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悪 夢

 冷たい金属の感触。
 視界を占領する手。
 その向こう側に微かに見える顔が英二から父のものに変る。

──ごめんなさい。
──ごめんなさい。
──ごめんなさい。

 跳ね起きると全身がぐっしょりと汗で湿っている。
 

──またか。

 

 英二に銃口を向けられた時、何故思考が停止してしまったのか、椎多はずっと考えていた。
 それに答えたのは、この夢だった。


──そうだ。
──俺は、親父にもああやって銃を向けられたことがある。


 実の母親に首を絞められ、母と慕っていた女は居なくなった。

 幼い自分にとって唯一残された頼るべき父にまで存在を否定されたということを拒否したかったのかもしれない。それを椎多は記憶の奥に閉じ込めていたのだ。


 苦しい。
 自分という存在は一体何なのだろう。
 恨み、憎み、椎多に刃を向けた人間は数え切れない。しかし───

 七哉が。

 紫が。

 青乃が。

 そして英二が。


 それぞれの理由はあるにせよ。
 一度は椎多をこの世から消し去ろうとした。

 

 俺が──
 彼らにそう思わせるものを持っているのだ。
 それなのに、自分は今もこうやって生きている。それがいっそ奇妙にさえ感じる。


 喉の奥のあたりに何か重くねばねばした塊でも溜まっているようにむかむかする。
 椎多は毛布を巻き込むように体を屈めると目を閉じたが、眠ることができなかった。

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 破壊されたはずのドアはきちんと新しいものに替わっている。
 ホテルには組を経由して金を渡し口止めしてある。騒ぎがあったことを知る者はほんの一握りしかいない。
 新調されたドアを開け、中に入る。上着をハンガーに掛け、ネクタイを少し緩めると椎多はベッドの上に身を投げ出すように横たわった。
 目を閉じたところで眠れるわけではない。


 英二をここへ呼び出したものの、この場所に英二が来る確率は低いだろう。

 英二にすれば出来ればここであったことは忘れてしまいたいことのはずだ。

 この部屋で、椎多を殺そうとしたということは。

──あいつが来なければ。


 今度こそ本当に手を離そうと椎多は決めていた。

 きっと過去に何があっても、そして当人が何と言っても、英二は家族や妻を大事に護りながら生きて行く方がお似合いなのだ。

 英二をそういう世界の人間だと思って自分の中で線を引いていた時とはもう違う。

 なまじ、同じ悪臭まみれの世界の同じような汚い罪を背負った人間であると知ってしまったために、あの自分で引いていたはずの線が消えて無くなってしまった。それが無くなってしまったら、もう椎多にはどこからが踏み込んではいけない領域なのかの判断がつかない。

 ノックの音がした。
 背中に冷水をかけられたようにびくりと身を起こす。

「俺だ」

 『来なかった』ときのことばかりを考えていた。

 しかしドアの向こうの声は紛れも無く英二だ。

 息を整えてドアを開けると、英二はふらりと入ってきた。
「……酒臭いな。飲んできたのか」
「酔っ払ってはいないよ」
「嘘つけ」
 椎多はミネラルウォーターを英二に投げ渡すとベッドに腰掛けた。英二は来たけれど酔っていてはたいした話もできはしまい。
「どうしてここに呼び出したんだ」
 英二は飲み干した水のペットボトルをゴミ箱に捨てている。

 ドアを開けてから英二は一度も椎多の目を見ていない。
「俺を殺す?」
「……やめろ。酔っ払いとそんな話はしたくない」
 聞こえていないように窓にもたれかかるように立つと英二は微かに笑った。
 

「自分を殺そうとする人間は消すんだろう?だったら俺を殺せばいい」


「やめろ、英二」
「俺は藍海を助ける為とはいえおまえを殺そうとした。これから先同じような事があったらやっぱりそうするのかもしれない。そうなる前に──」

 それ以上、聞きたくない。
 英二が、家族を椎多よりも大切に思っているという、判っているはずのことを。
 これ以上、思い知らされたくない。

 床に響くほどの勢いで椎多は英二の前に足を進めると、胸座を掴み平手打ちした。掌がじんじんする。

「俺にこれ以上十字架を背負わせないって言ったのは嘘だったのか!」
 英二は殴られた頬をおさえもせず、目を見開いて漸く椎多の目を見た。次の瞬間、椎多の唇が英二のそれを覆う。

 殴るような、乱暴なキス。
 腕を回すこともできず英二はそれに任せている。
 貪りながら椎多は英二のネクタイを緩め、ベルトを外し、その中へ手を滑り込ませた。熱を帯びた掌が英二の素肌を弄っている。


「抱けよ」


 苦しげに眉を寄せると英二は椎多を抱きしめ、ベッドに倒れこんだ。ほんの数週間前、椎多の額に銃口を押し当てていたあの同じベッドに。

 

 汗の浮いた額に唇を当てる。次に目元、鼻先、そして唇をついばむようにキスをくりかえす。首に回して抱きしめた腕で愛しげに肩を撫でながら椎多は小さく何度も声を上げた。

「英二──」
 英二は答えない。
「おまえの何もかもを受け入れられるのは俺だけしかいない──そうだろう?」
 答えない。
「おまえは人殺しだ。俺と同じ、おまえの手も血で汚れてる。そんなおまえを、おまえの大事な家族は受け入れてくれるのか?有姫ちゃんはそれでもおまえを愛してくれるのか?隠し通して生きていけるのか?それでおまえは辛くないのか?」
 気持ち悪いほどの優しい声で椎多は囁き続けた。
 囁きながら、胸の奥でもう1人の自分が叫びを上げている。

 

──それ以上追い詰めるな。そうまでして英二が欲しいのか。

 それでも、椎多はやめない。
「おまえを本当に受け入れられるのは俺しかいない」
 英二は無言のまま、まるで憎んでいるかのように激しく椎多を揺さぶり続けた。

 

 眠っていたのだろう。
 大きな叫び声を上げて跳ね起きる。

──まただ。

 横には英二が寝息を立てていた。
 もし今日、英二がここに来なかったなら、本当に別れるつもりだった。
 しかし、英二は来た。

 あれが、自分の本心だったのだろうか。
 英二を追い詰めて追い込んで、そして自分のところへ逃げ込むしかないようにしてまで。
 そうしてまで英二を手に入れたかったのだろうか。

 英二は簡単には家族を捨てることは出来ないはずだ。このお人よしはまた苦しむに違いない。

 

──苦しめばいい。

 

 椎多は眠る英二のこめかみに唇を寄せると小さく接吻け、再び横になった。眠ってもまたあの夢を見てしまうのかもしれない。いや。
 このまま英二を追い詰めていけば、あれが再び現実になる日が来るのかも──
 

 椎多は自嘲するように笑いを洩らすと、目を閉じた。英二の心臓の音が聞こえる。その音が不思議に椎多を眠りに誘った。
 そして、今度は朝まで夢を見ることもなかった。

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 兄の修一に呼ばれて英二が『しぶや』に顔を出したのはその一週間ほど後のことだった。
 修一はどこか顔色が悪く、憔悴しているように見える。
「困ったことになった」
 とある代議士が贈収賄で逮捕された。近頃では珍しい話ではない。
 しかし、その証拠に使われたビデオテープは『しぶや』で撮影されたものだったのだ。
 しかもそれは『しぶや』が防犯を兼ねて撮影したものが横流しされたものだ、とまことしやかに囁かれている。


 そのようなことが、あるわけがない。
 第一、そのようなビデオを設置したことすらないのだ。
 既に「撮影などしては都合の悪い」政治家や企業などからクレームや脅しが殺到している。

 誰かが『しぶや』を陥れようとしているのではないだろうか。

 修一はそう言った。
 澤康平が生きていたなら、やつではないかと疑うところだった。しかし、澤は既に亡い。

 思いを巡らせ──英二はひとつの顔を思い浮かべるとぞくり、と背筋を震わせた。それを頭を振って否定する。

──まさか、な。

「何してるの、手が空いたらこちらを手伝ってちょうだい」
 女将の声が思考を中断させる。


「──はい。すみません女将さん」


 聞きなれない仲居の声。
 新入りの仲居だろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。とにかく今は店の信用を回復する為にどうすればいいかを考えなければ。
「どうするかは俺が考えるが、おまえにも負担をかけることがあるかもしれない。店を守る為だ、わかってくれ」


 兄の言葉に、英二は頷く。その奥で、何かがちくり、と棘のように痛んだ。

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教会の窓

*Note*

椎多がおかしくなり始めました。

​この章は、多分そこまで大きい加筆修正はなく多少の手直しくらいになるかな…。

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