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夏休み

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「犬を飼うことにしましたの。いいでしょう?」

 青乃から電話がかかってきた。珍しく声が弾んでいる。そういえば初めて彼女を見たときも犬と遊んでいた。本当は犬が好きなのだろう。
「いいでしょう、ってもう飼ってるんじゃないのか?ダメだって言っても飼うつもりなんだろう?」
 苦笑して答えると電話の向こうで妻はくすくすと嬉しそうな笑いをこぼした。
「とても可愛いのよ、あなたも見たらきっと気に入るわ。男の子なの」
 こんな無邪気な青乃の声を聞いたことがない気がした。電話の向こう側では確かに子犬のくうんくうんと甘える声がする。
「ねえ、オープニングセレモニーが終わったら少しは時間が空くのでしょう?一度隼人に会いにいらして」
 隼人、というのはその犬の名前なのだろう。
 椎多はその見たこともない子犬に謂れも無い嫉妬を感じている自分に気付くと苦笑した。
「わかったよ。ばたばたしてなければ行く」
 それだけ言って電話を切った。

 青乃が避暑だと言って例の高原の別邸に移ったのは1週間ばかり前だったか。
「わたくし暑いのは大嫌いなんですの。すぐにお化粧も崩れるし」
 そう笑って簡単に支度を整えると龍巳以下数名の人間を連れてさっさと出かけて行ってしまった。
「あなたも暇が出来たらいらしたら?もっとも居心地がよくて帰りたくなくなるかもしれませんけど」


 居心地がいいわけがない。
 

 あの別邸は青乃が愛した男との思い出の場所だ。そして椎多の名のもとにその男が殺された場所でもある。そんな場所へ楽しそうに出かける青乃の気持ちが理解できない。


 いずれにせよ、忙しくて避暑地へ赴くような暇は椎多にはなかった。

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 表向きで手配した警備の他に嵯院邸や伯方の伝手で手配した極秘の警備も動員して、裏側を見ればかなりの厳戒態勢で臨んだリゾートタウンのオープニングセレモニー。

 蓋を開けてみれば拍子抜けするほど何事もなく終了した。妨害の気配も実行もなく、招待客からの評判も概ね良好で、翌日からはいよいよ一般客が大挙して訪れている。テレビや雑誌の取材で宣伝担当者はオープン前以上に目まぐるしくスケジュールをこなしていた。

 各店舗でも、行列の扱いや部分的な機材トラブルなどで若干の問題はあったものの想定外の大きなトラブルや事故などはなく順調な滑り出しと言える。

 夏本番、これから夏休み期間の間はオープンの興奮が持続する。運営側ではすでに平時になった秋以降、むしろクリスマスから年末年始の戦略について動いていた。

 この街全体の運営のための会社をすでにプロジェクトの早い段階で設立してはいたが、ここまで動きだせばもう完全にそちらに運営は任せ、椎多が主導していたプロジェクトの手からは離れることになる。ただし、計画されている地下鉄延伸の新駅をこの周辺に作らせるために管轄の省庁や地元の自治体や代議士に働きかけをする、という椎多の仕事はこれから佳境に入る。

 澤に捕らえられた賢太が救出されたのは、セレモニーが終わった翌日だった。

 組ではセレモニー前から消息の途切れた賢太を必死で捜索していたし、だからこそセレモニー当日に何か計画されているのではと厳戒態勢を敷くことになった。厳戒態勢は無駄となり、賢太も消息不明のまま──澤の女に会ったホテルから、賢太自身が自分で電話をかけてきたのだ。

 賢太は拷問にあったのだろう、爪を剥がされたり指を折られたりの他にも多数の暴行によって全身痣だらけになっていた。しかし、どの傷もすでに一定の応急処置が施され、傷によってはすでに回復し始めているものもある。念のため様々な検査をしてみたが幸い内臓などにも大きな傷は残っていなかった。
 単に痛めつけるのが目的なら殺されてもおかしくなかった。Kの暗示の効果で何も喋らなかったとしたら利用価値なしとしてやはり殺されるのが常だろう。妙に半端な──半殺しとまでも行かない──拷問程度で、しかも手当てまでして、解放されたには何か裏があるとしか思えない。
 しかし賢太は薬や拷問による痛みなどで朦朧とした意識の中でも何も喋っていないと主張した。

 何か、仕掛けてくる。

 澤のような狡猾な男が、考えなしに折角得た人質を解放するわけがない。しかしその見当がなかなかつかない。

 単に自分が仕掛けた作戦を賢太に潰された腹いせで賢太を捕らえ痛めつけたということも、ただのヤクザのいざこざならあるかもしれない。しかし、澤は例の企業の常務秘書を利用してあちらの計画を潰したのが賢太──嵯院配下で以前にも澤の所属した組織を壊滅させた──であることを承知で捕らえたのだ。腹いせ程度で済ませるわけがない。


 そもそも、澤の最終目的が一体どこにあるのかすらわからない。
 企業の方か、組の方か、それとも椎多個人か。

 いずれにせよ攻撃してくるものはかわすだけでは話にならない。こちらも攻撃に転じなければ。

 その為にはもっと情報がいる。
 焦りは禁物。そうわかっていてもじりじりと焼けつくような焦りを感じずにはいられない。

「3日間スケジュールを空けました。夏休みに行ってきて下さい」
 

 秘書室長の名張が唐突に告げた。

 社の秘書室には多くの秘書が所属していて、各重役に専任が1~2名、その他流動的に動ける人員と、基本的には本社や支社の受付従事者も秘書室の所属になっている。それをすべて統括している名張は椎多の代になってから仕事ぶりが優秀だからとなんの役職もない平の秘書から室長に抜擢した人間である。

 もっとも本人はさほど出世欲などはなく、平で自分の割り当てられた仕事だけをやりたいタイプだったので管理職への抜擢はいい迷惑、首は困るが降格人事どんとこいだと思っているらしい。そのせいか社長である椎多に媚びを売るでもなく言いたいことはなんでもはっきり言う。そういうところがなおのこと椎多は気に入るという、名張にとっては悪循環になっていた。

 出世欲はないが自分が無能でいることは我慢ならないらしく、嫌々だとしても仕事は要求された以上のことをしてくれるのでありがたい。

「いいですか、社長はいったい何日休んでないと思ってるんです。いつまでもぴちぴちの二十代と同じ体力だと思ったら大間違いですよ。それでなくても片肺で体力落ちてるんですから。何かあったら必ず連絡なり迎えなりやりますからとにかく涼しいところで3日間のんびりしてきて下さい。てゆうか、してきなさい」


 反論する余地も与えず名張秘書室長は「ガミガミ」という形容がぴったりくる調子で一気に言い放ち、すたすたと部屋を出て行った。
 椎多はあっけにとられ、Kは後ろでにやにやと笑っている。

 柚梨子がいた頃には現在Kがしているよりもっと踏み込んで会社関係の業務も手掛けていたが、Kはむしろ椎多のボディガードや組との調整、あとは雑用に専念して基本的には会社関係の管理は名張に一任している。そのための秘書室だろうともKは思っている。​

 これはKの邪推だが、名張は柚梨子に惚れていたのではないかと思う。​もしかしたら一度くらい告白してフラれているかもしれない。

​ これが椎多の好みのタイプだったら話はややこしいのだが、名張は仕事には厳しいが自分には甘いらしく”小柄な相撲取り”のような体形である。椎多は小太りの女は嫌いではないかもしれないが、少なくとも太った男には興味がない。名張はそのままでいて欲しい、いきなり健康に目覚めてダイエットを始めて瘦せマッチョに変身……なんてことにはならないで欲しいとKは願っている。

 

「あんのやろう、どさくさ紛れに命令しやがった。俺に」
「俺とは貫禄が違いますねえ」
「感心してる場合か。澤の動きもわからないのに悠長に夏休みなんか取れるとでも思ってるのか?」
「俺に言わないで下さいよ。屋敷でだらだらしてても別邸でだらだらしてても組長は何か起こったらそこから指示すればいいことでしょ?」


 言われてみれば確かにそうだ。
 いい加減自分で動くのはやめろと各方面から釘を刺されている。睦月がしているように座ったまま事態に対処することが本来ならできなければならないのだ。


 こうして椎多は秋になるまで対面する機会はなさそうだと思った『隼人』に心ならずも会いに行くことになってしまった。

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 黒いラブラドールの子犬は、とても隼人などという精悍な名前の似合わない情けない顔をしていた。
「ね、可愛いでしょう?」
 子犬を抱き上げてまじまじとそれを観察する椎多の肩越しに青乃がどこか頬を紅潮させて嬉しそうに言う。


「ほら、隼人。ママのとこにいらっしゃい」
 どきりとした。思わず青乃の顔を見つめるとその視線に気づいた青乃がにっこりと微笑んだ。

 青乃はもう子供を産むことができない。

 椎多の子供を妊娠したのを嫌って無理に堕胎したために子宮や産道が傷つき、妊娠できない身体になってしまった。
 青乃をそのように追い詰めたのも、自分の責任だと椎多は思う。だから───青乃のそんな言葉を聞くと胸を締め付けられるような気がした。


 それを察したのか、青乃はカーペットの上に直に腰を下ろしている椎多の横に自分も座った。隼人がその白い手にじゃれついている。まだ鋭く尖っている子犬の牙で青乃の美しい手は傷だらけになっていた。
「あなた」
 隼人を撫でたり時折叩いて叱ったりしながら青乃が口を開く。
「あなたがあちこちから跡取はどうするとかつつかれているのは知っているわ。わたしのような子供も産めない、家ももうない女など追い出して他の女を嫁にしろなんてことを言う人がいることも」
「………」
「あなたがそれが必要だと思ったらわたしのことは気にせずそうしていいのよ」
 無言で妻の顔を凝視めた。
「わたしが分与された父の財産はほとんど手付かずだし、離婚となったら慰謝料を下さるんでしょう?充分生きて行けるわ。隼人もいるし」
 冗談めかした言葉で青乃はくすくすと微笑んでいる。


 青乃の言う通り、後継ぎの産めない妻は離縁しろなどと武家社会のようなことを言う人間が確かに周囲に姦しい。しかし椎多はそれに関してはもうとうの昔に結論を出していた。
「会社も組も、世襲になんかする気はもともとない。誰か優秀な人間に渡したらあとはどうなろうか俺の知ったことじゃないしな。それに………」
 隼人が青乃の手を離れて小さなボールにじゃれついているのを見て思わず微笑がこみあげた。

「おまえの子供じゃなきゃ俺はいらない」

 

 今度は青乃が目をまるくして言葉を無くす番だった。椎多は妙に自慢げに笑う。
「子供が要るならとっくに外で作ってる。だから子供をつくって跡取にする為におまえと別れるなんてそんなバカバカしいこと絶対しない───隼人」
 椎多が呼ぶと隼人はまるで鞠が弾んで転がるように走ってきた。椎多の手にじゃれつくのを転がすようにしながら抱き上げる。

「隼人、俺がパパだぞ。秋まであんまり会えないけど忘れんなよ」

 

 青乃が鼻をすする音が聞こえた。

 泣き顔など見られたくないだろう。

 椎多はそのまま青乃の顔を見ずに隼人の相手を続ける。溜息まじりの微かな涙声が、ごめんなさい、と呟いた。

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 別邸にいる間特に大きな動きはなかったのか、3日の間椎多に緊急の電話がかかることはなかった。
 オープンしたリゾートタウンも盛況だという。
 賢太の怪我も順調に回復している。
 ふと、澤が何かを狙っているのだということを失念しそうになるほど何事もなく3日間は過ぎ去った。

 

──青乃と隼人に別れを告げて別邸を後にした車の中までは。

 電子音が車内に響く。非通知。

 ケンタや睦月が公衆電話や登録外の電話を利用して連絡してくることもあり非通知拒否の設定はしていない。そもそもこの番号を知っているのは記憶だけでリストアップできるほどごく一部の人間だけの筈だ。それなのに椎多はひどく嫌な感覚に見舞われ一瞬応答することを躊躇した。しかし6回目のコールでようやく応答ボタンを押す。

『夏休みはどうだった?』

 

 切りそうになった。
 耳にこびりつくような嫌な笑い声。

 

「──澤、か」


『よくわかったな。その様子じゃ俺のことも随分調べがついてるんだろ?まあ調べがついて俺が何者かわかったところで関係ないけどな』


「一体何が狙いなんだ」
 澤の笑い声が機械じみて耳に届く。聞いて答えるなら苦労はない。


『おまえは俺の商売の邪魔ばっかりしやがるからなあ、気にいらねえんだわ。それだけ』
「貴様……」
『ああ、それとこの間はおもしろい玩具を貸してくれてありがとう。なかなか遊び甲斐のある玩具だったぜ』

──賢太のことか。

 頭に血が上りそうなのを辛うじて抑える。怒ったら負けだ。
「玩具なんか貸した覚えはないな。なんかの間違いじゃないのか?」
 また、電話の向こうで嫌な笑い声がした。


『夫婦水入らずは邪魔せず楽しませてやったんだ、有難く思いなよ』
「…………」

『夏休みは終わりだねえ。まだまだ暑いけど、また大車輪で働いてもらおうか』

「何をするつもりだ」


 ツー・ツー・ツー。切れた。

 

 澤は椎多の行動を完全に把握している。
 この3日間別邸で青乃と過ごしたことは片手で足りるほどの人間しか知らない筈だ。

 盗聴でもされているのか、それともどこからか漏れているのか───。

 椎多は暫くの間携帯を睨みつけていたが突然我に帰ったようにボタンを押し始めた。

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*Note*

これはオリジナルを書いた時にスランプだったので自分でもちょっと休もうと思って書いたやつなので短いです。

基本的にはほとんど手を加えていないんですが、この話に唐突に出て来てしかも今後も出て来なかった秘書室長さんについて描写を追加しました。ぶっちゃけこんなちゃんとした秘書室長がいるのに全く話に絡んでこないのはどうかと思うんだけど。実はこれを書いた時のこの人のイメージは睦月をもっとシャープにして、少女マンガとかBLマンガで出てきそうなシュッとした人のイメージだったんですがそんな人がこんな身近にいて椎多がなんかちょっかいかけてないとかある?と思ったのとちょっとキャラかぶるイメージの人多いなと思ったのでいっそ「椎多の好みではない人」にしました。椎多は太った男は嫌いみたいです。せっかくなので名前を付けてあげたらなんとなく自分の中でキャラ立ちしたので、いつか彼の話も書いてあげられたらと思います。(2021/8/3)

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