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祝 福

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「組長、明日は出かけないで下さいね」


 思い出したようにKが声をかけた。
 明日は久々に仕事の予定が全く無い日だったので俺は怪訝な顔で聞き返す。
「明日は休みだぞ」
「だから言ってるんすよ。明日は屋敷にいて下さい。特に午後は遊びにいっちゃ駄目っすよ。ナンパも浮気も連れ込みも一切禁止」
 ますますわからない。休みの日くらい自由にさせて欲しい。そう反論しようとしたら口に出す前にKはぴしゃりととどめをさしてきた。
「とにかく屋敷でじっとしててくれないとあとでどうなっても責任持ちませんからね」
「何だそれは。脅してるつもりか?」
「あ、5時に今日の会食の迎えが来ますから、仕事は済ませておくように。渋谷さんと仲良しか何か知らないけどあんまり遅くまでほっつき歩いてちゃいけませんよ」
 Kは俺の言うことなど聞いちゃいない風で言うだけ言って、手元でとんとんと書類を揃えるとぷいっと出て行った。


 どうもあいつは最近反抗的だ。と、いうよりなめられている気がする。俺よりむしろ妻の命令に従っている節もある。
 

 一度痛い目にあわせてやらないといけないなあ。
 

 そう思ってから俺は吹き出した。

 Kはぱっと見、下手をしたら中高生くらいに見えるせいか、「痛い目」から連想されたのはバケツを持って廊下に立たせるだの敷地内を5周走らせるだのそんなものくらいだ。

 しかし多分Kはそういうものをものすごく嫌がるに違いない。意外と効果があるかもしれない。
 


 その夜の会食は現在進行中の英二の会社との共同プロジェクト関係の接待だった。
 こちらは接待を受ける側だから気楽だが退屈きわまりない。場所は英二の実家がやっている高級料亭で当然料理は美味いのだが、居並んだおやじどもの話はどいつもこいつもくだらなかった。これで英二が同席していなければ眠ってしまいそうだ。必死で欠伸を噛み殺していると英二が笑いをこらえているのが目に入った。
 席を立ったときに英二が追いかけてきて声を掛ける。
「このあと用事はありますか、会長。ずいぶん眠そうだけど」
 笑っている。嫌な奴だ。
「無いけど、このメンバーでは二次会はお断りするよ。誰だこのセッティングしたのは」
 英二だと知っていてわざと嫌味を言ったのだが、誰でしょうねえなどととぼけている。

「この二次会じゃなくて。さぞかし退屈だろうから気晴らしにでも」

 それはいいかもしれない。遠慮なく飲みたい気分でもある。英二は時間と場所を指定してじゃあ後でと笑った。
 

──あいつ、あんなに段取りのいい奴だったか?
 

 俺の知っていた渋谷英二はもっと要領が悪い人間だったような気がする。もっとも英二が子会社を任されてから随分経つ筈だから経験的に身につけたものなのだろうと思った。

 

「おう、ご無沙汰」
 英二と待ち合わせて連れて来られたのは昔俺たちが行きつけにしていたバーの、指定席にしていたカウンターの隅だった。あの頃は互いのことなど何ひとつ知らなかった。それでもここに座ると時が戻ったような錯覚に陥る。
「この間たまたま覗いてみたら全然変わってなかったから懐かしくなってな」
 そういって英二は笑った。

 何が懐かしくなってな、だ。

 ここで最後に会った日、おまえがどれだけしつこく俺を責めたか、俺は忘れてないぞ。


 俺は数年前に一度だけ一人でここへ来ている。あまり思い出したくない事があったので少し気まずい。しかしマスターは心得たものでそのことには触れずにいてくれた。客のことは詮索もしないし余計な話はしない。本当に助かる。


 そのマスターが感慨深げに笑っている。
「おまえら、どっかでのたれ死んでるかと思ったら。二人そろってまあいい服着て立派になったもんだなあ」
 どうやらここで一番変わったのは俺たちらしい。同じ事を英二も思ったらしく、顔を見合わせると俺たちは少し笑った。


「そうだ、懐かしいのはいいけど俺、今日はとっとと帰らないと」
「ああ、おまえの秘書君?あの男の子が言ってたよ。今日は早く帰して下さいって」
 Kのやつ、英二にまで根回ししていたらしい。秘書ってわけじゃないんだけど、と小さく呟く。とはいえ柚梨子がいなくなってからは彼女がやっていた実質的には秘書のような仕事を結局Kがやっている。会社にも秘書は数人いるが、組のことに至るまである程度の事は承知しているKは何かと使い勝手が良かった。

 本人にも意外にそういう才能があったのか、痒いところに手が届く仕事をしてくれている。
「えらく可愛い男の子を雇ってるなあと思って。あれはもう食ったのか?」
 皮肉たっぷりに英二は言う。可愛い?可愛いか?と苦笑する。
「見た目に騙されるなよ、あれは相当手強いんだ。男の子って年でもないし、俺は別に少年趣味でもない。そもそもいくら俺だって食えりゃなんでもいいってわけじゃない」
 そんな他愛の無い会話を俺たちは延々としていた。気づくともう深夜零時が近くなっている。


「ああ、そろそろ本当に帰る。懐かしかった。今日の接待が退屈だったのは勘弁してやるよ」
 

 本音を言うともう少しこの心地いい時間を過ごしたかった。しかしいずれにせよ帰らねば──と残りの酒を呷って立ち上がろうとする俺を英二が手で制した。
「いや、あと30分でいいからもう少し居てくれないか」

 妙な事を言う。が、30分なら、と座りなおした。英二はほっと息をつくと俺の分も一緒に新しい酒を注文する。
 やがて、英二は時計を見ていたかと思うと、急にグラスを持ち上げて笑った。

「誕生日おめでとう」

 頭の中が真っ白になった。
 誕生日だって?
 時計を見ると12時をまわっていた。


 そういえばそうだ。数年前までは誕生日といえばパーティーを開いてそこを仕事の場にしたりしていたがここ数年といえばせいぜい柚梨子が部屋に花を飾ってくれていた程度だったからすっかり忘れていた。
「今日はおまえの屋敷でうちうちのパーティをやると聞いていたから今夜しかないと思って」
「──」
 ああ、Kが念を押していたのはそういうことだったのか。

 こいつ、サプライズ破りとはいい度胸してんな。

 いや、それはそれとして。


 こんな不意打ちを食らうとは思っていなかった。 
 なにか、言おうかと思ったのに言葉が出てこない。
 嬉しいときにそれを表現する言葉を、照れ隠しに茶化す方法すら俺は昔から持っていなかったのだ。

 誕生日が嬉しい年でもあるまい。それどころか誕生日を祝ってもらって嬉しかった記憶もたいしてない。なのにそんな陳腐な手にひっかかって、しかも嬉しいとか思ってしまった自分が悔しい。


 黙っていると英二は手にもったグラスを俺の頬に押し当てる。冷たい。それに気をとられている隙に英二の顔が目の前に来ていた。唇が触れるのと同時に俺は目を閉じる。
 英二の舌が俺の唇をなぞって奥に入ってこようとしたので俺は腕を伸ばして押しのける。
「やめろよ、帰るって言ってるだろ」
 やっと出た言葉がそんな気の利かない言葉だった。どうもいつものペースではない。英二のペースに巻き込まれている。
「まだ帰したくないな」
「安い歌の歌詞かよ。奥方ひとすじの誠実な男が聞いてあきれるな」
 まずい。このまま巻き込まれたら──俺は脱出を試みた。しかし英二はペースを崩さない。
 グラスを置き、今度はその手で俺の頬に触れる。まるでそこに性感帯でもあったのかと思うくらい俺はびくりと身体を震わせた。再び触れてくる唇が今度は拒めない。
「参ったな………」
 全身が汗ばんできているのがわかる。ちょっと待て。今日は帰らなきゃ──


「おふたりさん、いちゃいちゃするなら上でやってくんねえかなあ」

 金属音がして、見るとカウンターの上にメッキが禿げ手垢にまみれてくすんだ大きな金属のプレートの付いた鍵が置かれていた。プレートには『503』と刻まれている。

 この雑居ビルはかつて、4階と5階が安ビジネスホテルだった。それが廃業したあと、改装を躊躇ったオーナーが店子に客室を簡易宿舎として月極で貸していた。これはその鍵だ。

 俺が店子でもないのにオーナーに直接交渉して分捕ったその鍵は、ここを離れたあとこのマスターが預かっていたのかもしれない。 
「誰かさんが今日使いたいって言うから掃除しといてやったぜ。リネンも新品だ」

 

──こいつ、最初からそのつもりだったな。

 

 準備万端にもほどがあるんじゃないか。
 ぶん殴ってやろうかと思った。思っただけでそうはしなかったがせめて睨み返す。
「嫌?」
「──すげえ悔しい」


 悔しい。
 

 俺は立ち上がるとものすごい早足で店を飛び出し、扉の正面にあるエレベーターのボタンを何度も押した。箱に乗り込みドアが閉まると同時に英二の首を捕まえて強引にキスする。

 そうだ、これに乗る時俺たちはいつも、この鍵で部屋に入った時のことだけしか考えていなかった。3分後のことだけを考えて、フライングのようにこの中で縺れ合い始めていた。

 営業中のホテルではない。清掃の行き届かない薄汚れた廊下を辿って503号室の鍵をもどかしく開ける。
 ドアの閉まる音を合図に俺たちは互いに貪りながら一枚ずつ服を脱いでゆく。

「……今日は帰るったら帰るんだからな」

 乱れた息の下から最後にもう一度だけ、釘を刺そうと試みた。
「朝には帰してやるよ」
「うるせえ何が朝だ」
「誕生日サービスで特別優しくしてやるから」


──結局俺は最後までペースを取り戻すことは出来なかった。

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──好きだ。

 背中から抱きしめられた体勢のまま少しまどろんでいた俺は突然目が覚めた。
 何かものすごく聞き慣れない言葉を聞いた気がしたからだ。
 思わず半身を起こして降り返る。その途端、英二と目が合った。
「─────」
 確かめようにも何と言っていいのかわからず口篭もる俺を見て、英二は笑ってもう一度はっきりと言った。

 

「好きだよ、椎多」
 

「ばっ……」
 シンプルでストレートな言葉。
 ただそれだけの言葉に俺はどうリアクションしていいかもわからない。
「昔ずっと言えばよかったと思っていたから、今度はちゃんと言っとこうと思って」

 

 こいつ、こんな顔をしてたんだっけか?

 

 混乱した挙句、見たことのないような穏やかな顔で微笑んでいる英二の顔についてそんなことが頭に浮かんでいた。

 こういう時はとりあえず冗談にして笑ってやりすごすのがいつもの作法だったはずなのに、気の利いた返しも何も浮かばない。とにかく何か言った方がいい、何か──
「大事な有姫ちゃんがいる癖になに中坊みたいなこと言ってんだ。校舎裏かここは」

 校舎裏かもな、と笑いながら英二の腕が再び俺を巻き込もうとしてくる。俺はそれをよける。
「そうだよ。有姫のことは大事だし愛してるよ。でもそれとは違う感情なんだ。おまえと一緒にいると中坊みたいにドキドキする。どうしようもない」

「こんだけめちゃくちゃやりまくっといて中坊みたいにドキドキもクソもあるかよ」

 そう言っている今の俺の方が、中坊みたいにドキドキしている。

 なんだ、なんなんだ、俺は。

 もしかしたら俺は顔が赤くなっていたのかもしれない。

 英二は自分も起き上がって、俺の両手を握った。

 駄目だ、鼓動が──"ドキドキ"が伝わってしまう。

 俺の両手を握った英二の両手が汗ばんでいるのは、さっきまでの大人の情事の余韻なんかではない。

 そのまま自分たちの握った手をうつむいて見つめていた英二は、顔を上げずにぽつりと言った。
「おまえも、俺のこと好きなんじゃないの?この前、好きでもないやつにはやらせないって言ってたよな」
「そんなもん、ただのサービストークだ」

 いつもの調子が出ない。

 こんなもん、大声で笑い飛ばして二、三発軽く張り飛ばして、もう一回戦に持ち込んでうやむやにする。いつもならそうするじゃないか。

 なにそれこそ校舎裏で告白された女子中学生みたいにしおらしくドギマギしてんだ。

 さっきまで、こいつと、互いに体中舐めたり噛んだり吸ったり挿れたり出したり飲んだりし合ってただろ。互いの唾液だの精液だので体中べっとべとだ。何いまさらそんな三文字の幼稚な言葉だけで──

 うつむいていた英二が顔を上げた。

 視線がぶつかってしまう。

「おまえを手に入れたいわけでも独占したいわけでもない。俺もおまえも、ちゃんと帰るところがある。でも昔みたいにただの遊び相手だから互いにいつ消えても気にしないフリみたいなのは嫌なんだ」

 いつ消えても気にしないフリ。

 そうだ、そういうフリをするしかなかった。あの時は。

 気にしないフリ。気づかないフリ。

 こんなやつのことを愛してしまって、別れが痛くてたまらない──そんなみっともない自分でいたくなかったから。

 その気持ちの滓の後始末なんかを紫にさせておいて、自分は傷ついたりしないフリを続けてた。

 

 英二は俺から視線を逸らすことなく真っすぐじっと俺の目を見つめている。

 こんなに真正面から英二の目を見たことなど──

 これまでも一度も無かった気がする。

 俺の両手を握ったままの手にもう一度力がこもった。

「好きだ、椎多」

 

 俺は思わず目を逸らして英二の手を振り払っていた。
 視線が受け止めきれない。
 それどころか息をするのも苦しい。俺は無意識に、逸らした目を自分の掌に移していた。それを握りしめて、深く息を吸い込む。
「やめろよ、そういうの」
 自分でも声が少し震えているのがわかる。

 

──俺は何をそんなに動揺しているのだろう。
 

「言葉で何言ったってどうせアソビはアソビだ。俺たちはやりたい時にやりたいからやってるだけだろ?今更そういうの、興ざめだ」
 目を逸らしたまま俺は言った。

 結局、俺は成長がない。

 それでもう手一杯だ。それなのに英二は俺がこう言うのを予測していたかのように平然としている。
「俺の気持ちを言っただけだからおまえには強制しないよ」

 立ち上がって背を向けると、独り言のようにヴォリュームの下がった英二の声が続いた。

「おまえを抱きたいと思っる時の俺は、やれるなら誰でもいいわけじゃなくてちゃんとおまえのことを好きでそう思ってるってことだけわかって欲しかった」

 とんだ浮気男だ、とでも罵倒してやればよかった。

 俺の体中を撫でまわしたその手で、家に帰ったらいとしい妻を抱くくせに。可哀想な有姫ちゃん。


「──帰る」
 背を向けたまま一度も英二を振り返ることなく俺はそこらに脱ぎ散らかしていた自分の洋服を身に付けた。シャワーを浴びて帰りたいが一刻も早くここを逃げ出したかった。

 自分が変な臭いを発しているのではという気がしてとにかくコロンを振ってごまかす。

 そうしている間も、俺は一度も英二を見なかった。

 ドアを開けようとしたとき──背中で英二の声がした。


「あの時もおまえはそうやってここから出て行ったんだ。俺だけを残して。でも俺はあの時の俺とは違う。黙って取り残されたりしない」


 俺は一旦きつく目を閉じてから肩越しにようやく振り返った。

「──俺もあの頃とは違うよ」


 俺は、笑っていただろうか。
 ドアを閉じると再び掌を見る。それをポケットにつっこんで俺は階段を下りた。

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 英二の言っていた通りその日はいつもに増して豪勢な晩餐だった。

 俺には身内らしい身内というものは無いので何か特別な訪問者があったというわけでもなく、ただ使用人たちなどからこまごまとプレゼントなどをもらってしまった。大きな花束が差出人不明で届いている。おそらく柚梨子だろう。


 俺はうまくやっていた筈だ。
 いつも通り、にっこり笑って嬉しそうにできただろう。
 しかし、胸の奥がずっとちくりちくりと痛んでいる。
 たかがあんな一言の為にずっと頭がぐるぐると回っているのだ。そう思うと英二に対して無性に腹が立ったりもする。
 それでも普段どおりの顔をするくらいの事は簡単なことだ。いつもしていることなのだから。

──紫がいたら。
 

 パーティが終わって夜ひとりになった時、そう思って俺は笑えてきた。
 そんなことを考えたのは本当に久しぶりだ。
 あいつがいたらこんな時思い切り八つ当たりしてやるのに。
 いや、そもそも紫がいたとしたらこんなことで悩まされたりしなかったかもしれない。
 俺はまた掌を開いて目の前にかざしてみる。


──わかってる。
 

 紫の想いを受け止めきれずに殺してしまったのは俺自身だ。例えそれが本人が望んだことだったとしても。
 それからも俺は手を汚しつづけた。自分で手を下さなかったものも入れればどれだけ殺し、また陥れてきたかもうわからない。

 英二はそんな俺を知らない。

 確かに若い頃は一緒に悪い事もさんざんしていたがそんなもの可愛いものだ。
 俺が本当はどんな人間なのか。
 肝心のところがあいつはわかっていない。だからあんなことを臆面もなく言えるのだ。

 

──好きだ、なんて。
 

 何故あんなに動揺したのか、俺はわかっている。
 俺は誰からも面と向かってああいう、好きだの愛してるのいった言葉を投げられたことがないのだ。それで戸惑ってしまった。それだけだ。


 紫は本当に俺を愛していたのだろうか。

 いまだに心のどこかで信じきれないでいる。

 紫が親父を愛していたという証拠は無い。しかし俺を抱いている時に親父の面影を重ねていなかったと断言もできない。
 

 もしも──

 愛していると。
 言われていたらどうしただろう。
 もう少し信じられたのか。

 そうしたら何か変わっていたのだろうか。

 俺は紫を殺さずにすんだのだろうか。

 いや、あいつが何かを言おうとしている時に。

 俺が拒絶したんだ。

 まだ言われてもいないのに、俺があいつを拒絶した。

 あいつがあそこまで思い詰めてしまったのは、俺が拒絶したからだ。

 気持ちを伝えることすら許されずに、あいつは破裂してしまった。

 全部俺が招いたことだった──


 そんな、考えても仕方の無いことを俺は繰り返す。
 ノックの音がそれを断ち切った。

「青乃──?」

「お酒でも召し上がるかと思って」


 そう微笑んで、後ろに控えたメイド──みずきに酒を運ばせている。みずきは俺と目が合うと悪戯っぽくウインクしてみせた。
「今日はお譲りしますけどー、あたしとも遊んでね、くみちょう」
 小声で言っているつもりらしいが青乃にもつつぬけだった。彼女がこっそり吹き出しているのが見えて俺も苦笑する。
 みずきを下がらせると青乃は俺の隣に腰掛ける。彼女が自らこの部屋へ赴いたのは初めてではないだろうか。
「なんだか今日はすごいサービスだな……」
 あっけにとられていた俺はそういってやっと笑った。
「皆に、誕生日なんだから今日くらい優しくしてあげなさいって言われましたの。たまには優しくしてあげないと可哀想ですって」
 青乃は少し口を尖らせてすましている。
 使用人たちに同情されていたとは俺も堕ちたものだ。


「今日はどうかなさったの?」
「──どうかって?」
 青乃は酒を注ぎながら何気なく言った。
「なんだか考え事ばかりなさってたみたい。わたくしたちに祝われても嬉しくない?」
 うまくやっていた筈だと思っていたのに、見抜かれていたようだ。俺は誤魔化すように殊更大げさに笑った。
「嬉しくないって?嬉しいとも。今までで一番嬉しい誕生日だよ──」


 そう言って突然言葉がつかえた。

 今までで一番嬉しい誕生日。

 英二の目と言葉が脳裡に蘇った。それと同時に昨夜のあの息苦しさがぶり返す。


「あなた?」
「青乃」
 俺は、怪訝な顔の青乃の手をとり強引に引き寄せていた。小さな悲鳴。
 そのまま抱き寄せてキスしようとした。が、それを寸前で止める。
 青乃は顔を逸らし眉を寄せ固く目を閉じて、身体を硬直させていた。とたんに俺は我に帰って手を離した。
「……すまない」
 昔、嫌がる青乃を俺は何度も犯した。その恐怖を妻は今でも忘れていないのだ。
「……部屋へ戻れ。今日の俺はまたおまえを傷つけてしまうかもしれない」
 俺はそう言ってその場を立ち上がった。青乃に背を向けて煙草をくわえる。
「待って、ごめんなさい」
 青乃の声が背中越しに聞こえる。
「少し驚いただけよ。わたしは大丈夫」
 青乃はそう言って正面へ回り、煙草をとりあげると両手で俺の頬を包んだ。柔らかく暖かい手の感触が何故か胸を刺す。
「やっぱり何かあったのね」
 答えられない。答えられるわけもない。青乃は不思議な程優しく微笑んでいる。
 俺はただ、その場で青乃を抱きしめた。彼女の手が俺の背中を優しくとんとんと叩いているのを感じる。


「青乃」
「はい」
「愛してる」
「はい」
「愛してるよ──」
「知ってます」


 この女は俺を一生許さないと言いながら何故こんなに優しいのだろう。声が笑っている。
 俺は暫くの間、そうして青乃の細い肩にもたれるようにしていた。優しい香りがする。
 手を緩めると青乃はくすくすと笑っていた。
「甘えているの?可愛いひとね」
「──」
「あなたがそんなに可愛いひとだったなんて少しも知らなかったわ」
 青乃がそう言って俺の髪を撫でている。子供を宥めるような仕草だ。俺は少し困っていた。
「どうしてそんなに優しくするんだ」
「言ったでしょう?今日くらい優しくしてあげろと言われたのよ。だから今日は特別」
 俺はなんだか泣きたい気分になって青乃の肩にかけた手を伸ばし少し引き離す。
「そんな風に優しくされたら勘違いしそうになるからやめてくれ」


 許してもらえたみたいに。

 

 もう一度、許さないと言って欲しい。

 おまえに対する罪だけじゃなくて、俺が犯してきた罪をなにもかも、永遠に許さないと。

 俺は誰にも愛される価値のない男なのだと。

 そうすれば、俺はまた今までどおり笑いながらやっていける。

 俺はそれを声に出してしまっていたらしい。
「……ばかね」
 青乃は何か呆れたように笑った。

「あなたはわたしを愛しているのでしょう?誰かを愛せる人が誰からも愛される価値がないなんてことないわ」

 

 頭を殴られたような気がした。そんな風に思ったこともなかったのだ。
「だって、わたしだってあんなに罪を犯してきたのにあなたに愛されているのよ?あなたにその価値がないのならわたしにも無いはずでしょう。でなければ不公平だわ」
「だけど、俺の手は血まみれだ!おまえの罪とは違う!本当は──」
 俺は青乃の手をふりほどき叫んだ。そんなふうに口に出したのも初めてだった。


「本当はおまえを愛する資格だってない──」


 青乃はひどく悲しそうな顔をした。そして俺の両手をとり、小さく呟く。
「そのなかには椎英の血もはいっているのかしら」
 一瞬息をのんだ。そう、俺が直接手を下したのではない、否、知りもしなかったけれど。俺の名のもとに、青乃が愛したという男を殺した。それはその男の名だ。
 青乃はしかし、そのまま俺の両手をひろげさせて、自分の頬にあてた。


「わたしはあなたの子供を殺したわ。あなたの子供なんて自分の子だと思いたくなかった。ひどい殺し方をしたのよ、母親なのに。きっとあの子はとても苦しんで死んだの。あなたの手がどれだけ血まみれでも、わたしにとってはその罪の方が重いのよ。それでも椎英はわたしがあのひとを愛することを許してくれたの」


 だからそのひとを奪った俺を許せない、と言うのかと思った。
 なのに青乃は微笑んでいる。そして俺の掌にそっと唇を押し当てた。

「ほら、血などついていないわ。手は洗えばきれいになるの。わたしが許さなくても、あなたはあなた自身を少しくらい許してあげてもいいんじゃなくて?」

 

 まるで許してあげる、と言っているようだ。
 俺がいつまでも堂々巡りしながら足をとられている闇を、青乃はとっくの昔に踏み越えてしまっている。だからそんな風に微笑んでいられるのだろうか。許さないといいつつも、俺の愛しているという言葉を軽々と受け止めることができるのだろうか。青乃はそうしてまたくすくすと声を出して笑った。


「なんて顔をしてらっしゃるの?叱られた子供みたいよ」
「……おまえは何だか母親みたいだ」
「大きい子供だこと」


 青乃の笑い声に俺もつられて笑う。
 ゆっくりと、そっと、唇を寄せると今度は青乃は逃げなかった。

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「──昨夜は明け方にお戻りだったと聞いていたけれど」


 水でも飲もうかとベッドからおりた俺の背中を見て、青乃が少し呆れた声で言った。
「ずいぶん情熱的な方とそんな時間までお楽しみだったようね」
「──えっ?」
「背中。鏡でご覧になったら?」
 嫌な予感がして言われた通り鏡に映して背中を見てみる。
 身体の正面になにもなかったので油断していた。案の定背中(だけにとどまらず)にはおびただしいキスの痕が残っている。


──あんのやろう。
 

 思い切り眉を寄せてここにいない英二を睨みつける。深呼吸をすると急に笑えてきた。青乃が溜息をついている。
「心配して損をした気分だわ。貸しにしておいて差し上げるからいつか返して下さいな」
「心配してくれたんだ?」
 なんだか笑いが止まらない。
「あまり調子にお乗りあそばさないで頂きたいわ。特別の一日はもう終わりですからね」
 青乃は少しふくれ面をしてベッドから下りるとガウンを羽織り、俺の背中を思い切りつねって水を呷った。
「それではわたくし、自室へ帰らせていただきますので。ごめんあそばせ」
 青乃は大袈裟に、しかし優雅に礼をして部屋を出て行った。


 それを見送っても俺はまだ笑いつづけていた。

 何がそんなに可笑しかったのだろう。ただ、笑いながら俺は英二に会いにいかなれれば、と思っていた。

 妙な悪戯をするなと文句を言ってやらなければ。

 それから、いつか話そう。

 俺の手がどれだけ汚れているのか、

 俺が青乃をどれだけ必要としているか、

 紫という男がどれだけ俺を愛してくれたか、

 俺が紫をどんな風に愛したのか。

 いつか、全部話そう。

 それから──

 いや、それはまだ言わないでおこう。

 言ったら英二はそれみたことかと大喜びするだろう。

 それは癪にさわるからまだ言わない。言ってたまるか。

 なんだかわくわくする。

 朝になってKが俺を起こしに来るまで結局寝付けずにいた。

 

*the end*

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*Note*

「祝福」は珍しく椎多の一人称。最初から最後まで椎多一人称記述してるのはコレだけだと思う。 よく考えてみたら、椎多と青乃が和解したというエピソードは「TUS」にしか出てきていないのでこれも大失敗な気がする。 ええと、一応「罪」では書いていく予定なのでここで詳しくは書かないが、椎多と青乃はかなり行くとこまで行った挙句、最終的には和解して現在に至っているのでよろしく。

​ 最初にこれを書いた時は本当に英二が書きにくくて、めっさ腹立つすかした野郎で全く好きになれないと思いながら書いてたんですね(酷い…)そこで2021年加筆修正にあたり、椎多と英二のやりとりをほぼ完全に書き替えてやりました。これのあとどんどん追加されてったその場しのぎの属性を全部把握した上でのリベンジ。多少は可愛げが出せるようになったかもしれません。

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