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煙 脂

 ここへ来るのは何年ぶりだろう。

 確か、紫さんに指を撃たれて休業していた頃に一度来た気がする。素直に廃業するか、右手のレベルを上げて再起し、憎し愛おしい男の命を奪うことを目指すのかを迷っていた時だ。何かアドバイスになるようなことでも言ってもらえないかと思ったのかもしれない。

 もっとも、その時は彼はもうここには居なかった。

 最初にここに来たのは、まだ中学を卒業する前だった。

 生活費を恵んでくれていた嵯院の庇護から飛び出して、初めて人を殺して少し途方に暮れていたオレを匿ってくれた。銃の扱いは父から学んでいたけれど、殺し屋のノウハウを教えてくれたのはあの人だ。

 彼が父と”仕事”の上で昔からの付き合いがある人だということは察していたが、彼は父の師でもあったことがすぐにわかった。オレが父から学んでいた銃の扱いのイロハは、そもそも父が彼から教わったことだったのだ。

 ここへ来てから黒い服ばかりを好んで着るようになったオレを、彼はおい、そこのカラス、と呼びかけていた。しまいにはガーコなんて呼ばれることもあったっけ。

 オレが”鴉”と名乗るようになったのは、彼がそう呼んだからだ。

 ここを出たのも特に何か反発心があったわけじゃない。自分でもう一人前になっただろうと思ったから巣立ちしただけだ。

 彼はそんなオレを、安売りすんな、簡単に死ぬなよと言って送り出してくれたんだ。

 鴉は柄にもなく昔のことを思い出しながら、遠くに見え始めた煉瓦の外壁の建物を眺めた。

 看板などない。入口の木の扉の脇に、小さな店名のプレートとそれをピンポイントに照らすライトがあるだけだ。もう何十年も変わらない佇まいに思える。

 店の目の前に到達したところで不意に扉が開いた。本能的に壁沿いに身を避ける。

 中から出てきたのは、見知った顔の二人の男だった。

 咄嗟に背を向けたおかげか、あちらは鴉には気づかなかったようだ。暫くそれを黙って見送り、角を曲がって姿が見えなくなったところで扉を開く。首を伸ばして中を覗き込むと、誰もいなかった。カウンターの中のマスターがこちらを向く。

「いらっしゃ……ガーちゃんじゃん!何だろ、今日は懐かしい顔が続くね」

 

「懐かしいって、今出てった人たち?」

「そうそう。まあ入ってよ。ガーちゃんまた顔変えた?コーディネートが同じだからあんまり意味ない気がするけど」

 マサルは本当によく喋る。

 これだけお喋りなのに肝心のことには口がおそろしく堅いからなかなか手ごわい。さっきの二人のことは気にはなるが、まずは自分がここを訪れた目的を果たそう。

「あのさあ、シゲさんて最近どこにいるか知ってる?」

 マサルはぴりっと顔を強張らせ、すぐに元のように緩めた。

「シゲ爺、もうずいぶん前に死んじゃってたらしいんだ。それも、殺されて」

「殺された?!え??あのシゲさんが?」

「僕もさっき聞いたとこ。そうか、ガーちゃんも知らなかったか…」

 さっき──ということはあの二人のどちらかが齎した情報ということか。

 椎多と、もう一人は渋谷英二。老舗料亭『しぶや』の次男坊、あの先日のキャンセルされた仕事のターゲットだった渋谷修一の弟。そして椎多の恋人。

 

 かつて『悔谷雄日』と呼ばれた伝説的な殺し屋がいた。

 それがこの谷重バーの先代マスター、谷重宏行のもうひとつの名だ。

 殺し屋界隈のことなら椎多のところには情報が来るのかもしれない。まして、椎多の父親は鴉の父親の雇い主でもあったのだから。その師である殺し屋のことももしかしたら知っているかも。

 もっとも、今知りたいのはシゲのことではない。

「さっき出てった人が言ってたの?」

「あ、ガーちゃんは会った事なかったっけ?英ちゃん。シゲ爺がフランス行っちゃった後、自分もフランスに行ってしばらくシゲ爺と一緒に住んでた」 

 鴉は予想が意外な形で外れて目をぱちぱちと瞬かせた。英ちゃん、つまり椎多ではなく渋谷英二の方だ。

 まさかあいつがこの店を──シゲさんを知っていたとは。知っていたどころではない。フランスで一緒に住んでいた?それは余程の関係では?

 ”シゲ”は一見、いつも笑っていて笑い皺が刻まれている明るく親切そうな親爺ではあったが、身内扱いされるのはごく限られた人間だけだ。

──まさか、ね。

 

 椎多を通してではあるが、渋谷英二のことはよく観察してきた。

 老舗料亭の次男坊で、若い頃にちょっとぐれたことはあるが今は実家料亭の子会社社長でバリバリのやり手経営者。どこからどう見ても太陽のよく当たる表通りのど真ん中を通って生きてきた、これからもその道を歩いていく人間にしか思えない。だからこそ、そんな男は退屈じゃないのかなどと椎多をからかったりもしていたのだ。

 あの男がこっちの業界に関係がある?

 いや、それはない。

 しかしだとしてもシゲが身内に入れるなら何らかの理由があった筈なのだ。

 鴉は頭をぶるぶると横に振って息を吐いた。

 とにかく渋谷英二のことは一旦置いておこう。

 今日の目的はそれじゃない。

「シゲさんのことも気になるんだけど、それよりさ」

 澤康平──って客、ここに出入りしてなかった?

 シゲに殺しの仕事を運んでくるエージェントの中にあの男が、あるいはあの男に関わりのある人間がいなかったか。とにかくあの男の過去を知らなければ話は始まらない。

 その名を聴いて、マサルは少しぽかんとした顔をした。

「澤康平……って、康ちゃんでしょ?今でもたまーに来るよ?」

​ マサルは何言ってるの?とでも言いそうな顔ですらすらと答えた。

 なんてこった。

 全然違うルートで繋がった澤康平は、実はこちらでとっくに繋がっていたのか。

「ええと……いつ頃から?」

「えっ、いつ頃だろ。僕がまだ中学に上がる前くらいの頃にはもう来てたよ」

 マサルは確か、自分より3つ4つ年下の筈だ。

 ということは──

 それは──

 澤が本当に父を殺したのだとしたら。

 その前後くらいにはもうここに出入りしていたということか。

 もしかしたら、自分がここに居てシゲの指導を受けていた時、あの男と会っていたかもしれない。

 なんてこった。

 なんてこった。

 父を殺したかもしれない男と、顔を合わせてにこやかに挨拶のひとつもしていたかもしれないのだ。

 否、きっとそうだ。

 後に”鴉”となった、シゲに殺しを教わっていた少年が──自分が殺した”鷹”の息子だと。

 澤は最初から知っていたのだ。

 最初から。

 そう、一番最初から。

 ”鷹”の息子だと知っていて、あの男はオレに仕事を持ちかけてきた──

 鴉は叫びそうになるのを間一髪で堪えた。

 まて、自分の推測だけで結論付けるのは危険だ。

 あの男が”鴉”が”鴒”であることを知っているのは間違いない。しかし”鷹”を殺したのがあいつなのかどうかは、あいつが自分で言っているだけだ。ただのハッタリかもしれない。澤ならそんなハッタリを使っても不思議ではない。

 何か確証を得られる手がかりはないか。せめて当時を知っている人間に話を聞きたい。

 しかし当時小学生だったマサルがそのあたりの込み入った話を知っているわけがない。

「……その頃のこと、その頃の澤のことを知っている人は他にいない?」

「うーん、シゲ爺でなきゃあとは小雪ちゃんしかいないと思うけど、小雪ちゃんも今はアメリカかどっかに拠点置いちゃって年1帰ってくるかどうかなんだよね。いや、こないだ帰ってきた時に次は台湾に拠点移すみたいなこと言ってたし。でもこっちから連絡も取れないし」 

 小雪というのはシゲの現役時代をサポートしていたエージェントの女だ。鴉も世話になったことはある。しかし確かにこちらから連絡を取る術は鴉も知らない。

 澤のすぐそこにまで手が届きそうなのに、届かない。

 マサルはそんな鴉の様子をまるで意に介さないように、軽やかな動作で鴉の前にグラスを置いた。

​ ”シゲ爺”が死んでいたとついさっき聞いたばかりだ、ということを忘れたかのように。 

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 耳元ですら大声を出さなければ聞こえないほどの音量が店を揺るがしている。フロア中に人間がひしめきあっているその中に、鴉は呼び出した相手を発見した。


「よく来てくれたね、渋谷英二君」
 

 英二は音の洪水に顔をしかめながら軽めの酒を口に運んでいた。姿を発見してからその近くに辿りつくまでの間にも、何人かの男に声を掛けられている。同性愛者たちが出会いを求めて集まってきている店だから一人で座っていたら声を掛けられるのは当然だろう。
 椎多には内緒で渋谷英二に個人的に連絡をつけるのはなかなか面倒だったが、ダメもと…と思ったのに英二が意外なほど簡単にその呼び出しに応じたことは驚きだった。

 澤康平についての追及は途中で頓挫してしまい、一旦置いて別の方法を考えることにしたがそうなると今度はシゲの死の真相が気になり始めた。

 いくらすでに老齢になって殺し屋からも引退していたとはいえ、シゲがそう簡単に殺されるものだろうか。そもそも「殺された」という事に信憑性があると思っていいものか。

 この件についてはとにかく渋谷英二本人を正面突破が一番簡単で効率がよさそうだ。あのての男は変な脇道から攻めるより正面からの方がぼろを出しやすい。

「あらためて、初めましてだよね。初めましての気はしないけど」

「あんたのことは椎多からうっすら聞いてる」

「どの程度聞いてるんだか」

 探るようにサングラスの下の目を注意深く動かす。どんなに間抜けでおめでたい男かと思っていたが、どうして素人にしては隙がない。
「この前、君と椎多と入れ替わりに谷重バーに行ったらね、シゲさんのことを聞いてさ」
 隣に腰かけると、大音量に負けないように耳元に口を寄せた。面倒な説明を全部省いて、核心をぶつける。

「ほんとは知ってるんでしょ?シゲさんが何で、どんな風に殺されたのか」

 英二はまるで頭痛でもしているようなしかめっ面をしている。

「何の話かと思ったらその話か。俺は何も知らない」

「うそつけ」

 今にも耳を舐めそうな近くで、からかうように囁く。

「椎多もいたし、マサルもいる。聞かせないように気を使ったの?君は何を知ってるの?」

「何か知っていたとして、どうして俺があんたにそんな話をしなきゃならない?」

「シゲさんはオレの師匠でもあるからさ」

 薄いシャツ越しに、英二の身体が冷えているのがわかった。顔色も、照明のせいだけでなく血の気が引いている。それを鴉は観察しながら少しずつ包囲を狭めていく。

「君、フランスでシゲさんと住んでたんだって?あの人が自分の領域に人を入れるのは、よっぽどのことがあった時だけだよ。身内を失って行き場所のないマサルとか連とかオレとかさ。君は実家も家族もいるよね。帰る場所がある人をあの人は自分の領域には入れない。どういうことだろう」

 口説くように腰に手を回す。

 そういえばこいつ、椎多の男なんだったな。

 椎多を抱く時、どんな風にするんだろう。

 

 そんな関係ないことが頭に浮かんで、思わず顔がにやける。

「君、シゲさんにピアノ教わってたんだって?ずいぶん可愛がられてたんだね。あの人ってオレらから見たらずいぶんなおじさんだったけどどうなの?抱いたりしたの?それとも抱かれた?」

「いい加減にしてくれ。そんなくだらない話ばかりなら帰るぞ」

 立ち上がろうとする英二の腕を掴む。

「だったら何で来てくれたの。無視したって良かったのに」

 英二は答えられない。

「帰る場所のない子供でもない、セックスの相手でもない。じゃあ何?教わってたのはピアノだけ?」

「やめろ」

 追い詰められていく英二を見ているうちに気分が高揚してきた。

 もっと追い詰めてやったら何が出てくるんだろう。面白い。椎多はこんな遊びを知っているのかな?

「教わってたのは──」

 英二は今度こそ立ち上がり駆け出さんばかりの速足で店の出口へ向かった。それを逃がすまいと追いかける。店を出たところで腕を捕らえた。”素人にしては”いい身のこなしで再び振り切られそうになるが鴉の方が一枚上手である。店の出入り口の外にビル共同のトイレがぽっかり空いていて、そこではすでに二組ほどの男同士のカップルが絡み合っていた。その横をすりぬけて奥の個室に英二を放り込む。自分も続き、扉に鍵を下ろした。

「英二君さあ」

 鴉は英二の胴に腕を回し、顎をぺろりと舐めた。夜になって伸びかけている髭が舌にちくりと当たる。くすくすと漏らした笑いが止まらない。

​「ねえ──君なんじゃないの?」

 シゲさんを殺したのは。

 目で確認できるくらい英二はびくりと震えた。

 かまをかけてみたつもりだったが、この反応でそれは確信に変わる。

 胴に回した腕を締め付ける。便座に足をかけて折り曲げた膝を英二の脚の間に割り込ませ、小刻みに持ち上げる。顎のあたりを舐め回していた舌を唇の間に差し込む。英二が我に返ったように鴉を引き剥がそうとするが狭い個室ではうまく立ち回れない。

「そんな秘密、ぶちまけちゃってもいいんだよ。どうせ人殺し同士だろ?大丈夫、君がシゲさんを殺したんだとしても、オレは彼の仇討ちとかするタイプじゃないから。安心して」

 打って変わって優しく囁きながら今度は英二の耳の穴に舌を這わせる。

 鴉の言葉や愛撫に対する英二の反応がいちいち面白くて仕方ない。

「──もう、言っちゃえ。言って楽になんなよ」

 

 最後の一滴で堰き止められた水が溢れたように──

 ふいに英二の両手が鴉の腰に回ったのを感じた。両手で尻を鷲掴みにされている。そのどちらかの手の指が鴉の脚にフィットした薄手のジーンズの上からその谷間をなぞり始めた。鴉は思わぬ反撃におっ、と視線を落とす。

「そうだ」

 英二の低めた声がそれを追いかけてきた。

「俺が、シゲさんを撃った」

 は、と英二の顔に視線を戻すと英二の口が鴉のそれを一口で齧り取ろうとするかのように大きく塞いだ。

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 椎多があの店にしようと言った時、何故帰るなどと言ってでも避けなかったのか。

 英二は後悔で胸が塗りつぶされていた。

 忘れられるわけではないのに、それでも忘れたふりをして生きてくることなら出来ていた筈だ。

​ こびりついた煙草の脂のように強力な洗剤で落としてしまえればいいのだろうが、きっとその洗剤は強力すぎて俺自身をもっとぼろぼろにしてしまうだろう。

──もう二度とこの店には来んな。俺のことも忘れろ。

──おまえは大丈夫だ。やっていける。

 最後にシゲさんは何て言っていたんだったか。思い出すのはあの店のカウンターで聞いた声ばかりで、パリのあの部屋で何と言われたのかが記憶から抜け落ちている。

 右手を何度か握ったり開いたりして見つめる。

 逃げ切れるかもしれないと思ったこともあった。だが、椎多の過去の”罪”の告白を聞いた時には俺はどこかで予感していた。

 逃げ切れるかと思ったのはただの思い過ごしだ。

 近いうちに俺はまた囚われてしまう。

 あの店に誘い込まれたのは、その予兆なのかもしれない。

 そしてそれが現実になり始めていることを、英二はすぐに思い知らされることになる。

 椎多と谷重バーに行った2日ばかり後のことだ。
 会議が長引いたせいもあって会社の者たちと食事に出かけた。解散したあとふと一杯飲んで行こうかと一人で立ち寄ったのは、通りすがりの全く初めてドアを開けた店だった。
 その店で、あの男はまるで同じ店の常連同士が日常的に交わす挨拶のように肩を叩いて隣に座った。


「よう、久し振り」
 

 最後に会ったのは5年ほど前だったか。もっとも、その時はろくに会話はしなかった。
「この前、久し振りに『しぶや』に行ったよ。修一、腕を上げたなあ。旨かったぜ」
「あんたまだ兄貴の周りをうろちょろしてたのか」
 男──澤はうろちょろはないだろう、などと笑っている。
「何の用だ」
「そう慌てるなよ」
 そう言って澤は英二の右手をひょいと持ち上げ、掌と指を検分するように丹念に凝視めた。
「なんだ、ほんとに足を洗っちまったのか。すっかり堅気みたいなふわっふわの手になってるな」
 英二は眉を寄せると澤の手を振り払い、グラスの酒を呷った。
「おかげさんでな。だからあんたと話すようなことは何もない。酒が不味くなるからとっとと何処かへ消えてくれないか」

──せいぜい二度と俺に逢わねえようにお日さんの下を歩いときゃいいさ。

──顔に仮面はかけられても、汚れた手はきれいにはならねえぞ。

──覚えとけ。

 あの時のシゲさんの言葉は思い出せないのに、なんでこいつの声は今聴いたみたいに思い出せてしまうんだろう。

 英二は右手を固く握りしめて膝の上に隠した。

 澤は嘲るような笑いを浮かべたまま英二の顔とその拳を見比べている。
「”シゲちゃん仕込み”の腕を見込んでちょっと仕事をやってもらおうかと思ってたんだがな。それにおまえ、俺に借りがあるよなあ?」
 ずっと逸らしていた目線を思わず澤に向け、鋭く睨みつける。

 借り。

 借りだとは思いたくないが、確かに借りには違いない。
 澤は、一瞬───見逃しそうなほどほんの一瞬遠い目をして、英二へ視線を戻した。
 この男はいつも相手の目を真っ直ぐに睨んでくる。うっかりすると射竦められそうだ。
「俺はもう握らないって言っただろ。二度と」
 負けじと睨み返し絞り出した言葉を、澤の笑い声が遮った。

「握らないって、寿司屋かよ」

 笑いながら英二の肩を乱暴に何度か叩く。それからカウンターに伏せるように英二に身を寄せると声を顰めた。

「それはそうと、嵯院椎多とつきあってんだって?えらい大物だな」

 ぎくりと顔がこわばる。この男が標的になる人間の周辺を少し洗えばそのくらいのことが掴めないわけはない。そうとわかっていても首筋にざわりと嫌なものが走った。
「嵯院なあ。目障りなんだよなあ、なにかと」
「何を──」
「いや、独り言。気にすんな」
 鋭い目をさらに眇めたまま、口元だけをにやりと笑わせる。
「家と、会社と、兄貴と、嫁と、恋人か。おまえは大事なものが沢山あって大変だな。欲張りなこった。そりゃああの仕事は出来ねえわけだ」
「康平!」
 立ち上がろうとする澤の腕を掴み、英二は澤の鋭い目を再び睨みつけた。
「二度と俺の周りに現れるなよ。何かしてみろ、絶対に許さない」
「許さないって、どうするつもりだ?もう8年も銃を握ってないおまえに何ができるって?」
 澤は笑っている。
 こんな挑発にのってはいけない。


「まあ、出来るならおまえとは仲良くしたいんだけどな。気が向いたら連絡しろ。最初はカンが戻るように簡単な仕事を回してやるよ」


 英二が掴んだ腕を容易く解くと、澤は立ち上がり英二の目の前にメモと札をを滑らせた。
 去って行く澤の後姿を、英二は見送ることもできなかった。

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 鴉は大きく息を吐くと黒いシャツの袖で自らの額の汗を拭った。それを英二は息を整えながらぼんやり見ている。
 あのビルのトイレの個室で過去の罪状を白状させられた後。

 

──まさかそのまま帰る気じゃないよね?

 

 鴉はまるでナンパに成功したように英二の身体に絡みついたまま同じビルの上階にある住居スペースのこの部屋へ導いた。普段からあの店で適当な相手を見つけたらここで続きをするために確保している部屋なのかもしれない。

 鴉の取り調べに屈した英二は疲れ切っていたが、鴉は手慣れた作業のように英二のそれを弄びながら自ら跨る。すでに英二はなすがままになっていた。


 汗で湿った長い髪をばさりと跳ね上げ、英二の上に跨ったままで鴉はふと自分の左手に視線を落とす。
 人差し指をゆっくりと立ててピストルの形を作り、その銃口を眉間につきつけた。


「ここ?それともこのあたり?」
 

 鴉は薄く笑いを浮かべると指を額へと移動させた。
「なんで殺したの?」
 英二は目を眇めると目の前の鴉の手首を掴み、視界の外へ追いやる。腹の上に座ったままの細い躯を折り曲げて鴉は笑った。
「理由なんてあんたには関係ないことだ。それともやっぱり仇討ちでもする気になったのか?」
「ああ、仇討にも順番があんの。君より先客があるんだよ。だからまだちょっと待っててね」
 笑いながら鴉は英二の上からゆっくり立ち上がった。袖を通したままボタンを全部外した黒いシャツをばたばたとはたくと、無造作に脱ぎ散らかした服を身につけ始める。

「シゲさんを殺しただけじゃなくて、ほんとに殺しの弟子だったとはね」

 

 鴉は世間話のように軽い声音で喋り続ける。

「君、よっぽどうまくやってたんだな。同業者の匂いなんかすぐにわかるのに、君からは全くそんな匂いがしなかった」

「……」

「やってたのはフランス渡ってる間だけ?シゲさんを殺してからもう足を洗ってたってこと?」

 答えたくなくなって黙ったまま天井を見上げる。

「エージェントは、澤康平?」

「……」

 ちらりと肩越しに振り返る気配がしたが気づかないふりをする。

「今さあ、ちょっと彼の、特に過去のこと調べてんの。何か知ってることあったら教えて」

「俺が教えて欲しいくらいだ、あいつの弱みとか」

 あっそう…と小さな呟きが聴こえる。その声がここまでと少し違って聴こえた気がして鴉の後ろ姿に視線を向けた。

「……あんた、なんで俺を誘ったんだ?」
 背中を向けたまま鴉は笑っている。
「そうね、椎多のオトコっていうのはどんな味なのかとちょっと興味があってさ」

 思ったより美味しかったよ、と小さく呟くとはしゃいだような笑い声が続く。

「椎多とやる時はもっとがんがん攻めたりするんでしょ?そういうのもやってみたいね。そうだ、なんなら今度三人でどう?君が一人でオレと椎多をやってもいいしオレと君で椎多を責めるのもいいし。君を椎多とオレで責めてみるのも面白そう」

「──くな」
「ん?」
 逃した言葉を鴉は振り返って聞き返した。

「椎多にもう近づくなよ」

 

 鴉はきょとんと英二の顔を見つめると弾けるように大笑いした。英二がむっとして睨んでいるのもどこ吹く風だ。
「それは椎多に言ってよ。オレはあの子の依頼を請けてるだけだからさ」
 涙を流さんばかりに笑いながらベッドの上に身を起こした英二に再び歩み寄る。きつく眉を寄せている英二の顎に鴉は指を伸ばし静かになぞった。
「オレがあの子と寝てることが気に入らないの?それも仕事の条件のうちなんだよ。それを承知の上であの子はオレに仕事をもってくるんだ。君がとやかく言うことじゃないでしょ?」


 確かに、椎多が鴉と──条件とはいえ──寝ているということはあの海辺ですでに想像がついていたことだが、それが不愉快なのは事実だ。

 しかしそんなことより重要なことがある。

「あんたが椎多を撃ったんだろ?そんな人間、信用できるもんか」

 

 あの、椎多が撃たれ鮮血を吐き出しながら倒れた光景を、英二は忘れることはできない。
 他人の命を金に換算して、見合った金額でそれを奪う仕事。

 かつてそうやって奪ったいくつもの命。

 それと同じように奪われそうになった椎多の命。

 鴉はプロだ。
 プロならば、いつまでも椎多側でいるという保証はどこにもない。

──目障りなんだよなあ、なにかと。

 澤の不気味な言葉も胸にひっかかっている。

 鴉が澤との関係を匂わせたのも気にかかる。味方なのか敵なのか計りかねる言葉ではあったが何某かの関係があるというだけで警戒せざるを得ない。


 この得体の知れない殺し屋を、できることなら椎多の側から遠ざけたかった。
 

「信用するかどうかも、椎多が決めることだ。君にはなんの関係もないよ。まあ椎多は金離れもいいしカラダもいい具合だからよっぽどのことがない限り信用してもらっていいけどね」
 わざとからかうように英二の鼻先にまで顔を近づけて鴉はにいっと笑った。関係ないわけじゃない、とは思ったが口には出さずにおく。
「椎多より自分の心配をしておきなよ。もし依頼が入れば順番とか関係なく君の命を頂きに行くかもしれないからさ」
「俺は今はプロじゃない」
 英二の言葉に鴉は顔を笑わせたまま大袈裟に首を傾げてみせた。
「だから依頼や報酬なんて関係ない。順番とか依頼とか言ってる間に俺に殺られないようにせいぜい気をつけるんだな」
「へえ、現役のオレに張り合う自信があるんだ。いちどその腕を拝見したいね」
 じっと英二の目を睨みながら、鴉はサングラスでそれを遮った。くすくすとずっと笑いを盛らしている。
「言っちゃなんだけど、椎多は君よりよっぽど場数も踏んでるしハデな返り血も浴びてる。反対に守られるのがオチじゃない?」

 そんなことは言われなくてもわかっている。

 鴉の言う通りなのだ。

 だとしても。

 澤康平が万が一椎多を狙うようなことがあるなら──

 今までのように知らない顔でやりすごすわけにはいかない。

 俺はやっぱりまた囚われてしまうのか。

​ 禍々しく茶色いあの煙脂がいつまでも粘ついて取り除けないように。

​ 

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送信しました。ありがとうございました。

アンティークピアノ

*Note*

 

本来はこれと、今回章の頭においた「鍵盤」を合わせて「鍵盤」という話だったのですがそれをきっぱり分割しました。

なんとなく、「谷重バーに行ったのがすべての破滅の始まり」というセンテンスを書いた時点で、これは章の頭に置かねば!と目覚めてしまい。色々迷ったあげく単体では若干短くはなってしまったんだけど分割したという次第。

英二は一般人のウザい兄ちゃんのままでいさせればいいものを、よっぽどスランプだったのかどんどん変な属性を盛り盛りしてしまって自分で自分の首を絞めました。

​ただこの展開にしたおかげでシゲさんというキャラが誕生したので良かったです。一番最初はシゲさんは山男みたいにヒゲぼうぼうの熊みたいなおっさんというイメージだったんだけど、容姿の描写をしていなかったのをいいことにどんどん私好みになっていき…。​最終的に三上博史あたりのイメージに落ち着きました(好み乗せすぎやろ)。谷重バーまわりの話(スピンオフ)を独立した章(「谷重」)として作るくらいは漲りました。

さて前回の加筆修正の時にもずいぶんと直したのに今回の修正にあたって分割したり順番変えて見たりしつつ、新作並みにほとんど書き直しました!大きな流れだけはそのままだけど、鴉が店にくるタイミングとか、英二がゲロる(汚いなー)経緯とかきっぱり変えてやった変えてやった!おかげで相当すっきりしました(作者の心情的に)。で書き直していて気づいたんですが、これ、いかに英二のウザさを無くすか、ちょっとでも感情移入できるキャラにできるかというチャレンジをやってるみたい。そうか。英二救済のために書いてるのか。やっぱり作者、あんだけウザいとか書きづらいとかボロクソ言ってるわりに英二のことが好きなのかもしれません……やだなあ……(やだなあ???)(2021/7/28)

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