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焼 印

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 罪人である証の焼印。
 その罪を忘れさせぬように。

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 ここ暫く寒い日が続いていたが、窓から暖かい日差しが差している。

 知らぬ間に春は近づいていきているようだ。もっとも、予報では夕方から冷え込むらしい。


 暖かいものだからついうとうとしていると、医務室の扉を叩くノックの音で目が覚めた。
「茜先生、こんにちは。よろしくて?」
 訪問者は青乃である。
「あ、どうぞ」
 招き入れる茜の顔を見て青乃がくすくすと笑いを漏らした。
「茜先生、居眠りなさってたでしょ」
「わかりますか?まいったな。ええと──何か?」


 ついうっかり忘れがちだが、青乃は椎多の妻である。言いようによっては青乃にとっては茜は夫の愛人ということになる。しかも青乃はそのことを先刻承知の上だ。しかし、茜は青乃から嫌な顔をされたとか何か嫌がらせをされたとか、そういうことは一度も無い。妙な夫婦だとつくづく思う。


「別になにも。退屈だからまたお話を聞かせて頂こうかと思いましたの。例の鷺は元気?」
「元気ですよ。今朝見たらこの寒いのに羽根を広げてばしゃばしゃ水浴びしてました。って水鳥だから当たり前か」
 椎多は全く興味を示さないが、青乃は茜が撮影している鳥の話が好きなようでよく聞きたがる。鳥の話だけでなく、以前茜が寝泊りしていた公園のホームレスの暮らしや、戦場での医療活動の話など、青乃にはどれも珍しいらしく何の話をしても楽しそうに聞いている。


「青乃さんて、もっと気取って怖い女性だと思ってたんですけどね」
「随分はっきりおっしゃるのね」
 そんな時、青乃は何故か嬉しそうな、少女のようにはにかんだ表情を見せることがある。使用人たちには一歩引いて恐れられている女主人と同一人物とは思えない。
 『世間知らずのお嬢さま育ち』の『セレブなマダム』かと思えば近年は椎多に子会社の経営を任されて実業家としても手腕を発揮しているらしい。が、そのどれとも違う顔がそこにあった。
「なんか、不思議な人ですね。青乃さん」
「不思議だなんて言われたことありませんわ」


 青乃にとっては『青乃さん』と呼ばれること自体がかつての甘く悲しい恋を想起させる特別な事だったのだが──それは茜には知る由もない。

 昔椎多が何よりも欲したはずの青乃の無邪気な微笑。皮肉にも、椎多は現在も手に入れたとは言い難いのに、茜の前ではいとも簡単にそれを振りまいていると言っても差し支えなかった。


「そうだ、昨日の夕方に例の鷺のいい写真が撮れたんですよ。引き伸ばしてパネルにでもしようかと思って。出来上がったら見て下さいよ」

「素敵。楽しみにしておきますわ。椎多さんに見せる前に見せて下さいね」


 悪企みをするように悪戯っぽくくすくす笑う。茜もつられて笑った。しかしひとしきり笑うと、急に青乃は表情を引き締めて座り直した。


「ところで茜先生──お願いがありますの。椎多さんのことで」


 やはり本題があったのか──茜は頷いてその先を促した。

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「あら、お屋敷でご夕食なんてお珍しいこと」


 ばか広いダイニングテーブルの、椎多とは反対側の面の席を自分で引いて青乃は横座りに着席した。青乃にしてはあまり良い行儀ではない。
 もっとも、食事の為に着席したのではないから気にしていないようだった。青乃の夕食はとうに済んでいる。


 あら、などと言っているが椎多と顔を合わせるのが目的なのは一目瞭然だった。食事も済んでいるのにダイニングに青乃が姿を見せることなど普段はない。


「珍しいのはおまえの方だろう?何だ」
「お話がありますの。あとでお部屋に伺います」
「もったいつけずにここで言えばいいだろう」
 あとで部屋に来るという予告をするためだけに来るなど無駄な話だ。
 青乃は悪戯っぽい、それでいて少し困ったような笑顔を浮かべて立ち上がった。


「いえ、ここでは少し……。二人きりでお話したいの。ですから部屋にいて下さいな。あなた、言っておかないとすぐに茜先生のお部屋に遊びに行ってしまわれるんですもの」


 否定できないので苦笑するしかない。
「では、のちほど。ごゆっくり召し上がれ」
 静かな笑顔のまま立ち上がり、そのまま青乃はダイニングを後にした。その背中を見送りながら肩をすくめる。


「ぞっとしないな……なにを企んでるんだか」

 

 青乃の愛想がいいと何か腹に一物あるのではないかと勘ぐってしまう。何か──青乃一人では決済できないようなとんでもないねだり事でもされるのか、と思うともう想像がつかない。


 食事は終わりかけてはいたがそれが気になって残りを平らげる気にならず、椎多は食事をそこで切り上げた。

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 部屋に戻って青乃を待つ間、酒を薄めの水割りにして窓際にぼんやり立って外を眺める。
 今夜は空がよく見えるようで、曇りかけた窓越しにも明るい星は目に止まった。バルコニーに出ればもう少し遠い星も見えるだろう。もっとも、バルコニーに出るには寒すぎる。


 気付くと指先がひどく冷たくなっていた。
 一定以下の気温になると、身体の他のどの部分が寒いと感じていなくても、手指が真っ先に冷たくかじかんでくる。

「今日は冷え込むな…」
 誰もいないのに、声に出して独り言を言った。

 ノックの音がした。青乃である。

「遅い。随分待ったぞ」
「あらごめんあそばせ。もっとゆっくりお食事なさってるのかと思っておりましたの」
 青乃は暖かそうなストールを肩に羽織っている。やはり冷え込むのだろう。何か飲むかと尋ねると紅茶、と答えられた。
「普段紅茶なんか飲まないからティーバッグしかないぞ」
「ティーバッグでもありますの?てっきりお酒しかないのかと思っておりましたわ」
「無いと思って注文するんですか、奥様は意地悪だ」
 くすくす笑いながら青乃はソファに深く沈みこんだ。


「それで、何?」


 隣でなく、向かい側のソファに腰掛けて煙草に火を点ける。青乃は暫く黙ってその立ち上る煙を目で追っていた。そして、小さく息をつくと座り直し、めったに見れない最上級の笑顔を顔に浮かべて漸く口を開いた。

「養子をもらおうと思いますの。いいでしょう?」

「……今度は何?チワワ?」
 即座に犬と思ったのは、隼人を飼った時のことを思い出したせいだ。
 青乃は呆れた顔で溜息をつくと身を乗り出してゆっくり、そしてはっきりと発音した。


「人間の子供です」


 多分、椎多はとんでもなく妙な顔をしたのだろう。青乃がその顔を見て吹き出して苦笑している。
「流石に犬の仔と違って、あなたに無断でというわけにはいきませんの。ご承知頂けます?」
「……っておまえ……」
 全く予想だにしていなかった。
 確かに、『とてつもないねだり事』に違いない。言葉に詰まって二の句がつげなかった。
 と、青乃が立ち上がり、扉へ向かう。開けると外にメイドが待機していた。
「ありがとう。もう下がっていいわ」
 そして、そのメイドから『何か』を受け取ると、青乃は振り返った。その背後で外からメイドがドアを閉じている。


 青乃の腕には、すやすやと眠る小さな子供が抱かれていた。
 もう赤ん坊とは言えない幼児である。
 椎多はただただそれをじっと目で追うので精一杯だった。


 ソファに戻った青乃は、その子供の寝顔を──まるで『母親』のように──愛しげに見つめた後椎多の目を真っ直ぐに見据えた。

「あなたはこの子にお会いになったことがあるはずよ」

「──何だって?」
 こんなに小さな子供と接する機会など、椎多には皆無である。あるとすれば何某かのパーティでだが、それも覚えがない。


 覚えがあるとすれば──

「まだおわかりにならないの?……英悟、といいますのよ。この子の名前」

 びりっと。
 背筋に電流が走った。
 そんなわけがない。

「そう、この子の実の母親は有姫さん。そして、父親は──渋谷英二さん」

 煙草を取り落としそうになって、慌てて灰皿に投げ込んだ。


 そんなわけが──

「あなた、ご存じでしょう?新聞の三面記事にまで目を通されてるんですもの。有姫さんに何が起こったのか」
「──」

 2ヶ月ほど前だ。
 その記事は、深夜の病院で当直の医師が何者かに狙撃されて殺された──といったものだったが、他に大きな事件が紙面を賑わしていたため扱いはごく小さかった。
 それだけならば、椎多の記憶に残るようなものではなかった。深夜とはいえ人の出入りしている救急病院で目撃者もなく狙撃されていることからプロの仕事であるかとは思ったが──その事件には、まだおまけがついていた。
 殺されたのは医師だけではなかった。もう一人、無関係らしき女が殺されたのだ。

 そして、その被害者の名前は──渋谷有姫、とあった。

「可哀想に、ただの巻き添えだったとか。犯人はまだ見つかっていないようですわね」
「──」
 声も出ない椎多に構わず青乃は説明を続けた。時折、ちらりちらりと英悟の寝顔に視線を落としている。


 母を失った英悟は、渋谷修一の妻である翠が預かっていたのだという。有姫は実母のもとで英悟を育てていたがその実母も近頃は病気で入院していたためである。
「だから…って……なんで……」
 漸く声が出た。

──なんで、英二の子供を。

「なんで、っておっしゃるの?」
 青乃は英悟を起こさぬようにそっとゆすりあげてその額に頬擦りして見せた。


「この子が両親を失ったことに、あなたは何の責任も持たなくていいと?」


「──」
「わたし、言ったはずよ。あなたが誰をどんな風に愛そうとかまわないけど、相手を傷つけてしか愛せないならわたしは許さないって」
 一旦口を噤み、唇をきゅっと噛み締めて、再び青乃は真っ直ぐ椎多の目を見据える。
「渋谷さんがどんな運命を辿ったか、わたしは詳しくは知らない。知りたくもない。でも、彼が有姫さんの所へ戻ってこなかったのは、あなたのせいよ。そうでしょう?それに、彼が有姫さんとこの子と親子三人で暮らしていたら有姫さんがあの病院で事件に巻き込まれることもなかったわ。あなたが──この子の両親を奪ったと同じ。違うとは言わせない」
「おまえは──」

 そうやって、俺に罪人の焼印を押すように、その子供をつれてきたのか。

「──出て行け」
「逃げるの?そうやって、あなたはいつも一番大切なところで逃げるんだわ!いつも誰かが大事に守ってくれると思ったら大間違いよ!」
「うるさい!出て行け!」
 椎多は立ち上がると青乃の腕を掴んで立たせ、ドアの向こうへ引きずる。青乃は英悟を庇うように抱きすくめてそれに強く抵抗はしなかった。しかし、どれほど慣れてもやはり心の底で椎多に対する恐怖が消えていなかった青乃が──全く怯えた素振りも見せずにきっと椎多の目を睨みつける。
「あなたも気持ちの整理が簡単にはつかないでしょうから、すぐにとは言いません。でも、この子は必ず養子にしますからね」


 突き飛ばすように青乃をドアの外へ追いやるとドアを閉める。

 屋敷中に響くかと思う大きな音。
 そのままドアに背中を預けてずるずるとしゃがみこんだ。
 身体ががくがくと震えている。

 そうだ。

 英二が死んだ次のクリスマスに、有姫は生まれたばかりの子供を抱いて椎多に会いにきた。
 子供の名前を、英悟だと紹介した。
 父親に似ている、と思った。

 さっきの子供の顔は正視できなかったがおそらくあの時よりもっと父親に、そして母親に似てきているのだろう。


 あれを養子にするだと?
 子供の顔を見る度に、おまえの本当の両親は俺が殺したのと同じだ──と苛まれながら育てろと?

 頭を抱えるように立膝の上に落とす。
 なんだか笑えてきた。

 今更何を言っているんだ。
 人を殺すことなんて何とも思ってこなかったくせに。
 ”何一つ手を汚したことのない清廉潔白な人間がただ一度犯した過ち”でもあるまいし。

 背中のドアでノックの音がする。今度はなんだ。

「……椎多さん?」

 茜の声。
 しかし、顔を上げる気にもならない。

「椎多さん?いるんでしょ?」

 かちゃりとドアが開く音がした。それにもたれたまま転びそうになっている椎多を足元に発見して茜は笑った。
「どうしたんですかそんなとこで」
「──うるさい。今日はおまえと遊んでる気分じゃない。帰れ」
 視線を合わさずに呟くと茜はその足元にしゃがみこんだ。


「ひとりになりたくないって、顔に書いてある」


 ドアのところでなかば寝転んだ体勢になってしまっている椎多を座り直させて茜はちゃっかり室内に入り込んだ。
「別に遊ばなくても、話とかしなくても、誰かいるだけで安心する時だってあるでしょ」
 口に出して反論する元気もなく、ふらふらと立ち上がって椎多はソファに向かった。無造作に腰を落とすとそのままごろりと横になった。
 茜は何か声をかけようとして──それを思いとどまり、ただ別のソファに腰掛ける。

「──出てけよ」
 横になったまま薄目で茜を見ながら、椎多が呟いた。
「これ以上俺に近づくな」
「──どうして?」


「俺は……誰かを愛すると傷つけずにいられなくなる。おまえのこともいつか殺したくなるかもしれない」


 椎多はこれまで茜には紫とのことも青乃とのことも、そして英二とのことも話さなかった。隠しているつもりではなかったが、無理に話す必要を感じなかった。ただ、茜のことだから椎多を詰ることはせずにただ哀れむか気遣うかするのだろう。それが嫌だった。
 なにも今あらためて罪状を告白しようと思ったわけではない。ただ、茜を遠ざけたかった。


 しかし、茜の反応は予想外だった。
 妙に嬉しそうな顔をして笑っているではないか。

 なんだその顔は。こっちはそれどころじゃないっていうのに。

「てことは、殺したくなるくらい愛してくれる見込みがあるんだ?」

 脱力して、溜息が出て、

 そして重い身体を持ち上げて座り直すと身を乗り出していた茜の頬を思い切り平手打ちした。
「いってー、いきなり何」
「うるさい!何能天気な事を言ってんだ!俺は──」
「だって、椎多さんが俺をどう思ってるのか俺はまだ聞いたことないもん。おめでたいとか実は性格がひんまがってるとか悪口は散々聞かせてもらったけど」
「──」


 あんぐりと開けて絶句した口を所在無く閉じて唇を噛み締める。こいつに何を言っても無駄な気がしてきた。


「──もういい。膝貸せ」
 茜をソファの端に座り直させてその横に移動する。そしてごろりと横になって頭をその膝に預けた。
 ああは言ったが、茜を殺したくなるほど──紫や英二に対してそうだったように──激しく愛することなど、まるで想像できない。茜に対して鋭利な刃物のような感情を向けても仕方がない気がするのだ。暖簾に腕押し、糠に釘──という言葉を思い出してこっそり苦笑する。


 少し丸くなって胸の前に無造作に置いていた手を、上から伸びてきた茜の手が握った。
 暖かい。
 
──いつも誰かが大事に守ってくれると思ったら大間違いよ

 青乃の言葉が脳裡に蘇った。
 ああ、その通り、俺はこうして守られている──
 守られてそのまま安全な場所に逃げ込んでいては青乃にほらみろと言われてしまうのだろう。
 守られているのならば、攻めて出なければならないのかもしれない。

 目を閉じると、先ほどまで昂ぶって今夜は眠れそうにないと思っていたのにとろとろと眠気が降りてきた。

 


 膝を占領されたまま、そこに乗せられた頭がどんどん重くなっていくのを感じる。
 眠ったのか、と思うと茜は少し安心した。

 するりと椎多の手から自分の手をはずすと、撫でるように髪をいじりながら静かに寝息を立て始めたその頭を見つめる。

 昼間の青乃の言葉が思い出される。

──今夜、わたし椎多さんと喧嘩する予定ですの。
──だから、茜先生ころあいを見計らって彼のそばに行ってあげて下さらない?
──多分彼、ひどく昂ぶってるか落ち込んでるか自棄になってるかのどれかだと思うから。
──わたし?だってわたしが彼を怒らせようとしているのよ。

──先生がそばにいて下さったら、椎多さんはきっと大丈夫だから。

「……椎多さん、愛されてますよね」


 もう眠ってしまって聞こえないだろう。そう思いながら茜は小さく微笑んだ。

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「旦那様、青乃様は今隣のお部屋においでですよ」


 青乃の部屋をノックしようとしたところを背後から声がかかった。龍巳である。
 一度は青乃のために椎多の命を奪おうとしたこのボディガードも、椎多に対する警戒は解いて久しい。しかし、今日は久しぶりにどこか張り詰めた空気を漂わせている。


 英悟のことがあるからだろう。
 また椎多が青乃に──あるいは英悟に対して良からぬことをしでかすのではないかと警戒しているのだ。


「そんなに警戒するな。何もしやしない」
 龍巳は一瞬困ったような顔をしたが、返事はしなかった。
「で、隣?」
「はい。奥側の隣です」


 その部屋は龍巳たちボディガードが詰所代わりに使っていた筈だ。言われた通りのドアをノックすると青乃の返事が聞こえた。開くと、飾りつけもなく殺風景だった筈の部屋が嘘のように暖かそうな内装に変わっているのにまず驚いた。
 よく見れば、カーペットとカーテンと一部の家具を入れ替えただけで特に内装工事をしたでもないのだが随分印象が違う。


 青乃は部屋の中央でカーペットにじかに座っていた。その回りを、昨夜は夜遅かったせいもあってよく眠っていた英悟が元気そうに走り回っている。まだ少したどたどしい足取りではあるがもうこの部屋に慣れているようだ。気付かぬうちにいつからここに住まわせていたのだろう。
 少し胸のつまる思いがする。


 ゆっくりと青乃のもとへ足を進めると、青乃は座ったまま椎多の顔を見上げて微笑んだ。
「やんちゃでしょ」
「──青乃」
「この子、目の前で母親を射殺されたのよ。今は元気にしてるけど、夜寝る前になったらおびえて泣き出してしまうの」


 ああ、そういうことなら覚えがある。
 青乃の横に腰を下ろすと椎多は英悟の動きを目で追った。


「俺は──あのぐらいの頃に、実の母親に首を絞められた」


 そんな話を青乃にしたのは初めてだった。青乃は息をのんで椎多の顔を見つめている。
「母親がわりに俺を育ててくれてた女性が、首を絞められている俺を助けてくれたけど……そのせいで殺された。めった刺しだったよ」
「あなた──」
「それから、理由はわからないが……親父からも銃をつきつけられたことがある。ここに」
 そういって額を指差す。親父にそんな事をされたのはそれきりだけど、と付け加えた。青乃は黙って次の言葉を待っていたが、椎多は暫くそのまま口を紡ぎ、玩具に夢中になっている英悟を見つめている。やがて、──何度か口ごもった後、呼び難そうに──「英悟」と呼びかけた。


 自分を呼んでいると気付いた英悟は見慣れぬ男に戸惑いながら伺うように近づき、青乃の陰に隠れながらこちらを見ている。人見知りをしないというわけではなさそうだ。
「抱っこしてあげて下さいな」
 青乃はそう言って英悟の手をとって椎多の前に立たせる。
 困った顔で英悟と青乃の顔を交互に見比べた後、立ち上がって抱き上げ「高い高い」をしてやると英悟はきゃっきゃと声を立てて笑った。手足をじたばたさせて喜ぶので落としそうになって慌てて抱きしめる。


「……似てるな。有姫ちゃんにも……英二、にも」
「ええ」
 床に下ろしてやると子供は声を立てて笑いながら再び青乃の陰に隠れた。先程とは違いもう一度やってくれないかと期待のこもった目で椎多を見ている。


「青乃」
「はい」

「俺は──こういうやつだから。いつ英悟を殺したくなるかわからないぞ」

 青乃も立ち上がった。 


「そんな時、おまえは何があってもこいつを守ってやれるか」

 自分を守ってくれたリカのように。

「守ります」
「逆上しておまえを殺そうとするかもしれないぞ」
「わたし、おとなしく殺されたりしませんわ。返り討ちにします」
 そうか──と微笑み、椎多は大きく息をついた。

「面倒な手続きは任せる」
「──ありがとうございます」
「あれだけ好き放題言っておいて、今更殊勝なふりしても通用しないぞ」
 あら酷い、と言って青乃はくすくすと笑った。
 その笑い声がくすぐったい。
「お嬢さま育ちの癖に育児なんか出来るのか?ベビーシッターを雇って自分は育てないなんてことをするならどこか施設にでも放り込んでやるぞ」
「翠さんに相談相手になって頂きますわ。そうすれば彼女も安心でしょうし」

 自分が崩壊させた渋谷一家とまるで親戚付き合いか──
 いい気分がしないのは仕方あるまい。

 これが自分にとって正しい選択だったのかどうかわからない。
 もしかしたら、また足元にぽっかりと闇が口を開くことになるのかも──
 本当は、足が竦んでいるのだ。
 それでも逃げてばかりいると言われるのは心外だから。

 背中におまえは罪人だという焼印。
 それは年を追うごとに大きくなってゆく。
 潰されぬように、強くならなければ。


 まずは、幼児の扱いに慣れるところから始めるのが先決だ。
 青乃にばかりなついて派閥でも作られたらたまらない。

 部屋を後にすると椎多は首を二、三度回してうんざりと溜息をついた。
 しかしその顔にはかすかに笑みが浮かんでいた。

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*Note*

なんと椎多と青乃に子供ができました!英二の子だけど!

ということでちょっと子世代の話なんかも書きたくなってます。今気づいたんですけど、これ2021年になったら英悟、もう高校生では?!!!

椎多、英悟を殺したくなったら云々言ってますけど、血が繋がってないからって英悟に手を出したりしませんかね大丈夫ですかねこの人(をい)まあ自称「少年趣味はない」ではありますけど…ねぇ…。まあ英悟はさすがに35歳以上年上のおっさん相手にはしないと思うけど。(てゆうか英悟はまあまあ早めに結婚して父親になる未来が約束されてるんですが)

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