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昔 話

 あなたの人生から彼らを取り除くことは出来ない。
 それはきっとあなたの人生を根底から抹消することだから。
 それでも時折私は思うのだ。

 あなたを彼から引き剥がしていたら、どうなっていたのだろうと。

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 形通りの新年の挨拶を済ませると睦月は勧めに従ってソファに腰を下ろした。

「睦月さんは本当に義理堅いわねえ。もうわたしなんて殆どあの世で暮らしているようなものなのに」
 向かい側に座っている老女はすでに齢八十を越えているが、きちんと和服を身に付けしゃんと姿勢を正している。睦月が初めてこの老女に会ったのは、まだ二十歳になるかならないかの頃だった。もうおよそ40年にもなる。

 老女──宇佐千代は、椎多の祖父が他界し七哉が組を継ぐまでの間の数年間組長を務めた宇佐孝治の妻である。
 七哉の生母は七哉を出産後まもなく亡くなり父も老齢になってからの子だったこともあり七哉が中学生の頃に亡くなった。その七哉を親代わりに育てていたのが宇佐夫妻だった。椎多にとっては会ったこともない実の祖父よりも、宇佐夫妻が祖父母のような存在である。

 夫・孝治が心不全で突然他界してからもすでに20年以上経つ。
 それからもずっと一人で生活してきたが、椎多に説得されこの介護付きマンションに居を移して数年が経過していた。

「お正月には椎多さんは来られましたか?」
「あの子は年末年始は毎年忙しいから、旧正月の頃になってやっとひょっこり来るのよ」
 睦月のために茶を淹れながら千代はふふふ、と笑いをこぼした。
「あの子、益々おじい様に似てきたわね。わたしがあの方に初めてお会いした時にはもう五十歳を越えてらしたと思うし、立派なおひげを蓄えてらしたからわかりにくいけど、目元なんて本当にそっくりよ」
「もう先々代のご存命の頃を知っている者は殆どいなくなりましたね」
「わたしがおばあちゃんになるわけだわ」
 睦月の前に茶を出すと千代はソファに座り直した。

「それで今日は?年始の挨拶のためだけに来たんじゃないんでしょ?」

 にっこりと笑う千代に、睦月はまいったな、と苦笑する。
「ひとつご相談があります」
「ご相談、ではなくて報告、でしょ?わたしに相談するようなことは今さらないはずよ」
 一口、茶をすする。
「昨年、もう少し前からですが、椎多さんともずっと相談してきたことです」
「組のこと?わたしも宇佐も、嵯院の血筋の者ではないのだから好きにしていいのに」
 普段、頻繁に訪れて話しているわけでもないのに千代は敏感に何かを察しているようだ。
 睦月にしては珍しく少し緊張した面持ちで座り直すと、呼吸を整えるように小さく息を吐いた。

「実は──組を解散しようと思っています」

 千代は表情を変えず、微笑んだままでいる。
「そう。わかりました」
「おっしゃりたいことがおありなのでは?」

 千代の夫・孝治が七哉に引き渡すまでと懸命に守った組だ。それを千代に無断で無くしてしまうのは筋が違うだろう。その点に関しては睦月と椎多の意見は一致していた。


「本当はもっと早く──七哉さんの作った会社が軌道に乗った頃にはもう解散しても良いんじゃないかしらとわたしは思っていたのよ。宇佐はなんというか、組に対して郷愁のようなものもあるから、そういう考えは納得いかなかったでしょうけど」

 七哉さんの一番上のお兄さま、本来の跡継ぎだった一朗さんはね。
 とても優しいひとだった。乱暴なことがお嫌いで、花や雪を心から愛する方だった。
 もしあのひとが戦死せずに戻って来られて、組を継いでらしたら──
 きっと、あのひとの代で組は解散していたわ。

「七哉さんのお兄さん、ですか」

 千代は目を細めて愛おしいものを懐かしむように微笑み、頷いた。

 七哉の兄姉は皆、徴兵されあるいは空襲ですべて先立っていて残ったのは戦時中まだ幼児だった末っ子の七哉だけだった──という話は聞いたことがあるが、その亡くなった兄弟の話は詳しく聞いたことがなかった。
 宇佐も、千代も、話そうとはしてこなかった。


「わたしね」
 少し迷ったのか、一旦言葉を切る。睦月は黙って次の句を待っている。


「わたしはもともと一朗さんの妻だったの」


 千代はふと立ち上がり、背後にあった小さな仏壇へ向かった。
 宇佐の写真の隣に、色あせた古い写真が飾られている。それを手に取ると席に戻り、睦月に手渡した。
「最初は一朗さんとわたしで七哉さんの親代わりをしていたのよ。でも戦死なさって──わたしと孝治さんは、大好きだった一朗さんを忘れないために一緒になったの。ふたりで一朗さんを思い続けるために」

 写真に写っているのは、和装で腕組みをし、優しげな微笑みを湛えた男だった。セピアの背景の中は満開の桜だろうか。
 どこか七哉にも、椎多にも面差しは似ているが、七哉や椎多から滲み出る鋭さのようなものはまるで無い。

「孝治さん、あちらで一朗さんに会えたかしら」

 皺の刻まれた目元に涙が溜まっている、ように見えた。睦月はそれを見ないふりをする。

「本題に戻りますと──警察の目も厳しくなってきているし、これまではうまく立ち回ってきたけど椎多さんの本業の方にいつ悪い影響があるかわからないので、組織としては解体しようと。私の別名で設立してある会社があるので、そっちで暫くは表向きまっとうな商売をと思っています。組員の中で堅気の世界でやっていけそうな者はそっちで雇います。そのまま堅気に戻してやればいい。極道の世界から離れられそうにない者は別で何か考えようかと」
 一気に説明すると千代はいたずらっぽく睦月の目を覗き込んだ。
「睦月さん、あなたが一番堅気に戻りたかったんじゃないの?」
「そうでもないですよ。表向きの商売も裏側の駆け引きも、どちらも面白いです」
「堅気そうに見えていちばんやくざなのはあなたなのかしら」
 千代はからかうように笑い続けている。

「私は今さら"足を洗う"とはとても言えませんよ。形が変わるだけで、私がやることはおそらくたいして変わらない」
「わたしだって、若い頃ならともかく今のあなたに堅気になりなさいとは言いにくいわ。ただ、わたしより先に死ぬような危ない真似はしないと言って。もうとうにわたしの順番でもおかしくないんだから」

 七哉さんもリカちゃんも、紫ちゃんも──

「あの子たちよりわたしの方がよほど先に死ぬ順だったはずなのに」
「千代さん、紫さんのこと『紫ちゃん』って呼んでらしたんですか」
 思わず笑みが浮かんでしまう。あの紫をちゃんづけで呼べる人間などこの世に千代しかいないだろう。
「しょうがないじゃない。あの子がまだわたしより背が低くて子猫みたいだった時から知ってるのよ。あの子、リカちゃんの大学いもが大好きでね、寂しいとか嬉しいとかいう言葉がよくわからないくせに、顔じゅうに寂しい、楽しい、嬉しいって書いてある子だったの。可愛かったわよ」


 思わず吹き出し、そしてふと思いを馳せる。


 睦月が最後に紫の顔を見たのは、紫が姿を消す数日前だっただろうか。
 それこそ、『顔じゅうに』つらい、苦しい、助けて欲しいと書いてあったのに。
 書いてあったのに、自分は何もしなかった。

 自分に何か出来ることはあったのだろうか。

 あれからすでに15年も経つというのに、ごくたまにそんな感傷が湧き上がることがある。
 あのただ不器用なだけの隙だらけの男が嵌り込んでしまった迷路から、迷路そのものを破壊してでも脱出させてやる方法が──自分が本気で探せばあったかもしれないのに。

 千代にわからないように小さく頭を振るとまた一口茶をすすった。
「そういえば千代さんから紫さんの子供の頃の話なんて初めて聴きました。もっと色々聞かせて下さいよ。七哉さんのやんちゃな話とか紫さんの可愛い話とか──リカさんの話とか」
「お婆さんの昔話は長いわよ。飽きたら適当に切り上げてね」

 にっこりと笑うと千代は急須の茶を睦月と自分の湯飲みに注ぎ足した。

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「ここ、おまえが買い取ったのか」

 窓から身を乗り出すようにして海を見渡していた椎多は窓を閉めて振り返った。
「ええまあ。雲隠れするつもりならあなたの名義で買うよりはいいでしょう」
「別に逃亡するわけじゃないけどな」
 ソファに身を預けた睦月はただ笑っている。
「突然退任しますと発表したら取材なんかも殺到しますよ。そんなものに付き合ってる時間はないんでしょ」
「気が利くな、本当におまえは」

 嵯院邸や茅病院からさほど遠くない海辺のリゾートマンション。
 ちょうどいい海岸ではないので海水浴場も無くマリンスポーツに適しているでもない、外部の人間からは特に人気はないが療養には悪くない場所だ。バブルの頃にどこでもいいとばかりに乱立したリゾートマンションのひとつで、築年数も重ね間取りのデザインもすでに古臭く感じる内装、車以外の交通は不便、近頃ようやく出来た大型スーパーのおかげでなんとか日常の生活に不便が無い程度。お洒落な店があるでもなく、一番近くのコンビニでも徒歩では遠い──というロケーションのせいでとうの昔に入居者は激減して分譲価格も新築当初の30分の1以下に下がっていた。それを、上階2フロアぶち抜きで買うと言ってさらに値切ってやったのだ。
 茜が手術後の療養と治療に専念でき、椎多自身がそれに付き添う為に住む物件を探すよう睦月や名張に依頼したのは茜が入院した翌日だった。不動産に関しては睦月の方が断然強い。依頼されて2日でこの物件を見つけ、睦月の個人名義で2フロアを買い取った。
 いずれ椎多にとって必要の無いものになる──茜の病が治癒するか、治療を続けながら屋敷での仕事を再開するか、あるいは闘病虚しくこの世を去るか──日が来た時には、また何某か使い道を考えればいい。

「普通に生活するには不便な環境ですが唯一いいのは高速道路が近いのでここからなら車を飛ばせば病院まで30分ほどで行けることかと」
 おそらく椎多が最も重要視しただろう点を強調したが椎多はそれには返事をしなかった。

「それで──会社を、グループを手放すというのは本気なんですか」

 椎多は茜と"自分"が住むための物件を探して欲しいと依頼してきたのだ。
 屋敷や仕事はどうするのかと尋ねると椎多はすでに決意を固めていたように澱みなく言った。

──俺はグループの会長も社長も全部退任して経営から手を引くつもりだ。
──屋敷は今はまだそのままにしておくがゆくゆく手放すことも視野に入れてる。

 椎多には個人の資産もある。会社をまるごと手放したからと言って生活に困るようなことはないだろう。しかしいくら倒れた茜に付き添ってやりたいからといって退任までするのは正気の沙汰とは思えなかった。
 睦月の問いに椎多はしつこいな、と小さく呟いて微笑んでいる。


「組の解散の話の方が先に進めていたのに悪いな。先にこっちを発表して、正式な退任は期末だがそれまでもひとまず青乃が俺の業務をある程度引き継いでくれると言ってる。ここに引っ越してからリリースを出す」
「組の方はこの話をし始めた頃から準備を始めてますからいつでも。もうヤクザの時代じゃないんですよ。大手の下部組織でもどんどん解散しているし、うちが解散してもたいしてニュースにもならない。とりあえず警察に解散届だけしれっと出しておきますよ。警察だって近頃では暴力団より半グレの方に手を焼いてますよ」


 もともと七哉の代からどちらかといえば伝統的任侠道にのっとった役職の分担など形骸化していた。そのせいで近隣の別組織からは苦々しく見られていた部分はあるだろうが、椎多の代になった頃には表立った抗争もほぼ完全になくなり、睦月が裏工作を駆使して諸々の事象を処理してきた。こうなると公安に目を付けられるだけの組織の形など邪魔なだけだ。
 また一般人がインターネットなどを駆使しつつある状況では、嵯院家の系譜がヤクザであることがいつ暴露されてグループに影響を及ぼさないとも限らない。そういう意味では椎多がグループから手を引くのは、万一そのような状況になった時にグループへの影響を最小限に抑えることにも良いことなのかもしれない。

「術後の経過が良ければ入院自体は長くは必要ないいうことだ。その間にちょっとリフォーム入れるかな。──ん?何だ」

 確かに考え事はしていたが、何だ、と言われるような顔を自分がしていたのだろうか、とそちらが気になった。

「考えてみれば椎多さんと仕事の──物騒な仕事の件以外で話したことなんか無かったんじゃないかと思いましてね」
「そういやそうだな。おまえと何の雑談をすればいいのかもわからんよ」


 咄嗟に言ってみたものの、確かに互いに見知ったのは睦月がまだ十代で椎多が子供の頃なのに、組事務所で陰謀だの誰を殺すだのいう相談をする以外の雑談など殆どした覚えがない。睦月は"先代の組長の息子"であり"組長"である椎多のことは資料も含めてある程度知ってはいるが、椎多の方は睦月のことなど何も知らないだろう。
「私は子供が苦手だったので、椎多さんが遊びに来ても相手をしてあげようなんて思いませんでしたからね。若い頃は私なりにとんがっていましたし。だからいつまでも馴染めなかったんじゃないですか」
「おまえは俺を嫌っているんだと思ってたからな。俺も避けてたと思うよ」
「別に嫌ってなど──」

──気に入らないし苦手だ、おまえは。

 ふとあの声が頭をよぎる。
 つい先日千代と話をしてから、近頃の日常の中ではあまり思い出すことも無くなっていた去った者たちの記憶が容易に上がってくる。

「そういえば昔、私は紫さんに嫌われてるんだと思っていたんですが──」
 椎多が顔を上げる。微かに動揺しているのが感じ取れた。
 そうか。
 椎多の中でまだ紫の話はタブーなのだ。

 紫が姿を消したのはもうすでに15年ほども前か。

 嵯院邸で何があったのかをごく内密に報告してきたのは、賢太だった。
 屋敷の人間でもそのことを知っているのは賢太と柚梨子とあとは当時敵対勢力同然だった青乃側の警備責任者の伯方照彦だけだという。本人を含めその4人だけで秘密を共有し、あるいは握りつぶそうと思っていたが、睦月にだけは秘しておくことは出来ないと賢太が判断したのだろう。
 "それ"を睦月が知っているということは、椎多本人も知らないかもしれない。

 椎多が紫を殺したのだということを。

 賢太の判断は正しかったと思う。
 組ではあまりにも突然姿を消した紫のことを訝しまない者は無かった。しかも、常に紫を側に置いていた椎多には一見全く変わったところは見られなかったから尚更、何があったのかと首を捻る者が多かった。
 極秘の任務で外国に飛んでいる──と胡麻化すことにしたのは睦月だ。睦月がそう言うならそうなのだろうと誰もが素直に納得した。これが賢太が言ったことなら疑念が残っただろう。そもそも、睦月自身が疑念を抱いて調査に乗り出していればほどなく真相を暴き出していたはずだ。
 そうなっていたら、下手をすれば組は空中分解していたかもしれない。暫く組を離れていたとはいえ、紫を信奉する者はまだ少なくなかったからだ。その中に椎多の敵に回る者がいてもおかしくなかった。
 "紫が姿を消す"というのはそれほどの事件だったというのに、椎多がそのことを自分でどう思っているのかは訊かないままずるずると15年も過ごしてしまった。誰もそのことについて触れたり追及したりしないのをいいことに、椎多はずっと本当に何も無かったかのように睦月をはじめ組の者たちと接してきたのだ。小火になる前に睦月が鎮火していたとはいえ、自ら火消しをしようという態度すら無かった。

 まるで、紫という人間など初めから居なかったかのように──

 去った者たちの記憶が蘇ると同時に、長らく感じていなかったちりっとした苛立ちが同じように蘇る。
 タブーだというならむしろ積極的につついてみよう、と意地悪心が頭をもたげた。

「──紫さんには初対面から嫌われてましてね。七哉さんが自分以外の若いのを特別扱いするのが気に入らないんだろうと思ってました。私のこと嫌いなんですね、と言うと『気に入らない』『苦手』だとわざわざ言い換えたのでもしかしたら『嫌い』というほどではなかったのかもしれない。なるほど『嫌い』なんて主観的な言葉だ。彼が本当に『嫌い』だったのは東出康平だと思いますよ。あれは視界に入るのも嫌がるレベルで互いに嫌い合ってましたから」
 椎多は手に持ったコーヒーカップを口に運ぶでもテーブルに置くでもなく、ただ両手で膝の上に支えている。

「おまえが紫や親父の話をするの、初めて聴いた」

 さぞ居心地悪かろうと思ったら、まるでもっと聴きたがっているような言い方だな── 
 私だってあなたにそんな話をするのは初めてですよ、と笑ってみせた。
「先日千代さんに昔話をたっぷり聴いてきたせいか、柄にもなく昔のことを色々思い出したものでね」
 老人の昔話に刺激されて自分も昔話を始めるとは、自分も老いたのかもしれないな、と思う。

「おまえは親父のことも紫のことも、俺の何倍もよく知ってるんだったな」

 知っている、とは何だろう。
 確かに子供の目から見ることの出来なかった彼らの姿は見てきたが、自分も父親としての七哉や椎多と向き合っている時の紫のことなど知らない。
 
「何か知りたいんですか?私の知っていることなんてたいしたものではありませんよ」
「たとえば──おまえにとって親父はどういう存在だったのかとか」

 なるほど、雑談もしてこなかったというのはこういう事か。
 嵯院七哉は、自分を拾ってくれたいわば恩人だ。
 椎多は様々な年齢層の組員たちに可愛がられてはいたが、他の者がどうしてここへやってきたのか──わけありそうであれば尚更──無暗に語って聞かせるような者はいない。

「親、のようなものでしょうか」

 両親や叔父を殺し自らも危うく死にかけた十代の少年を救い出し、それまでの人生を捨てろと言って睦月という名前をつけた。今生きている新しい人生を与えてくれたのは嵯院七哉だった。
 世間一般で言う親への情というものを実の親に対しては欠片も感じないが、おそらく七哉に対する感情はそれに近いのだろう。紫のようにまるで信仰のような盲目的なものではないにせよ、親や家族への情を疑似体験させてもらったようなものだ。

「実際に『親』だと思っていたわけでもないしあなたを弟のように思っていたわけでもありませんが、一番近いとするならそれです」

 それに──
 七哉は"親"であると同時に"兄"でもあったのだ。
 それはおそらく七哉と、七哉の親友であった鷹こと喬と、そして自分だけが知っている。紫も知らなかったはずだ。


「──あなたがグループを手放し、組も解散したら……私とあなたのご縁は切れるということになりますね」


 "親"である七哉亡きあとも睦月が椎多に従ってきた本当の理由。本当に睦月と椎多の間にある筈の"縁"。それはもはや睦月自身しか知らない。もう今となっては秘めておく意味もないが、わざわざ公表するようなことでもない。
 
 ハッとしたように椎多は手元のカップに落としていた視線を睦月に戻した。
 いつの間に降り出したのか、窓を霙が叩いている。
 その音が妙に大きく耳に届く。

 これはいい機会かもしれない。

「あなたが私の命令系統のポジションを退いたらいつか訊いてみたいことがあったんですよ、椎多さん」

 睦月が姿勢を正して座り直すと、椎多も無言でその正面で手に持ったコーヒーをテーブルに置き、指を組んで先を促した。
 おそらく椎多からは表情が変わったようには見えないだろう。
 呼吸を整えるように一度深く呼吸をするともう一度息を吸い込んで口を開いた。

「まず確認ですが、あなたが紫さんを殺したんですよね?」

 椎多が息を飲んだ。その表情だけでその答えは明白だった。
 しかし訊きたいのはそんなとうに知っていたことではない。
「野暮なことは承知の上ですが、教えてもらえませんか」

 なぜ殺したのか。

 いくつかの仮説は頭の中にあった。
 しかし真実は椎多の胸の中にしかない。
 その疑問を抱えたまま漫然と椎多との縁が切れるのをやりすごしたくはなかった。

「それを聴いてしまった時、内容によってはこれまでのようにあなたに従うことが出来なくなるかもしれないと思ってこれまでは知らぬふりをしてきたんですよ。縁が切れるならこのタイミングしかない」


 椎多はソファに深くもたれ、頭を背もたれに預けるように天井を見上げた。
 霙が窓を叩く音が速くなっている。

 何故紫を殺さねばならなかったのか──

 天井を見上げていた頭を正面に戻し、睦月の目を真っ直ぐ見つめる。
「その前に俺も教えて欲しいことがある。先に訊いていいか」
「何でしょう」
「紫は親父と──その、"そういう関係"だったのか」

 なるほど、問題の根源はそこか。

「そうですね」
 睦月が知る最初の紫は本当に飼い主にだけなついている犬のようだったし、七哉は犬を可愛がっているようだった。部下として一人前になると確かに見た目は部下然とはしていたが中身は変わらず飼い主と犬のようだったと思う。
 明らかに二人の様子が変わって見えたのは、鷹が殺された後の頃だっただろうか。
 当人たちの自覚は全く無かっただろうが、距離感が全くの別ものに変わった。おそらく、あの頃にあの二人は肉体関係を持つようになったのだろう。ということが睦月にすっかり見透かされていたこともきっと当人たちは気づいていない。自分たちだけの秘密とでも思っていたのだろう。
 それがひどく間抜けに思えて、睦月は小さく笑った。
 
 「当事者がもういない件をあれこれ言うのはフェアではありませんね。あくまで私の憶測だという前提で聴いて下さい。どちらも誰にも話してはいないでしょうけど、私の見る限り間違いなかったと思います。彼らがまあまあ日常的にベッドを共にするような関係だったということは」

 椎多が痛そうな顔をしている。
 紫が七哉に対して親や飼い主に向けるもの以上の愛情を持っていたこと、それが椎多の紫への気持ちを濁らせていたのだ。

「千代さんとも話していたんです。紫さんの顔をしっかり正面から見ることが出来る人にはわかると思うんですが、彼は実は非常にわかりやすい人でした。感情が全部顔に書いてあるんですよ。楽しい、悲しい、嬉しい、寂しい、こいつは嫌いだ、こいつは要警戒だ、信用してもいい相手だ──そして、愛しくて仕方ない。あんなわかりやすい人、そうそういませんよ。それから」

 七哉さんは、ちょうど今、あなたが茜さんを見る時と同じような穏やかで優しい目で紫さんを見ていた。
 あの人も──紫さんを愛していたんだと思いますよ。

 睦月の目から逸らすまいとしていた視線を、ついに降伏したかのように手元に落として椎多は大きく息を吐いた。
 胸に潜めている嗜虐心がさわさわと波立っているのを感じる。

「七哉さんが亡くなった時の紫さんは身体だけ生きてるけど魂はついて行ってしまったんじゃないかと思うほどでした。七哉さんが『椎多を頼む』と言い残さなければ、多分すぐにでも後を追ってたでしょうね」
「……親父がそう言い残したせいで、あいつはしたくもない俺の相手をしなきゃいけなかった。俺もガキだったからわかっててあいつを振り回してた。あいつが俺に逆らえないのをいいことにどこまで我慢できるのか試してやろうとして」

 ガキだったという自覚はあるのか。

「あいつが右手を怪我した時に、急に怖くなったんだよ。もしかしたらこの先、あいつは俺を守るために命を落とすこともあるんじゃないか。だから俺は逃げた。俺の側から離れて組へ戻れと言ったんだ」
「死なせるかもしれないことが怖くて、ですか」

 それなのに。
 死なせたくなかったのに。
 自分の手で殺してしまった?

「あいつはそれを受け入れなかった。離れろと言うなら俺を殺すと──殺されたくなければ自分を殺せとそう言って」

 そうか。
 最後に会った時の紫の顔を思い出す。
 つらい。苦しい。助けて欲しい。
 紫にとって、椎多の側を離れるということは生きる意味を取り上げられるのと同じことだったのだ。
 なんて馬鹿な男なんだろう。

「後を追うことも禁じられ、誰かに殺されても椎多を頼むという親父の意に背くことになる」
 絞り出すような声。
 おそらく、椎多が二度と向き合いたくなかっただろう事──

「あいつは俺に殺されるしか親父のところへ行く方法が無かったんじゃないのか」

 その瞬間、右腕の筋肉が緊張したのが自分でわかった。
 銃を持っていたら衝動的に引き金を引いていたかもしれない。
 睦月は自分を落ち着かせるように再び大きく呼吸をした。

「本気でそう思ってたんですか?あれから15年も経つのにずっと?」

 椎多が顔を上げた。
 表情は変えていないつもりだ。しかしもしかしたら声が震えているかもしれない。
 くだらない。
 私は何に腹を立てているのだろう。
 椎多にか。紫にか。いや。
 あの時、何もしなかった自分自身にだ。

「確かに紫さんは七哉さんを愛していました。でも七哉さんを追ってあの世まで行ってしまったかと思うほどだった彼の魂をこの世に引っ張り戻して括りつけたのは椎多さん、あなたですよ」
「──」

 彼にとって苦痛だったのは──
 七哉さんをずっと愛しているのに後を追うこともできず
 ただあなたの側にいさせられたことだった?
 違います。
 七哉さんへの思いは消えていないのに
 あなたを、椎多さんを愛してしまったことだったんです。
 それは七哉さんを裏切ることになるのではないか、
 そんな自分があなたを愛しても良いのか──
 
 言ったでしょう、彼は感情が全部顔に書いてある。
 そんなことはたまにしか会わない私にだってわかっていたことだ。
 なのに、あなたは、彼の顔をちゃんと見たことが無かったんですか。
 あんなに──

 顔じゅうにあなたが可愛いくて仕方ない、あなたを愛している、側にいさせてくれと書いてあったのに。

「あなたを側で守ることだけが彼をこの世に括りつけておく鎖だったのに、あなたが自分でそれを解き放ってしまったんですね。あなたが彼の身を案じてそうしたということも伝えずに。だから彼は生きている意味を見失った。あとはあなたの言った通り、七哉さんの最期の言葉に逆らうこともできない。あなたに殺されるしか──」
 本当のところは本人にしかわからない事ですが、と睦月は付け足した。
 もっと複雑で、自分を赦すことも出来ないほどの闇が紫の心の中で渦巻いていたのかもしれない。いや──きっとそうだ。だがそれはそれこそ本人を地獄から引きずり出して問い詰めでもしない限り答え合わせは出来ない。

 椎多は再び顔を上げてからは目を逸らすことなく真っすぐ睦月の顔を見ていた。
 目が真っ赤になっているが、涙を流しはしなかった。

「俺が……信じてやるだけで良かった?」

 そうですね──と独り言のように言う。
「ただ紫さんもわかってなかった。自分が、あなたに愛されているということを」

 互いに、つまらない思い込みで愛しても愛されないと苦しんでいたのだ。
 
 ばかばかしい、と溜息をついてソファに深くもたれかかった。


 こんなことならあなたが彼を側から離すと言い出すより先に、
 無理やりでも彼をあなたから引き剥がしてこっちの手元に戻してやればよかった。
 そうすれば何か変わっていたかもしれない。

 やれることがあったのにやらなかった。それだけが心残りだ。

 椎多が何故か不思議そうな顔をして睦月を見ている。
「おまえ……もしかして紫のことを……」
 自分自身や自分に向けられた感情についてはこんなに鈍感なくせに、人の感情には妙に勘がいい。
「まさか」
 自嘲するように笑う。こういうのはらしくない。
 紫は睦月にとって、単なる若い頃からの知り合いでせいぜい同僚程度の存在だ。友人ですらない。ただ、何故紫が死ななければならなかったのか、わからないまま放置するのが気持ち悪かっただけだ。

「おまえが感情を露わにしてるの、初めて見たからそういうことかと思った」
「露わにしてましたか?勘違いでしょう。まあ、すっきりはしました」
 窓の外に目をやると、先ほどまで窓を叩いていた霙まじりの雨は消え、雲の切れ間から日差しが差している。

 ノックの音がして、Kが顔を出した。
「くみ……椎多さん、そろそろ病院向かいましょっか」
「ああ、そんな時間か」
「K、呼び方変えたんですね」
「組長でも社長でもなくなるからな。今のうちに慣れといてもらわないと」
「めっちゃ変な感じです。慣れねー」
 くすくすと笑い合う。
「それじゃ先に帰るぞ。あとは頼む。リフォームの件は夜にでもメールするから」
「──椎多さん」

 ドアのところで振り返る椎多の顔にはもう先ほどまでの澱みはない。

「今のあなたにとって、紫さんはどういう存在なんですか」

 椎多は正面に向き直り、自分の胸に手を当てた。

「あいつは俺に自分を殺させることで俺を永遠に手に入れたんだ。俺は一生あいつを忘れることはない。ずっと、今でもあいつはここに住んでる」

「他の人を愛していても?」
 椎多が渋谷英二を手に入れるために何をしてきたか。
 そして今、茜のために何を捨てようとしているのか。
 それを睦月は具に見てきた。


 椎多は最後の質問に、うっすらと微笑んでいる。

「俺がとんでもなく酷いことをやってると、派手な溜息と小言が聴こえる気がする程度にはな」

 派手な溜息と何某かの小言をこぼしている紫の顔が見える気がして睦月も笑った。
 椎多はここまで来てやっと──紫の顔を見ることが出来たのかもしれない。

 もう遅すぎるし、もう何も戻すことは出来ないけれど。


 

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*Note*

睦月、「銃爪」の章で突然苦し紛れに出てきたキャラだったせいで色んなことの辻褄合わせが大変な人だったんですが。

なんで睦月さんてばみすみす椎多が紫さんを殺してしまうとこまで暴走してしまうのを放置していたんだ、というある意味最大の辻褄合わせがまだ出来ていなかったので「みすみすそうなってしまった」ことを本人も後悔している、という切り口から書いてみました。

千代さんと一朗さんの話は「昔日」の「雪夜」、睦月が七哉に拾われた話と睦月と紫さんのは「稔」「苦手」「徳利」あたり。

実はこの章で一旦最終回にすることを想定した時に、まだ「罪」のラストで老人になった椎多を書いていなかったこともあって色んな終わり方を考えたんですがその候補のひとつは「椎多が睦月に殺されて終わり」というものでした

それもアリかな~とじわじわ思いながらこの話書いてました(笑)。途中まで、睦月が椎多に紫さんのことを問い詰める場面は睦月がいきなり銃をつきつけて話す、って書こうとしてましたし、実際。

another(紫さんが死んでなかったらバージョン)ではそういう展開にもなったりならなかったりするんだけど(を) 睦月さん、多分自覚なし(なし)で紫さんのことすっごい好きだしなんなら可愛い!可愛い!!!と思ってましたよ……。

​組もグループも全部手放す決意をした椎多。数年後からどうする気なのか。ビジョン皆無で突っ走ったわけじゃないだろうけど。

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