top of page

聖 母

0005.gif

「オヤジの──七さんの遺言だ」

 立ち上る硝煙を眺めながら、紫は言った。
 倒れた女は、苦しげに、そして呪わしげに口を微かに動かしてなにか言おうとしている。
「つまらない考えを起こさなければ老衰で死ぬまで生かしてやったのに」
 まるで最初からそんな色だったかのように、女の着衣が深紅に染まっている。女はやがて壮絶な形相のまま動かなくなった。

──醜い。

 紫は眉をきつく寄せ、部下にその場を片付けさせる。

 傷口を塞ぎ、遺体の血を拭き取り、新しい夜着に着替えさせベッドに寝かせる。

 医師も手の内の者だ。死因は心不全か何かになるだろう。


 哀れな女だ。
 もとはといえば七さんが不幸にした女だ。
 だがそんなことは俺の知ったことじゃない。


 紫は後始末を見届けるとその足で本邸へ戻り、現在の主人である椎多のドアを叩いた。
 面倒臭げに顔を出した椎多に極めて事務的に報告する。

「──お母上が亡くなられました」

0005.gif

 その時、椎多はまだ3歳の子供だった。

 おそらくずっと泣き喚いていたのだろう。そして泣き疲れて眠ってしまったのだ。顔に幾筋も涙の跡が見える。異常がないか見てみると首に指の痕が残っていた。
 

──酷いことをする。
 

 絞め殺そうとして途中で躊躇したのだろうか。
 側の床の上には、女が寝かされていた。
 屍体など見慣れているが、反射的に紫は「それ」から目を逸らす。
 身体中に微弱で不快な電流が流れているような感覚に押しつぶされそうになりながら、その視線を戻した。
 顔がわからなくなるほど斬り付けられ、何箇所もメッタ刺しされていた。胸にナイフを突き立てられたままの状態で事切れている。
 しかし、それが誰なのか、顔の判別などつかずとも紫にはすぐに判った。

──姐さん。

 

 いつまでも自分を子供扱いするこの女が紫は苦手だった。

 いや、苦手なのではない。ただいつまでたってもどう相対すればいいのかがわからなかった。

 七哉に拾われる前、野良猫だった自分に最初に声をかけたのは彼女だった。

 彼女の作る飯は旨かった。

 彼女の作る大学いもが好きだった。
 威勢が良くて、世話焼きで、明るく笑う女だった。
 愛した男が他の女と結婚しても、あたしは社長夫人って柄じゃないし組長のオンナって方が似合うでしょ、と笑っていた。


 そして自分ではなく他の女の腹から産まれた愛する男の子供を、彼女はそれでも自分の子のように愛していた。

──その結果がこれなのか。

 やりきれない。
 こんなものを七哉には見せられない。
 紫は顔をひどくしかめて丁寧に女に刺さったナイフを抜き取り、斬り付けられた顔を拭ってやる。
 拭っても拭っても、その顔はあの華やかな笑顔を取り戻すことはなかった。

 嵯院七哉は若くして自ら事業を興し、数年で大企業にまで育て上げたやり手の青年実業家である。
 時代も良かったし商才もあったのだろうが短期間でそこまでにする為には、正攻法だけでなく───裏からは金や暴力や、ありとあらゆる手を使ってその地位を固めていくことを七哉は厭わなかった。

 自分の身内と認めた人間に対しては並外れて信義に厚い男だった七哉は、そういった「身内」からは信頼され敬愛されていたが、その他に対しては、徹底して冷酷だったといえよう。
 自らに有益な人間であればとことん利用し、不利益となれば非情なまでにばっさりと切り捨てる。
 そしてそれは徹底していた。自分の婚姻ですらその為に利用したのだ。

 特別美しいわけでも、気立てがいいわけでもない。気位だけが高くて鼻持ちならない。ただ、とある大会社の社長令嬢だったというだけの女。
 七哉の妻になったのはそういう女だった。


 結婚して数ヶ月も経たないうちに七哉は妻の実家であるその会社に内部から喰らい込み、やすやすと手中に納めることに成功した。
 用済みになった妻の両親は殆ど追放されるように海外へ移住を余儀なくされたし、妻自身も早々に切り捨てることも考えていたのだろう。しかし、何故か七哉は妻を処分することまではしなかった。
 流石に、それではあまりにあからさますぎる。保険会社だの警察に嗅ぎまわられるのも面倒だったというそれだけのことだ。ただ、将来的には命を奪うことも含めて追放することは規定路線の筈だった。
 妻は妻で、自分が七哉に利用されているということには早い段階で気づいていたのだろう。夫の顔を見れば攻撃的に詰ったり、さもなければ空気のように無視するようになっていた。

 そんな愛情のかけらもない夫妻にも子供が産まれた。

 

 七哉には若い頃から愛し合っていた女がおり、大学生の頃から小ぢんまりとしたアパートを借りて同棲していた。結婚後も七哉は屋敷とは別に彼女ために小さな一戸建ての家を買い、その元へと度々「帰って」いく、そんな生活を続けている。


 女の名は、リカといった。

 妻との何倍もの時間を共に過ごしているはずのリカには皮肉にも子供はできなかった。

──いいなあ。あたしも七さんの子供、産みたかったよ。

 

 リカがそう言って、それでも欲しがっていた七哉の子供を、しかし七哉の妻は育てることを最初から放棄していた。
 七哉がリカに、椎多と名付けた息子を預けたのはその為だ。

 そして──殺された。

 耳を覆いたくなるほどのガラスの割れる音が続く。
 七哉はテーブルをなぎ倒し、棚の上のものを払い落とし、それでも収まらぬように倒した椅子をあたりに投げつけた。
「──あの女を殺せ!あいつがやったに決まってる!」
「証拠が無いんだ。自分で手を下したのか誰かにやらせたのかもわからない」
「証拠が何だ!あの女以外こんなことをやる人間がいるか!」
「──七さん」
 こんなに荒れ狂う七哉を紫は見たことがない。
 無理のないことだとは思う。愛する女を惨殺され、息子を殺されかけた。しかもやったのは──自分の妻だと七哉は断定している。

 遺体の状態を見た限り、殺害自体はプロの仕事ではない。あれは憎悪に駆られた衝動によるものだ。でなければあそこまで執拗に顔を切り刻む必要などどこにもない。

 ただ、その時間にあの家に出入りした人間を特定したり誰の犯行なのかという痕跡はきれいさっぱり消されていた。犯行は素人、後始末はプロの仕事なのかもしれない。ただすべて推測の域を出ない。
「もしかしたら単なる物盗りがやったのかもしれない。他にも……あまり早まっては」
 七哉を憎んだり恨んだり、または七哉に精神的苦痛を与えることにメリットを持つ人間はお世辞にも少ないとはいえなかった。
「きいた風な口をきくな!」
 殴りつけてきたのをよけて、紫は七哉に当身をくらわせた。少し眠らせた方がいい。


 普段ならむしろ、紫が逸るのを七哉の冷静な判断でブレーキをかけていてもおかしくない。しかし七哉が荒れたことが逆に紫を奇妙なほど冷静にさせていた。
 気を失った七哉を寝かせると、紫は部屋を片付け始めた。何かしていないと落ち着かない。

 苦しい。

 

 七哉の痛みが直接自分に返って来ているようにすら感じる。どうすればその痛みをやわらげてやれるのか、見当すらつかない自分が尚更苦しい。
 自分がリカのもとへ行くのがあと何時間か早かったら──
 リカは殺されずに済んだ筈だ。
 七哉の怒りは自分に向けられてもしかるべきもののような気がしてならなかった。


 破損した家具などはどうしようもないが、ガラスの破片などを残らず拾い、割れた瓶から溢れてカーペットに染み込んだ酒を拭き取り、少し落ち着いた状態になった頃、七哉が目を覚ました。

「──すまん」
 片付いた部屋を見回すと七哉は素直に頭を下げた。少しは落ち着いたようだ。
「おまえに心配されるとは俺もヤキがまわったな」
 そう苦笑し、手を伸ばして紫の頭を軽く2回叩く。
 七哉の胸のあたりまでしかなかった身長はもうとうの昔に七哉を超えている。それでも、その癖は昔と変わらない。
「おまえ、いくつになった?」
「多分、十九」
 自分の年をはっきりと覚えていないので、紫はいつも多分、と答える。そうか、と驚いたように七哉は紫の頭のてっぺんから足の爪先まで見渡した。
「あの小汚いガキがなあ……」
 そう言いながら懐かしそうに遠くを見ている。
 紫は無言で椅子を差し出した。背もたれの枠の細工の部分が一部欠けている。七哉はそのクッションにおとなしく身を沈め、紫は側のテーブルに軽く腰掛けた。
「最初は口のきけない子かと思ったんだ」
 頬杖をつき、上目遣いに紫を見やると七哉は笑った。


 確かに自分は最初ひとことも声を発していなかった。とにかく自分以外の何者をも敵だと思っていたのだ。それを餌付けされる野良猫のように時間をかけてゆっくりと慣らされていったのだ。

 まだ七哉の胸のあたりまでしか身長のなかった子供の頃に。

──俺が七さんを守るよ。

 そう決意した時のことを紫は今でもはっきりと覚えている。

 

 七哉はまだ、紫が野良猫だった頃に思いを馳せている。
「何を聞いても名前も何も答えやしなかった──だから」
 そこで七哉は口を噤む。紫にはわかっていた。

──だから、俺に名前をつけた。
──リカ姐さんが。

 リカのことを思い出して言葉が止まってしまったのだろう。昔話をすれば必ずリカに絡むのだからやめればいいのに、と紫は思った。七哉は苦笑している。
 その笑い声は、いつしか押し殺した嗚咽に変わっていた。声を噛み殺し、手で目を覆い隠しながら。肩が震えている。

──見てはいけない。

 

 紫は身動きもできず目を伏せる。おそらく七哉もそんな姿を見られたくはないだろう。それに、見ていられない。
 音を立てないようにそっと立ち去るつもりだった。ドアへ向かいドアノブに手をかけたところで背後から紫、と名を呼ばれ振り返る。振り返ったが、七哉は同じ姿勢のままでいた。はい、と返事をするとようやく顔を上げる。涙は拭ったようだがまだ目が赤い。

「俺は、間違っていたのか?」

 

 紫は少し眉をひそめて七哉の顔を凝視した。この男は常に前を見て進んできた。迷う事が一度も無かったわけではないだろう、しかし決して外に弱みを見せてこなかったのだ。ずきりと胸が痛んだ。


「──あんたが間違ってるとしたら、そんなことを俺に訊くことだ」


 今日はそっとしておこうかと思っていたが黙っていられない。
「あんたの基準は正しいか正しくないか、じゃなくてやるかやらないか、だろ。あんたが間違っていようが正しかろうが俺には関係ない」
「紫……」
 普段口数の少ない紫が一気にそう言い放ったのを、七哉は呆然と見ている。

 口に出して意見しているうち、自分のすべきことが明確になった気がしていた。
「七さん、俺がやるよ」
 ドアノブに再び手をかけ、七哉に背を向けたまま紫は呟いた。


「"あの女"を、あんたの妻を殺せばいいんだな」
 

「──紫!」
 七哉が慌てて立ち上がり、紫に駆け寄ってノブにかけた手を抑える。
「待て。悪かった。それはまだいい」

 まだ、と七哉は言った。

 あまりのことに我を失ってしまっていたが、ものには順序や時期というものがある。

 それに、あの女を消したからといって──リカが帰ってくるわけではない。

「やる時には言う。だからまだやるな」
 普段の鋭い視線が戻っていた。紫は黙って頷く。よし、と笑って七哉はまた紫の頭を叩いた。

──子供扱いだ。

 少しほっとしながらも、胸のどこかが苛立っている。
 七哉にとっては、自分はまだ『あの小汚いガキ』のままなのだ。頭を叩かれる度にそれを感じては苛立つ。

──俺はいつまでもガキじゃないんだよ、七さん。

 喉もとまで出てきていた言葉を、紫はのみこんだ。

0005.gif

 紫が七哉の側を離れて組に専念するようになってから随分経つ。

 小学生になった椎多が組事務所を気に入ってしまい、一人で勝手に自転車に乗って事務所に通うようになった頃だ。

 一度だけ、そんな椎多が誘拐されるという事件があった。たまたま迎えに行った組の若い者が現場に居合わせたことで事なきを得た。この時、それもたまたま七哉の所用で事務所に赴いていた紫が迅速に動けたことも大きい。

 またこういうことが無いとは限らない、警戒を強めるべきか、と考える一方で遊びたい盛りの椎多に過剰な警護をつけるのは気が進まなかった七哉は、いっそ紫を組の方に常駐させていつ椎多が遊びに行ってもある程度目を光らせておける状況を作れば良いのではないか──と思いついたのだ。

 リカの事件までは、紫はリカと椎多の暮らす『家』に同居していた。

 だから子供の扱いが苦手そうな紫でも椎多のことはよくわかっているし、椎多の方もそれなりに紫になついているだろうということも想定のうちだった。

 

 ただ、そこまでの意図で紫の配置替えをしたことは本人には説明しなかった。

 椎多に目を光らせるのが目的だなどと知ったら、紫は本当に椎多に張り付いて歩くようになりかねない。それは七哉の本意ではない。

 七哉のボディガード役には当面、紫と入替で組から睦月という紫と同世代の若者が就くことになった。

 ろくな説明もうけずに配置換えを言い渡された紫は自分が七哉の側で守りたい、と珍しく反抗していたが最後には渋々受け入れた。今では立派な組長代行である。

 自分の年齢を多分十九、答えていた少年はもう三十代と呼ばれる年代になっていた。

 組長である七哉は実業家としての顔の方が忙しく、時折組事務所の方に顔を出す程度だった。それでも顔を出すところを見ると、組に対する愛着は捨てきれずにいるのだろう。この日も数ヶ月ぶりに七哉が訪ねてきた。

「最近、椎多はこっちに顔を出してるのか」
 

 空席であることが多い組長の椅子に久し振りに腰をかけて七哉は訊ねた。あくまで自分は代行なのだから、と紫がこの椅子に就くことは決してなかった。

 椎多は、七哉が事業を興したのと変わらない年になっている。
「以前はこっちの若い連中を連れて遊びまわってたようですが、最近はそれも無いようで。連中が退屈してますよ」
「どうも自分の若い頃を見てるみたいでな。どうせろくでもないヤンチャをやってるんだろう」
 そう言いながら顔は楽しそうに笑っている。

 さすがにもう成人した息子にいちいち目を光らせることもあるまい。

 紫を組に異動させた当初の目的はもう必要なくなったとはいえ、すでに組は紫が中心になっている。あまり人の上に立って指揮するようなことは得意ではない紫だったが、組員たちからは尊敬され恐れられてうまく回っていた。これを無理に壊すことはないか、と七哉は思っている。

 椎多は夜な夜な繁華街などに出かけて行っては喧嘩沙汰をおこしたり何やら悪さをしたりしているらしく、週の半分も屋敷に帰ってこない。酷い時には刺されて帰ってきたこともあるという。紫は初めて七哉と会った頃のことを思い出すと微かに笑って応えた。
「まあいい。多少の悪さも知らないようなやつに俺の跡は継がせられんよ。そのうち経営の方も面白いとわかるだろう」
「多少、ならいいですがね。命を落としては元も子もないですから」

 うん、と小さく頷いて七哉は背もたれに深くもたれかかった。

 結局、リカが殺され椎多が首を絞められた凶事は、犯人を特定することは出来なかった。
 仮に警察並みに家じゅうの痕跡を拾い分析し、周辺の家や通行人に至るまで虱潰しに聞き込みして回ったなら何かを発見できたかもしれないが、出来れば警察に介入などされたくはない。表沙汰にはせず極秘裡にリカの遺体を処分し独自に調査を進めていたが、成果は上がらなかった。

 それこそ警察でもあるまいし、状況証拠程度すら無かったとしても「言いがかり」で妻を抹殺することもその気になれば七哉には簡単な筈だ。邪魔になった人間はいとも簡単に消す七哉がしかし、妻に限ってあれ以来殺害の決断を下さない。その理由は、紫にも判じかねていた。

 あれほど怒り狂ってはいたが、少しはあの女に対して自分がしてきた仕打ちを引け目に感じるような感情でもあるのだろうか。

 いっそ、あの時七哉の制止を振り切ってでも殺しておいたならもっと早くすっきりしたのに。
 あれ以来具体的に危険な動きをしているわけではないが、あの女が生きているだけでどうにも気持ちが悪い。

 危険とまでは言わずとも、組の幹部を買収して椎多に近づき今更ながら母親面をして味方に引き入れようという動きを見せたことがある。あるいは実際にあわやの危険が椎多を見舞ったことも何度かあるが、事故か故意かも判じかねた。もし殺し屋などを使っているとしたら、証拠を残さない手際は見事だが所詮標的が仕留められない能無ししか手配できなかったということだ。後始末のプロはついていても実際にはたいしたコネクションは持っていないのだろう。

 そんなことを考えていて、七哉の次の言葉を一瞬聞き逃しそうになった。

「俺にもしものことがあったら──」

「七さん?」
 

 なにかそんな気懸かりでもあるというのか。それならばあらゆる手段を講じて阻止せねばならない。しかし、顔色を変えた紫に七哉は慌てて手を振った。
「だから、もしもの話だ。世の中何があるかわからんし俺もそろそろ年だしな。何か仕掛けて来られなくたってもしもはあるだろう」

 今にも賊を探して駆け出しかねない紫に苦笑すると深くもたれていた椅子から身を起こした。 

「まあ聞け。俺がいなくなったら、あの女はいよいよ表立って動く筈だ。椎多をとりこむことができなかったんなら尚更、今度は本当に椎多の命を狙ってくるかもしれない。一度は首を絞めた息子だ、そのくらいのことはやってくるだろう」
「──」

「その時は椎多を守ってやってくれないか」

「七さん──」
 よほど険しい顔をしていたのだろう。七哉は苦笑すると紫を手招きして呼び寄せ自分の側に立たせた。そして、立ち上がって手を伸ばし紫の頭を叩く。

 

 子供扱いされてはいないことはもうわかっているのに、そうされるといまだにくすぐったい。


 七哉はその手を止めて紫の項にずらすと、自分の肩まで抱き寄せる。紫は目を閉じると黙って七哉の背中に両腕をまわした。

 紫本人に自覚はないが、これは紫が七哉に甘えている印だということを七哉は知っている。大型犬を撫でるように自分よりずっと長身になった紫の髪を搔きまわすと、きっちりセットしてあった髪がばらばらとほどけてゆく。


「少し痩せたか?七さん」
 七哉はそうかなあ、と笑った。

 そして先程の話の続きだろう、小さな声で呟く。
「その時は……もしも椎多にまで危害を加えようとした時は…おまえに任せる。必要なら煮るなり焼くなり好きなようにやれ」

 目を閉じたまま両腕に力をこめる。七哉の肩口に鼻を押し付けて何度か大きく呼吸をした。

 リスクの想定だとしても出来るならそんなこと、考えたくない。

 七哉のいなくなった世界のことなど。

「……俺の理想の死に方を教えようか」

 耳の後ろから七哉のうん?という声が聴こえた。

「よぼよぼのじじいになったあんたを庇って撃たれて死ぬんだ。それならあとですぐ会えるだろう」
 七哉の笑い声が聞こえる。つられて紫の頬も少し緩んだ。


「おい、俺より先に死ぬ気か?親不孝だな」
「──親とか言うなよ」
 また、笑い声と頭を叩かれている感触がした。

 七哉が帰らぬ人となったのはその僅か10日後のことだ。

0005.gif

 やはり、どこか悪くしていたのかもしれない。本人は気づいていたのかいないのか、いずれにせよ何か予感のようなものがあったのだろう。あれは──今思えばまるで遺言だった。

 現実味もなく胸の中にただぽっかりと空いた穴。

 紫の中の感情は現実に置いていかれたようにただその穴の中を漂っている。

 ついて行けない現実の中で、はっきりとしていたのは七哉の最期の言葉だけだった。

──椎多を、頼む。

 その椎多の命令で、紫は組から椎多の護衛に異動された。

 数年前には一足先に組に戻されて紫を補佐していた睦月がそのまま組長代行を務めることになったが、ろくに引き継ぎも何もする間も無かった。

 遊び歩いて悪さばかりしていた馬鹿息子が突然父の後を継ぐことになったらしい──

 そう侮り一時は隙を狙ってグループののっとりなどを仕掛けてくる輩もいた。外部からよりも内部の動きの方があからさまでさえあった。が、椎多はそれを片っ端から鮮やかに処理してみせ、嵯院七哉の後継者は名ばかりの無能なお坊ちゃんではないということを周囲に強烈に印象付けることに成功した。

 そうしているうちあの時の七哉の言葉通り、椎多は経営が面白くなってきているようでもある。

 もともと椎多は紫には当たりが強かった。

 七哉第一主義で愛想もなく耳の痛い小言ばかり頭の上から降らせてくるばかでかい男のことを、椎多はそれこそ子供のころから「お前なんか大嫌いだ」と繰り返し罵倒してきた。もっとも、紫からすればそんなものは慣れてしまって鳥の囀りのようなものだ。

 

 想像もしたくなかった七哉のいない世界は、紫の存在さえ許してくれていない気がした。

​ それでも、最期に椎多を頼むなどと言い残されてはそれを全うするしか自分がこの世界に残っている理由がない。

 おそらく七哉は、紫が衝動的にでも自分の後を追ったりしないようあんなことを言い残したのだ。ならば、鳥の囀りがどうであれ"従う"ことが紫がこの世界に存在していいただひとつの理由になる。

 以前の椎多がどんな仲間とどんな悪さをしていたのか知りもしないが、そういう関係の清算でもしてきたのだろう──ある日ひどく疲弊した椎多にただ抱けと命令された。

 いっそ忘れたいのに忘れられない男のことを一時でも忘れるためだということがわかった。

 ならばそれに従うのも仕事のひとつかと思う。

 自分の腕の中で目を堅く閉じて何かに必死に耐えている椎多を見た時──

 この青年は、赤ん坊の頃から見てきたやんちゃで聞かん気でよく怒りよく笑う"七哉の息子"ではもうすでにないのだということに初めて気づいた。

 この子には、側で離れず守ってやる者が必要だ。

 それは、七哉のいない世界で紫がひとつだけ見つけた、この世界にいていい理由になった。

 

 それからも椎多は何か気に入らないことがあれば気晴らしのように紫にそれを求めるようになった。表向きの紳士的で快活な青年実業家と、裏のルートを使って非合法に目的を遂げていく冷徹さの間で溜まってゆく塵を払うように。そのためだけに一時の苦痛と悦びを得ようとしている。

 愛情を求めているわけでも、与えようとしているわけでもない。

 

 それでも、事が済んだ後に安心しきったように腕の中で眠りに落ちる椎多の体温を感じる時にだけ、ちらりと七哉の体温を思い出すことがある。

 七哉は紫がずっと秘めてきた想いを受け止めてくれた時からずっと、いつも、どんな時も、温かく包んでくれていた。抱いていても抱かれているかのようだった。心がちりちり焦げるようなことは決して無かった。

 七哉が温かい毛布なら、椎多は胸の中で小さく激しく灯る火だ。

 その火は、いつか紫に燃え移って焼き尽くしてしまうかもしれない。そんな火だ。

 それでもその火を絶やさぬように、自分が火傷を負っても守らねばならない。そんな火だ。

 

──七さん。​

──俺は七さんに許してもらえるのだろうか。

──もし俺が椎多さんに焼き尽くされてそちらへ行ったら。

──七さんは怒るだろうか。俺を叱るだろうか。

──守ってやってくれというのはそういうことじゃない、と。

──それとも。

 

「──ご報告すべきか迷ったんですがね」
 屋敷に常駐させている七哉の主治医が紫を呼び出し口篭もりながら話し始めたのは、七哉が他界してもう数ヶ月も過ぎた日のことだ。
「旦那様の死因について少し気になる点があって実は内密に調べていたのですが……長期間にわたって毒物を投与されていた可能性があります」

──『あの女』か。

 

 直感的に紫はそう思った。
 何故それほど冷静だったのか判らない。意識しないうちにその可能性を認めていたのかもしれない。
 七哉の妻は七哉の死後、別荘に居を移している。しかし当時はまだ同じ屋敷内にいた。食事に混入されていたとは限らないが、料理人を買収し毒物を混入させることなど容易かっただろう。

 その頃紫は組にいて、この屋敷には七哉から呼び出された時くらいしか赴いていなかった。もし常駐して七哉の警護をしていたなら、料理人、あるいは七哉が口にするものを運ぶ使用人の不審な動きくらい察知することが出来たのではないか?

 ぎりっと奥歯を噛みしめる。

 銃弾や刃からなら身を挺して守ることは出来るかもしれない。けれどこんな時どうにかして俺が七さんを守る方法は無かったのか。


 医師に引き続き調査を命じると紫は椎多の部屋に足を急がせた。
 何か胸騒ぎがする。
 直接手を下してくるなら守りようもあるが、料理人を抱きこんでいたとしたら──。


 幸い、椎多は遊び歩いていたためにここ数年父と同じ食卓につくことは稀だった。父と同様に少量ずつ毒を盛られていたとしてもまだ間に合うはずだ。
 すぐに椎多に屋敷で食事をしないように進言し、別の信頼のおける者に食事を作らせるように手配した。
 椎多は怪訝な顔をしていたが、今、椎多まで失うわけにはいかない。

──少し痩せたか。

 思えば、あの時には既にその毒物に七哉は侵されていたのだ。何故気づかなかった。いや、あの時点で気づいたとしてももう遅かったのか。

 そういえば。


 椎多も近頃、痩せてきてはいないか?
 

 椎多を抱くようになってからそれほどの月日は経っていない。それなのに、もともと細身の椎多の体がさらに痩せてきているように感じるのは気のせいではなかったのかもしれない。

──頼む、間に合っていてくれ。

 

 椎多が倒れたのはその数日後のことだ。
 過労も手伝っていたためだったのか、大事には至らなかった。しかしそれは紫を行動させるには充分な引き金だった。

0005.gif

「やっぱりあんただったんだな、なにもかも」


 女は怯えながらも蔑んだ目で紫を見下し、精一杯虚勢を張っているように引きつった笑いを浮かべた。
「何のこと?わたくしがなにをしたというの?証拠があるなら見せてごらん。すぐに出て行かなければ人を呼びますよ」
「──証拠など必要ない」
 紫は女の額に銃を突きつけ闇の中で睨みつける。
「人など呼んでも誰も来ない。俺がどうやってここへ入ってきたと思う?」
 女の吸い込む息がひい、と音を立てている。

 ここへ到達するまでに、既に20人以上の警備の人間を倒している。
 

「──もう一度確認する、あんたなんだな」
 

「……そうよ」
 女はヒステリックな震える声で言った。
「あの男が奪ったものを何倍にもして奪い返そうと思っただけよ。何が悪いの」
「椎多さんはあんたが腹を痛めて産んだ子供だろう」
「よしてちょうだい!あの子、あの男にそっくり──ぞっとするわ。あの男と同じ目でわたくしのことを睨むのよ。わたくしは悪魔に犯されて悪魔の子を産んだんだわ」


「──姐さんを殺したのは」

 女は一瞬、何のことかわからないように眉をひそめ、思い出したように挑戦的な目に戻った。 

「ああ、あの女。あれはわたくしの産んだ悪魔の子にとりいっていつかわたくしの財産や何もかもを掠め取ろうと狙っていたのよ。あんな卑しい雌豚の思う通りにさせてたまるものですか!」

 奇妙に頭が冷えているのがわかる。

 紫はそのまま額を撃ち抜こうかと思ったが、後始末の事を考えて構え直した。

 こんなに簡単に白状するなら、もっと早くそうすれば良かったじゃないか。

 七さん、なんでそうしろと言ってくれなかったんだ。

 女はひい、と奇妙な声をあげて抵抗しようとしたが、そうするまでもなく次の瞬間には床に弾き飛ばされていた。

──もっと早くこうしていれば。
 

 よぼよぼのじじいになるまで、あんたを見届けたかった。
 もう、俺の望んだ死に方は永久に叶わない。

 後始末をさせるために連れてきている部下を呼ぶまでの間、紫は暫くそうして立ち尽くしていた。

 頬を、なにかが伝って落ちてゆく。
 紫の胸にあいた大きな穴からそれは漸く溢れだしてきたのだ。

0005.gif

 それは、嵯院グループの若き会長の母の葬儀にしてはひどくひっそりとしていた。

「疲れた」
 クッションのきいた椅子に身を沈め、黒いネクタイを緩めながら椎多が呟く。紫は無言で立っている。

 

「──俺は昔、あの女に殺されかけたんだ」

 

 こともなげに言った椎多の言葉に紫は少し目を見開く。
「他のことはあまり覚えてないけど……まあ小さかったからな。鬼のような顔で俺の首を絞めた。何か恐ろしい叫び声を上げてて、本当に鬼みたいだった」

 緩めたネクタイの下の自分の首に手をやりそろりと撫でた。

「それを後ろからリカが殴ったかなにかして止めてくれたんだ。だけどそのせいであの女に滅茶苦茶に刺されて死んだ」

 あの時椎多はまだ3歳だった。


「そんなことを覚えていたんですか」

 ん、と椎多は小さく何度か頷く。
「怖くて……誰にも言えなかった」

 普段の暴君ぶりなど欠片もない、怯えた小さな子供である自分を恥ずかしがるような顔で椎多は小さく笑った。

 そうか。

 覚えていたのか。

 一番近くにちゃんと犯人を特定できる証言のできる被害者がいたじゃないか。

 それはもう、悔いても仕方ないことだ。

 今すぐ椎多を抱きしめたくなって、胸が苦しくなる。

 怯えた子供のような椎多を、恐怖の記憶からも守ってやりたい。

「俺はリカが母親だと思ってたんだ。でも俺の母親はあの女で……誰もリカのことを教えてくれなかった。親父もお前も誰も」
 椎多は緩めたネクタイの下の首に手をやって絞められた手の感触を拭い去ろうとするように何度もさすった。

「リカって、誰だったんだ」

「あんたの、『おかあさん』ですよ」

 紫の答えに、椎多は笑った。

 そうか、おかあさんかと言っていつまでもくすくすと笑っている。嬉しそうだ。

 それは、紫がもしかしたら初めて見る椎多の無防備な笑顔だった。

 俺はこれからずっとこの子を守ろう。

 この子がいつもこんな顔で笑っていられるように。

 それがこれから俺が生きていく理由になる。

 静かに手を伸ばし、自分の首をさすっている椎多の手をとる。
 そして、紫はそこにそっと接吻けた。


                                          *the end*
 

レビューを投稿いまいち何もまあまあ好き大好きレビューを投稿

*Note*

「聖母」はもともと「マリア」というタイトルでした。 意図する部分は同じなんだけどなんとなく。 で、最初は「リカ」という名前がこの段階で出てきてなかったので読んだ人に「この女性が『マリア』という名前なのか?」と誤解を与えたりしたこともあったもよう。

​これ紫の心理描写を大幅に増やしました。多分これを最初に書いた時には、七哉を激愛()していたはずの紫がなんであそこまで椎多に執心するようになったのかとかそういうことについてあまり詰めずに書いてたんですよね。あと七哉に対する気持ちと椎多への気持ちが全然別のものだという線引きが作者の中でもちゃんと明確になっていなかったんだと思います。そこんところを年月が経ったからこそゆっくり考えた上で加筆修正(2021)に着手したら驚くくらいすらすらとはまりました。考えてみたらここをはっきりしておかないと、結局「親父の替わりなんだろ」っていう椎多の誤解を「誤解」だと読み取れないなというのを実感しています。「焼き尽くされても」がうまくはまったなやったな俺。

なおここでは特に必要を感じなかったので椎多の母の名は登場しませんが、この女性サイドから「昔日」の「醜女(ぶす)」という話。七さん、女の敵。許すまじ。

​あと椎多が誘拐される話は同じく「昔日」の「背中」です。

bottom of page