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子守歌

 自転車のスタンドを下ろす軽快な音が響く。
 ロックを回して軽い足取りで扉を開け、階段を上って行くと何人かの若者がきびきびと頭を下げた。

「おはよう」

 

 青い半袖のワイシャツにネクタイ。黒い大きなショルダーバッグをたすきがけにして背中にまわし、風で少し乱れた白髪混じりの髪に眼鏡をかけたその姿は外国のビジネスマンのようでもある。眼鏡の奥の人のよさそうな細い目をさらに細めてハンカチで汗を拭っている。何も言わなくてもデスクに冷えた麦茶が運ばれそれを睦月は一気に飲み干した。
「ああ、おいしい。やっぱり夏は麦茶だねえ」
 にっこりと微笑むと茶を運んだ若者が苦笑してぺこりと頭を下げ退室する。
「さてと」
 呟くと睦月は脇デスクのパソコン2台の電源を入れ、起動を待つ間に書類棚にある膨大なファイルの中から特に迷いもせずに何冊かを選び出した。それをデスクの上に積み上げ広げはじめる。どう見ても朝のオフィスの光景だった。

──そこにある神棚や暑苦しい虎の敷物などさえなければ。


 
 椎多が組長をつとめるとはいえ、実質的に直接組織を仕切っているわけではない。七哉が存命中は紫が組を預かっていた。そして椎多の代になり紫を自分の側に置くようになってから、それを引き継いだのが睦月だった。
 若い組員の中には、一見気弱そうで穏やかな堅気の人間のようなこの男が何故組長代行などをしているのかいぶかしむ者もあったが、そういう声が上がる度賢太あたりの年代の者が睦月の伝説的な武勇伝について語り始めるので今では疑問を差し挟む人間は居ない。


 曰く紫と二人で一晩で50人の相手を倒した、曰く事務所に座って指示をとばすだけで敵対組織を壊滅に追い込んだ、曰く──


「もう身体は使えませんねえ、年ですから」
 そう言って専ら睦月は事務所から動くことはない。在宅勤務だなどといって事務所に顔すら出さないこともよくある。しかしすらりとしたそのシャツの下に無駄な贅肉は一切なく二十代の頃からおよそ衰えていないということを知るものは少ない。

「睦月さん、いいっすか?」
 睦月がファイルを何冊も広げてPCに入力したり何かメモを書き出しているところへ賢太が顔を出した。その顔を見るなり睦月はくすりと小さく吹きだした。
「またずいぶんワイルドにイメージチェンジしたねえ。誰かと思ったよ」
「いや、ちょっと相手に面が割れてるもんで変装がてら。どうでもいいじゃないっすかそんなこと」
 きまり悪そうに賢太は丸坊主にした頭をくるりと撫でた。金髪は見る影も無い。おまけに眉までない。髭を生やしご丁寧にサングラスまでかけている。ちょっとチャラい若者のようだった姿は、道を歩けば通行人が避けて通るいかにもなチンピラになっていた。よほど親しい者でなければ賢太とわかるものは少ないだろう。
「……で、何?」
 くすくす笑いをおさめると睦月は座りなおして少し身を乗り出した。それを合図に賢太もすっと顔を引き締める。
「……ネタが二つ三つ欲しいんすけど」
 睦月は穏やかに微笑んだまま小さく首を傾げた。言外に次の言葉を促している。


 外にどれだけ情報源を持っているのか、睦月の元には座っていても様々な情報が刻々と入っている。賢太が裏側で何か工作を行う時にはまず睦月のところで情報を整理してから動くのが常になっていた。
 賢太は椎多に指示されてから澤康平について調べを進めている。その途中で、椎多の会社が懇意にしている──つまり何かと便宜をはからせている代議士に、おそらく澤の仲介で急接近している企業があることがわかった。さらに、こちらが進めていたリゾートタウン計画を妨害する方向で不穏な動きを見せていることもわかってきている。リゾートタウンのオープンを週末に控えて何か事を起こされてはたまらない。一旦澤の調査を中断してそちらの動きを追うことにしたのだ。


「向こうの社員……常務秘書ですがね、その女がどうも澤と繋がってるらしいんすよ。それで昨夜その女が出入りしてるクラブに行ってちょっとナンパしてみまして」
「へえ、それはまた。で、うまくいったの」
「ホテルまでは簡単でしたよ。そこからが大変でしたけど」
 苦笑すると賢太は尻のポケットから手帳を取り出した。
「女がシャワー浴びてる隙に手帳と携帯チェックして。議員の予定とか澤と接触する予定とかと思われるものを全部拾ったんすけど」
 手帳をめくり、睦月の前に広げて見せる。睦月は一通り目を通すと閉じて賢太に返した。
「女には怪しまれなかった?澤の女だとしたらいろいろ厄介なこともあるかもしれないよ」
 わかってます、と頷いて賢太は手帳を再び尻のポケットに押し込んだ。
「で、議員の方から揺さぶろうかと思ってね。選挙前だしいろいろネタはあるでしょ?出来たらあっちの企業とのスキャンダルネタがあれば楽なんすけど」
 睦月はずっと微笑んでいる。そのまま立ち上がり、ファイルを一つ選び出して賢太に渡した。
「このへんかな。君が椎多さんの支配下だとわからないように動かないとしっぺ返しをくらうことになるよ。気をつけて」
 渡されたファイルをぱらぱらとめくり目を通すと賢太はにっこり笑い、それを振り上げるようにして会釈すると睦月に背を向けた。
 それを見送り、ふう、と息を一つつくと睦月は眼鏡を外し首をこりこりと回す。

「澤──康平、ねえ」

 呟くと睦月は目を閉じ椅子にもたれかかって天井を仰いだ。

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 リゾートタウンのオープンを控えての連日の打合せで、ここしばらく英二とは毎日のように顔を合わせている。しかし、あの"谷重バー"に連れて行かれた日以来プライベートでは会う機会がなかった。

 会おうにも椎多自身も忙しく、時間が空いたと思えば英二の方がつかまらない。
 それでも、英二にどうしても聞かなければならない。

──英二は、澤康平を知っている。

 鴉が示唆したのが、”英二が狙われるから気をつけろ”なのか”英二が要注意人物だから気をつけろ”なのかはわからない。しかしいずれのケースでも英二と澤がどのような関係なのかがはっきりしなければ対策の立てようがない。漠然と気をつけろと言われてもどうしようもないのだ。

 ぼんやりと英二を待ちながら、椎多はどうやってそれを聞きだすべきなのかずっと考えていた。
「すまない。遅くなった」
 英二の声がその思考を中断させた。思わずまじまじと英二の顔を凝視めてしまった椎多を、英二はなかば微笑みながらいぶかしげに見ている。そのまま小さく首を傾げ椎多の隣に腰を下ろし、酒を注文した。どこか戸惑ったような椎多の表情が気になるらしく何度もその顔を覗き込む。

「それにしても久しぶりだな。顔は毎日見てる気がするけど」​

「おまえが俺を避けてるんじゃないのか?」

 嫌味だが、半分は本気だった。英二は俺を避けているんじゃないか?

 英二は一瞬困ったように眉を寄せたがそれを苦笑に変えた。その表情の変化すら、何かを隠すために見える。

「お互い忙しいのはよく判ってるだろ。今日もたまたま、やっとだ」

「つまんねえ言い訳だな。本気で俺に会いたかったらおまえ、電話でもメールでもがんがん寄越してくるだろ。今日もたまたまじゃなくて仕方なく来たんだ」

 拗ねるなよ、と少し緊張の解けたような顔で英二はテーブルの上に投げ出されていた椎多の手を指で触れた。
「……英二」
 自分の右手の甲を何故か遠慮がちに触れている英二の左手の中指を見ながら、漸く椎多は意を決したように口を開いた。
「俺はおまえがどんな過去を持ってたとしても構わないって思ってた。だけど」
 過去、という言葉に英二は微かに反応している。表情があきらかに曇った。
「俺自身にも関わってくることなら別だ」
 そこまで言うと椎多は小さく深呼吸し視線を英二に戻した。険しい顔で英二の目を真っ直ぐに凝視する。

「──澤康平を知っているな?」

 あれだけ何度も考えたのに結局、こう聞く以外ないような気がした。

 それに、英二にはこの方がきっと効くだろう。
 果たしてぎくり、と英二の顔が強張った。
 椎多は英二の答えをじっと待っている。

「……知らない」
 椎多は眉を酷く寄せると自分の目の前におかれたチェイサーの水を英二の頭からぶちまけた。英二は──そんな痴話喧嘩のような真似をされても、驚きも怒りもしない。

 それが本当の答えのように思えた。

 十代のガキの恋愛じゃあるまいし、愛しているならすべて包み隠さず話せ、相手のことで知らないことがあるなんて我慢できないなどとくだらないことを言う気はない。

 それでも、椎多が自分の罪を告白してでも英二を突き放そうとした、そうやって英二を守ろうとしたことを、英二自身はどう受け取ったのか。それはただの自分の自己満足だったのか。ただの空回りだったのか──そんな考えが頭を巡り始めると椎多の胸のどこかが何かの圧力で潰れそうになった。


 大声で叫びそうになるのを辛うじて抑え、出来るだけ低めた声で忌々しげに椎多は吐き出した。
「知らないなら教えてやる。澤康平は昔俺がぶっ潰した組織で幹部をやってた男だ。おまえの兄貴とも──」
「やめろ!」
 英二の叫び声が店内に響く。他の客が一斉にこちらを見ているのがわかった。その視線から身を隠すようにカウンターの上で身を縮めると英二は声を絞り出した。

「……わかった。だけどここでは話せない。場所を変えてくれ」
 確かに、これ以上は他人の周囲にいる環境で話すことではないようだ。

 

 椎多は黙って立ち上がり店の勘定を済ますと英二を促し外へ出た。
 Kが待機していた車を回してくる。
「乗れよ。続きは中で聞く」
 後部座席に深く沈み込むとふう、とひとつ息をついた。

 Kに目的地を告げず適当に流して走れと指示をし、運転席との境界のカーテンを閉める。

「これで密室と同じだ。よっぽど大声で叫ばない限りKにも聴こえない。俺にしか聴こえない」
 抑えた椎多の声は苛立ちを含んでいる。何から話せばいいのかが判らないように考え込んだままで何度も口を開いてはまた閉じてを繰り返す英二に椎多は焦れていた。

 無理やりとはいえせっかく話す気になったものを、焦れてぶちこわしてはいけない。

 その程度の自制はまだ利いている。


 と、まるで喉に何かが張り付いたように出なかった英二の声が、走行音に紛れて漸く聞こえた。それが何故か殊更大きく聞こえる。
「おまえは俺のことを、お坊ちゃん育ちの甘ちゃんでクソ真面目で不器用でつまんない男だって思ってるんだよな」
 眉を顰めて英二の横顔を凝視める。
 確かにそう思っているし、いつだか本人にもそう言ってやった覚えがある。
「本当は俺がどんな人間なのか、出来ればずっとおまえには知られたくなかった」
「………?」

「──悔谷雄日という名を知っているか?」

 カイタニユウヒ?

 どこかで聞いたことがある。名前にしては変わった響きだからだろう。どこで聞いたのだったか──
「もう伝説的な存在になってるけど、有名な殺し屋だよ」
「殺し屋──」
 それならば、もしかしたら紫か、あるいは睦月あたりが話しているのを聞いたのかもしれない。


「澤康平は彼の現役時代のエージェントの一人だ」
 

 耳の後ろがちりちりと痺れている感覚がする。

 英二の口から建築用語でも経済用語でも飲食業界用語でもない、英二と最も遠いと思っていた自分のフィールドの用語が出てくる違和感。それが首筋をぞくぞくと這っている。
 英二はこれから何か椎多が聞いてはいけないことを話そうとしている予感がした。それでも、質そうとしたのは椎多自身だ。もう止められない。

 英二はそこで一旦口を噤み、右手を何度か握ったり開いたりしたあと──

 顔を上げてこの車に乗って初めて、椎多の顔を正面から見た。

「俺は悔谷の───"最後の弟子”だったんだよ」

 英二はそう言うと再び自分の掌を開いてそこへ視線を落とした。
 椎多が、自分が殺してしまった紫のことを思い出すときにいつもそうするように。

「悔谷は引退するまで失敗したことが一度もないと言われた一流の狙撃手だった。弟子は何人かいたけど彼が引退してからの最後の弟子が俺だった。技術はもう教えることはないとお墨付きを貰えるくらいにはなったよ」

 子供が塾の成績を自慢するようにうっすらと微笑みまでうかべて英二は続けた。

「椎多、俺は多分、おまえが自分で手を下したよりもずっと多くの人間を殺してる。報酬も受け取っていた。澤康平は」

 どうリアクションしていいのかわからずただ茫然と英二の告白を聞いていた椎多は、澤の名前で突然現実に引き戻されたようにぴりっと背筋を伸ばした。

「その頃の俺のエージェントでもあった男だ」

 掌を握り締め、身体を折り曲げて額に押し付ける。

「昔、俺は気狂いの人殺しだった。銃を持つと誰かの頭を吹っ飛ばしてやらずにはいられない。それが気持ちいい。そんな気狂いだったんだよ」

「ちょっと待ってくれ。俺と遊び回ってた頃のおまえはそんなところ欠片も」

「あの頃はまだ銃を手にしたことが無かったからだよ。まだ気狂いは目覚めていなかった。でもそいつが俺の中にいることにあの人だけが気づいてた」

 ”あの人”というのがその何とかいう殺し屋か。

「その──悔谷雄日とかいう殺し屋が、”シゲ”っていうやつなのか。あのバーの先代マスターだっていう」

 英二は小さく頷いた。

 なるほど。

 それで一気に繋がった。

 あの店は、殺し屋の巣窟だったのだ。鴉が出入していたのも理解できる。

 シゲさんは俺の中にヤバい気狂いがいることに気づいて、俺をあそこから一旦は遠ざけた。あの店──谷重バーにはそれ以来本当に行ってなかった。

 おまえと出会ったのはその後のことだ。

 おまえと散々ケンカだのドラッグだのやりまくってたけど、銃にだけは触ることは無かった。銃声も銃で撃たれた人間も見ることはなかった。だからどんな悪いことをやってても気狂いは目覚めずに済んだ。

 おまえと別れた後、ちょっとは真面目になろうと思って大学に戻ってアルバイトを始めた。

 そこで──

「このまま真面目に生きていけばきっと逃げ切れると思った矢先に」

 

 俺はとうとう捕まったんだよ。

 ”銃”に。

 椎多はごくりと生唾を飲み込んだ。

「シゲさんはもうフランスに渡った後だったけど、俺の気狂いが目覚めないかは気にかけてくれてたみたいで、それで俺をすぐにあっちに呼び寄せた。目覚めてしまった気狂いの監視と、飼い慣らす方法を教えるために」

 飼い慣らす方法。

 それが、殺し屋になるってことなのか。

「仕事のために撃つことに慣れればやがて、銃を持つくらいじゃ正気を失わなくなる。そして実際に俺はあの気狂いを飼い慣らすことには成功した。その替わり」

 ”仕事”として殺し続けていた。自分にとって何の恨みも憎しみもない相手を。報酬と引き換えに。

「前におまえが自分のこれまでを話してくれた時、本当は俺の手も汚れていると告白しようと思ったんだ。でも言えなかった。口に出してもし」

 飼い慣らした筈の『殺すのが大好きな気狂い』が万が一にでもまた目覚めてしまったら。

 今こうして話している時にも本当は怖くてしかたない。

 殺し屋だったことを告白するよりも、あいつが目覚めてしまうことの方が怖い。

「おまえが目の前で撃たれた時、おまえが死にはしないかと心臓が潰れそうだったのに脳の片隅では思っていたんだ。銃声を聴いて、おまえが打たれて血を流して死ぬかもしれないくらい大量の血を吐いているのを目の当たりにしたのに俺は正気でいる、良かったって。最低だな、俺」
「英二」

「あの時は大丈夫だった。だけど、あいつを封じ込めていた殺し屋から足を洗って何年も経って、だったらまたいつ目覚めてもおかしくないんじゃないかって」

「英二──」

 そこでようやく英二の声を遮り、背中を撫でるようにして肩を抱く。身体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「わかった、もういい」
「足を洗ったところで汚れた手は綺麗にはならない、悔谷も澤もそう言った。金を貰って殺した罪も消えないし、あの気狂いも消えて無くなったわけじゃないんだ。俺だってわかってる」

 英二は再び両手を開き、自分の肩を抱く椎多に見えるように差し出した。

「俺の手も血まみれだ。そんな手で俺はおまえと抱き合ってたんだ。見えないか?」

​ いつか、椎多が英二に投げた言葉をそっくりそのまま投げ返す。

「洗っても洗っても綺麗にならなかったとしても、汚れてないふりをして生きていくことなら出来るかもしれないって、そう思ってやってきたけどやっぱり逃げ切ることなんか出来なかった。やっぱり──”とんだ甘ちゃん”だよ、俺は」
「もういい、英二。悪かった」
 抱いた肩を引き寄せて、自分の肩にもたれさせて髪に鼻先をつっこんだ。

 思い出せる限りの英二の姿をいくら思い浮かべても、かつて不良少年だった頃共に喧嘩に明け暮れたりしていた頃ですら、英二に快楽殺人の傾向があるなどとは微塵も感じなかった。

 椎多の胸を切り裂いたナイフも、英二の中の”それ”を目覚めさせることはなかった。

 英二の話が事実なら、"それ”を隠し通すことにも大きな労力が必要だった筈だ。
 まして、今はそれから足を洗って過去を後悔しているのだとしたら。

​ くそ、何が”お坊ちゃん育ちの甘ちゃんで、クソ真面目で不器用なつまんない男”だ。

 こいつはそう見えるように振る舞ってただけだったんだ。

 俺と同じ悪臭を、くっせえ芳香剤で消してただけだった。

 俺は──

 あんなに何度も抱き合って絡まってひとつになったのに、こいつの何も気づきも出来なかった。

 突然無性に愛おしくなって、俯いて椎多の肩にもたれたままの英二の髪を引っ張って顔を上げさせる。接吻けると英二は無言のまま椎多の背中に両腕を回して抱きしめた。その勢いでシートの上に押し倒されたような形になる。

 飢えていたように貪りあううち、椎多の手が英二の服の下の素肌をまさぐり始めていた。

 おまえが本当に俺と同じ悪臭まみれの世界にいたのか今度こそ嗅ぎ取ってやる。

 

 大きく腕を伸ばし、英二を再び座らせると椎多はそのベルトを緩め、中ですでに熱を持っているものを引っ張り出すと口に含んだ。乱れた息が頭上から降ってくる。その先へ導くために、自分で自分のベルトを緩めるとその隙間から英二の手が滑り込み、指を立てる。蠢きだすそれに椎多の舌が呼応してゆく。やがてどちらからともなく体勢を入れ替え、椎多の背後から繋がる。

 これまで何度も何度もこうして繋がってきた筈なのに──

 初めての男とのような錯覚に陥った。

「英二」

 揺さぶられながら名前を呼ぶと、乱れた息とともにうん、と声が聴こえた。

 肩越しに振り返ると、見慣れた英二の顔が見える。

 自分の腰を支えている英二の両手をとり、その掌に満遍なく唇を這わせた。それに英二がびくりと反応したのが繋がった身体に伝わる。

「俺にはきれいすぎる手よりそれくらい汚れてる方がいい」

 その声を合図のように動きが増した。

 止まったあと、離れようとする英二を椎多が押しとどめる。

「まだもうちょっとだけ──」

 着衣のままの上半身で背中から抱きしめる。

「愛してるよ」

 整い始めた息にまじって言った。

「多分、この車に乗る前の何倍も。出会って別れてまた出会って今までで──最高に、今、おまえを愛してる」

「椎多──」

「どうするかな。まだ離したくない」

 英二が再び熱を持ち始めていることを察知した椎多は笑って英二を押しのけ、別のとこでちゃんとやり直そうぜ、と言った。

 英二の目が潤んでいるのは、行為の余韻だけではないのかもしれないけれど、椎多はそれには気づかぬふりをした。

 

 と、まるでタイミングを計っていたかのように椎多の携帯が鳴った。空気読めよ、と小さく呟いてそれでも通話を取る。

「……そうか、わかった。よくやったな。気をつけろよ」
 短い会話で通話を切った。賢太からだった。

 計画通り例の代議士を揺さぶり、この街のオープニングの妨害を企てていた企業との関係をひとまず清算させることに成功したという。突然の代議士からの通告でその企業内では混乱が起きている。それに応じて妨害の実行を委託されていた下部組織や暴走族などにも混乱は広がっていた。指揮系統が動揺していることで実行を見合わせることもあるだろうしそんな状況で実際に動くやつがいてもこちら側で収拾は可能だと賢太は読んでいる。あとは例の代議士とこちらがわの関係をさらに強化するのも兼ねて金か女でもつかませておけば当面は何とかなる。

 賢太はここを足がかりに更に澤について調査を進めると言っていた。


「………焦るなよ………」
 

 切ったあとの携帯を握ったまま呟き、椎多は簡単に衣服を整えるとカーテンを暖簾のようにくぐって運転席のKに行先の変更を命じた。

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「どうして電話してきたの?」
 香水の匂いがぷんぷんする。昼間はびしりとしたスーツに身を包み、きびきびと働く有能な常務秘書だとはとても見えない。
 派手な化粧。露出度の高い服装。濃厚な香水。
「あんたが電話番号教えてくれたからだよ。あんたみたいないい女の電話番号なんてなかなか手に入らねえからな」
 女は大声で笑った。どこか下品な笑い方だ。会社では絶対に見せない表情だろう。
「あれから何日も経ってないじゃないの。あたし、そんなに悦かった?」
「そりゃもう最高」
 賢太は心にもない台詞を並べ立てた。普段は当たり前のように奉仕することが仕事のこの女は嘘臭いおだて文句に他愛無く反応している。
 澤の女なのだろうが多分その常務とも関係しているのだろう。ひょっとしたら例の代議士とも寝てやっているかもしれない。しかしこの女に悲壮感はない。おそらくセックス自体が好きなのだろう。

「火」

 女の湿った声に我に帰る。見ると女は真っ赤に塗った唇に煙草のようなものを咥えていた。
 ライターを取り出し点けてやると女は旨そうにそれを深く吸い込み、その煙を賢太の顔に吹きかける。それを吸い込んで一瞬目がぐらついた気がした。
「あんたもやる?」

 

──マリファナか…いや、ちょっと違うな。
 

 いずれにせよただこの女と寝るのが目的で来たわけではない。一緒にラリってしまったのでは話にならない。
「いや、俺は………」
「なによ、はっぱ吸う度胸もないの?がっかりね」
 不機嫌に苛々と足を組みかえる。そのたびミニスカートの奥がちらちらと見え隠れしている。わざとなのかもしれない。


──仕方ないな…。
 

 機嫌を損ねては聞き出せるものも聞き出せない。草程度なら自分を失うほどトンでしまうこともあるまい。
 賢太は女の口からそれを取り、自分の口に咥えた。
「もっと吸い込んで」
 そう言いながら女は賢太に身をすり寄せタンクトップの裾から細く白い指をしのばせてきた。甘ったるい香りが鼻をつく。女は賢太の耳に唇を寄せると軽く噛んだ。

 耳に口紅がついたかもしれない。

 賢太の頭に浮かんだのはそれが最後だった。

「おはよう」

 男の声が聞こえる。
 頭が痛い。
「あれは特製でな。あの女にはあれの効果がなくなる別の薬を前もって飲ませてたんだ。意外と簡単な手にひっかかったな」
「………」
「そんなことじゃいつ殺されても不思議じゃねえぞ。今までよくやってこれたな」
「………」
「昔、渋谷修一も世話んなったみたいだなあ、あんたには」
 視界がぼやけている。しかし確かに聞き覚えのある声。声を確認するまでもなくまして顔が見えなくてもその台詞だけでわかった。

──澤、康平。

 のろのろと顔を動かすと、同じホテルの室内のようだった。女の姿はない。
「またやってくれたようだな。チンピラかと思ったらいろいろ仕掛けてくれるじゃねえか。面白え」
 澤は賢太の脇に腰掛けるとにやりと笑った。
「なあ、どこまで情報を仕入れてるんだ?教えてくれよ」
「……何のことっすか」
 澤は愉快そうに笑うと賢太の腹を掌で撫でるようになぞっている。
「まあ、時間はたっぷりある。色々聞きたいこともあるしな」
 頭の奥が痺れたままだ。
 賢太はベッドに横たえられたまま身動きひとつ出来なかった。

 

 あれから何時間──否、何日経ったかもわからない。
 ようやく頭が晴れてくると、オープニングイベントが無事に終わったのかだとか椎多や睦月が心配しているだろうかとかそんなことが頭をよぎる。
 以前、Kに暗示をかけてもらったことがある。
 拷問や自白剤などを使われても決してあらゆる秘密を漏らさないように。
 だから、自分の意識は朦朧としていたけれど少なくとも椎多の会社や組に関する機密事項は喋らなかった筈だ。


 全身が痛い。
 指を何本か折られた。きっともう曲がったままになってしまう。爪も何枚か剥がれた。手足は折られこそしなかったが左肩が脱臼している。それから──

 意識が朦朧としていて助かったのかもしれない。記憶が鮮明だったなら──と思うとそれだけで吐きそうだ。

 さっきから歌が聞こえている。
 優しい歌だ。綺麗な声だ。
 どこかで聞いたことがある。


 そっと、賢太は頭を持ち上げられるのを感じた。思ったより身体は痛まない。
 持ち上げられた頭がなにか暖かく柔らかなものの上に置かれる。
 目を開けると、悲しげに微笑んで自分を見下ろしている女の顔が目に入った。

──葵ちゃん……?!

 しかし、声が出なかった。
「黙っていて。もう少し眠って。かわいそうに」

──何者かに連れ去られたはずの葵がなぜ澤と……

 歌に気をとられて思考が進まない。
「手当てをしてあげるからそれまで眠って、いい子だから」
 優しい手の感触が腫れ上がった目元を覆い隠す。

 賢太はその言葉に誘われるように深い眠りの淵へと落ちていった。

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*Note*

満を持して(?)睦月登場。この人も実は最初に書いていた時に展開に困って出してみたら気に入ってしまってどんどん過去に遡って属性が追加されていった人です。なので加筆修正のどさくさにこの話以前の話にも名前くらいは仕込んでおきました。TUSを書いた時には当然存在のかけらもなかった人だったけど「罪」の章の方にはしれっと登場してきます。ついでに言うと紫さん生きてたらバージョンの方では大活躍です。

 それから英二が椎多に過去を告白する段、一番最初はこれの5分の1くらいのボリュームだったような気がする。前回の加筆の時はシゲさんの設定がだいぶ固まってたこともあり英二が何に苦悩していたのかあたりも多少触れてはいたけどやっぱりこれの3分の1程度のボリュームでした。今回はさらに英二が殺し屋にならざるを得なかった肝の話をすでに書いて完全に固まったおかげで英二が何に苦悩してなんであんなウザいキャラでいたのかというとこまで掘り下げてやった。ついでにカーセまでさせたったわ!←別にそこまでせんでもええのに…いいんですジャンルBLなんでなんかあったらやります(達観)。こいつらのカーセを書いてしまったので、ケンタちゃんの拷問の中にアレが含まれていたことはそっと流しておきました(オリジナル通り)。康平、後ろはガチのドSの人に開発されたから拷問する時はそれに倣ってやってそう。(2021/8/3)

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