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 オフィス街といってもこの周辺は大企業というほどではない規模の会社がテナントに名を連ねている。会社帰りのサラリーマンもOLもお世辞にも洗練された雰囲気とは言いにくい。

 そんなビルの一階部分にその店はあった。

 もう人影はかなり少なくなっている。深夜まで遊びたい者は大抵その近辺から徒歩圏内のもっと大きな繁華街へと流れていって、残されたのは残業明けの疲れたサラリーマンくらいのものだ。
 そこへ横付けした車の大きさも、中から降りてきた青乃の服装も、どこかその界隈の雰囲気からは浮いている。
 車から降り立つと龍巳が回り込んで引き戸を開けた。


「いらっしゃいませ──あら」
 カウンターの中にいた女将はすぐに青乃に気づいたようだった。まだ若いが和服をしゃんと着こなし、凛と美しい。
「ご無沙汰しております。覚えていてくださったの?」
「もちろんですわ。あら、どうしましょうこんな狭い店においで頂いて……」
 女将は嬉しそうに微笑みながら席の用意をしている。謙遜ではなく確かにカウンターの席しかない小さな店だった。
「そう何度もお目にかかっていないのによく覚えてて下さったこと。最後にはなやに伺ったのは確かわたくしがまだ高校生の時だったわ」
「葛木家のお嬢さまのお顔を忘れるようではこのような仕事はつとまりませんもの」
「まあ懐かしい。もう葛木の名など忘れてましてよ」


 青乃は微笑むと店内に目を巡らせ、いいお店ね、と呟いた。店の奥の壁には古ぼけた大きな木の看板がガラスのディスプレイに守られて静かにその店内を見守っている。
「あれは──」
「主人が火の中から救い出したものですもの。きちんとしておかなければ叱られます」
 看板を振り返りそれを見つめる瞳は、まるで愛しい者を見つめるように柔らかい色をしている。

「『しぶや』は、今でも主人を待っておりますから」

 女将──渋谷翠はもう一度にっこりと微笑んだ。

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 一流旅館のリストには必ず名を連ね、テレビのグルメ旅番組などでは常連のように紹介される。街からさほど遠くもないのに山間の静かな場所にあって近場の客も多い。なにより料理旅館というだけあって食事が格別だという評判だ。


『はなや』はそんな旅館だった。

 娘ばかりということもあり、長女が婿をとって跡を継ぐことになっていた。
 その為両親はあと二人の娘たちには好きな道へ進むことを許していた。いずれ嫁に行く娘たちだ。家に縛り付けても意味がない。
 実際、次女は上の学校まで進み、外国へ留学して商社に就職した。
 三女で末娘の翠はしかし、学校を卒業したあとは『はなや』を手伝っている。上の学校へ進む学力がないわけではない。むしろ、三人の中で一番学校の成績がよかったのは翠だった。それでも、翠は『はなや』やその仕事がが好きだったのだ。
 10年もその仕事をしていれば、若女将である姉やその夫を手伝って旅館の経営に関わることもできるようになる。かといって出過ぎたこともしないので姉夫婦に疎まれることもなかった。

 ある日、父の旧友という男が泊まりに来た。


 翠もその男のことを知っている。大事な客なので応対を仲居に任せずに翠がするように父から指示された。
 翠は男に一挙手一投足をじっと追われているような気がして少し気味が悪かったのだが、そんな素振りを見せるわけにもいかない。時折奇妙な質問をしたりもして、翠は陰でこっそり首を捻った。あのおじさまはあんなにおかしな人だったかしら、と。


 朝食を片付けた時、父に再びその客の部屋へ呼ばれた。
 客は、にこにこと上機嫌そうに微笑んでいる。


「翠、渋谷さんのところの修一君をおぼえているか」
「はい、お兄様のほうでしょう?」


 子供のころ、目の前にいる客の家に父に連れられて何度か遊びに行ったことがある。弟の英二は自分とも年が近く何かとかまってくれたし遊んでくれたけれど、兄の修一の方は年も少し離れていていつも難しい顔で厨房に立っていたのであまり話したことすらない。幼い翠の目からは本当の「大人」ではないけれどひどく「おとな」に見えたものだ。


「翠ちゃん。修一のことをどう思う」


 翠は目をぱちぱちと瞬かせて首を傾げた。
「どう、…だって、わたし中学生のころにお目にかかったのが最後ですし……」
 父が苦笑している。


「おい渋谷、ぶっちゃけて言えよ。──翠、渋谷はおまえを修一君の嫁にしたいんだそうだ」
「え?」
「昨日からずっと見させてもらっとったが、翠ちゃんは身のこなしもいちいち美しいししっかりした受け答えもできるし、きっと『しぶや』の女将となってもきちんとやっていってくれるだろうと思ってな。あの朴念仁は料理の腕やら経営に関してはもう一人前だがいかんせん女をよう扱わん。放っておいたら一生嫁の来てがないかもしれんくらいだ。『しぶや』の跡取がそれじゃあ困るんでな」
 誰に似てあんな堅物に育ったんだろうな、と翠の父が渋谷をからかっている。


 翠は降ってわいたような自分の結婚話にただ戸惑っていた。


「もし、わたしが承知しても修一さんは──」
「なに、今惚れた女がいるなら別だが『しぶや』に必要だといったらあいつが断るわけがない。まして翠ちゃんのように綺麗でしっかり者で気立てもいい娘さんを嫌がるわけがないさ。翠ちゃんなら山ほど縁談があっただろうに今まで残ってくれていたほうが奇跡的だよ」


 複雑な気分だ。


 まるで、『しぶや』の女将のオーディションでも受けているかのようだった。そこに夫と想定されている男の意思は存在しない。


 しかし──


「もしも、修一さんがお嫌だとおっしゃらなければ──」
 翠はきちんと座り直し、膝の前に指を揃え、


「よろしくお願い申し上げます」


 静かに頭を下げた。

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「──本当はわたし、子供の頃からずっとあの人に憧れていましたの。初恋の人だったんです。だから、最初は嬉しいというよりもどうしようとそればかり」

 女将は少女のようにはにかんだ微笑をこぼした。


 すでに時刻も遅くなって客も途切れていたため、二人の女は翠の実家の老舗旅館と互いの少女時代の昔話に花を咲かせていた。


 『しぶや』と時を同じくして実家の老舗旅館『はなや』も半焼した。夫である修一が消息不明になったあと一時はその実家の手伝いをしたりもしていたが一年ほど前にこの店を開店したのだという。そんな話をしているうち、話題は翠の夫とのなれそめの話になったのだ。


「わたし、わかっておりましたの。主人は、『しぶや』の女将としてのわたしを認めてくれてはいたけど翠というひとりの女として見てくれたことなどなかったと」
 すでに看板の電気も落とした店内。女将はカウンターで青乃の隣に座り板場では40代ほどの板前が後片付けをしている。少し離れた席に龍巳も座らされていた。
「でも、『しぶや』がご存知のようなことになって……その時初めて、わたしたちは家族になれたのだと思っておりますの。姿を消すまでのほんの数日でしたけど主人は本当に優しい夫で優しい父親でした」
「それで、お店にお嬢さんのお名前を?」
 店内にしまった看板には『藍海』と記されている。渋谷修一と翠の一人娘の名だ。
「さすがに『しぶや』の名をそのまま使うことは………主人が帰ってきたらあらためて再出発にしようと思います」


 青乃は悲しそうに微笑んだ。

 『しぶや』の崩壊に嵯院椎多が関与していることは───

 そんなことは、青乃にもわかっている。

 翠の夫が何故姿を消したのか、生きているのかいないのか。定かなことはわからなくてもおそらく彼はもう帰らぬ人となっていることは容易に想像できた。青乃もまた、陰謀や暗殺などを身近なものとしてきた人間である。
 直接手を下したわけではなくとも、直接殺害の命令を下したわけではなくとも、渋谷修一が命を落としたとしたならそれは椎多のしたことに原因があることは明白だ。単なる──タイミングの良すぎる事故に遭ったのでなければ。


 翠は、おそらく本当は夫がもう帰らないということを気付いているだろう。
 それでも、夫が戻ってくると信じでもしなければやってこれなかったしやっていけないのだ。
 たった一人で、幼い娘を育てていかねばならないのだから──

──幸せなひと。

 幸せであるわけがない。
 まるでドミノが倒れるように翠の周りの幸せな世界は崩壊していったのだ。
 その崩壊はまだ止んではいないのだろうに。
 一番最近起こった筈の不幸についても翠はひとことも触れなかった。

 それでも、青乃には翠がとても幸せな女に見えたのだ。

 それが、無性に哀しい。

「あら──恥ずかしい。わたしったら自分のことばかり。申し訳ありません、せっかくおいで頂いたのにわたしなどの身の上話をお聞かせしてしまって」
「よろしくてよ、お料理も本当に美味しかったしわたくしも同年代の女性とこんなにお喋りしたなんて久しぶり」
 にっこり微笑んで見せると青乃はカウンターの中の板前にも会釈した。


「主人を除けば『しぶや』でいちばんの腕でしたの。『しぶや』の味を再現できる辻井さんが手伝って下さってなければこんなお店などとてもとても…」
 辻井と呼ばれた板前は笑いもせず頭を少し下げただけだった。腕はいいが愛想がない。自分で客商売などはできなそうで、『しぶや』を失ったことで彼も途方にくれていたのかもしれない。


 青乃はもう一度ぐるりと店内に視線を巡らせた。

「女将さん──いえ、翠さん」
 言いあぐねていたことを切り出すように、少し視線を落としながら言う。翠ははい、と首を傾げながら微笑んだ。
 青乃は一瞬、きゅっと唇を噛むと視線を翠に戻す。

「今日は本当はご相談が──というより、お願いがあって参りましたの」

 青乃の真剣な眼差しに、翠は表情を引き締めてその場に姿勢を正して座りなおした。

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 屋敷に帰りつき、車を降りようとして青乃はふと動きを止めた。

「ねえ、龍巳」
「はい」
 青乃のためにドアを開いた姿勢の龍巳はまばたきして次の言葉を待っている。

「椎多さんは怒るかしら」

 くすっと笑いをこぼす。
「旦那様の許可がないからと言ってしたいことを我慢なさったことはございましたか?」
 龍巳の声も少し笑っているように聞こえた。
「そうね。怒れるものなら怒ればいいんだわ。でも──」
 漸く開けたドアから足を出す。冷えた空気が長いコートの裾を揺らしている。呟くような声を落とした。

「わたし、別に彼を苦しめるつもりじゃないのよ」

「──承知しております」
 青乃は再びくすっと微笑み、邸内へ入るとメイドにコートを手渡す。龍巳はその場で立ち止まり見送った。


「だんなさまはいらっしゃるの?」
「いえ、本日はご出張でお戻りにはなりません」


 あらそう、と少し残念そうに微笑むと青乃はそのまま小さく手を振って、階段を上った。

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*Note*

修一兄さんの奥さん、翠さんの話。「銃爪」「聖夜」の章あたりでは名前だけ出てて本人としてはそれほど登場していない人でした。

「しぶや」はわしら庶民には敷居が高すぎる店だと思うけど、「藍海」なら多分ちょいちょい通える感じですよね、と思いながら書いてました。あの老舗料亭の味が町の小料理屋のお値段で食べられるんですぜダンナ。多少酒が高くて最終的にお勘定が痛いことになってもたまに行きたいじゃないですか。無いかなぁそういう店、近所に。

​つい数日前までReTUSを書いていたので、こういう青乃を見るとあらまあもうすっかり…って微笑んでしまう(自分で書いたんだけどさ)。

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