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息 子

 妻の陣痛が始まったと知らせを受けたものの、七哉はただふうん、と答えただけだった。


 予定日はまだ随分先だ。かなりの早産になる。
「……七さん、こんなときくらい屋敷に帰りなよ。あたしは平気だから」
 七哉の前にぺたり、と座りリカは笑っている。
「俺が帰ったところでお産がすんなりいくわけじゃないだろ」
「ばか。初めてのお産で不安じゃないわけないでしょ。たまには優しくしてあげたら?」
 そもそも、その女の父親が経営していた企業が欲しくて進めた結婚だ。その目的はまもなく達成する。子供が出来ていなければ妻もその家族も、家族旅行かなにかで事故にあってもらうところだった。
 のし上がる足場程度にしか考えていなかったこの家族に対してふと手が緩んだのにはどこか罪悪感のようなものでもあったのか──
 どうせ邪魔ならば妻が妊婦でその子が自分の子だったとしても、それまでの七哉であったなら構わず処分していただろう。しかし七哉はそうはしなかった。

 その妻がもうまもなく出産する。

 とはいっても、妊娠中も七哉はほとんど妻と会話していなかった。会話どころか顔を合わせることすら数えるほどだった。妊娠前にましてその回数は減っている。休日はもちろん平日の夜もリカのところでなければ別の女のところに行っていて、折角購入した大邸宅に戻ることがあまりない。今更陣痛が始まったからといって妻のもとで手のひとつも握ってやる気になどなれなくて当然だった。

 むしろ当事者よりも周囲の人間の方が、生まれる子供は男なのか女なのか、無事生まれれば後継誕生でめでたいだ何だと落ち着きがない。

「ばかばかしい。俺は能力もわからん赤ん坊を無条件で後継者に決める気なんかないぞ」

 その言葉の裏には、いかに自分の血をひいていようがあの妻の産んだ子供に全てを譲るのは危険ではないか、という懸念が隠れている。

「組のほうの後継者は決まってるぞ。紫にやらせる。な?」
 少しぼんやりと七哉とリカのやりとりを見ていた紫はいきなり水を向けられ、ただ少し首を傾げた。リカが小さく失笑している。
「16でヤクザの組長の将来が約束されるっていうのもどうなのよ。紫、七さんあんなこと言ってるけどあんたはいいの?それで」
「……七さんがやれっていうなら」
 七哉が得意げな顔をしている。リカは吹き出しながら紫の肩を勢いよく叩いた。
「やだこの子ったら普段ろくに喋らないくせにこういう時だけははっきりものを言うのね」

 リカが笑うとその場が花の咲いたように華やかになる。居心地の悪い気分になるときもあるが紫はそれが決して嫌いではなかった。
 もしもリカに子供ができたら七哉は迷わず妻と離婚してリカと結婚するのだろう。はたから見ていてもそれが一番しっくりくるような気がした。

 あとで知らされたことだが、七哉の妻の出産は難産だったという。
 逆児だった上に臍帯が首に巻きついていて、分娩直後には呼吸が止まっていた。医師の尽力でなんとか息をふきかえし、産声をあげた我が子を母親は腕に抱こうともせず、無理に生き返らせなくてもよかったのに、と呟いたという。

 男の子だった。

 

「……片手ででもひねりつぶせそうだな」
 誰に言うともなく七哉は呟いた。最初に我が子を見たときの感想は、あまりに小さくてこれが育って人間になるというのが信じられない、というくらいのもので、父親としての感慨がさほどわくものでもなかった。
 しかも、あの女の股から出てきたのかと思うとどうも気持ちが悪い。
「ねえ、この子七さん似だよ。目、あいたらきっと七さんそっくり。あと鼻はおじいちゃん似かなあ?」

 リカがはしゃいでいる。女心というのはどうもよくわからない。

 どこをどう見れば自分に似ているとか自分の父に似ていると見えるのかもよくわからない。父など七哉が中学生の頃に他界していてリカは写真しか見たことはないので尚更だ。


 出産後、妻は息子に触れようともしなかったという。未熟児ということもあり看護婦が面倒をみていた。
 もう少し頭のいい女であったら、例え憎む男の子供であっても母親である立場を最大限に利用しただろう。しかしそれすら思いが至らないほど、まるで怯えているかのように我が子に近づきもしなかった。
 その赤ん坊を哀れに思ったのか。リカはしきりにその、まだくしゃくしゃの顔をした自分ではない女が産んだ七哉の子供を可愛い可愛いと囃している。

「──こいつの母親になってやるか?」

 ほんの思いつきだった。
 実の母に触れてももらえないなら、可愛いといってくれる女に育ててもらった方がいいにきまっている。
「ほんとのかーちゃんになってやってもらうにはもうちょっと時間がいるけどな」
「……七さん」
 リカは唇を噛み締める。頬に喜びが溢れてくるのを懸命にこらえているように見えた。
 リカが母親になってくれるなら、この小さな生き物が自分の子供であるときっと思えるだろう。

 しかし、リカがその子供の母親になってやれる日は、永遠に訪れなかった。

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 切り刻まれたリカをそのままにしておくこともできず、骨と灰にした。


 その健康そうな白い骨が、つい数日前まで側にいて笑っていた女とはどうしても結びつかない。

 葬式も遺影も位牌もない。
 弔う言葉すらない。
 ただ目の前から消えただけだ。
 一度は激昂したものの、七哉はリカが殺されたという実感が持てないでいる。

 リカの愛した息子だけが、実の母親に首を絞められた恐怖が去らずリカの腕を求めてずっとぐずっていた。そのことが、すべて現実の出来事だったことを七哉の目の前に見せつける。


 紫は、リカが殺されたことを報告した日以来七哉から目を離せずにいた。一見落ち着いたように見えても感情の波がいつまた氾濫するかわからない。それでも、ぐずる息子をあやしながらソファに腰を下ろしたまま居眠りする姿を見ていたりなどすると、あの子がいてくれたおかげで思ったより早く立ち直ってくれるのかもしれない、などと思った。
 いつのまにか七哉の日常は元に戻っている。変わったことといえばリカと過ごしていた時間を屋敷へ戻って息子と過ごしている、ということくらいだった。

───それは七哉の日常のなかでかなり大きな部分を占めていた事ではあったのだが。

 その日、紫を所用で組事務所へ向かわせ七哉はひとりで帰宅した。
 もうかなり遅い時間にもかかわらず、息子はまだ寝付いてはおらず面倒をみていたメイドの手を焼かせている。七哉は息子を抱き上げるとメイドを下がらせた。
「どうした、椎多。今から夜遊び癖か?」

 ソファに腰掛け、膝の上に息子を座らせると自分の言葉がなんだか妙に思えてくすくすと笑いが洩れた。しかし椎多は半べそ顔のまま小さな手を拳に握って父の腕をぽかぽかと殴り、足をじたばたさせている。
「なんだえらくご機嫌斜めだな」

「……りかは?」

 ぎくり、と七哉の表情が凍りついた。椎多は更にぐずっている。
「ゆうえんちいくってゆったもん!りかとひこうきのるのー!」
 七哉の顔が苦しげに歪む。
「椎多、リカはな。帰ってこないんだ。ゆうえんちもどうぶつえんも行けない」
「いくってゆったもん!りか、ゆったもん!」
 椎多はついに大声で泣き出した。


「うそつきー!」


「椎多!」
 右手を思わず振り上げて寸前で思いとどまる。リカも、どれほど行きたかっただろう。遊園地の、子供だましな回転飛行機。それに乗ったリカと椎多が下から見上げる自分に手を振る。そんなささやかな望みさえもうかなわない。
 涙が溢れてきた。
 椎多の頭をくしゃくしゃとかきまわすとそのまま自分の腹に押し付け、抱きしめる。椎多はまだ手足をじたばたさせてぐずっていたが、やがて寝息を立て始めた。
 シャツの袖で自分の涙を拭うと椎多を抱えたまま立ち上がる。
 ベッドに寝かせ毛布をかけようとした時、小さく細い首が見えた。

 まだ、うっすらと赤黒い痣が残っている。

──あの女が、この細い首を絞めたのだ。

 やはり、とっとと殺しておけばよかった。
 そうすれば、リカは殺されずにすんだのだ。
 では、何故生かしておいたのだろう?
 ざわざわと、七哉の心の底のほうからどす黒いなにかが広がっていく。

──こいつが、生まれたからだ。

 椎多が生まれていなければ、妻を始末していたかもしれない。いや、そうでなくともあの女がわざわざ夫の愛人を殺しにいくことなどなかっただろう。真相はわからないまでも、おそらく妻の目的は我が子の命を絶つことだったはずだ。でなければリカだけを殺せばすむことだ。

──こいつが。

 生まれたことも母親から疎まれたことも命すら狙われたことも、この、まだ3歳の椎多に何の罪もない。そんなことはわかっている。しかし、椎多の体の半分にはあの女の血が流れているのだ。リカではなく、リカを殺したあの女の血が──
 こめかみの血管がどくどくと音を立てている気がした。

 息苦しい。
 喉が渇く。

 右手をズボンのポケットにつっこむとそこに入っていたものをなかば無意識に握り締める。
 それは、小さく華奢な銃。

 七哉の父が若い頃、理由は忘れたがなんでも身分の高い人から下賜されたという、もとは儀礼用の空砲を撃つためのものだ。掌にすっぽり入るほどの大きさで、細かい装飾が施されている。

 儀礼用ということではあったがなかなかしっかりした拵えだったので、銃器に精通している親友の喬に言って戯れに改造してもらった。実弾を発射することはできるものの射程距離はごく短く、弾も2発しかこめることができない。たいして実用的ではないが、咄嗟の護身用には十分使い物になるしポケットに入れてもさほど目立たないので七哉はよく身につけていた。
 それを、七哉はまるで魅入られたように眺めた。弾は常に2発、いつでも使えるようにこめてある。
 頭の中は氷のように冷えている。激情に駆られているわけではない。しかし七哉はごくりと唾を飲み込み、小刻みに震える右手に左手を添える。ゆっくりと、すうすう寝息をたてる小さな息子の額にその銃口を押し当てた。

 眠っていたはずの椎多が、目を開けた。

 

 七哉は大きく息を吸い込み、がちり、と撃鉄を起こした。

 額に押し当てた銃口から椎多がびくりと身を震わせたのが伝わってくる。目を大きく見開いて、不思議そうに父を見上げた。

──ねえ、この子七さん似だよ。
──目、あいたらきっと七さんそっくり。

 リカの声が耳の奥で響いた。

 再び、涙が溢れる。


 これは、リカが愛した子供。
 リカがここまで育てた子供。
 これは──リカの子供だ。

 七哉は左手で右手を押しのけるように銃口を椎多の額からそらすと強張った指をゆっくりと開き、慎重に撃鉄を戻し銃をその場に投げ落とした。

 そのままベッドの脇に膝を落とし、あとからあとから溢れる涙を堪えることもできず七哉はその場から動けなくなった。

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 ノックの音がして紫が入ってきたとき、七哉は眠る息子のベッドの脇に座ってその寝顔をみつめていた。
 簡単に報告を済ませて紫が自室へ戻ろうとすると、七哉が立ち上がりそれを呼び止める。


「おまえにこれをやるよ」


 微笑みながら紫の掌を広げさせそこへあの銃をのせた。
「──これは?」
「おまえもハジキのひとつくらい持っとけ。しかしまあおまえは丸腰でも全身武器のようなもんだからなあ、持つとしてもこんなもので十分だろう」

 七哉は笑っている。

 紫は少し不思議そうな顔をして、小さく頭を下げるとそれを尻のポケットに収めた。


 

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教会の窓

*Note*

​まあまあ鬱陶しい章の幕開けは昔話です。

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