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歌 姫

───パパを許してあげて。
 
 まるで口癖のようなその言葉がいつも耳の奥の奥にこびりついて何かの拍子に聞こえてくる。
 あのこは、今でもそう言えるんだろうか。

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「賢太の兄貴、なんか久し振りっすね。忙しかったんすか?」
 小鉢に芋の煮物などを盛り付けながら圭介はぼそぼそと言った。
 ちょっとな、と適当な返事をしてその小鉢を受け取り賢太は割り箸を割っている。
「そういえばこないだしーちゃんが来ましたよ、ふらっと。まだ一人でぶらぶら遊んでるんすか、あのヒトは」
「あー、危ないからやめろって言ってるんだけど、たまに目を盗んで抜け出してるみたいだな。いかんよなあ」
 圭介は昔賢太たちと共に椎多と町で遊んでいた仲間の一人だった。今は組からも足を洗って小さな一杯飲み屋を営んでいる。離れたとはいえやんちゃな弟を見守るような気分で今でも椎多の事を気にかけていた。
「そうだ、ウチの女の子ナンパするのやめてくれって言っといてもらえます?」
 少し困ったように苦笑して、圭介はちらりとカウンターの中で洗い物をしている女性に目をやった。
「ああ、あの子俺初めてみたな。雇ったのか?おまえの彼女?」
「そんなこといったら怒られますよ、まだ若い娘さんなのに」
「まんざらでもないくせに。もう前の嫁さんと別れてけっこう長いんだからいいんじゃねーの?」
 からかうと圭介はのっそりとした大きな身体を思い切り小さくして賢太の言葉を遮ろうと手をばたつかせた。照れている。
 そのやりとりを聞いていたのかいないのか、娘は二人の方へ目をやると可愛らしく微笑んだ。小柄で痩せたその娘はあどけなく見えたが立ち居振舞いを見ていればある程度大人の女性であるということはわかる。みずきか、渋谷夫人である有姫と同年代くらいだろうか。


──ははあ、しーちゃんが好きそうなタイプだなあ。
 

 それにしてもわざわざ圭介の店で圭介が明らかに惚れている娘にちょっかいを出すとは、椎多らしいといえばそれまでだが相手が圭介でなく単なる友人ならきっと絶交されているだろう、と賢太は思う。圭介は椎多のように器用に女性に声をかけることのできない男なのだから、ぜひその恋は叶えてやりたいという想いがふつふつと湧いてきた。
「わかった。しーちゃんにあの子には手を出さないように釘を刺しとくから。ええと、なんて名前だ、あの子?」


「──葵ちゃんてゆうんす」


 まるで名前を口にすることすら照れるかのように肩を竦めて圭介は小さく笑った。

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 鼻歌がきこえる。


「なんだ憂也。なにかいいことでもあったのか?」
 椎多のからかう声にKはその鼻歌とは裏腹に不機嫌そうな表情で振り返った。
「仕事がたまって苛々してるから気を紛らわしてるだけっす。気にしないでください」
 Kの仕事をためる要因を作っている立場としては苦笑するしかない。

 

 そもそも催眠術や暗示の能力を買って側に置いた筈が今ではそれを使わせることがあまりない。もっぱら秘書業務が主になっていた。
 実際のスケジュール調整や施設を押さえたりやそういったことは会社の秘書室がやっているのでKのやっていることといったらほぼ雑用係のようなものだ。しかし社のことも組のこともある程度把握して動いてくれるKは椎多にとっては便利──と言うとKはむくれる──で役に立っているのは間違いない。出来れば機嫌良く仕事してもらうに越したことはない。とりあえず少し話題の方向を変えようと椎多は試みた。
「それ誰の歌だ?おまえ時々歌ってるだろう」
「別に誰の歌ってわけでもないんで。そんなこと気にしてるヒマがあったらそこの書類全部目を通して下さいね」
 にべもない。
 肩をすくめて言われた通り書類を手に取った椎多を背にしてKは軽く唇を噛む。

──そんなに歌ってたかな。

 不機嫌顔の下で少ししくじったような気分になった。
 誰の歌でもない。テレビやラジオで流れてくる流行りの歌でもない。
 ただ、昔毎日のように聴いていたから覚えてしまっただけだ。


 あのこは楽しい時は楽しそうに、つらい時にはそれを紛らわすように歌っていた。
 綺麗な声だった。
 あのこのことを忘れたわけではないけれど、思い出すことも今では稀になってしまったのに。あの歌だけはずっとことあるごとにKの喉に上がってくる。

 

 小さく溜息をついて椎多の方へ向き直った時、ノックの音がしてドアが少しだけ開いた。
「しーちゃん、忙しい?」
 ドアから賢太が顔を覗かせている。
 賢太が会社の方へ顔を出すことは珍しい。そもそも組の人間は会社には顔を出さないよう厳しく言ってあるのだが、一部の人間に関しては緊急に出入りすることを許している。組の者だけが入れる入館口と何重にも張られた電子ロック。その開錠方法を知っているのは緊急時に社に出入りすることを許されている椎多に近いごく一部の人間だけだ。

 谷重バーで澤に声を掛けられてから暫くは少し過剰なほど警戒を張っていた椎多だったが、いつまでもそうしてもいられない。今のところ椎多個人の周辺にも社の方にも不審な問題は起こっていない。鴉からもコンタクトはないし、英二とは仕事上で顔を合わせることはあってもうまく逃げられているのかまだプライベートでは話も出来ていない状態だった。

 ひとまず警戒を通常程度に戻してもいいと判断したところだったが、あのあと澤のことを洗っていた賢太がわざわざ社に顔を出すということは何か緊急な、しかも他の通信手段は使いたくないような事態が起こったのかと思っても無理はない。


 しかし椎多が何か緊急かと尋ねると賢太はそうじゃない、と手を振って苦笑した。
「忙しかったらいいんだけど。俺またちょっと出かけることが増えるから今のうちにと思って」
 緊急事態でないことには少しホッとした椎多はKの顔をちらりと盗み見て仕方なさげに笑い、賢太を招きいれる。Kは口をとがらせあからさまに不満を顔に出しながらも書類を抱えて部屋を出て行った。


「ごめんな、たいした話じゃないんだけど。しーちゃんこないだ葵ちゃんて娘ひっかけたろ」
 椎多は一瞬きょとんとしてああ、と笑った。女の話だとは思わなかったのだ。
「葵ね、あの圭介んとこの娘か。心配しなくてもちゃんと大人の女だったぞ」
「いちおう名前くらいは認識してるんだね。圭介があの娘に惚れてるってくらいわかんないしーちゃんじゃないでしょ。なんでちょっかい出すんだよ」
 むすっとした賢太の言葉などどこ吹く風で椎多は煙草の煙を天井に向かってふうと吐き出し、聞き取れない程の小さな声で呟いた。
「……だからなんだけどなあ」
「何?」
「いや。あの娘はああ見えても扱いづらいぞ。圭介の手には負えない。やめとけやめとけ」
 笑って誤魔化している椎多に少し腹を立てたのか、賢太はじろりと椎多を睨んだ。それに気付いても椎多は全く意に介さずにこにこと微笑んでいる。
「しーちゃん……」
「とにかく俺が誰をひっかけようが、圭介本人にならともかくおまえにとやかく言われたくないな」
 とりつくしまもない。
 別に女性に不自由しているわけではない筈なのにどうしてこうなんだろう、となかば諦めに近い気持ちでまだ食い下がろうと試みたが無駄だった。
「そのうち友達無くすよ、しーちゃん」
 言い捨てて賢太は部屋を後にした。大きな音を立てたドアを見送った椎多はふと表情を曇らせ、煙草をにじり消す。

 

「……硝煙の匂いのする女なんか圭介の手に負えるわけないだろ」


 小さくひとりごちて頭の後ろに手を組むと椎多は椅子に深くもたれかかった。

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 何気ない路地から目立たないドアを開けて階段を降りると薄暗く落ち着いた空間になっている。
 軽く甘い酒を口に含むと葵は美味しい、と微笑んだ。
「あなたみたいなひとって一度付き合ったらそれっきりだと思ってた」
 無邪気にすら見える微笑を浮かべ、葵は肩を竦めた。
「そうそう、友人から釘をさされたよ。圭介の女に手を出すなって」
「あたし、圭介さんの女ってわけじゃ……」
 椎多はくすくすと笑ってグラスを口に運んだ。
「わかってるよ。圭介がそんなに女の扱いに慣れてたら前の奥さんと別れたりしなかっただろうし。でも圭介は君のことを好きだと思うよ。君は?」
「そんなの訊かれても困る。とてもいい人だけど」
 心底困ったように葵はグラスを持った指を遊ばせている。その指を取ると椎多はそこに軽く接吻けた。


「そう、本当にいいやつなんだ圭介は。悲しい想いをさせたくないんだよ。今のうちに圭介の前から消えてくれないかな」
 

「そんな──」
 椎多に囚われた指を慌てて引き戻し、葵は言葉を失った。心なしか顔色が引いたようにも見える。
「私に近づく為?随分遠いところから攻めてきたね。そんなことに圭介を使うなんて許せないな」
「なんのことだかわかんないわ」
 椎多はただ微笑んだ。ぞっとするような色が目に浮かんでいる。
「今からもう圭介の店には戻らず二度と現れないというなら見逃してあげるよ。でもおかしなことを考えてごらん。私は女の子だって容赦はしないよ」
 葵はひどく怯えた顔で立ち上がった。


 仮に椎多の見当違いでそれが濡れ衣だったとしてもやはり同じように、否、そうであれば尚更怯えただろう。
 

 葵はそのまま一言も発しないまま店を出て行った。それを微笑んだまま見送った椎多は自分も立ち上がり手早く勘定を済ますとその場を後にする。

 少し小走りに地上に出ると路地の角で賢太が合図しているのが見えた。目立つ金髪をキャップで隠している。追いつくと一言も発せずに賢太はすたすたと一方向へ向かった。椎多もそれに続く。
「一人で勝手に妙なことに頭をつっこむなって何度言えばわかるんだよ」
 賢太がぶすっと呟く。
「彼女に怪しいところがあるんなら最初からそう言ってくれればよかったのに。そうしたら俺だって圭介に──」
「賢太」


 椎多が立ち止まり賢太の小言を手で遮った。ひと気のない辻で、葵が立ち止まっていた。
 誰かと接触するかも、と身構える。
 しかし、そこに誰も現れはしなかった。ただ葵はその場でニ、三度ゆっくりと──本当にゆっくりと深呼吸をした。


──歌?
 

 静けさのなかでかすかに聞こえた声は、確かにメロディを成している。
 聞いたことのある歌だ。だが、咄嗟には思い出せなかった。


──憂也。
 

 Kの不機嫌な顔がふと頭に浮かんだ。
 それは、Kがいつも無意識のように口ずさんでいる歌だ。

 

 葵はひとしきり歌い終えるともう一度ゆっくりと深呼吸をし、まるでその歌が何かのまじないでもあったかのようにがらりと落ち着いた様子で歩き始めた。その後を賢太と椎多がひっそりと追う。

 いくつかの角を曲がったあたりで椎多と賢太は顔を見合わせた。この道順でいけば、圭介の店に行くのは明白だ。
 ち、と舌打ちし椎多は賢太を先回りで圭介の店に向かわせた。ふと思い立ち、Kにも連絡を入れこちらへ向かわせる。先ほどの店の近くで待機している筈だ。
 案の定、葵は圭介の店の裏口へ手馴れた仕草で闇の中迷いもせず鍵を開け入っていった。今日は店が定休日で、通常なら店とは別のところに住んでいる圭介はいない筈だ。ならば無人の筈の店に忍び込んだ葵が何をしようと、先回りした賢太が押さえるだろう。それなのに何かざわざわと嫌な感じが続いている。

 そして、椎多の「嫌な感じ」はよく当たる。
 店の表側から、裏口の方向を伺うものの、外からはなかなか中の様子は掴めない。せめて賢太からなにか合図でもないだろうか。
 そう、思った時だ。

──銃声?!

 

 弾かれたように椎多は裏口へと向かった。
 静まりかえった夜の町の中だから聞こえた、押し殺したような破裂音。何らかの方法で音を殺しているにせよその音を聞き分けられない椎多ではない。
 懐に忍ばせていた護身用の拳銃を取り出し、注意深く中の様子を伺う。しかし、それから何一つ物音がしない。

 

───賢太?

 顔面から血の気が引いている気がする。今考えられるとすれば、賢太が撃ったか賢太が撃たれたかのいずれかだ。しかし賢太が撃ったのならすぐに出てくる筈ではないのか。
 椎多はごくりと唾を飲み込み、一瞬目を閉じた。
 Kはまだ到着しない。待っていた方がいいのだろうか。いや、撃たれたのが賢太なら一刻の猶予もない。
 意を決すると注意深く、裏口のドアノブを回す。
 蹴り開けると同時に銃を構え、室内へ飛び込んだ。

 何の反応もない。それどころか人の動く気配すらない。
 慎重に、音を立てぬように、足を進める。と、足元で何かに躓きそうになった。


──賢太?!
 

 思わず叫びそうになった声を慌てて飲み込み、銃を構えたまましゃがみこむ。確かにそこに倒れているのは賢太だった。素早く様子を調べるとどうやら撃たれてはいない。ただ意識を失い、抱え上げると小さくうめき声をあげた。とりあえず生きてはいるようだ。
 ほっと小さく息をつくとあらためて用心深く立ち上がる。と、厨房の方から人の気配がした。

──血の匂いがする。

 厨房に近付くにつれその気分の悪くなるような生臭い匂いが漂ってきた。撃たれた人間がいるのは間違いない。
「たすけて………」
 静寂の中でありながら聞き逃しそうなほどのか細い声。
 椎多は厨房の入口の壁に張り付き、手探りでそのスイッチを発見し、オンにすると同時に伏せるように身を沈めた。
 しかし、やはりどこからも何の反応もない。
 中を覗きこみ、そこに椎多は予想していなかった光景を見た。


 厨房の冷蔵庫にもたれるように座り込んでいる葵。そしてその小さな体を被い隠すような大きな男の背中。その背中はぴくりとも動かない。2人の座った床から椎多の足元にまで流れてくるほどの血溜まりができている。男の白い服の背中には小さな穴と、その周りにまだ生々しい深紅の染みが広がっていた。
「──圭介?」
 息が止まりそうになりながらそこへ近付く。足元の血糊に足を取られているかのように、なかなかたどり着けない。実際にはたった四、五歩の距離だというのに。
 圭介は、既にこときれていた。
「どういうことだ」

 敵は、葵だと思っていた。
 しかしこの構図ではどうみても撃たれそうになった葵を圭介が庇ったように見える。そして倒れていた賢太。
 敵はもう1人いる。いや、ひょっとしたらまだこの中にいるのかも──。

 

 その時、背後──椎多が入ってきた裏口の方向に微かに人の気配がした。
 椎多は飛び跳ねるように壁に張り付き再び闇の中に注意を払った。しかし、灯りをつけてしまったためにせっかく闇に慣れた目がまた眩んでしまっている。このままでは狙い撃ちだ。

 くすっ。

 椎多の呼吸の音に紛れそうに微かな笑いが耳に入った。気のせいではない。その気配はあっという間に裏口から逃げ去っていった。

 咄嗟にその気配を追おうとしたとき、その、気配が消えたばかりの裏口から別の人影が覗いた。
「憂也!」
「組長──?何があったんすか、これは」
「今そこから誰か出て行かなかったか?!」
「?いえ、誰も?」

 そんな筈はない。
 そして、もうあの緊迫した気配が消えていた。

 

 椎多は、あの気配を、そしてあの漏れ聞いた笑い声を、知っている。

 賢太が後頭部をさすりながらようやく起き上がってきた。
「ごめん、しーちゃん……後ろから殴られて…。油断してたわけじゃないのにまったく気配を感じなかった…」
 それは恐らくさきほど姿を消した気配の主だ。
 椎多は無言で厨房に戻った。賢太とKが後に続く。
 圭介の体の向こうで、葵は小さな体を小刻みに震わせながら、なかば放心しているようだった。
「なにがあった」
「……たすけて」
 訊ねても葵はただそうか細く繰り返すだけだった。
 息をつくと椎多は圭介の体を抱え、血の海から避けるように横たわらせた。何故圭介は休みだというのにこんな時間にここにいたのか。何故圭介が撃たれねばならなかったのか。椎多は唇を噛みしめやりきれずに目を閉じた。
 そして振り返ったとき、ふと、賢太の後ろに立っていたKの表情に目がとまった。
「憂也?どうした」
 Kは椎多の問いには答えず賢太を押しのけて前に出た。

「葵──?」

 Kは小さく、しかしはっきりとそう呟いた。

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 ひどく腫れた頬に氷が心地いい。
 腕の擦り傷に細い指が薬を塗っているのを憂也はぼんやりと見ていた。

 歌が聞こえる。

 葵は泣きそうな真っ赤な顔をして歌っていた。


「……ごめんね、憂也。パパを許してあげて」
「……」

 

 赤ん坊の頃の憂也を引取って育てていた養父が葵の実の父親だった。本当に血の繋がった娘だったのかも確かめようはないが、とにかく葵は一緒に育ってきた、妹のようなものだ。
 しかしその男は引き取った憂也どころか実の娘である葵ですら、自分の子供のようには扱っていなかった。ペットか人形か。そうでなければ商品のように、ただ自分の所有物であるというだけの扱いだったと憂也は思う。それでもまだマジシャンとしてのその男が多少なりとも人気があり、それなりに儲かっていた頃にはまだ美味いものを食わせてくれたり、いい服を買ってくれたり、気まぐれに父親ぶったりしていたものだ。
 金に困り始め、弟子たちが一人ひとり抜けていくと子供たちへの扱いは一段とひどくなっていった。
 何度この男を殺すか、でなければとっとと逃げるかしようと思っただろう。しかしその度に葵がこんな顔でパパを許してあげて、と呟いた。
 こんなに酷い父親でも、本当は悪い人間ではないのだと信じたかったのだろうか。それでも憂也は何度となく葵に言った。
「なあ、一緒に逃げようよ。俺らまだガキだけどここにいるよりはマシな暮らしができるぞ」
 しかし、葵は首を横に振った。
「あたしたちがいなくなったらパパは明日にでも死んでしまう。それがわかってて逃げるなんてできないよ。憂也、我慢できないなら一人で逃げて。あたしパパを見捨てられない」
 そう言われても、葵を一人残して自分だけ逃げることも憂也にはできなかった。

 

 しかし──

 父親はそんな娘の心を知っていたのかいないのか──
 

 ある日、葵の姿が見えなくなった。
 憂也が問い詰めると、男は情けなく笑いながら娘を売り飛ばした、と言った。
「まだ生娘だ、高く売れたぞ」

 殺す、と思った。
 しかし、男は泣きながら、自分の面倒を見させてこのまま野垂死にするくらいなら、そしてそのうち借金のかたに連れ去られるくらいなら、金になるうちに売り飛ばしたほうが葵にはいい筈だ、と言った。
 憂也にはその理屈は理解できない。
 理解できないけれどこの頭のいかれた男はそれなりに娘のことを思ったのかもしれない、とは思った。


──葵を探そう。


 そうは思っても憂也にそんな手段などなかった。

 

 この男が自ら首を括り、椎多に拾われた憂也がKと呼ばれるようになったのはそれから僅か半年ほど後のことだった。 

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 葵は眠っている。
 椎多は組の人間を手配して圭介の遺体と店の血溜まりを掃除させる一方で、葵を屋敷に連れ帰りメイドに命じてひとまず身体を洗わせた。怪我などはなかったという。
 放心状態から脱すると今度は葵は興奮して暴れ出した。鎮静剤を打ってようやく眠ったところだ。

「どういうことなんすか、組長」
 枕もとについてKは椎多を振り返りもせず言った。

「なんで葵がこんな目にあわなきゃなんないんすか。何の巻き添えで」
「しーちゃん」
 椎多の背後から賢太も声を掛けた。
「今度ばかりはしーちゃんの見込み違いだったんじゃないの?葵ちゃんはあんな状態で、もししーちゃんが踏んだようなプロだったらこんなことにはならないでしょ」
「憂也」
 椎多は眉を深く寄せたまま、二人の言葉など耳に入っていないかのように口を開いた。


「彼女が目覚めたら口を割らせろ。おまえなら出来るだろう。久々の本職だ」
 

「組長!」
 Kが立ち上がり椎多を睨みつける。この状態の葵をまだ疑うというのか、と言葉にせずとも表情に出ていた。しかし、椎多は意に介することなく厳しくKをみつめたまま視線をそらさない。
「その女は口を封じられそうになったんだ。封じられなければならないだけの情報を持っているってことだろう。場合によっては憂也、いくらおまえの幼馴染だか彼女だか知らないが俺は容赦しない」
 宣言するように言い放つと、椎多はくるりと踵を返しこの部屋を後にした。言葉を失ったKがそれを見送る。
「しーちゃん!」
 賢太がそのあとを追う。後ろから腕を掴み振り返らせると椎多は怒りを顕わにした顔でその腕を振り払った。

「俺がよけいなことをしなければ圭介は殺されずにすんだ、とでも言いたいのか」

 そんなことは十分わかっている。
 葵に対する読みが正しかったにせよ誤っていたにせよ、なにか、圭介をまきこまずに済むやりかたがあったのかもしれない。
 そのことが胸の底でじくじくと椎多を責める。
 賢太は、椎多の表情を暫く凝視めていたが、それをかろうじて感じ取ったのか今にも口から出そうになっていた非難の言葉を飲み込んだ。

 椎多にとっても圭介は大切な友人だったのだ。

 しかも、もうとうの昔に足を洗ってまっとうにやっていた人間だ。本来ならこんな死に方などするわけがなかった。

 腹立たしげに立ち去る椎多の背中を見送り、賢太は葵の寝かされた部屋へ戻った。Kはまだ、もう見えなくなった椎多の姿を凝視するように空を睨みつけている。
「K、組長の言う通りにしてくれ」
 賢太の声に、Kは今まで睨んでいた先をその声の主へ向けた。
「嫌です」
「聞けよ。おまえがやらなきゃ組長はどんな手を使ってもあの娘の口を割らせようとするぞ。相手が女だろうがやるといったらやる人なんだから。薬を使ったり拷問したりしても彼女が喋るまで手をゆるめない」
 Kが嫌悪感を顕わに顔を歪めた。
「だから、おまえがやるんだ。おまえのやりかたならあの娘自身を傷つけることはない。その時出てきた事実がシロならそれからいくらでも組長を責めればいい。あの娘を思うならおまえがやるのが一番なんだよ。本当はしーちゃん…組長も、それがわかっていておまえにやれと言ってるんだと思う」


 苦しげに、さらに顔を歪めるとKは眠る葵の方へと向き直った。賢太に返事しようともしない。賢太はそれを黙って見ていたがそれ以上かける言葉を無くし部屋を出た。

 ドアの閉まる音を聞きながらKは、唇を噛み締め俯いた。

 

 嵯院椎多という男はそういう人間だと知っていた筈なのに──
 酷く裏切られたような気分になるのは何故なのだろう。
 何故、いつの間に自分はそんなに自惚れていたのだろう。
 自分の信じた娘が無条件で信じてもらえるだなんて───

 

 Kは目を閉じると椎多と初めて出会った時の事を思い出していた。確かにあの時はあんなに怖いと思ったのだ。椎多の本質が大きく変わったわけでは決してない。おそらく賢太の言う通り、Kがやらなければ椎多は──
 葵の無実を信じるならいっそ喋らせてすっきりしたほうがいいと、頭の後ろで冷静な自分の声が聞こえる。しかし葵に術をかけることなどしたくない。それに。
 無限ループに陥ったように結局同じところに考えが戻ってきてしまう。

「憂也………?」

 

 断ち切ったのは葵の声だった。
 ぎくりと目を開け葵の顔を見つめる。葵はひどく不思議そうな顔をしていた。自分の状況がわからない上に10年以上前に別れた筈の憂也が目の前にいたのでは無理もない。
 Kはベッド脇の椅子にようやく腰を下ろし、言葉を捜したが見つからない。どうすればいいのかまだ決めかねていた。
 と、葵はようやく眠る前の状況を思い出して来たのだろう。表情をこわばらせ微かに震え始めた。
「葵、もう大丈夫だから」
 ともかくそう声をかけると葵はKの腕に縋りついた。それとわかるほどに震えている。
「……助けて。あたし何がなんだかわからない。圭介さんが……」
「落ち着けよ。俺が助けてやるから」
 つい、口をついて出てしまった。しかし本当に自分に葵を助けてやることなど出来るのか。Kはただ自分の腕に懸命につかまる葵の手に自分の手を重ねて唇を噛んだ。
「……何か覚えてないか。誰が圭介さんを撃ったのかとか、圭介さんが誰かに狙われる心当たりとか」
 しかし葵はただ首を横に振ってわからない、と繰り返すだけだった。
 この、怯えた小動物のように震える娘をどうしてそこまで疑わねばならないのか。しかし、これだけでは椎多は納得しないだろう。

 

「葵」


 意を決したようにKは葵の目の前に広げた掌を差し出した。

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「それで、何も出なかったというのか」
「……はい」
 椎多の声は静かだったが納得していないことは空気でわかる。

 

 Kが聞き出した次第はこうだ。

 あの時、圭介は翌日の仕込みのために深夜厨房に入っていた。休みの日とはいってもいつもそうしているのは圭介の習慣だったから葵もそれを知っていたのだという。椎多に脅された葵は圭介に会って椎多に釈明してもらうよう頼もうと思い店に向かった。厨房に圭介がいる筈なのに電気が消えていて不審に思い、電気をつけようと思ったら圭介の来るな、という声が聞こえた。戸惑っていると次の瞬間腕を引っ張られるように圭介の大きな体が葵を覆い隠し、そのまま厨房の方へ連れていかれたのだという。それから圭介の罵声が何度か聞こえたが何と言っているのかは聞き取れなかった。そして、何かが弾けるような音がしたかと思うと自分を覆い隠していた圭介の体が沈んでいき、それに引き摺られて自分も床に座り込む形になってしまった。闇の中でもあり、相手がどんな人間だったのかもわからない。

 椎多が疑ったような、銃を扱うような経歴も出なかった。
 Kの前から姿を消してから10年足らずの間、最初でこそKが途中で術を解こうかと思う程辛い思いをしてきたらしいが、なんとか平凡な生活を送れるくらいになり、そして圭介と出会ったという。後半は珍しくもなんともない普通の若い娘の経歴だった。

「そうか」
「組長──」
 Kはひどく眉を寄せたままつかつかと椎多の目の前にまで足を進めた。そして、一瞬自分の右掌に視線を落としたかと思うとそれを振り上げ──椎多の頬を張った。
 まさかKに殴られると思っていなかったのだろう、椎多は目を何度もまばたかせてまじまじとKの顔を凝視して怒ることも忘れている。


「葵に謝ってください」
 

「──」
「全部あんたの巻き添えじゃないすか。あんなに怖い目にあったのに疑うなんて。葵に謝ってください」
 決してまくし立てるでもなく声を荒げるでもなく静かだったけれど、それが逆にKが普段にない程怒っていることを示している。
 椎多は少しだけ眉を顰め、何度か言葉を探すように口を開いては閉じてを繰り返し最後にぽつりと呟くように言った。
「──わかった」
 Kは虚をつかれたように目を見開いた。謝れ、と言ったもののそれほど素直に椎多がそれを受け入れるとは思わなかったのだ。椎多はまるで呼吸を整えるように二、三度ゆっくり息をすると手を伸ばしてKの頬を軽く捻り、笑った。

「おまえを信じることにする。俺の思い違いだったってことだ。謝るよ」

 

「組長──」
 顔が熱い。一方的に非難してあまつさえ殴ってしまったことへの恥ずかしさだけではないのだろう。
「なんか企んでません?」
「なんだと?」
「だって組長がそんな簡単に謝るわけないじゃないっすか。なんか裏があるんじゃないか、くらい考えますよ」
 本心ではない。ただ照れくさくてそのくらいのことを言わなければ間がもたなかったのだ。椎多も承知の上でKの頭を思い切り叩き、笑いながらその手で煙草を取り出した。

 椎多と訣別しなければならないかもしれない、という覚悟はしていた。

 それをどうやら回避できたということがこれほど自分を安堵させるものなのか。Kは少し驚いて小さく苦笑し、椎多が取り出した煙草に火を点ける見慣れた仕草を目で追っていた。妙に穏やかな沈黙がその場を支配する。

 椎多がひと口めの煙をふうと吐き出したのと同時に、慌しい物音と共に飛び込んできた者によってその短い沈黙は破られた。

 部屋へ駆け込むと、そこには男が一人倒れていた。葵の部屋の前に配置されていた警備の者だ。葵の寝かされていた筈のベッドはもぬけの空になっていた。
「──額を一発だ」
 用心深く倒れた男を検証すると部屋を見回す。窓がわずか10センチばかり開いている。
「まさかあの娘が?」
「いや、これはそんな至近距離からじゃない。うちの窓が防弾だと知っていて窓を開けさせて撃ったんだろう」
 それでは葵が手引きをしたのか。しかし、Kが催眠術で聞き出した限りではその可能性はない。むしろ更に別の仲間がいて、葵を連れ去るのと警備の人間を消す為の手引きをしたと考える方が妥当に思える。
 ならば、やはり狙われていたのは葵で、しかも殺すことよりも生かして連れ去ることを目的とされていたということだ。圭介はそれを庇おうとして撃たれ、すぐに椎多が飛び込んだために敵は葵を連れ去るという目的を果たすことができなかったのだろう。
 それにしても、この屋敷で警備をかいくぐって侵入し、体が小さいとはいえ大人の女性一人を抱えて逃亡するなどということができるものなのだろうか。否、まだその周辺にひそんでいるかもしれない。
 その時、激しい音を立てて弾かれるように窓が動いた。
「伏せろ!」
 防弾ガラスの窓に、新しい小さな傷が出来ている。たった今銃弾を弾いて出来たものに違いない。狙撃手はどこかでまだここを狙っている。灯りを消し、窓を慎重に閉めると椎多は双眼鏡で狙撃手の姿を探した。
 相手が本気ならこんなことで見つけられるわけがない。しかし、椎多はどこか確信していた。敵の今日の仕事はもう終わった筈だ、今の狙撃にはなにか別の目的がある筈だ、と。

 そして。

 思っていたよりもあっさりと、椎多は狙撃手の姿を発見した。

 

──あのやろう。

 

 敵は、スコープを覗いてこちらの様子を伺っていたのだろう、その姿勢のままで──手を振った。

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「お疲れさま」
「どういうこと?もう、苦労がだいなし!」
「気が変わったんだってさ。何か他にいいこと思いついたんじゃない?たまんないよね」

 鴉は笑って隣を歩く女の頭を撫でた。女はそれを煩わしそうに払いのける。

「あの人の気まぐれにも困ったもんよね。あそこまで入り込むのにどんだけ下調べと時間をかけたと思ってんの。ギャラを倍にしてもらわなきゃおさまんないわ」
「大丈夫でしょ。君は彼らにとっては狙われて怖い目に遭って、しかも再び誘拐された可哀想な娘なんだから。君のしかけてきた盗聴器によればとりあえずそれで済んだみたいだよ。それを利用してまた別の手を打つつもりなんじゃない?」

「……ねえ、煙草持ってる?」

 鴉から1本受け取り火を点けさせると女は美味そうに煙を吸い込む。鴉はその様子を興味深そうに眺めている。

「あのKって子、君の幼馴染なんでしょ。信じてたんだろうに可哀想じゃないの?」

 大きな口を開けて深呼吸しているのかのように煙を一気に吐き出すと女は鴉をちらりと見て笑った。


「ばかね。利用できるものはなんでも利用しなきゃ。憂也がいてくれたお陰であそこまで信用させることができたんだから。あの子の術は私には効かないの。ううん、私にはどんな催眠も暗示も効かないんだもから」


「さすがは『歌姫』だね。自分以外からの暗示は受けないんだ。あの歌は自己暗示なんでしょ?どんな女にでもなれるって聞いたけど」

「演技派なの、私」

 女──葵は小さく笑うと煙草を火のついたまま道端へ投げ捨てた。

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送信しました。ありがとうございました。

*Note*

これは多少の調整や説明文を加えた程度でほぼオリジナルのままです。女性キャラはどれも好き。癖強いけど書いてて楽しい。

​やっぱK、好きだよね組長のことさ……。

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