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白 鷺

 下流は完全にコンクリートで固められた人工の河川になるが、少しばかり上流へ遡ると草の茂った土手に桜並木が並ぶ、整備はされていても自然の匂いがする川になる。

 嵯院邸はあの下流よりむしろこちらの方が近い。


 このあたりは春になれば土手に人が殺到するこの地域では有名な花見スポットだが、冬は近隣の者が通るくらいしか人影はない。

 夏に一度もっと上流まで行ってみたことがある。

 下流ではみられない鳥が多く観察されたのでテントでも張って何日か撮り続けたい衝動には駆られたが、さすがにそれは断念した。

 当然同じ個体ではないのだが、あの下流のごみの中に立っていた鷺とこの周辺で川岸の草の中に佇む鷺が同じ種類の鳥には思えない。

 真っ白な身体と黒い觜、脚。指だけが黄色い。白い身体からなびく飾り羽根はレースのドレスのようだ。

「そりゃ、ごみの中にいるよりこっちの方がいいよね……」

 シャッターを切りながら呟く。
 自分の口から出た白い息が、視界を雪のように白く霞めた。

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 案内されて通されたのは、一見応接室だが──
 来客用ソファの向かい、つまり"招待主"の席の横にはサイドテーブルに乗せられた大型のPCモニターが目につく。
 つまりここは、ちょっと上級な患者向けの診断室だ。

 少し落ち着かない気分になってきょろきょろと室内を観察していると、ノックの音がして奥の扉が開いた。
「嵯院さん、どうも。年始お忙しいところお呼びだてして恐縮です」
「もうとっくに正月気分なんか終わってるさ。何だ」


 白衣の医師──茅優はソファに腰を下ろしながらモニターの電源を入れた。
「事業の話なら私がそちらへお伺いすればいいんですが、今日はこちらへ来てもらわないとと思いましてね。そうだな──先にこれを見て頂けますか」

 モニターに映し出されたのは、MRIの画像だった。
「脳」
「そうです。ここ、わかりますか」

 指を差された部分は素人目に見ても明らかに白く濁っている。


 喉が渇く。
 心なしか鼓動が早くなっている気がした。

「誰の写真だ。俺か」

 もったいつけるような見せ方をするじゃないか。
 俺のなら俺のだとさくっと言え。こっちも暇じゃない──


 などと思いながら言うと、優は苦笑して首を横に振った。

「あなたの人間ドックの検査結果はお送りしたでしょう、肺が一つほとんど機能していないこととそれに起因するもの以外はあなたの年齢にしてはびっくりするくらい異常なし、健康そのものです」
「じゃ……」

 自分ではないと分かっても──分かったからこそ、鼓動はおさまらない。

「本来は親族以外にこんな話はしないんですが、今やあいつの親族は兄を除けば私くらいなのでね。あなたに相談することにしました。これは──」
 優は少し言いよどむように大きく呼吸をして椎多の顔を正面から見つめて口を開いた。

「茜の写真です」

 ちょっと待て、と言ったつもりが声が出なかった。
 優は変わらない調子で冷静に、おそらくは他の患者やその家族に告知する時と全く同じように言葉を繋ぐ。
「年末年始でばたばたしたので延び延びになっていたんですが、昨日茜をMRIにかけたんですよ。その写真です」

 そういえば。
 椎多が人間ドッグを受けに行った時だったか、新人技師の研修のためにMRIを受けろと言われたという茜の言葉を思い出した。


「新人技師の研修とか言うやつだったんじゃないのか」
「そうでも言わないとあいつ、MRIなんか受けないんでね。そういう事にしたんです」
 そう言いながら優はモニターに映し出されたままの脳の写真をもう一度確認するようにじっと見た。
「ああ、もちろん私の専門は内科ですから、診断は脳外の先生によるものです。腕のいい先生ですよ」
 手の動きで椎多にコーヒーを勧めると自分もブラックのままのコーヒーを口に運ぶ。
「最初は若年性アルツハイマーだとか何か外傷性の高度脳機能障害を疑ったんですが、とんでもないものが見つかりました」
「疑った──」

 優は茜とはさほど頻繁に会っているわけではない。
 しかし最近会うごとに茜の言動にかすかな違和感を感じていたという。

「決定的に検査を受けさせようと思ったのはね……あいつ、どうも私が昔やらかしたことを忘れているようなんです」
「やらかしたこと」
「その──あいつの恋人を自殺に追い込んでしまった件です」
 自嘲するような笑いを一瞬顔に乗せて優は言いづらそうに言う。
 それはそうだろう。詳しくは聞いていないが、かつて茜が留学中に、優が茜の恋人を犯し妊娠させた結果彼女が自殺したという件だ。優にとってはもしかしたら過去で一番思い出したくない、立件はされていないが犯罪の記憶だ。
 その負い目が優の、茜との関係を今以上には近づけることが出来ない障壁になっていることは椎多は察していた。

──兄さんに復讐したって彼女は戻ってこない。だから俺はなにも言わなかった。

 そうだ、あの時俺は茜の泣きそうな顔を初めて見たんだった──

「あれはあいつにとって、一生私を許せない出来事だった筈だ。単に他のことを許したり飲み込んだりしてるのとはわけが違う。表向き和解したように振る舞っていても、あいつには私を憎む明確な理由があるんです。なのにあいつは、まるで自分には私に対してなんの蟠りもないのに私の方が一方的にあいつを嫌っているだけみたいな言い方で、歩み寄れないか、なんて言ってきたんですよ」

 それは──

「いつもの、本当はどこかで根に持っているくせにあなたと私が仕事上密接に関係しているから自分は表向きは忘れたことにしているとかそういうのなら別に構わない。だけどどうも様子がそういうのとは違う。とにかく本当にそれを忘れてしまっているのかどうかは別として、違和感を感じたんです。それだけじゃない、話している時にもたまに言い間違えをしたり言葉や人の名前が出てこなかったりする。あなたはほとんど毎日茜と顔を合わせているでしょう、何か異常は感じませんでしたか。特に朝の頭痛、吐き気、めまい。あるいは不自然な物忘れ、言葉が出ない、記憶の混乱、視界の異常、手足のしびれ……」

 何か異常は──
 
 そういえば。
 最近ゲーム画面を見ていたら目がチカチカして頭痛がすると言っていた。
 起きた時に頭が痛い、二日酔いかなと言っているのも何度か聞いている。
 医務室でもよくペンを落としているのを見る。何もない平らな床でつまずいたり。
 クリスマスの時に英悟と追いかけっこをしていて転んでいた。
 どれも、たいした異常だなんて思いもしなかった。
 もしかしたらもっと本人が訴えていないだけの異常はあったのかも──

「まさか……」

「最初は若年性アルツハイマーを疑ったので検査までそこまで慌てていなかった。あの時点ですぐに無理やりにでも受診させるべきでした」
「それで──」

 それで、これは何なんだ。
 茜はどうなるんだ。

「他には癌などは見つからなかったのでこれは原発性、グレードⅣの悪性です。手術しても全部は取り切れない。それでも──すぐに手術すべきです」

 ごくり、と喉が鳴る。
 生唾が出る。

「取りきれない……治らないということか?」
「専門医でもMRIだけじゃなく他の検査もしないと──いや、実際に手術して病理診断してみないと最終的な診断は下せないんですよ。おそらく残った部分は放射線治療と化学療法で根気よく続けるしかないかと。組織が残っているわけですから再発もある。ただ、手術せず放置した場合は──進行が早くもって半年というところだそうです」

 血の気が引いて、全身が冷たくなっているのを感じる。

「本人には……」
「あいつも医師の端くれだ。昨日すぐに話して手術するように言いました。でも、考えさせてほしいと言って帰った。結局あなたにも相談してないようですね」

 昨夜の茜を思い浮かべる。
 普段とどこも変わらなかった。
 突然、このままだと来年の正月は迎えられないかもと言われたのに、いつも通りの顔をしていた。

 額に脂汗が浮いているのが自分でもわかる。
 頭の中を今聞かされた言葉全部が飛び回りぶつかり合っているようだ。

「だからルール違反だとは思ったのですが、『親族』の一人の立場であなたにお話ししようと。嵯院さん」
 優の声にようやく我に返ったように視線を戻す。
 これまで見た中でもしかしたら一番真剣で深刻な顔をしている優が、見知らぬ他人のように思えた。

「あなたに茜を説得して欲しい。あいつ、もしかしたら手術を受けずにそのまま死ぬつもりだ。手術を受けるよう説得して下さい」

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 ずっと動悸が収まらない。

 血の気が引いて顔が冷たいまま、椎多はKが待機していた車に戻った。


「組長、どしたんすか。顔が真っ白になってる」
 心配そうに尋ねるKに手をひらひらと振って見せた。大丈夫だ、と答える元気もない。
「優先生の話って何でした?なんかよくないことでも?」
「いや……」


 まだKには話せない。
 とにかく本人と話さなければ。

「悪いが名張に連絡して、今日の予定を全部キャンセルしてくれ。屋敷に戻る」

 さすがにKもただ事ではないことを察したらしい。顔がみるみる険しくなっていく。
「組ちょ…」
「すまん、まだ聞かないでくれ。あとで必ず話すから」
 それだけ言うと椎多はシートの上にごろりと横になった。

 どうすればいいのかを考えたくても、頭が全く働かない。


「組長、着きましたよ。寝てたんすか」
 Kが後部座席のドアを開いて覗き込んでいるのが見えた。
 眠ってはいない。
 ただ頭が真っ白なまま茫然としていただけだ。
 ふらふらと車を降り、屋敷に入る。無意識に、自動的に、コートを脱ぎメイドに渡すと足は医務室に向いていた。
 頭はまだぐらつくが、徐々に早足になる。

「──茜!」

 ノックもせずにいきなり医務室のドアを開ける──が、その部屋の主はそこにいなかった。
 使用人のカルテの整理でもしていたのだろう看護師が、驚いて書類の山を取り落としそうになっている。
「先生、また写真を撮りに出られてますけど…」

──あんの、馬鹿野郎!

 優の話聞いたんだろ?
 写真なんか撮りにいってる場合か!

 茜の携帯に電話してみる。
 何度コールしても、5回ほど呼び出し音が鳴った時点ですぐに留守番電話に切り替わってしまう。
 毒づきながら留守番電話に怒鳴りつけた。
「このバカ!今すぐ帰って来い!!」
 その後も切れてはリダイヤルを繰り返して、おそらく茜の携帯の着信履歴はすごいことになっている筈だ。

──ここまでは目立つ症状ではなかったと思いますが、この大きさだとそろそろ手足の機能に支障が出たりてんかん発作が起こったり意識を失ったりする症状が出始めてもおかしくない。なるべく一人で出歩かせないようにして下さい。

 今そう聞いてきたところだというのに、ひとりでどこをほっつき歩いているんだ。
 鳥を撮りに行っているなら、周囲に人などいる環境ではないはずだ。もしそんなところで倒れでもしたら──

 何度も発信を繰り返しているうちに、茜の携帯は呼び出しをしなくなった。電源が切れているか電波の届かないところ──のアナウンスが流れる。充電が切れたのか。それとも本当に電波の届かないところにまで行っているのか。


 椎多は落ち着きなく医務室をうろうろと歩き回り、従業員入口の警備員に茜が戻ったら知らせるように指示し、茜の部屋へ行き、自分の部屋を覗き──を何周も繰り返した。貧血になった気分のまま歩き回ったせいで流石に疲れ、最終的には茜の部屋で座り込む。

 怒りや苛立ちや色んなものが胸の中で攪拌され、もう何故自分がこんな昼過ぎにここに座っているのかわからなくなる。
 座ったまま両手で顔を覆う。何かを飲む気にも煙草を吸う気にもなれない。


 かちゃり、と音がした。

 首筋から背筋にかけて、電気が走ったように振り返る。


 茜は──何事もなかったようにカメラと三脚を抱えてそこに立っていた。

「どうしたんですか。平日の昼間ですよ」
「───」

 言いたいことが全部、喉で渋滞を起こして何も出られずにいる。


 茜はかまわずいつものように手に持った荷物を暗室の前に置いてからコートを脱いだ。そしてきょとん、とした──まるで何の心当たりも無いような顔で椎多の顔を見ると首を傾げた。
「顔色悪いですよ。真っ白だ」
 手を伸ばし、親指で椎多の唇をなぞる。
 とっさに、手を振り上げて平手打ち──しそうになった、のをギリギリで我に返り、ブレーキをかけた。頭に衝撃を与えてはいけない。
「おまえ留守電聞いてないのか。すぐ帰って来いって入れといたんだぞ」
「ごめんなさい」

 素直に謝っているが、おそらく意図的に無視したのだろう。屋敷からの連絡ならきっと"嵯院邸の主治医"として電話は取った筈だ。

「茜──」
 両腕を掴むようにしてソファに座らせる。
 椎多はその正面の床に座り、茜の手首を握った。
 一刻の猶予もない。探りも前置きも必要ない。

「これは雇い主としての命令だ。おまえはすぐに手術を受けろ」

 茜はわかりやすく困った顔をしている。そして、ふう、と溜息をついた。
「兄さんですか。困るなあ、守秘義務はどうなってるんだろう」
「あいつはおまえの親族だ。親族の判断で俺に相談してきた。何が悪い」
「──ちょっとだけ考えさせて下さいって言っただけですよ。俺にだって気持ちを整理する時間くらい欲しい」 
 茜の手首を握ったまま、目を逸らす。顔を見ていられない。

「手術したところで患部は取り切れない。無理に取ろうとしたら正常な部分まで傷つけるから。で、残したままだったら高い確率で再発する。結局治療だ手術だ繰り返してわずかに何年か寿命伸ばすだけなんですよね」


 茜の声はあくまでも淡々としている。
 なんでそんな他人事みたいに──
 いや、他人事のように考えなければ冷静でいられないのか。

 だからって。

「手術を受けてもどんな後遺症が出るかわかんないし、治療だなんだって言ってここの仕事がろくに出来なくなるかも。手術を受けるにせよ受けないにせよ、早めに後任を探して俺のことはクビにして下さい。また後任探しするのは面倒でしょうけど、慌てて探すより引継ぎできた方がいいでしょ」

 おまえは何で自分のことになるとそうなんだ。
 後任がどうとか、そんなのは今考えることじゃない。

 たまらなくなって椎多は腰を上げて膝立ちになり、茜の頭を引き寄せて抱きしめた。 

「おまえが言ったんだぞ」
「ん?」
「俺のクリスマスにはおまえがいるって、ついこの前おまえが自分で言ったんだ」

 手術せずに放置したら──
 次のクリスマスは──

「なのにおまえがもしいなくなってたら──俺は今年からどうやってクリスマスをやり過ごせばいいんだ。医者なんかいくらでも替わりはいるがおまえに替わりはいないんだぞ……」


 腕を回した茜の頭を睨みつける。
 この中に、敵がいるのか。
 外から狙ってくる敵からならいくらでも守ってやれるのに。
 なんで茜を殺そうとしている敵がそこにいるのに俺には何も出来ないんだ。

「……頼む。手術を受けてくれ。おまえが自分のために生きる意欲がわかないっていうなら、俺のために生きてくれ。頼む」


「椎多さん、泣いてるの」
「うるさい」

 肩に押し当てた頬を茜の暖かい手が撫でる。撫でながらこめかみに頬に、啄むように接吻ける。
「どうしよう」
「どうしようじゃない、おまえは手術を受けるんだ」
「そうじゃなくて──」
 茜はもう一度、すでに真っ赤になっている椎多の目を正面から見て、ゆっくりと丁寧に唇を重ねた。

「椎多さん、すっごいかわいい」
 
 そう言うと茜は両腕に力をこめて椎多を抱きしめた。
「何言ってんだこんな時に……」
「だって、大好きだなあって。すっごい大好き」
 椎多も両腕で茜の身体を締め付ける。力の加減が出来ない。

「……俺もだ」
「えっ」

「俺も、大好きだ。愛してる」

「……ほんと?」
 ぱあっと明るい声がなんだか腹立たしい。
 また締め付ける腕が強くなり、子供を抱っこしているように左右に揺らす。
「うわあ、嬉しいな。嬉しい。もっと言って」
「ああもううるさい」
 急に恥ずかしくなって腕を振りほどこうとしたが、茜は離さなかった。
「うるさいからもう二度と言わない」
「じゃあ……殺したくなった?」

──俺は誰かを愛すると傷つけずにいられなくなる。
──おまえのこともいつか殺したくなるかもしれない。

 期限が切られていることだけがわかっていて。
 なのにいつそれが来るかがわからずにだらだらと不安に包まれているくらいなら。
 いっそ、ひと思いに殺して楽にしてやる、

 そうやって自分が楽になることだって──
 きっと俺には出来る。

 そこまで考えてみて──ぞくりと背筋が寒くなった。
「──いや」
 違う。
 そうじゃない。

「ひと思いに楽になんかさせてやるか。首根っこ掴んでベッドに縛り付けてでも、一分一秒でも長く生きさせるからな。覚悟しろ」 

 顔を上げると茜の頬を捻り上げた。
 茜は笑っている。

「しょうがないな、縛りつけられるのは嫌だから、おとなしく言うこと聞きます」

 いつもの、何でもないことのように茜は笑った。
 力が一気に抜ける。脱力して床に座り込み、茜の膝の上に頭を落とした。その頭を撫でている感触がする。


 その日のうちに、茜は茅総合病院に入院することになった。

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 茜を病院に連れて行き屋敷に戻ったのはすでに夜半過ぎである。
 数日数種類の検査のあと、手術日を決定するという。

 屋敷に戻ると自分が昼から何も食べていないことをようやく思い出した。厨房に声をかけて夜食を作らせ、ようやく人心地着いた椎多はそのまま青乃の部屋へ向かった。
 すでに英悟は寝かしつけた時間だ。
 青乃が驚いた顔で出迎える。

「茜先生、入院なさったって聞きましたけど……どこがお悪いの?」


 入院したということだけは医務室はじめ一部の使用人に伝えてはいたが、青乃の耳には入っていたらしい。
 青乃に座るよう促すと椎多は一瞬迷ってからその隣に腰を下ろした。


「まだ他の者には言わないで欲しい。茜は──」

 メモを取り出し、先ほど担当医から詳しく説明された内容を同じように青乃に伝える。が、当然自分は専門家ではないので話していても自分でもすべて理解しているわけではない。それでも、自分ひとりで抱えるには重すぎる。

 ふと気づくと青乃が無言で椎多の背中を撫でさすり、最後には椎多の手を握りしめていた。

「……再発率が高くても、5年生存率が低くても、100でも0でもない限り治る可能性はあるということよね」
「そうだな」
「泣いてもよくてよ」
 うっすらと笑って椎多は首を横に振った。本人の前で泣いてしまったことは黙っておこう。
「まだ泣いてる場合じゃない」
「そうね」
 深呼吸のように大きく息を吸い込み、そして吐き出す。

 これが、俺に対する罰なのかな。

 大事なものほど傷つけ、壊し、
 誰かれかまわず奪い続けた。
 他人の幸福を踏みにじり、壊してきた。
 その罰が、これか。

 罰なら俺自身に与えればいいじゃないか──

 黙って聞いていた青乃の手が、抗議するように指を掻きむしり椎多の手の甲に白く筋を残していく。
「ちょっとお待ちになって。わたし、わたしと英悟以外の者があなたに何かしらの罰を与えるなんて許さないわよ。それはわたしたちの権利なんだから」

 その言い方が何故か可笑しくて、少しだけ笑う。青乃は言葉とは裏腹に優しい笑みを浮かべている。
「ねえ、椎多さん」

 茜先生がこうなった時、
 考え得る限りの名医と最新の医療、最高のレベルで治療に臨む環境を与えることが出来る。
 あなたが望みさえすれば、きっと1年でも2年でも社長の仕事を休んで側にいて差し上げることだってできる。
 それは誰にだって出来ることではないの。
 大事なひとが病に倒れても満足に治療を受けさせてあげることも出来ない。
 ずっと側にいてあげたくても生きていくためには働かなければいけなくてそれも出来ない。
 そんな人の方がずっと多いわ。

 それは。
 あなたがこれまで多くを犠牲にして必死で作り上げてきたものがあるから出来ること。
 あなたが、自分で掴みとってきたものなのよ。

 罰を与えられるべきことだけをしてきたわけじゃない。
 
「茜先生のおかげであなたがどれだけ変わったか、わたしは知ってる。それを奪うことであなたを罰しようなんてわからずやの神様は、信じなくてよくてよ」

 最後だけ少し怒ったように唇を尖らせてつんとすましている。椎多はその細い肩に頭を預け、握られていた手を握り返した。

 青乃は今でもいつも許さないだの罰を与えるだの言うくせに、こういう時にはいつも一番救いになる言葉をくれる。それに何度救われてきたのだろう。

 

「すぐそうやって甘える。わたし、あなたに甘えていいって許可した覚えはないんですけど」

 そんなことを言いながら、青乃は空いた方の腕を椎多の頭に回し抱き寄せた。

 知ってて言ってるのか?

 俺が甘えてるんじゃない。おまえが俺を甘やかしてるんだぞ。​

 青乃の体温が暖かい。今日一日の疲れが一気に溢れてきてこのまま眠ってしまいたくなる。

 いや。

 俺はそんな為にこの部屋に来たのではない。

 青乃に慰めてもらいにきたわけではないのだ。

 

「──相談がある」

「今日はもうお休みになっては?お疲れでしょう」

 時折髪を引っ張られる感触がする。青乃が椎多の髪を弄んでいるのだろう。

 その言葉に従って床に就いたところで、多分どんなに眠くても眠れない。

「いや、もう少し話に付き合ってくれ」 

「しょうがないひと。茜先生のための話?ならお付き合いしますわ」

「──おまえ、前からちょっと思ってたんだが、まさか茜に惚れてるんじゃないだろうな」

 青乃は吹き出すように笑うと椎多の耳をぎりっと引っ張った。以前なら爪が食い込むところだが、英悟を養子にしてからは青乃の爪は常に短く切り揃えてある。

「もしわたしが茜先生に恋でもしてるとしたって、あなたがとやかく言えるお立場なの?いいからご相談って何です。はやくおっしゃい」

 そうね。

 わたし、もしかしたら茜先生に恋してるのかもしれない。

 でもそれは触れたいとか、触れられたいとか、愛されたいとかそういうのではないの。

 わたしね、茜先生があなたと楽しそうにしているのを見るのが好きなのよ。

 だから、それを見続けるためなら、わたしの出来ることはするわ。

 でもそれは椎多さんには教えてあげない。

 あなたに教えないそんな秘密が増えていくのが愉しいの。

 青乃は安心させるようににっこり微笑むと椎多の次の言葉を待った。

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*Note*

というわけで物語的には大変陳腐かと思いましたが茜ちゃんに倒れてもらいました。

この前の章(「梟」)を書き終わった頃に、とある歌を聴きました。人魚姫の物語に準えて、愛する人を置いて黙って消えてしまうことを予感している主人公の心情を唄ったものだったのですが、それを聴いて、茜ちゃんが椎多を置いて消えてしまうイメージが出来てしまったんですね。ここまでのこの話の展開なら、もっと物騒な、平たく言うと「殺される」という展開になるところなんだけど、これまでそうだったからこそ、椎多が自分の力ではどうしようもないことで大事なものを失う、ということにしようと。

その展開を考えた時点で、ふんわりと脳腫瘍であることは考えていたのですが実際着手するにあたって一度は別の病気にしようかとも考えました。

私の愛するとあるアイドル​さんが脳腫瘍(良性)の手術をし、数年経った今でも後遺症に悩まされていることを知ってしまったので。でも結局どんな病気であれ怪我であれ現実にそれで苦しんでいる人がいることを承知の上でこれを書いているわけなので、変更しないことにしました。作中でははっきりとは病名は言及してないけど。

タイトルは「白鷺」ですが、ここで書いてる鳥は「コサギ」(白鷺の一種)です。

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