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告 白

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「帰るのか?」

 うん、と気の無い返事。鏡を見ながらネクタイを直し、髪を整える。

 手早く身支度を済ませ振り返った英二の手をとり椎多はそれに唇をおしあてた。


「帰ったらこの手で有姫ちゃんを可愛がってやるんだな」
「……なに不倫中のOLみたいなこと言ってんだ」

「OLと不倫してたことがあるみたいな言い方だな」

 椎多は手を離して大笑いし、そのままドアの向こうへ消える英二の背中を見送った。

 何週間かに一度、繰り返されるそんな夜。
 その日もそんな夜のうちのひとつにすぎない筈だった。

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「すまない、アポイントもなしで」
「何みずくさいこと言ってるんだよ。ただあんまり時間はないがな。もちろん用件があるんだろ?俺に会いたくて来たって顔じゃない」
 椎多は笑っている。


 翌日の朝一番に、英二は椎多の会社に足を運んだ。昨夜別れてからまだ10時間ほどしか経っていない。
 英二は眉を寄せたままにこりともせず、前置きもなしにいきなり切り出した。

「今回のプロジェクトの件だが、うちは撤退させてもらう」
「は?」
 椎多はきょとんとしている。

 昨日もその会議をやったばかりだというのに急転直下それはない。

 

 開発中の海沿いの地域に新しいリゾートタウンを建築する計画。

 その中のテナントとして多くの飲食店を誘致している。

 海外の人気店の日本初出店など多くの目玉が用意されているが、英二の会社が運営する本格フレンチレストランはそのひとつだった。

 老舗高級料亭『しぶや』の系列子会社として庶民が気軽に入れる外食チェーンを展開し、一般にも認知され始めていた英二の会社が初めて打ち出した「本格フレンチ」の店。

 まだ公式には告知されていないが、大きな話題のひとつになる筈だった。

​ 嵯院の側からすればいくつかある目玉のうちのひとつではあるが、計画が大詰めに差し掛かっている今になって撤退されては痛手であることは間違いない。エリア内でかなり良い場所を確保して迎える準備をしていただけに同等の話題性を持ちその場所に置いて見劣りしない格の店を今から探すのは至難の業だ。

 英二の側からしても満を持して打ち出した本格フレンチ路線の店だ。オープンは来夏とはいえすでに地域を考慮したメニューも開発中、家具や什器なども発注済である。年明けには求人も始めることになっていた。それこそよほどの一等地で出店出来ることにでもならない限り、こんな計画終盤で撤退するメリットなどあるはずがない。


「──渋谷君」
 笑っていた椎多ががらりと経営者の顔と口調に変わった。
「意味がわからないな。この段階まできて撤退するなんて、うちにも損害は出るがそちらもただではすまないだろう。契約書をもういちど隅から隅まで読んできたまえ。それともその代償を払ってもまだ旨味の残っている美味しい話でも舞い込んだのか。昨日の今日のこんな朝一番で?」
 言いながら頭の中で話を整理する。

 どう考えても尋常な話ではない。

 だいいち、このタイミングだということは社の決定ではない。英二の独断だろう。
「君たちの信用にもかかわるんじゃないか。今後商売がやりづらくなるぞ。こんなことが業界の中で知れたら金輪際大きな話は来なくなるだろう。社内でもこれまで尽力してくれてきたプロジェクトメンバーたちからの信頼が地に落ちる。それくらい大きなことだと思うよ」

 しかし英二は苦虫を嚙み潰したような顔をしたまま、歯を食いしばるように押し黙っていた。

「英二」


 あきらかに英二の様子がおかしい、と見てとって椎多は手を伸ばし、向かい側に座った英二の両腕をとらえた。
「──何があった」
 ただ、英二は首を何度か横に振った。
「それから、個人的にもおまえにはもう会わない」

 個人的には──

 つまり、今のような"関係"を解消したいということか。

 英二が、昔みたいにただの遊び相手だから互いにいつ消えても気にしないフリみたいなのは嫌なんだ──などと言っていたのはまだそれほど前のことではない。

「なんだ、有姫ちゃんにでもばれたのか?」

 ワンクッション置いてから追及しようと思って軽く出した有姫の名に、英二はギクリと反応した。

 思わぬ反応に椎多の方がぎょっとする。

 しかし、浮気が妻にバレたからといって会社対会社のプロジェクトそのものを解消しなければならなくなるような事態になるだろうか。いや、有姫はそういうタイプの女性ではない。


「頼む。何も言わずのみこんでくれ」
 英二しまいには泣き出しそうなのかと思うほどの表情になり、腰を直角に折って礼をすると足早に部屋を出て行った。

 何かが起こっている。

 勘のようなものだ。

 しかし、昨日の今日で明らかに英二の態度がおかしい。

 昨夜帰ったあと英二に何かがあったのは明白だった。

 椎多は親指の爪を少し噛んで暫く考えていたかと思うと、Kを呼んだ。

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 昨夜───


 深夜にもかかわらず、帰宅すると家は煌々と灯りがついていてどこかばたばたと落ち着かない空気に支配されていた。玄関から入る前からそれが感じられる。
 不審に思い英二が扉を開けると、住み込みの家政婦が慌てて駆け寄ってきた。

 どうやら住み込みの者以外の普段は通いで務めている家政婦や警備会社の者まで集まっているようだった。

 その表情からただならぬ緊張感が感じられる。

「旦那様、奥様はご一緒じゃないですか?」
 

「有姫がどうした」

 一瞬で頭から血が引く。ざあっとその音が聞こえる気がした。
「ご夕食後お部屋で読書をなさってると思ってたんです。お飲み物をと思ってお持ちしたらいらっしゃらなくて……時々庭で散歩なさってることがあるから最初気にしていなかったのですが」
「──いなくなったのか」
 家政婦が頷くのを最後まで見届ける前に英二は動いた。
 どこを探せばいいかなどわからないが、じっとはしていられない。

──有姫。

 思い当たるすべての場所を探す。こんな時、家が広いのがひどくわずらわしく感じる。
 例えば探し物をしていて物置の奥にいたとか、地下のワインセラーの奥で飲んでしまって寝ていたとか、そんなことならありえなくはない。

 妻があの無邪気な微笑でごめんなさいと舌を出しそれを自分が窘める、そんな光景を必死で思い浮かべながら英二は有姫を探した。


 しかし、有姫は見つからなかった。
 

「渋谷様!」
 慌てた様子で警備会社の担当者が英二を呼びに来る。

 この担当者はこの家を建ててこの遠隔警備システムを導入した時からの警備担当者で、英二とも顔馴染になっている者だった。この会社では原則的には一人が長く同じ邸宅の担当を務めることはないのだが、英二の判断で交代させずに担当を続けてもらっていた。
「今、これが窓から投げ込まれて」
 担当者が手に持ったのは布でくるんだ石だった。家政婦がそれを覗き込み、震える声で言った。


「奥様が今日お召しになっていたカーディガンの切れ端です」
 

 そこへ、電話のベルが鳴った。

 応援で来ていた通いの家政婦がそれを取ろうとして一旦英二の顔色を伺う。英二は家政婦を制して自分が受話器を取った。

 

『家が広いから探すのが大変だったみたいですね。もっともそこに奥さんはいないから無駄骨だったわけですが』


 聞き覚えのない男の声だった。
「貴様、有姫をどこへやった!無事なのか!!」

 

『まあ、おちついて。まだ奥さんには危害は加えてませんよ。ちょっと眠ってもらってはいますがね』
 

 ゆっくりと、焦らすように男は言った。
「何が目的だ。金か」
 深呼吸しながら英二が少しでも手がかりを得ようと声を絞り出す。
 電話の向こうの男は、愉快そうに笑った。

 

『金か。金も欲しいですね。でもそれはあとまわしだ』
 

 汗の滲んだ掌で受話器を握り締める。

『まずは嵯院とのプロジェクト、下りてもらいましょうか。あんな会社と関係しているとこの先ろくなことがありませんよ』

 いきなり嵯院の名を出されて面食らう。

「どういうことだ?そんなことの為に何故有姫を──」


『渋谷さん、あなた嵯院椎多とは、ずいぶんと、仲がいいようですね』

 からかうような、いやらしい声音で笑い交じりに男は続けた。

『いけないなあ、こんなに可愛い奥さんがいるのに男と浮気なんかしちゃって』


 更に血の気が引いていく。

 この得体の知れない敵は、自分と椎多の"関係"まで知っているのだ。


『あんな男と仲良くしてたらいろいろややこしいことに巻き込まれるかもしれないよ?今のうちに手をお切りなさい』


「……何が目的なんだ」
 もう一度、英二は訊ねた。


『そんなことはあなたには関係ない。少なくともあなたや奥さんに危害を加えること自体は目的じゃないからおとなしく言うことを聞いてくれれば奥さんは返しますよ』


 そこで電話は切れた。
 英二はしばらくの間ただ呆然と受話器を握りしめ立ち尽くしていた。

 

──狙いは椎多なのか?

 最終的に何が目的なのかはわからない。

 今のところはっきりしているのは相手は椎多を痛めつける為に英二と有姫を狙ったということだ。

 他に真の目的があったにせよ、無関係ではない。

 こんな短絡的にさえ見える手口で脅してくるとはなんと卑怯な── 

 しかし、有姫の安否がわからない今、他にどんな手段があるというのだろう。
 

 眠れぬ夜を過ごし、英二は決断した。

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「有姫さんが?」

 

 朝一番で英二が訪ねてきた日の午後。
「うーん、はっきりしたことまではまだわかりないけどどうも奥さんが誘拐されたみたいっすね。警察までは出動していないと思うけど、使用人勢ぞろいの上警備会社まで来てます。かなりの緊張感っすわ」


 夕刻にさしかかる頃には、Kが集めてきた情報で椎多にも有姫の身に起こった異変が告げられた。
「英二の様子がおかしかったのはそれでわかったが」

 口の中でぶつぶつ唱えながら天井を見上げる。
「有姫さんを人質にプロジェクトから降りろ、と?ライバル会社の妨害か?下りさせておいてその後釜に入りたい同業他社か?」

 それにしたって社長の細君を誘拐して脅迫するとはずいぶん荒っぽいしリスクが高すぎる。

 おそらくそのルートではなく別の目的を持った別の者だ。

 そもそもライバルの同業他社が、社長の個人的な人間関係になど口出ししてくるわけがない。

 それとも今回のプロジェクトそのものを白紙に戻させるために英二と椎多をもろともにスキャンダルで潰そうとでも?──そういう目的の者が無いとは限らない。あの土地はそれくらい魅力的ではあるだろう。

 しかしだとしたら今度は逆に脅迫の内容や質がケチくさすぎる。

「だいたい英二のやつなんで俺にひとこと相談しないんだ」

 相談してくれたらこちらにはこういう不穏な事態に動ける人員は山ほどいるのだからもっと力になれるだろうに。


 あらゆる可能性を想定してみる。しかしどれもなにかしっくりこない。
「とにかく俺はもう一度英二に連絡をとってみる。組の方にも応援を頼むかもしれんから睦月に根回ししておいてくれ。そうだ、睦月にはこの件もう少し掘り下げて調査するようにも言っとけ」
 Kに指示をしながら社を出て車に乗り込んだ瞬間だった。


 車の外でドアを閉めようとしていたKが二三歩あとずさったかと思うとどん、と車にもたれかかってきた。
「K!?」
 車の中から椎多が目にしたのは、肩を押さえた指の隙間からぽたぽたと流れる血だった。

「てゆーか何でオレが撃たれるんすかね?」
 顔をしかめて手当てを受けるKが憮然として言った。
 椎多は無言でその様子を見ている。
「組長が狙われるならわかるけど、オレを殺してもなんにもなんないでしょ?」
「………」
「しかも殺してないし。はなから殺す気がなかったのか、単にヒットマンが下手くそだったのか。なんか心当たりはないんすか」

 Kは空元気で痛みを忘れようとしているように大声でまくし立てている。
「Kくんちっちゃいから狙いにくいんだよ」
 包帯を巻き終わるとKの妹のみずきがようやく笑った。憎まれ口をきいていてもやはり兄の怪我が心配で表情が硬い。

 椎多はKのどの問いかけにも応えず、これだけぺらぺら喋れるんだからたいした怪我じゃないな、などと考えていた。相手の目的はなんにせよ、とりあえずKが無事だったことで椎多もひとまず安心している。


 しかし、もやもやとしていた何かが椎多の頭の中で形をつくろうとしていた。
 

「みずき、龍巳を呼んで青乃の周辺に何か異変が起こっていないか確認してくれ。今現在何もなくてもいつも以上に青乃の身辺警護を厳しくするように。それからおまえ自身も気をつけろ。まあ屋敷内にいればめったなことは無いだろうが、飛び道具を使ってくる相手がもし敷地内に潜入していたらコトだ」
 接近戦ならよほど俊敏な大男でない限り、みずきもKもそつなく対応出来るはずだ。しかしKはどこからか撃たれた。こればかりはどうしようもない。


「奴は、俺自身ではなく俺のまわりの、それも俺にごく近い人間を狙ってる。何が目的か知らんが危ないのはおまえたちだ」

 そして。

 おそらく、有姫が狙われたのもその一環なのだ。
 敵は、狡猾で、卑怯な相手だ。

 英二と連絡がとれなかったために、椎多は直接英二の家に向かった。
 狙われているのは自分なのだから、屋敷でじっとしているのが一番なのかもしれない。しかし動かずにはいられなかった。
 負傷したKは休ませようかと思ったがKはたいしたことはない、とついてきた。一応ボディガードの意識はあるらしい。


 玄関先に車を停めて待ち伏せしていると、憔悴しきった顔で英二が戻ってきた。

 朝伝えに来た件で、会社のプロジェクト関係者にその話をしに行ったのだろう。猛反発を食らって話は全く進まずにひとまず保留のままお開きになった──というところまで想像はつく。

 それを呼び止め車に乗せる。

 英二はまるでたった半日でげっそり痩せたようにすら見えた。顔色のせいかもしれない。

 

 後部座席に一旦沈み込む。

 椎多は隣に座った英二のネクタイをぐいっと引っ張り鋭く英二の目を睨みつけた。

「なんで俺に何も言わなかった。狙われてるのは俺の方じゃないか」
 ただでさえ寄っていた眉をさらにきつく寄せて英二は少しだけ顔を椎多の方へ傾ける。
「何でお前が狙われるのに有姫がさらわれなきゃならないんだ」
「知るか。敵の目的がよくわからない。とにかくうちの人間を使って有姫ちゃんを探す。絶対無事に助け出すから」
「……いや。もう関わらないでくれた方がいい」
 ネクタイを掴んだ椎多の手を押しのけて目を逸らす。その言葉と仕草が椎多の胸を刺した。

「脅迫電話がかかってきた。そいつはおまえと俺との関係も知っていて、とにかく公私ともにおまえと手を切れと言ってきたんだ。俺がおまえと手を切ったからって一体なんのメリットがあるっていうんだよ。さっぱりわからない」

 両手で顔を覆うようにして深くひとつ息を吐いた。

「嵯院と手を切れと言ってくる相手に対処する為におまえの手を借りたら、あっちの神経を逆撫でするだけだろう。有姫に危害を加えないとも限らない。だからもう手を引いてくれ。頼む」 

 相手が椎多に物理的・心理的なダメージを与えることが目的なのだとしたら。

 再会したときのまま単なる友人でいれば、英二や有姫は狙われなかったのかもしれない。
 昔の関係を蒸し返すようなことをしなければ──。


 それを認めるのにこんなに労力がいるとは思わなかった。

「有姫が捕まってこわい思いをして、ひょっとしたら何かひどい目に遭っているとき、俺は……おまえと寝てたんだ」

 酷い夫だな、と自嘲するようにもう一度息を吐く。

 そんなの、はなから承知の上だったんじゃないのか。

 ちゃんと割り切れもできないならあんな告白すんな馬鹿野郎。

 と、中から家政婦が椎多の車に気づき小走りに近づいてきた。
「旦那様!こんなところにいらっしゃったのですか。奥様が!」
「どうした」
 後部座席に並んで座った二人が血相を変える。


「お戻りになりました」
 

「え?」
「ほんの30分ほど前ですが、庭に寝かされておられて」
 英二が慌てて車から降りる。
「怪我は?」
「縛られてらっしゃったようでかすり傷はありますが、あとは薬で眠らされていらっしゃるのでまだ」
 椎多が少し安心したように英二に続いて車を降りる。

 Kが、危ないから乗ってて下さいなどと小さく叫んで自分も車を降り、椎多の側に駆け寄った。
 ちらりと振り返ってすぐに向き直り門をくぐってゆく英二を、安堵や不安やその他のないまぜになった気持ちで見送る。
 何故有姫を帰したのかはわからないが、とりあえず最悪の事態は避けられた。


「ひとまず引き上げよう」
 小さく呟いて再び車に乗り込もうとしたその時。
 何度か胸を叩かれたような気がした。

──え?

 

 耳鳴りがする。
 Kが何か叫んでいるのが目に入ったが声が聞こえない。

 

──熱い。

 

 喉を何か熱い固まりが上がって来た。と思うとそれが口から外へ飛び出す。
 手でそれを受け止めると、見た事の無いような鮮やかな赤。

 

──嘘だろ。
──狙われてるのは俺自身じゃ………

 

 ゆっくりと視界が薄暗くなって行く。
 視界がぐるりと一回転して、意識を失う直前に目に入ったのはKと英二の顔だった。

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 青ざめた顔で横たわった有姫が目を開けたのは、夜になってからのことだった。


「英二さん……?」
 憔悴した英二の顔がようやく微かに綻ぶ。
「よかった……無事で……」
「あたし……ごめんなさい……」
 英二にひどく心配をかけていたのを自覚してか、有姫は泣きながら小さな声で何度もごめんなさい、と言った。その頬や髪を何度も撫でてやる。
「どこか痛いところは無いか?」
「大丈夫、あたしは叩かれたりしてないから…。それより英二さん」

 これ以上心配をかけない為か、無理やりのように少しだけ笑みの形をつくった。が、すぐにそれが崩れる。

「椎多さんは大丈夫?」
 ぎくりと英二の顔がこわばる。

 

 椎多は何者かに撃たれた。

 

 Kがその場で車に乗せて連れていったのですぐに手当てを施されている筈だ。

 しかし、それを有姫は知らない。


「あの男の人、椎多さんを恨んでいるみたいだったの。ずっとぶつぶつ言っていたわ」
「……顔を見たのか?」
「いいえ、目隠しをされていたから顔は……。でも耳栓はされなかったから声は聞こえていたの。英二さんに電話をしているのも聞こえたわ」
 手を伸ばし英二の腕をぎゅっと握っている有姫の手をそっと外し、毛布をかけてやる。今は休ませてやりたい。
「今日はもういい。明日ゆっくり聞かせてくれ。今夜はずっと側にいるから」
 有姫は小さく頷くと手を伸ばし、英二の手を握って目を閉じた。
 その髪をそっと撫で、額に接吻する。


 とにかく有姫は無事だった。しかし───。

 椎多の身体から溢れた血の色が、目の裏に焼きついて離れない。

 銃声。

 弾き飛ばされる身体。

 鮮血。

 ぞくりと身体を震わせ、有姫の手を握ったままの自分の手を見下ろす。

 鼓動が早くなっている気がする。

 有姫の手をゆっくりと解き自分のもとに取り戻すとその右手は細かく震えていた。

 それを固く握りしめると、代わりに左手で有姫の手を握り直した。

 即死ではなかった。

 狙撃手は、失敗したのだろうか。それとも。

 だとしても人間はあんなに血を流して生きていられるものなのだろうか。

 全身の細胞が萎縮していくような気がする。

 しかし今、自分が握っているのは有姫の手だ。

──渋谷さんは奥さんについてあげてて下さい!


 あの、Kという少年が椎多を慌てて車に運び込みながらそう言った。その後まだ英二のもとには何の連絡もない。
 確かに、自分がついて行ったからといって何ができるわけでもない。

 だから?違う。

 俺は。

 椎多ではなく、有姫を選んだ。

 それは本来なら当然のことなのだ。

​ それなのに。

──死ぬな。
──頼む。死なないでくれ。

 

 有姫の手を握った左手の上から先ほど外した右手を添える。そして祈るように組み合わせる。

 せめて祈るしか方法がなかった。
 

 この夜も、英二は眠れなかった。

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 三つの弾丸。


 Kはそれをじっと凝視めて唇を噛み締める。
「とうとうやられましたなあ。いつか撃たれるとは思っとりましたよ」
 執刀医に続いて手術室を出てきた白髪の老医師が、摘出された弾丸の転がった膿盆を見せながら嘆息して少し笑った。
「とにかく一命はとりとめたってとこですがまだ予断は許さない。隣の部屋で休んでるから何かあったらすぐ呼びなさい」
 この老医師は嵯院邸に常駐して椎多が若い頃から──椎多の父・七哉の代からずっと診てきたという。椎多の身体に残る大小様々な傷跡の多くの歴史を知っている数少ない人間の一人だった。

 嵯院邸では使用人も多いため、この老医師をはじめ数人の看護師や薬剤師の資格を持った人間を常駐させてある程度の病院設備を整えている。たいていの病気や怪我なら、邸内で対応することが出来る。

 しかし流石に手術設備までは無いため、椎多は一旦この老医師の息子が開業している整形外科医院へ運ばれた。

 普段は本業の傍ら組の抗争時などで怪我人が出た時に警察に察知されずに処置することに協力してくれている。看板は整形外科だが、一通りの外科手術は出来る腕があるという。

 父親曰く、必要がなくても常にあらゆる症例の新しい術式の論文や資料を集めている手術マニア。怪我で運びこまれた組員がどこか身体の不調はないかとしつこく検査されて怯えて帰ってきたこともあるらしい。

 肺から銃弾を摘出する手術は久しぶりに手ごたえのある仕事だったのだろう。執刀医は晴れ晴れとした顔をしていた。


 頭を下げて医師たちを見送るとKは部屋へ入った。
 呼吸器がつけられている椎多の真っ白い顔は、まるで別人のようだ。

──俺がついてたのに。

 Kの背中の方向から椎多は撃たれた。考えたくはないが昨日と同じように自分を狙って、それが外れて椎多に当たったのではないかなどという考えがよぎる。

──姉ちゃん、ごめん。

 去っていった姉、柚梨子のことが思い出される。

──俺、組長を守れなかった……。

──ごめん、姉ちゃん。 

 姉ちゃんならどうやって守った?

 紫さんなら?

 狙撃してくる可能性が高い相手だった。だったら車の乗り降りで一番無防備になる場所を慎重に決めるべきだった。どこからなら狙えるかを瞬時に判断して車を停めなければならなかった。まして、帰宅する英二を待ち伏せするために暫く停車していたのだから危機を回避する方法はもっとあった筈だ。使われた銃弾はライフルなどではなく拳銃のものだ。射程距離は知れている。しかし角度から考えれば地上より少し高い位置からの狙撃だった。狙撃手はこちらの車の停車位置を確認してからその場所に上った可能性もある。だったらなおさら回避は容易だったのではないか。

 俺、全然ダメじゃないか。

 全然組長を守れる能力なんかない。

 俺みたいな経験の浅いチンピラなんかに組長の命は重すぎるよ……。

 ベッドの横に腰をかけて、ぴくりとも動かない椎多の顔をみつめる。目を逸らすことができずKはそのままじっと身動きもせず座っていた。

 時計の針の音だけが響く。

 普段、秒針の音など意識していないのにやけに大きく響く。
 まんじりともせずそうしていると、ノックの音と同時にドアが開き、青乃が顔を出した。
「青乃様──」
「大丈夫よ、このひとは死んだりしないわ」
 そう言いながら眉を寄せ、横たわった夫の姿を見ている。

「わたしになら殺されてもしかたないって言ったの。だから、こんなことでは死なない筈よ」

 自分に言い聞かせるように言っている。平静を装っているがやはり心配なのだろう。微かに声が震えている。
「ここのことはお願いね、K。わたくしはやることがあるわ」
 青乃はそう言ってもう一度夫の顔を一瞥して部屋を出て行った。


 会長が倒れたと──流石に撃たれたとは言えないが──いうことが広まれば、どんな混乱が起こるかわからない。青乃はそれを鎮めようというのだろう。そして、既に敵を探り出すべく嵯院邸の警護の者たちに指令を与えたという。組の方でも動いているだろう。


 Kは再び座りなおすと、また椎多の顔に視線を移した。

──死なない。

 

 そう信じるしかない。

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 椎多の意識が戻ったとKから英二に連絡が入ったのは5日後のことだった。


 渋谷邸には嵯院邸から数名の警護の者が派遣されていたが、その後とくに怪しい者も現れず敵からの連絡もなかった。有姫はあの翌日にはベッドからおりて少しずつ日常生活に戻っている。

「それで、椎……社長の容態は?」
「一応は落ち着きましたが、意識が戻ったとはいってもまだ目を開けたくらいで。音と光には反応してるから意識があるってわかるそうなんすけど、まだ殆ど寝てるのとおんなじっす」
 そういうKも顔色が悪い。目に隈を作っているところを見るとあまり寝ていないのだろう。
「渋谷さんの方は異状はありませんか?」
「ああ、おかげさまでな。相手からも何も言ってこないし。ただ、個人的に彼に恨みがある人間のようだな」
「今、うちの人間が調べてるとこです。捕まえたらそちらにももう心配はない筈です」
 ぺこりと頭を下げてKが立ち去ろうとするところへ、英二が少し遠慮がちに声をかけた。

「──彼には、会えるのか?」

 Kは黙って英二を暫く見ていたかと思うと首を横に振った。
「まだ、無理です」
「意識がはっきりしていなくてもいい。会わせてくれないか」
 微かに眉を寄せ、一旦きゅっと唇を結んでKは仕方なさげに頷いた。
「では一緒においで下さい。でも起きてるかどうかはわかりませんよ」
「かまわない。ありがとう」
 それには答えず、Kは車のドアを開け英二を乗せた。

 部屋へ入ると消毒液の臭いが充満している。病院にいるかのような錯覚に囚われた。

 肺から銃弾を摘出する手術のあと、容体が落ち着いたところで椎多は嵯院邸に戻されていた。経過観察や容態の変化になら嵯院邸の医療体制で対応できるし警備の面でも嵯院邸の方がより安全だという判断である。

 部屋の中央のベッドに寝かされた椎多はいまだ呼吸器をつけられたまま、意識が戻ったようには見えなかった。

「肺をやられたので、意識は戻ってもまだしばらくはあのままだそうなんです。片肺死んじまってるかもしれないとか」
 Kの言葉も、英二の耳にはろくに入っていなかった。

 ベッドの側まで足を進めてその顔を見下ろすと、それだけでひどく痩せたことがわかる。英二は椅子に腰掛けて遠慮がちに手を伸ばし、その額に触れた。

 Kは無言で音を立てぬようあとずさり、部屋を出た。見ていてはいけない気がしたのだ。
 椎多と英二が特別な関係であることはうすうす気付いていた。それを、今までどうと思ったことは無かった。

 椎多が多くの女や男と関係を持っていたことは以前から良く知っていたことだし今に始まったことではない。それなのに、何か苛々する。何故かはわからない。

 ただ、面白くない。
 Kは静かにドアを閉めると廊下の壁にもたれて煙草を取り出し、火を点けた。

「……なあ、起きろよ」
 呟くように、独り言のように英二は言った。
 胸がきりきりと痛む。
 憎まれ口を叩いて笑っている、あの顔を思い浮かべると不意に涙が出そうになる。それを英二は必死でこらえていた。
 点滴のチューブの付けられた腕を静かになぞり、手を握る。気のせいではなく一回り細い。呼吸器が規則的に曇るのを、暫くの間英二はじっとみつめていた。

 腰を浮かし、閉じた目もとに接吻ける。
 その時、瞼が微かに動いた。かと思うとひどく重そうに薄く開く。
 慌てて声を掛けると瞼の下の眼球が微かに動いて英二を見た。

──目が、笑った。

 

 今度こそ涙が出そうになりながら、英二は椎多の額に自分の額を押し当てた。それから額や目元に小さく何度も接吻ける。いっそこの邪魔な呼吸器を剥ぎ取ってしまいたいほどだ。


 生きている。
 漸くそれを実感できた。


「先生を呼んでくる」
 暫くそうした後、英二はそう言って立ち上がった。
「───?」
 英二が握っていた手が、弱い力でそれを握り返していた。
 英二の頬に微笑が浮かぶ。


「……まだ、いるから」


 先程までとは違う胸の痛みを抑えながら、英二はその手を解いた。

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「犯人が割れたそうよ」


 数週間後、ベッドに起き上がれるようになった椎多の元へ青乃が忙しくやってきた。
 経営陣とそれを指揮する青乃の尽力で、グループには大きな混乱はなかった。一方、組の方では組長代行を務める睦月の指示で続けられていた調査の中不審な動きを見せた人間の中からこの期間内最も怪しいと見られる人物を絞り込んだという。
 こういった調査が得意な睦月にしては時間がかかったのは、狙撃に関しては直接手を下していなかった為に確証を得るのに手間取ったからだ。

 有姫を誘拐した犯行は、渋谷邸の警備システムの担当者が手引きしていたことがわかった。​英二の信頼が裏目に出たことになる。犯人に大金の成功報酬をチラつかされ、はした金の前金だけで手引きしたというこの男はギャンブルなどで多額の借金があったらしい。

 犯人は有姫を誘拐した現場にだけは立会い、脅迫電話も自分で掛けていた。

 実際にはもっと周囲の人間を狙い精神的に追い詰めてから椎多を狙う予定だったのだが、思いの外困難だったらしく本人を狙う機会があるうちに狙撃を実行したという。

 報告を黙って聞いていた椎多は、ただひとこと言った。
「──会わせてくれ」

 それは、椎多の母親の弟にあたる人物だった。

 名を、高城保史という。
 しかし、椎多には会った覚えがない。そもそも、椎多は母の親族というものを殆ど知らない。椎多が産まれた頃には既に母の実家の両親は隠居を余儀なくされ、外国に住まっていたのだ。父・七哉が妻の父が経営していた企業をのっとりなかば無理やり隠居させたのも同然だった。
 当時まだ少年だったこの男──保史は、両親と共に外国へ追いやられていたのだという。
 両親は、七哉を恨みながら、どうすることも出来ず寂しい老後を送り他界した。

 姉は、その復讐を画策し、殺された。表向きは病死になっているが保史は姉が殺されたと確信している。


 両親の恨み言を聞いて育った保史はしかし、経営者としての能力はなかったのだろう。企業戦で嵯院グループに復讐することは出来なかった。第一、挑むには既に相手は巨大になりすぎていたのだ。


 落ちぶれた保史は何もかも上手くいかない自分の身の上をすべて嵯院グループそして椎多を恨むことで納得させるしか方法がなかった。
 執拗に椎多の身の回りを嗅ぎ回り、何か隙はないかと付け狙った。その中で偶然ある殺し屋と知り合ったことで遂に行動に出たのだ。

 長い期間をかけて椎多の身辺を嗅ぎ回った保史よりも、その殺し屋は驚くほど迅速に椎多と英二の関係を見つけ出し、英二の家の警備担当者を抱き込み──と計画を提案していった。これではどちらが主犯かわかったものではない。

 が、この殺し屋に関しては全く正体が掴めなかった。保史自身も殺し屋について何も知らなかったからだ。

 ベッドに身を起こした椎多と青乃、K、そして本人の希望により英二がその部屋に待っていた。
 嵯院邸の警備の者たちに両脇を固められた高城保史は、椎多の顔を見るとひたすら口汚く椎多を罵った。
 椎多以外の人間の顔が苦々しく歪む。
 英二が一歩前に出て、椎多を振返った。
「殴ってもいいか」
「とりあえず殺さない程度にな」

 

 こんな男の為に、有姫は捕まえられ縛り上げられ恐怖を味わった。

 そして椎多はもう少しで命を落とすところだったのだ。
 英二は、男の胸座を掴むと立て続けに3発、拳をふるった。


「もういい、英二」
 椎多がそう声をかける。
 保史は折れた歯を吐き出すと、下品そうに笑った。


「渋谷さんよ、あんたの可愛い奥さんに浮気がばれてなきゃいいけどな!」
 顔色を変える英二をよそに、保史は視線を青乃に移し更に笑いつづける。
「あんたの旦那はな、この男とデキてんだよ!こいつに突っ込まれてヒイヒイ言ってんだ。たいした旦那だなあ!」
 英二が顔色を変え、再び胸座を掴んで保史を殴ろうとしたところで青乃が表情も変えずに英二を押しのける。その手で保史を平手打ちした。

 乾いたよく響く音が室内に響く。
 

「それが何だというの。おまえのような卑怯で下品な男に何を言われてもわたくしは平気よ」
 

 青乃は手についた汚れを払うように二、三度軽く手をはたくと椎多を振返り、ひとつ息をついた。

「この男、どうなさいます?殺します?」

 その声に保史の顔がひきつった。捕まってしまえば殺されるかもしれないとは思っていたが実際目の前でそう言われると恐怖せずにはいられないのだろう。

 椎多は少し考えるような顔で首を傾けた。
 

「いや。殺すな」
 

「あなた?」
「組長!」
 青乃とKが一度に異議の声をあげる。
 椎多は今まで、自分の命を狙った者は殆どすべて抹殺してきた。だから、今回もそうだと誰もが思っていたのだ。しかし、椎多は少し黙っていたかと思うと保史の顔をじっと見て、言った。
「あんたの身に起こったことは私の責任だとは思わない。私を狙うのはあんたの逆恨みだろ。だけどまあ私の父のしたことだ」
 目を伏せ、一拍おく。

「すまなかった」

 その場にいた誰もが、保史の脇を固めていた警備員でさえもが、驚いて椎多を凝視した。中でも一番驚いていたのは当の保史だった。
「な──なんだそれは!同情でもしてるのか!」
 保史は両脇を押さえられたままわめき、暴れた。
「おまえみたいな苦労知らずのお坊ちゃんに何がわかる!俺だって本当なら今ごろ親父の会社でも継いで社長になってる筈だったのに!それが仕事もなくて食い詰めて──そんな惨めな思いをずっとしてきたのは──全部おまえらのせいだ……!」
 保史は最後には涙を流しながらわめき続けた。椎多はそれを、ただじっとみつめていたかと思うと静かに口を開いた。
「K、彼を屋敷のどこかで雇ってやれ」
「はあ?」
 Kが素っ頓狂な声をあげる。無理も無い。そこにいる全員がぽかんと口を開けて椎多を見た。当の椎多だけが笑っている。


「私を狙うんなら他人を頼らずに自分で狙え。もっとも、こんどやったら間違いなく殺す」
 

「何を言って……」
 わめき続けていた保史が突然毒気を抜かれたように黙り込んだ。青乃とKは呆れ顔で溜息をついている。
「ああ、でも私も相当痛い思いをさせてもらったからな。死なない程度に痛めつけてやっておいてくれ」
 そう命じ、呆然自失となっている保史を退出させた。

「殺さないどころか雇うなんて何考えてんすか。あいつ、いや、撃ったのはあいつじゃないけど俺の肩越しに組長を撃ったんすよ。頭くるなあ」
 Kが不満を抑えきれずに椎多に詰め寄った。頭くる、のポイントがずれているのは自分でもわかっている。
「なんだ、おまえの肩越しだったのか?」
 椎多は小さく吹き出してKを枕もとに手招きして座らせるとその手を伸ばして頭を撫でた。Kがむっとした顔になる。
「良かったなあ、おまえが小さくて。紫サイズだったら絶対背中に当たってたぞ」

「バカかあんたは!」

 

 Kの突然の大声に、椎多は耳を塞いて目を丸くした。


「あんたが撃たれて周りがどんだけ迷惑してると思ってんだ!だいたいあれだけ防弾チョッキを着とけって言ったのに言うことを聞かないからこうなるんだろ?!こんなことなら俺が撃たれた方が全然マシだろうが!ちょっとは自分の立場ってもんをわきまえてモノを言えよ!」


 一気に怒鳴ってKは息をついた。

 守れなかったのは俺なのに。​

 何八つ当たりして誤魔化してしてんだ。

 違うんだ、俺、こんなことが言いたいんじゃなくて。

 ただ、ごめんって。

 痛い思いさせてごめんって。

 守れなくてごめんって。

 なんでそれくらい言えねえんだよ、俺。

 Kの心の中の声がまるで聴こえていたかのように、椎多の表情が緩む。


「……俺、嫌なんだよこういうのは……」
 最後にそう呟くとKは立ち上がり、どたどたと足音が響く勢いで出て行こうとした。その背中に椎多の声がかかる。
「悪かったよ……ありがとうな、憂也」

 憂也、とはKの本名だ。今ではたまにでもKをこう呼ぶのは椎多だけだ。

 

 あんたを守れなかった俺だけど。

 まだここにいていいのか?

 自分の顔が一気に赤くなっていくのがわかる気がした。

 それを隠すように、びしっと人差し指を椎多に向けて言い放つ。
「あんたのありがとうは信用できねえんだよ!」
 それだけ言い残すとKは大きな音を立ててドアを閉めた。

 ああもう、しゃーねえな俺。

 調子狂う。こういうの俺は向いてない。

 雑念を振り払うように頭をぶんぶんと振るとKはその部屋を後にした。

 部屋の中では椎多がああびっくりした、と笑っている。
「あの子、キレると怖いわよ。わたしも前にやられたもの」
 青乃も笑った。

「わたしの言いたいことを全部あの子が言ってしまったわ」

 そう言うとその場に居心地悪そうに佇んでいた英二に向き直った。
「渋谷さん、わたくしも忙しいので失礼します。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでしたわね」
 次にベッドに歩み寄り、青乃は椎多の耳を引っ張り、睨みつけながら耳元に囁いた。
「まだ胸に穴が3つも空いてるんだからこんなところで悪さをしちゃ駄目よ」
「悪さって何だよ」
「あ、渋谷さん、この人に煙草を与えないで下さいね。片肺のくせにすぐに吸いたがるんです。それではごめんあそばせ」


 退出していく青乃を見送ると英二はベッドサイドの椅子に腰かけた。

 この部屋で椎多と二人でいるのが、少し落ち着かない。
「おまえの奥方、かっこいいな」
「だろ?彼女にはかなわないよ」
 椎多は何故か得意げに言った。
「どうする気なんだ、あの男。雇うなんて言って。また狙ってくるかもしれないんだろ」
「あんなに気が弱くちゃひとりじゃ何も出来ないさ。ああいうのはちゃんとたっぷり寝れて腹いっぱい飯が食える環境で生きてるうちに勝手に正気に戻る。それに───」
 言いかけて椎多は口を噤み、ふと真顔になった。

 まあ、まだいいか。

 聴き取れるか否かの呟きに英二が首を傾げる。
「まあ、一件落着でいいんじゃない?俺も心置きなく現場に復帰できるよ」
「何言ってるんだ。まだろくに歩きもできないくせに」
「この部屋から出ようと思ったら車椅子にのっけられるんだよな。それはそれで楽でいいけど」
 まるで死にかけたことが人ごとのように言う。


「椎多──」
 

 声に英二を見上げると、優しい唇の感触が椎多のそれを包み込んだ。椎多は目を閉じ暫くその感覚に身を預ける。
「ばか、やめろ」
 吹き出しそうになりながら英二をおしのける。
「それ以上はやりたくなったら困るから駄目だ」
 笑っている。
 英二はもう一度軽く接吻けると身を離した。流石に今ここで抱くわけにはいかない。
「おまえももう帰れよ。仕事も山ほどあるんだろ」
「言われなくても帰るよ」
 苦笑して、しかし名残惜しそうな動作でゆっくりと英二はベッドから離れた。

 椎多は微笑んでそれを見送る。
「おい、もう見舞いとか来なくていいからな。いつまでも怪我人扱いじゃ気持ち悪い」
「よく言うよ、まだ充分怪我人のくせに」
 英二も笑って、部屋をあとにする。


​ 一番大事なことに目を逸らしたまま。

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 部屋へ通されると、椎多はかっちりとスーツを着込んでデスクに向かっていた。

 ここは社屋ではない。嵯院邸の椎多の私室のはずだ。


「何をやってるんだ」
「そんなに仕事がしたきゃここで判子でも押してろって言われた。おまえこそ何だよ、見舞いには来なくていいって昨日言ったばっかりだろ」
「見舞いじゃない」
 英二は、少し俯きがちに言った。

 椎多の顔を見ることができない。

 暫く沈黙してから、漸く口を開いた。


「おまえが撃たれたから有耶無耶にしてた。俺はもう、個人的にはおまえに会わない」
「……やっと言う気になったのか」
 弾かれたように顔をあげ、椎多を見る。椎多は微笑んでいた。

──英二さんは椎多さんのことが好きなの?


 昨夜帰宅したとき、突然有姫が英二にそう尋ねた。
 誤魔化そうにも咄嗟に言葉が出ない。

 

──本当は、捕まっていたときにあの男の人が言っていたのを聞いてしまったの。
──ごめんなさい。あたし英二さんを信じていないわけじゃないのだけど。
──英二さんが椎多さんのところへ行くたびに、もしかしたらもうあたしのところへは帰って来てくれないんじゃないかって。
──あたし、不安で不安で………おかしくなりそうだったの。

 意識的にか無意識的にか、考えることを避けていた。
 椎多が撃たれるまでは、有姫の為に椎多と別れることを本気で考えていたのに。
 椎多が生きていたということに浮かれて無かったことにしようとはしていなかったか。
 有姫を一生守ってやるという思いは今も変わらない。なのに、自分のしていることは有姫をこんなにも不安に陥れていたのだ。
 有姫は静かに泣きながらごめんなさい、と繰り返していた。

 俺はどこへも行かないから。
 もう不安な思いなんてさせないから。

 そう言ってやる以外、一体何が出来ただろう。

 有姫がやっと安心して微笑むまで、英二は有姫の小さな身体をじっと抱きしめていた。

 

「いつになったら言い出すんだろうと思ってたんだ」
「椎多──」
「なんだよ。嫌だ、別れないってごねた方が良かったのか?」
 英二は返す言葉がない。この期に及んで確かにそういった椎多の言葉を心のどこかで期待していたのか。もし椎多がそう言ったとして、じゃあやっぱり別れるのはやめようとでも?

 ふっきるように頭を振って、椎多に向き直る。今度は真っ直ぐ椎多の目を見た。


 椎多はデスクから立ち上がりずっと平然と笑っている。その胸の裡は推し量ることができない。それを見ているだけで胸の奥が痛みに悲鳴を上げているようだ。

 懸命に有姫の顔を瞼の裏に蘇らせる。

 俺は有姫を選んだ。

 そうだろ?


「今後はまたビジネスの相手としてよろしく頼みます」
 礼儀正しく頭を下げた。
「こちらこそよろしく頼むよ、渋谷君。とりあえず今度のプロジェクトは従来通り続けるからいいね」
 まったく調子のかわらない椎多の声が聞こえた。
 英二は目を閉じてひとつ息をつくと頭を上げ、もう一度軽く礼をして退出しようとそそくさとドアに向かう。が、ドアに手を掛けたところで辛抱しきれず椎多を振返ると───目が、合った。


「英二」
 

 やっと聞き取れるかというような小さな声で椎多はそう呼んだ。

 椎多の目から──零れ落ちたものが見えた。

「好きだ」

 息が、止まった。

 

「愛してる、英二」

 

 表情も声の調子も変わらない。ただ、目から頬へ流れるものと、その言葉だけが異質だった。


「椎多……」
「もう行けよ」
 全く同じ調子だ。


 次の瞬間英二は椎多に駆け寄り、抱きしめていた。そのまま何も言わせず接吻ける。
 愛しくて気が変になりそうだ。
 背中に回された手が小さく震えていた。

 

「何でこんな時にそんな事言うんだ……ずるいよ」
「結局言う機会が無かったから、今のうちに言っとこうと思っただけだ」
 言い終わる前にもう一度唇を塞いだ。
 そうしながら親指で涙を拭う。
 その手に、椎多はそっと、愛しげに触れると唇を押し当てた。


「……この手で、有姫ちゃんを可愛がってやるんだな」
「………」
「アソビの時間はこれで終わりだ」

 

 椎多は、とん、と軽く英二を突き飛ばすとゆっくりと───笑った。

 

*the end*

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*Note*

「告白」は、えーと、一度椎多に危ない目に遭ってもらおうかと思ったんだけども。 一応危ない目には遭ったけどもうひとつ緊迫感は出せなくてすんませんという感じ。 あと、ぐだぐだと不倫ストーリー(笑)になってるのが今見ると非常に気持ち悪い。 まあ、男は勝手だなあ、という話。 ここでは男同士の話にはなってるけど、不倫する男ってこういう事言うよな…とムカムカしながら書いた話なのであった。<だから英二に腹が立つのか。

 2021加筆修正にあたって、嵯院邸の医療事情とか柊野医師の息子のマッドドクターとか渋谷邸の使用人事情とか、あとK(憂也)の心情とかをかなり付け加えました。

なんで憂也だけは椎多とややこしい関係に陥らないんだろうか。七さんと紫さんみたいな関係になってもおかしくないのに。まあただただ純粋に信頼の主従も描いておいた方がいいですよね、なんでもかんでもそっちに流れりゃいいってもんでもないし(ジャンル:BL(あるいはJune)なのでそうなっても別にいいんだけど。)ていうかこれ最初に書いてた時はそうなるルートも考えて書いてたと思う。この二人はどうにかなるチャンスが何度も訪れているんですが結局どうにもならずじまいです。多分この二人に関してはもうほとんど好きなんだけどほとんど愛なんだけど、恋愛未満なんだよね!!のままでいる方が作者の萌えポイントが高いんだと思います。

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