほどの近くから、あの大きな目で修一の目を真っすぐに見据えて言った。

「本当はずっとこうしたかった」

 射貫かれてしまうのかという恐怖を一瞬感じ、修一は目を逸らす。が、顔が近すぎて視線を逸らしても見えるのは澤の頬だった。おっさんの癖に妙に肌がつやつやだな、と思った瞬間、修一の口が塞がれた。

 歯を食いしばる間もなく、澤の舌が口の中へ侵入してきて修一のそれを絡めとる。

 修一はまだ、女も知らなかった。

 幼い頃から料理ひとすじで、学校の友人も殆どいなかった。同級生の女子生徒や、『しぶや』の仲居の中にはそれとなく誘ってくる者もいたが料理で頭が一杯で全く気付きもしなかった。思春期に同世代の少年たちが争って女の裸のグラビアを取り合っていた頃も、特に興味は湧かなかった。

 だから、すでにいい大人になっていたけれど誰とも寝たことはおろか、キスすらこれが初めてだった。

 抵抗することも出来ず、かといって応え方もわからず、ただ澤の舌の動きに委ねるしかなかった。身体にこれまで感じた記憶のない微弱な電気が流れている気がする。

 唇を貪ることを続けながら座ったまま澤は修一に覆いかぶさるようにして、片手で修一の下腹部を刺激し始めた。そこに触れることも、他人にはさせたことはない。

 慣れない刺激に修一はすぐに達してしまった。

 こんな──車の中で──

 自己嫌悪が一気に心の中に湧き上がる。

 澤は優しく唇だけのキスをして少し身体を離すと修一の隣に座り直し、今度は肩を抱き寄せ、耳元に小さく囁いた。

「おまえがこういうのはダメだろうと思って、嫌われたくないと思って我慢してた。でも本当はずっとこうしたかったんだよ」

 返事が出来なかった。戸惑いと恥ずかしさで消えてしまいたい。

「おまえが欲しい」

 澤はそのまま修一の耳を噛んだ。うちへ行こう、と言われても拒絶の言葉も出せなかった。

 部屋に着いた後も澤はひたすら優しく修一の身体を扱った。酔いも手伝ったかもしれないが、初めてとは思えないほどあられもなく乱されて、我に返った時には修一は体中にキスマークの残された裸のまま澤のベッドに横たわっていた。

 澤は煙草を吸いながら修一の頭を撫で、かわいかったぜ、などと嘯いた。

 その日はそのまま帰されたが、その後も澤は来店する度に修一を誘い出そうとした。あまりに気まずく、なるべく顔を合わすことさえ避けたいと思っていたがそうもいかない。

 そうして何度か誘いを断ったある時、挨拶に出てから素知らぬ顔で退出すると廊下へ出たところで呼び止められた。

「そんなに避けなくていいじゃねえか。また外でデートしようぜ」

 修一は顔が一気に熱くなるのを感じた。おそらく真っ赤になっているのだろう。澤がそれに気づいていないわけがない。

 澤はその修一の顔になぜか満足気に目を細めると耳元に顔を寄せた。

「あの夜のことはおまえと俺だけの秘密だ──と思うとゾクゾクするな」

 

 そのままあの夜と同じように、耳を噛まれた。

 一瞬でその時のことが頭を過ぎ去って、息が止まる。あの時に散々弄ばれた部分がそれを思い出したように疼いた。

「明後日は月に一回の定休日だろ?ということは明日の夜は空いてるよな。いつもの店に10時、待ってるぜ」

 悪意などなさそうな、愛嬌のある笑顔を見せて澤はその日は帰っていった。

 あの夜のことはおまえと俺だけの秘密だ──

 あれは、脅しだ。

 おまえが俺に抱かれたということを、親父や店の者や他の誰かにでも知られたらどうなると思う?

 そう脅しているのだ。

 やられた。

 修一は板場に戻るとグラスに水を一杯汲み、一気に飲み干した。

 澤は俺を──『しぶや』の跡継ぎである渋谷修一を身体ごとものにしたと思っている。自分が絶対的優位に立ったと思っているのだろう。だったらあちらにも何らかの油断が出来るはずだ。

 そっちがそのつもりなら、俺にも考えがある。俺にもそれなりの身の処し方というものがある。

 抱いたことで俺を好きに操れるようになったと思いたいならそう思っておけ。抱きたいなら好きなようにさせてやる。だがそれ以外のことは絶対に思うようにはさせてやらない。

​ 俺はもう絶対に、あの男のことは信じない。

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 10日後の予約──は、修一の『予定通り』キャンセルとなった。


 予約がキャンセルになった理由は誰もが報道で知っているものの、それを口にする事は店内外問わず従業員には厳重に禁じている。その来れなくなった男が予約を入れていたということすら、口外してはならないことなのだ。しかし、キャンセルとなった理由を作る手引きをしたのが修一であるということは父ですら知らない。
 『しぶや』では、それは単に客がとある事情で来店できなくなっただけのこととして誰も気に留めなかった。

 そうして『しぶや』では変わらぬ日常が戻ったように思えたある日。

​ その日の営業が終わり、片付けと明日の準備を指示して母屋──『しぶや』と渋谷家の家屋は同じ敷地内にあった──へ戻ろうとした時、弟の英二がふらりと目の前に現れた。

 英二は帰国後は実家ではなく近くのワンルームマンションを借りて一人暮らししている。とはいえ実家であるからたまにこうしてここに来ていることはあるのだが今日来ていることは知らなかった。

 英二はどこか気まずそうな、視線を合わせないようなよそよそしい様子で言いづらそうにぼそりと言った。

「兄貴、ちょっとそこまで散歩しない?」
「え?」

 英二のあまりに意外な申し出に、修一は一瞬耳を疑って聞き返してしまった。
 当の英二はそんな兄の表情に居心地悪そうに苦笑している。

 ずっと煙たがっていた兄にたったそれだけのことを言うのが、英二も随分と気恥ずかしかったらしい。視線は泳いだままだった。


 散歩、といって2人が向かったのは店の近くの公園だった。自然の小川に模した人工の川が流れている、静かでさりげない公園。まだ2人が幼く、たまには一緒に遊んだりしていたころにはよく来た場所だ。
 英二もそれを覚えているのだろう。
 
「俺、会社を作ろうと思ってるんだ」
 英二はベンチ代わりに配された石の上に腰掛けると言った。
「本当は俺だけの力でやるつもりだった。『しぶや』の名前も親父の力も借りないで」
 弟は自分が『しぶや』の次男坊であることを疎んでいた。だからこそ、それを自らを省みず守ろうとする父や兄をも疎ましく思っていたのだ。
 修一は黙って弟の次の言葉を待った。
「だけど、親父は『しぶや』の子会社としてやってみろって。『しぶや』の看板をどこかで自分も担いでいるのだと思ったらいいかげんな事はできないだろうって言うんだよ」
 父なら言いそうなことだ、と修一は思ったが黙っていた。弟がどんな思いを持っているのか、きちんと聞いたことがない。いい機会だ。
 ぽちゃりと音を立てて、英二の投げた小石が水面に波紋を描く。
「兄貴」
 英二は顔を上げると初めて、修一の顔を真直ぐに凝視めた。


「『しぶや』って、何なんだ。親父や、兄貴にとって」


 一瞬どう答えていいものか、修一は迷った。
 修一は物心ついた時から『しぶや』の跡取として包丁を握らされていたのだ。そのことに疑問を持つ事が全く無かったとは言えないにせよ、『しぶや』を守っていくという事は修一にとってごく当たり前のことだった。修一とは正反対に放任されてきた弟がそれを不思議に思っても無理は無い。

 

「……必ず守らなければならないもの、かな」
 

 修一はかなりの時間をおいてから、呟くように言った。英二は難しい顔をして困ったように兄を見ている。
「おまえから見たら馬鹿みたいだろう?でも俺にはこの生き方しかないんだよ」
 兄弟でこんな話をしたのは初めてだった。
 自分にとっては当たり前のことが、同じ家族であっても弟にとっては当たり前ではなかった。判っているつもりでもまるで新しい発見をした気分になる。

 

「──ごめん」
「……?」
「俺、もっと早く兄貴とちゃんと話すればよかった」


 本当は、ずっと兄を理解したかったのだろう。それなのに、顔を合わせれば兄は説教するし弟はそれを嫌がって兄を避けていた。つまりは互いに子供だったのだ。
 自分はこの弟に兄として自然に接してきていただろうか?
 父母に心配を掛けぬようにと殊更厳しく当たったり、あるいは逆に腫れ物に触るように遠巻きに接したりしてきたような気がしてならない。
 もう弟はやんちゃな子供でも不良少年でもなく、こうして自分から兄に歩み寄ってきたではないか。

 修一は少し居心地が悪くなって──単に照れていただけだったのだが──深呼吸すると弟に背を向けた。

──俺も、いつも押し付けがましい言い方をして悪かったな。
──本当は、おまえのことが心配だっただけなんだ。

 そう、言おうと思った。
 しかし。喉元まで声が出たところで、視界に入ってきた人影に気をとられて口を噤んだ。

 公園の茂みの影から、フラリ…というのがぴったりの様子でそこに立ったのは、澤康平だった。

「澤さ──」

 澤は、笑っている。
 しかし、いつも修一の前で見せていた余裕たっぷりの笑顔ではない。あのくるくるよく動く大きな目は血走って、修一を視線で射貫いてやろうとばかりにきつく固定されている。口元だけが笑いの形を作っていた。


「……やってくれたなあ」


 修一は微かに眉を寄せただけだった。背後で英二が立ち上がる気配がする。それを、背を向けたまま手で制する。動揺を気取られてはならない。出来る事なら英二を遠ざけたい。

 すう、と息を吸い込み、出来る限り平静を装う。
「どうしたんですか?」
「とぼけんなよ。あのごたごたのドサクサ紛れにえらいことになってたんだ」
「なんのことです」

 修一にはわかっている。
 例の、某政治家が逮捕される騒ぎで澤の所属する組織の幹部も何人か引っ張られ、その混乱に乗じてあの金髪男側の組織が澤側を叩いたのだ。

 それは、金髪男に報酬を渡した時に聞いている。

──ついでだから、あっちも潰させてもらいました。

 楽しげに、こともなげにあの金髪男は言っていた。
 

「おまえが手引きしたんだろう?俺の失敗だったな。おまえがそこまでやってるとは思ってなかった」
「……何のことだかわかりません」
 とぼけ通せるとは思わなかったが、英二に、知られたくなかった。

 暴力団同士の小競り合いをけしかけるような裏工作をしていたことも、

 澤との"関係"も。


 澤は視線を逸らすことなくぞっとするような笑みを浮かべたままゆっくりと一歩ずつ、近づいてくる。それに応じて無意識に足が後ろへ下がる。

「あんなに愛してやったのに」

 思わず目を閉じてしまった。

 この言い方ではどう申し開きしようと英二には澤と自分が特殊な関係であることが判ってしまう。
 しかし、もう誤魔化しようがないのだろう。あとで英二にどう思われてもそれは事実なのだから仕方が無い。

 胸の奥でちくりと痛みが走った。

 それに気づかないふりをして、修一は目を開けるときっと澤の目を睨み返した。この男には、目で負けたら終わりだ。


「信じないと言ったでしょう。あなたもわたしを利用しようとしていた。お互い様です」
「面白え」
 静かな夜の公園に澤の高笑いが響いた。
「なに、実のところ俺はあの組なんざどうでもいいんだ。ただ俺を裏切った奴は許せないたちでな」
 そう言うと澤は、ゆっくりと両腕を伸ばし、修一の頬を包むように捕らえた。

 びくりと腰が引ける。

 しかし目を逸らすことはしない。

「チャンスをやろうか」

 両頬を包んだ澤の手の、親指だけが動いて頬を撫でている。

「組は潰れたが俺には人脈がある。おまえがそんなにやり手だとわかってたらもっと早くそうすればよかった」

 澤の声の後ろに流れるせせらぎの音が、何故か急に気になった。

「俺と組まねえか」

 背中で英二が兄貴、と叫ぶ声が聞こえた。

 修一は捕らえられた顔を小さく横に振る。
「できません」
 澤の顔が微かに歪んだ。


「あなたは『しぶや』には危険すぎる。そんな人と組むわけにはいきません」
 

「なら、ここで死ぬか」
「兄貴!」
 英二が間に飛び込んできた。

 その勢いで澤の手が──修一の頬から離れる。


 次の瞬間、英二が澤を殴り飛ばしていた。
「英二、やめろ!」
 何発か殴られて澤が地面に倒れこむ。修一が押し留めて英二はようやく澤から離れた。

 倒れた澤は笑っていた。
 笑いながら、右手を内ポケットへ伸ばし、そこへしのばされていた拳銃を二人に向ける。
 修一は咄嗟に英二の前に出た。


「わたしを殺しても、英二はもっと思うようにはなりませんよ。あなたにメリットは何一つ無い」


 実際に拳銃を向けられたことなど初めてだ。怖くないわけはない。しかしここで澤の言うなりになったなら、『しぶや』は終わりだ。
 澤は、一瞬大きく目を見開いた。それは修一が何度も見たあの妙に愛嬌のある表情だった。
 その隙を見て英二が再び兄を押しのけて前に出る。まっすぐに澤を睨みつけたまま、背後の兄に声をかけた。
「バカ兄貴。あんたが殺されても俺は厨房になんか立てないんだぞ」

 澤の笑い声が再び公園に響いた。

「参ったな」
 笑いながら澤は拳銃を再び内ポケットへ収め、立ち上がってズボンについた砂を払っている。
「確かに今おまえを殺したところで俺には何の得もない。それどころか追われることになったら厄介だ」
 最後に英二に殴られた頬を拭い、血を含んだ唾を吐き出した。いてて、などと呟きながら顔は笑っている。


「二度と会わないで済むように祈っときな」

 砂や埃を払うと、ヨレヨレのシャツを伸ばし、ネクタイを締め直す。 

「次に会うときは、おまえを殺すときかもしれないからな」

 そして、聴こえるか聴こえないかの、独り言のような声を零した。
 

 ちょっとくらいは本気だったんだけどな。


 ほんの少し目を細めた。
 それは、忌々しげにも見えるし、愛しげにも見える。

 

 何も言うことなど出来はしない。
 信じないと決めたのだから。
 信じて、守るものはひとつでいい。

 

 それはまるで信仰のように。

 

 澤はそのまま背中を向けて手を振り、公園の中へ消えて行った。
 無言のまま、澤の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた修一は、ふう、と大きく息をつくと気が抜けたように座り込みそうになった。それを英二が慌てて支える。
「もうダメかと思ったよ」
 どこか無理しているかのような、殊更明るい英二の声が聞こえる。
 折角弟と和解できたと思ったのに、また自分は弟に軽蔑されてしまうのだ、と修一は思った。胸がじくじくと膿んでいるように鈍く痛んでいる。

 

 何が痛いのだろう。

 英二に軽蔑されるだろうということなのか。

 それとも。

 修一は振り返らずに、英二、と弟の名を呼んだ。
「昔、俺はおまえに何度も店にかかわるな、口を出すなって言った。おまえは、自分は『しぶや』にはいらない子供なんだといってよく拗ねていたな」
 英二は一歩前に出て兄の顔を覗き込んだ。怪訝な弟の顔が視界に入る。

 

「おまえに、こんな思いをさせたくなかったんだ」


「兄貴──」
「店を守る為に、どんな汚いことをやっても俺はかまわない。それでおまえに軽蔑されてもしかたない。でもおまえにはそんなことをさせたくなかった」
 知らないうちに、目から涙が零れていた。何が哀しいというのだろう。自分で滑稽にすら思える。
 英二は唇を噛み締めると、兄の涙を見ないようにしてそっと抱き寄せた。

 利用する為だったにせよ。

 あの男は、修一が誰にも見せずに頑なに心の中にしまいこんだ弱さを見抜いていた。

 誰もわかろうとしなかった、心の中で小さく蹲る姿を──


 それでも、店を守る為に。結局一度としてあの男に心を開くことはなかった。
 それを後悔しているわけではないけれど。
 ただ、涙が止まらない。

「兄貴」
 英二の声が聞こえる。弟の声はこんなに優しかっただろうか。
「兄貴ひとりが何もかも背負わなくてもいいじゃないか。俺はもう子供でも不良息子でもない」
 英二の肩におしあてていた眼を少し開く。
「『しぶや』は俺の家でもあるんだから。兄貴が守ろうとしてるこの店を、俺も守るよ。だから、約束してくれ。ひとりでヤバイことに手を出さないって」

 何故か安心したように、肩の力がふうっと抜けていくのがわかった。
「バカ言うな。共倒れになったりしたらおまえを遠ざけてた意味がないだろう」
 まだ少し涙声のままだったが、口調は元に戻っていた。英二が安心したように手を離す。
「先に自分の会社を軌道にのせてからそういう偉そうなことを言え。まだおまえなんかに力は借りない」

 英二が小さく吹き出してくすくすと笑っている。
 兄の威厳が台無しだ。
 修一は弟に顔を見せないように踵を返すと天を仰いで大きく呼吸し、店に向かって歩き始めた。

 いつか──
 本当に、澤が自分を殺しに来るのかもしれない。

 それでも、やはり自分は店を守る為に戦うのだろう。

 修一は心の奥の奥で、誰にも気付かれないようにこっそりと。

 あの男に、別れを言った。

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送信しました。ありがとうございました。

美しい自然

*Note*

修一兄さんは弟よりも何倍も書きやすいです。気に入ってます。

2021加筆修正にあたり、澤との馴れ初めを加えてみました。この人が自分から身体を餌にするようにも思えなかったし、理性が勝ちすぎて素直になれなかったけど実はまんざらでもなかったというのもちょっとわかりづらかったので。澤はこの後どんどん出てくるけど基本的には人を信じないくせに信じると入れ込んでしまうタイプなんでね。修一兄さんがちょっと素直になってくれていればもしかしたらもう少し幸せな未来もあったかもしれないですね(ない)。なお、澤と最初にああなった時の修一兄さん、すでに三十手前です。もうちょっとで魔法使いになるとこやった。若い頃からやりまくってるみたいな人ばっかり出てくるんで、アラサーまでDTだった人が出てきてもいいかなと思いました。ちなみにこの人結婚するまでは結局女性とは付き合ってないと思うのでもしかしたら魔法使いだったかもしれません(?)。(2021/7/26)

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