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大 人

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 マイクに向かって淡々と挨拶を済ませると茅優は深々と頭を下げた。


「ああいうのをそつがない、と言うんでしょう。あんな事があった直後にあれだけ堂々と喪主の挨拶が出来ればたいしたものですよ」
 独り言のように高井が言った。
 やはり独り言のように椎多もそれに同意する。
「次男でちゃらんぽらんにやっているように見せて実は抜け目がない。ああいう男は完全に敵に回すとややこしい」

 

「いいかげんにして下さい二人とも」
 

 申し合わせたように椎多と高井が一斉に声の主に顔を向ける。
 声の主──茜は、集められた視線に逆に驚いたように少し気まずい表情で視線を正面へ投げた。
「──不謹慎でしょ。あとにして下さい」
 椎多は肩をすくめ、高井は苦笑して申し訳ありません、と言った。

「いかがですか、茜さん。理事長もずっと会いたがっておられるのですから──折角の機会です、嵯院様もご一緒に」
 駐車場へ足を向けながら何気なく高井が切り出した。
「高井さん」
 椎多が口を開こうとするのを遮るように茜が一歩前に出る。
「今日はここで失礼します。近いうちに必ず会いに行くから、と祖父には伝えて下さい」
 高井は一瞬食い下がろうとしたのだろう。僅かに表情が動いたが、しかしすぐにそうですか──と引き下がった。


「あれは、どういう男だ」
 車に乗り込むなり椎多が切り出す。閉じたドアの向こうではまだ当人が腰を折ってこちらを見送っていた。
「自己紹介してたでしょ。多分俺の生まれるもっと前からずっと祖父の秘書をやってた人です」
「そんなことは聞けばわかる。おまえのじいさんの言動に影響を与えるだけの力を持っているかどうかだ」
 茜はちらりと車の背後を振り返った。もうそんな姿はとうに見えなくなっている。
「俺が知るわけないでしょう。ただ祖父は彼を絶対的に信頼しているのは確かだと思います」
「なるほど」
 椎多は何か考え込んでいる。茜もそのまま黙り込んだ。車内を奇妙な沈黙が流れる。


「おまえ、怒ってるだろ」
「は?」
 意外な質問をされたような顔をして茜は椎多の顔を覗き込む。これはこいつの癖なのかもしれない、と椎多は思った。
「……怒ってたわけじゃありません」
「おまえな──」
「俺はあなたが思ってるほどお人よしのおめでたい人間でもありませんよ」
 茜にしては珍しく、それは言葉とは裏腹に怒ったような口調だった。
「椎多さん、言ったでしょ、そんなに心配かって。父が倒れた日です」
 無言で頷く。
「あの時だって本当に心配してたわけじゃない。何を考えてたか教えてあげましょうか」


 テレビで生中継された、父親の倒れた場面。
 茜を亡き者にしようとしていた、血の繋がらない父親の──


「高井さんから父の死亡を告げられたとき、俺はいい気味だと思ってました」
 じっと──椎多は茜の口の動きと、何度か繰り返されるまばたきを凝視めていた。
「安心したしざまを見ろと思った。そんな風に思った自分がなんだか嫌だったんです」


 ぷうっと。
 椎多は吹きだした。
「それをおめでたいと言うんだ。おまえの命を狙ってた親父だぞ。死んだ、助かった、いい気味だ──思って当たり前だ」
「でも」

 自分を脅かし、母を幸せにすることが出来なかった男。
 あの男がどんな風に息絶えるのか、それを見てみたいと思った。
 そんな思考回路が自分の中に存在することが厭わしい。

 

「俺は医者だもん、人が死ぬのをいい気味だなんて思いたくない」
 わかったわかった、どれだけおまえがおめでたいか──椎多はいつまでも笑っている。
 笑いながら──

「優さんがおまえを憎む気持ちがちょっとわかった」

 

 と、言った。

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 そういえば、祖父の元を訪ねるのは随分久し振りだ。
 茜は前回この屋敷の門をくぐったのはいつだったかを考えていた。確か、嵯院邸に入る前に赴いていた戦地へ出発するより前だからもう3年くらいは経っている。

 子供の頃は所謂おじいちゃん子だったから頻繁に祖父宅へは足を運んでいた。茜にとっては唯一心からリラックスできる場所は祖父の家だったのだ。


 しかし成長して祖父が茜自身の意思を無視して院長の後継者として推すようになった頃から、そこも茜にとって安心できる場所ではないのだという認識に変わっていった。疎遠になっていったのはその為だ。


「──お久し振りです」


 祖父は床に就いていた。体調がすぐれぬというのは嘘ではなかったのだ。

 いや、それどころか──

 いわゆる介護ベッドで上半身は起き上がった状態ではあるものの、祖父は虚ろに濁った眼を微かに動かしぽかんと口を開けたままでいる。茜はこういう状態の老人をこれまでも何度も見たことがある。
「体調が思わしくないとお聞きしたんですが、これは……」
 "体調"などというレベルではない。何が風邪ひとつでも──だ。

「……何しにきた」
 ひどく弱々しい声で、祖父は言った。大きくよく通る声だった祖父の声が別人のようだ。
「雛子を頼む、と言った筈だ。君には本当に期待していたのに、雛子は泣いてばかりだ」
「──お祖父さん?」

 

 雛子、というのは母の名だ。
 祖父は──
 目の前にいる茜を、父の洋と勘違いしている。茜は頭を上げて高井を振り返った。


「……高井さん、祖父はいつから」
「3年ほど前でしょうか。前に茜さんが来られた時にはすでに少しずつ認知症の症状は始まっていましたが……半年ほど前に足が萎えて寝たきりになってからはどんどん進行しまして」

 半年ほど前ならもう茜は帰国して嵯院邸に勤めていた。
「どうして教えてくれなかったんです。こんな」

 茜を茜だと判らなくなるほどになるまでに──

 祖父は茜と高井をすでに無視してぶつぶつと何か呟いている。高井はその顔をちらりと一瞥すると茜に視線を戻した。
「院長派にこの事を洩らしたくなかったので──申し訳ありません」
 高井と入れ違いのように祖父の顔をじっと見つめる。恰幅がよく顔にも声にも張りがあって年齢よりかなり若く見えていた筈の祖父は、しなびて貧弱なただの老人に成り果てていた。
 ふと、疑念がわきあがる。

──では。
──俺を院長に推していたのは。

 茜の視線の意味をすぐに悟ったのだろう。高井はどこかさっぱりとした表情で微かに笑みを浮かべた。
「あなたを院長に、というのは理事長のご意思ですよ。ここまで進行するまでは他の何を忘れてもそればかり仰って。私はそれを遵守すべく動いております」
 戸惑い、納得のいかない心情が表情にも出ていたのだろう。高井は念を押すように茜に正対してもう一度口を開いた。
「理事長はこの状態でも、茅病院の将来を案じておられるのです。今日はこういう状態ですが調子が良い時ならやはり病院のことあなたの事を真っ先に口にされます。
あなたにお任せできたらどれほど理事長が安心されるか──」
「高井さん、俺は」


「お願いします──この通りです」


 高井はその場に身を屈め、床に手をついて深々と頭を下げた。茜が慌てて膝をつきそれを遮ろうとする。

「やめて下さい高井さん」
「あなたにこの件をお引き受け頂き理事長にご安心頂く。それが私の最後の仕事だと思っております」
 高井はなおも床に頭をすりつけて懇願した。
「頭を上げて下さい高井さん。困ります」
 本当に困ったように茜が高井の肩を揺らす。

 何故それほどにまで、血筋なんてものに拘るのか。
 なまじ親族で繋いでいこうとするからこんなことが起こるのだ。
 いっそ赤の他人に任せてしまえばふっきれるのではないのか──

「そんなことをされても、それだけは引き受けられない。だからもうやめて下さい」
「ここまでお願いしても駄目だと仰るんですか」
 漸く、高井は顔を上げた。
「……祖父が心から尊敬していた曽祖父はきっと、こんな事は望んでいなかった筈です」

 

 生前の曽祖父など茜が知るわけがない。
 あの写真と、祖父の話でしか──
 しかし、あの写真に写っていた曽祖父は、病院を大きくして子孫に冨を残そうなんて考えていなかった──何故かそんな気がする。
 その気になればあの写真に写っていた天月家とのパイプを利用して、祖父の代を待たずしてもっと大きな病院にすることだって可能だった筈だ。だが祖父の昔話によれば、祖父の子供の頃は家は非常に貧しかったのだという。それを大きな病院にしたのは祖父の力だ。
 祖父は祖父なりに、尊敬する父に老後楽をさせてやりたい、そして自分の妻子に自分の幼少時代のような貧しい暮らしをさせたくない──それだけを考えて病院を大きくしていったのだと思う。


 だから、茜は祖父が好きだったのだ。
 

 いつから、こんな風になってしまったのだろう。
 自分の血筋をひかない者を排除しようとしてまで──


「こんな風に争ってばかりいたら、茅病院じたいが無くなってしまいますよ」
「茜さん……」
 茜はゆっくりと高井を立たせると、もう一度祖父の顔を見下ろした。
 いつのまにかぐうぐうと鼾をかいて眠っている。
「俺が言うのも変だけど、長年祖父に仕えて下さってありがとう。最後の仕事を達成させてあげられなくて申し訳ありません。祖父を──よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると茜はそのままその部屋を後にした。高井が見送ろうとしたがそれを断る。
 茜は──少し、泣きそうな顔で微笑んだ。

 茜を見送ると高井はスローモーションのような動作で扉を閉じ、ベッドに寝かされた老人を見下ろす。
「理事長──」
 小さく微笑み、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。老人はまだ鼾をかいていた。
「全く、あなたの孫ですよあの人は。雛子さんもそうだった。強情で、肝心のところは絶対に譲らない」
 高井は呟くように、聞くもののいない言葉をぽつぽつと落とした。

──強情だけど茜さんは優しすぎる。それから『きれい』すぎる。
──あなたの後継者には向きませんよ。

 かつて香坂洋にロボットのようだと評されたその表情を複雑に変化させながら、高井は指を伸ばして老人の額にかかった薄い髪を掻き分けた。


「茜さんはもうあなたの小さな孫じゃない。自分の人生を自分で決めて生きているんですよ。憎らしいですね」


 くす。
 笑い声が洩れた。

 

──もう──いいでしょう。

──おとうさん。

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 乗り心地のいい高級車だがどうも馴染まない。
 祖父宅へ行くのに護衛をつけろという椎多の『命令』との妥協案で、行き帰りの送迎車にだけはおとなしく乗ることにしたのだがどうもこういう車には乗り慣れていないので座りが悪い。


 茜は自分の乗る車は自分で買うものだという信念があったので最初の車は中古の軽自動車だった。かなり安価だっただけに相当古かったが大事に乗っていたものだ。その車も──
 考えてみれば不自然なブレーキ故障で事故を起こし、廃車になった。茜自身も運良く軽いむちうち程度で済んだものの下手をすれば命を落としていたかもしれない。


 あれは父が指示したものだったのだろうか。

 秀行?優?それとも本当にただの事故だったのか?
 例えば、もしあの時徹底的に調査して真相を明らかにしていれば?
 もしも──


 嵯院からのオファーを知る前に祖父の認知症を知っていたら、自分はどうしただろう。
 椎多と出会う前だったなら──
 あんな風に高井に土下座されていたら俺は断り切れなかったかもしれない──

 嵯院邸に帰り着いてそのまま自分の仕事場である『医務室』へ向かう。
 まだ夕刻だった。椎多はまだ社にいるだろう。


 無性に椎多の顔が見たい。
 

 椎多の言う大人ぶってすましたやつ──で今はいたい。
 呼吸するというのはこんなに力が要っただろうか、とふと思った。息を吸ったり吐いたりする度に喉だの腹筋がいつもと違う運動をしているような気がする。医務室のドアの前に立った時には肩まで震えてきた。


 鍵を開けようとして、それが既に開いていることに気付いた。
 鍵は閉めていった筈だ──と思いながらノブを回し、中を覗き込んだ。


「おう、おかえり」
 

 医者としてはこういう表現は如何なものか、心臓が跳ねたかと思った。
 椎多がそこに座って何やらスナック菓子をつまみながら雑誌を開いている。
 なんでこんな時間にいるんです──と言う前に、椎多が不思議そうな顔をして立ち上がり──
 妙に、優しい顔で微笑った。


「なに泣いてんだ」

「え?」
 椎多の親指が茜の頬を少し乱暴に拭う。


 俺は、泣いていたのか──
 

 ああ、だから喉や腹筋や肩が痙攣でもしているように震えていたのだ。
 茜は倒れこむように椎多を抱きしめ、肩に自分の頭を預けた。
 椎多は、何も訊かなかった。ただ、茜の背中や首筋や髪を優しく撫でていた。
「……なんでそんなに優しいんですか。気持ち悪い」
 涙が止まらないのが恥ずかしくて顔を肩に埋めたまま呟く。その途端、髪をぎりっと引っ張られた。
「憎たらしいやつだな。泣きたい時は黙って素直に泣いとけ」
「だって、なんか子供みたい、俺」


 子供みたい──
 けれど、子供の頃に遡ってもこんな風に涙が止まらなかった記憶は、茜にはない。
 母に叱られた時も。父や兄たちに苛められたり殴られたりした時も。
 恋人が自殺したという報せをうけた時も、その遺書を受け取った時も。そして母が亡くなった時も。
 悲しさや悔しさは今の何倍もあったと思うのに、そういえば自分は泣かなかった。
 涙を流しても、それを受け止めてくれる人間がいないことがわかっていたからだ。


「普段嫌味なくらい大人ぶってるんだからたまにはガキっぽくしてろ。年下の癖に」
 椎多はぶつぶつ言いながらポケットからハンカチを取り出し、茜の顔に押し付けた。それからあくまで雑な動作で茜の腕を引っ張り椅子にかけさせる。


 椎多の悪態が耳に心地いい。
 

 それから茜の涙が落ち着いて今日あった事を自ら話し始めるまで、椎多は再びスナック菓子に指を伸ばし、雑誌をめくっていた。

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『特別』というだけあって、社長の来客の中でも超のつくVIPが通されるだろう応接室にひとりぽつんと座らされてすでに10分は経過している。


 茜が椎多の会社に呼び出されたのは週明けの午後のことだった。ヨーロッパから取り寄せたらしいアンティーク家具だとか、置物だとか絵画だとかシャンデリアだとかカーペットだとかバカラの灰皿だとか──ひと通り目を配り終えると出された茶に手を伸ばす。もう殆ど冷めたかなと思っていると計ったように女性秘書がそれを新しい茶と取り替えに来た。
「申し訳ありません、社長は間もなく参ります」
 茜はいいんですよ、と微笑むとソファにもたれかかって溜息をついた。


 基本的に茜はいつでも屋敷にいるのだから、わざわざここに呼び出したというのには何か意味があるのだろう。
 諦めたように茜は今度は家具の細かい装飾を丹念に目でなぞり始めた。


「待たせたな」
 丁度、テーブルの脚の部分を腰を折るようにして覗き込んでいる時に椎多が騒がしく入ってきた。茜の姿勢を見て何やってるんだ、と苦笑する。そして背後を振り返りどうぞ、と声を掛けた。
 椎多のあとをついて入ってきたのは──

「茜、優さんが正式に院長に就任されたそうだ。今日はわざわざその挨拶に来て下さった」

 優は茜の姿を認めると無表情と言っても差し支えないような作り笑顔で小さく頭を下げた。椎多は茜を下座の自分の隣に座らせ、優を上座に座らせる。ほどなく秘書が新しい茶を運んできた。
「こんなに早く順番が回ってくるとは思っていなかったので戸惑っているんですよ。しかもあの騒ぎでしょう、いきなり面倒ごとが山積していて私のような小者には荷が重い限りです」


 椎多は何故この場に自分を呼んだのだろう──
 居心地の悪い思いをしながら茜は兄と椎多の顔を見比べた。


「ご謙遜を。今回の補償の件でも前院長の件でもそれからお兄さんの件でも、結局あなたがうまく采配してまるく収めた、と聞いていますよ。お見事です」
 優は皮肉な笑みを浮かべると一旦視線を落とし、茜に視線を移した。
「理事長側がお前を擁立するのを断念したそうだからな。おまえが正式に断ったのか」
「ああ……俺は今の仕事があるし、それに前から言ってたけど院長なんて人の上に立つような仕事は向いてないからね」

 優は無表情にすら見えていた顔を突然崩して嫌悪を顕わにした。
「優さん──」
 椎多の声。

「あなたが茜を憎く思う理由を教えてあげましょうか」

 

 虚をつかれたように──
 同時に、優と茜が椎多を見た。
「優さん、あなたはね。俺と同じ種類の人間だ。だからわかる」


──優さんがおまえを憎む気持ちがちょっとわかった


 父の葬儀の後だったか、椎多が言った言葉が頭に浮かぶ。
「茜を見ていると自分がひどく汚れた人間に思えてくるんですよ。だから、汚したり壊したり消してしまったりしたくなる。違いますか?」
「───」
「茜はそんな風に思われていい迷惑かもしれない。意識しているからこそそこまで行ってしまうんですよね。興味のない相手ならそこまで思わない」
「嵯院さん、仰ってる意味がよくわかりません」
 椎多はにっこりと微笑んで座り直した。優は先程までとはうってかわった厳しい顔でそれを見ている。


「あなたは勘違いしてる」
 

 テーブルの上の茶を一口すすり、茶托に戻す。
「茜は確かにおめでたい奴だがあなたが妬みたくなるほど清らかでまっすぐな人間じゃありませんよ」


 自分はきっと今妙な顔をしているだろうな、と茜は思った。やっぱりおめでたい人間だとは思われているのだ。
 

「そのへんの飲み屋でナンパして名前も知らない相手と寝たり、いい年をして回りの心配も省みずに危険な戦場を渡り歩いたりホームレスにまじって生活したり。外面はいいが目上の人間に対する態度も実は全然なってない。すぐ人をこばかにするし察しは悪いし医者として本当に腕がいいのかどうかも怪しいもんだ。あなたたちのことだって『いじわるな血の繋がらない父や兄たち』だなんて陰口を叩いてた。そのくせ本音をぶちまけられるような友達もいなかった。一度ひん曲がって捩れて元の位置に戻ってるから一見まっすぐに見えるだけだ」


 散々な言われようだ。
 優は、ますます表情を強張らせている。

 

「ただ、私やあなたがたよりずっと人の命は重たいものだということを知ってる、それだけです」

「──椎多さん、もうやめて下さいよ」
 恥ずかしくて顔から火が出そうだ。何が恥ずかしいのかはよくわからない。しかし椎多は茜をきっぱりと無視した。無視して、軽く座り直すと表情を引き締める。


「優さん、私はあなたの手腕を高く評価しています。もちろん今ここで独断はできないでしょうが、私としては今後茅病院とビジネスの面で手を結びたいと思っているんですよ」
「何ですって?」
「ああ、ご心配なく。茜先生には今までどおり私の主治医としての業務を全うしてもらわなければ困ります。首の挿げ替えなんて考えていませんよ。それに──」
 ちらりと茜を見やる。それから再び優へと視線を戻す。
「全くの偶然ですが、茅病院の創始者である茅博貴さんには私の祖父が若い頃大変お世話になったそうです。そのせめてもの恩返しの為にも、是非私どもにバックアップをさせて頂きたい──ただ」
 優の顔に困惑を浮かんでいる。まさか、『嵯院』側からそんな申し出があるとは思っていなかったのだろう。
 また椎多の表情が変わる。くるくると目まぐるしい。


「私はこう見えても身内意識の強い人間でね。身内の人間に害が及ぶと見境がなくなるきらいがある」
 

 優には椎多の言葉の意味するところがすぐに理解できたらしい。
 個人的な軋轢はともかく──
 茜の身にもしものことがあれば、証拠の如何に関わらず優を容赦なく叩き潰す──と宣告しているのだ。


「──お申し出は大変ありがたいものです。仰る通り即答はできかねますが、前向きに──出来るだけ早く回答させて頂きます」
 優はただ苦々しい顔を伏せ、そう答えるよりなかった。

 こういうやりとりを見るのは茜は好きではない。しかし、椎多と優では役者が違うな、と思った。
 退出しようとしている優は何を思っていただろう。
 執念深い優のことだ。もしかしたら将来椎多を見返すことを心に誓っているかもしれない。

「優さん」

 秘書に案内され退出しようとする優を椎多が呼び止めた。
「雪の中の梟は真っ白で汚れを知らない美しさに見えるけど、彼らは肉食です。鼠なんかを獲って食べるんですよ。生きる為に白い羽根を汚しながらね」
 振り返った優はどこか痛そうな目をした。

「だからといって蔑む理由もなければ逆に見た目が美しいからって神聖視する必要もない。彼らにとってそれが生きるということなんですから。……他人の私が言うのもなんですが、そろそろお母さんの幻影から卒業なさればいかがですか?」

 何か答えようとしたのだろう、優の口元が微かに動いたがそれはただ笑みの形を作っただけだった。
 そして、無言のまま深く礼をしてドアの向こうへ姿を消した。

 優の分の茶を下げに来た秘書がドアを閉じると、椎多はようやく力を抜いたように煙草に火をつけた。
 バカラの灰皿に惜しげもなく灰を落としてゆく。
「まあ、心配するな。あいつは馬鹿じゃない。感情と利益を秤にかければ利益をとるくらいの分別もあるし負け戦はしないタイプだ」
 茜の心中の不安を見透かしたように呟く。当面、茜の命を狙う者はいなくなったと思っていい。
 だからと言って、優が茜を憎む気持ちが消えたというわけではないだろう。それでも──


 もともと、誰からも憎まれずに生きていくのは難しいのだ。

 

「──大人ですから、ね」

 苦笑のように、笑ってみせた。
「椎多さんが俺のことをどんな風に思ってるかもようくわかりましたから」
「俺は本当のことしか言ってないぞ」
「はいはい、そうですよね。全部本当です」
 煙草を消して立ち上がり茜の側まで足を進めると椎多はいきなりその口角をつねり上げた。
「いててて何するんですか」
「そういう憎たらしい言い方をするのはこの口か、ん?」
「そんな事言われたって」

 頬をつねり上げた状態のまま──
 愉しげに口元を笑わせたまま──
 軽く、かするように接吻けた。


 茜は椎多の指をゆっくりと解き小さく吹き出す。
「今夜部屋にお邪魔していいですか?」
「酒とつまみ持参ならな」


 自分の酒は実は椎多に殆ど飲まれている──
 そう思いながらもう一度、茜は笑った。 


 

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*Note*

茅病院のお家騒動はこれで一件落着です。あとエピローグ的な話が新作まじえて二編。

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