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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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心恋 -4- 椎多

 "あの写真"をじっと見つめる。

 冶多郎君、こんな偶然ってあるもんなんだろうか。
 それとも、君がここに引き寄せてくれたの?


 バーで向かいに座って茜を睨んでいた男に、思い切って声を掛けてみた。彼はどうやらこの店が同性愛者の隠れ出会いスポットだということは知らない様子だったけれど、ただのナンパみたいなふりをして誘ってみたら乗ってきた。
 そういうのに慣れているようだ。
 こんな平日のまだ浅い時間にラフな私服で飲んでいるなんて、フリーランスのクリエイターか、土日が定休日でない業種か、ベンチャーの起業家か、あるいはただの無職か。いずれにせよ少なくとも一般企業のそれも社長にはとても見えない。
 しかし茜は確信を持っていた。


 彼は、柊野から打診された"とある富豪の屋敷の常駐医"の雇い主になる、嵯院椎多という男だ。
 誰でも知っているような大企業の社長でありグループの会長。
 "冶多郎君"の孫。

 もし他人の空似だったなら、それはそれで行きずりの一夜で済ませてしまって良かった。彼が嵯院椎多本人なら近いうちに絶対にまた会うわけだから。

 それにしても、"冶多郎君"とそっくりな男と、特になんの苦労もなくすんなりとホテルの部屋まで辿りついてしまった。彼は特に迷うこともなく、リーズナブル過ぎでも高級過ぎでもないちょうど適当なあたりのシティホテルのツインルームに飛び込みでチェックインしていた。やはりこんな事はちょくちょくやっているのかもしれない。
 嵯院椎多の素性を調べた時に、確か妻帯者だと記載されていた筈だ。妻は旧華族葛木家の令嬢らしい。
 妻が居ながら、庶民みたいなフリをして男と行きずりにホテルに行くような男なのか。こんどの雇い主は。


 それでもやはり顔を見ているとあの古い小さな写真でしか知らないはずの"冶多郎君"とほぼ同じ顔で、それと同じ部屋にいるというのがなんともこそばゆく、性欲が疼くのとは別の次元で細胞がうきうきと湧いているのを感じた。
 男は男で行きずりの一夜の相手を捕まえたにしては特にがつがつしているでもなく、そっけないほどに落ち着いて酒を飲み、さっさとシャワーを浴びてきた。

「こんなとこまで来てやる気あんのか」
 それはこっちの台詞だよと返したくなるほど平静だ。
「あるよ、そりゃ」

 樋口と寝るようになってからは、こんな風に名前も知らない相手とその場限りで寝るようなことも出来るようになった。その場限りでなくまた会いたいから名前を知りたいと思うような相手には出会わなかったけれど。
 夢の中で"冶多郎君"を抱いていた時のことをふと思い出す。そういえばあの時はまだ、現実にはミヒトの身体しか知らなかった。今自分の下にいるのは、それよりももっと──自分よりも若干小柄で、もっと冷めた目をした男だ。
 熱が入ってくるにつれて、彼は時折何かに耐えるように固く目を瞑って茜の二の腕に痕がつくほど指に力を入れる。

 こうしていることで何かから逃れようとしているように──

 目をうっすら開いても、彼の悲しげな目には茜は映っていないように思えた。
 きっと彼にとって、今夜の相手は誰でも良かったのだ。
 茜を依代にして、誰かに抱かれている気分になっているようだ。

 大企業の社長で、大邸宅の主で、上流階級の妻が居て、なのにここにいるのは時折我慢しきれないような微かな声を上げながら快感に身を委ねているただの男。なぜかそれが無性にせつなく思えて、何度も繋がったまま動きを止めて抱きしめる。その度抱きしめ返してくる腕だけが、他の誰かでなく茜を恋人として受け入れているかのようだった。──一夜限りの恋人だとしても。

「俺はもう帰るがおまえは泊まってっていいぞ。ここは何階だかにランドリーもある。その臭え服、洗濯しとけよ。部屋代は奢っといてやる。じゃあな」

 深夜になっていたが男はそう言って、名残惜しむこともなく帰っていった。
 その背中を見送って、やっと茜は自分が今日空港に着いたばかりでそれからの一日にどれだけの出来事があったのかを思い出した。


 多分この1日は、俺の人生の分岐点になるんだろうな。

 あの悲しそうな人と、きっと俺は数日のうちに再会する。
 彼はその時、どんな顔をするんだろうか。

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 果たしてあの夜の男は、間違いなく嵯院椎多本人だった。

 しかし主治医と雇い主として再会した椎多は、あの夜の悲しそうな目の男とは少し違っていた。
 何が気にくわないのか、面と向かって、あるいは柊野を通して、「嫌いだ」と何度も告げられた。けれど、毎日のように顔を合わせていても、何かにつけて罵倒されても、椎多の目にはっきりとした嫌悪感や憎しみの色があるわけではない。柊野の見立てではあれは素直に気に入ったと言うのが恥ずかしくて逆のことを言ってるだけだから気にするなという。

 気に入られたようにも思わないけど──

 実際に嵯院邸に入ってみると、"医務室"には確かに小さな個人病院くらいの設備がある。薬も病院ほどとは言わないが専門医の診察が必要なレベルではない疾患なら対応できる程度の種類や量が用意されている。医療行為で報酬を得ているわけではないからもしかしたら法律的に問題は無いのかもしれないが、むしろ個人では行き過ぎのレベルだ。
 また、個人の住み込み主治医とはさぞかし暇だろうと思っていたが、ちょっとした会社くらいの人数の使用人がいるため日々誰かしらの愁訴を聴いていて退屈で仕方ないほどではなかった。

 柊野からはまず嵯院椎多の健康状態を引き継ぎをされた。
 特に大きな持病などはないが、不眠が続くことがあり眠剤を処方している。もっとも、本人は眠るために薬の力を借りるのは好まないらしく結局服用せずじまいなことが多い。
 過去にいくつか大きな怪我をしており、そのせいで片方の肺はほぼ機能していないという。あの夜、胸に残った大きな疵を見た。それのことだ。


 ひとつは刃物で切り裂いたような一本線の疵。
 若い頃になんでも麻薬中毒の相手と喧嘩か何かをして斬りつけられたのを自分が縫ったのだと柊野が言う。
 もうひとつ──正確には3つで一組だが、それは茜が見てもわかる銃創だった。肺を壊したのはそれだ。

 自分が派遣されていたような紛争地域や治安の悪い国ならわかるが、銃社会でもない日本で大企業のトップが狙撃されるなどということがあったら普通なら大ニュースになって大騒ぎだろう。そもそも、誰であろうと狙撃されるというのが異常事態の筈だ。しかし嵯院椎多が撃たれたなどというニュースは聞いたことが無い。狙撃された後、救急はおろか警察にも通報せず、柊野の息子の外科医が難なく処置して一命を取り留めたのだと柊野は何でもないことのように言った。どこの世界の話だ。
 柊野が散々茜を脅していた守秘義務というのはこういう部分が関わっているらしい。嵯院椎多は、裏で"銃で命を狙われるほどやばい事"をしているということだ。
 それは同時に、椎多の側が誰かの命を握り潰してでものし上がって来たことの裏返しである。

 命を救うために奔走し、救えなかった命を悔やみ、そうやって医者をやってきた茜にとってそれは到底許せることではない。自分の利益のために簡単に人の命を奪うなんてことは。

「何か言いたいことがあるんならはっきり言え」

 柊野からの指示で、互いに慣れるまでは3日に1度程度は問診を行うことになっている。
 かといって、特に現状何か罹患しているわけでもない人間に3日に1度の問診は聞くことがなさすぎる──と思っていると逆に椎多から諸々の質問攻めが始まった。
 どうやら今日は茜の本音を引きずり出すというテーマらしい。

「特に言いたいことなどありませんが」

 営業スマイルのまま内心溜息をつく。


 そういえば自分はここに来てからずっと営業スマイルを作っているような気がする。
 家族も友人も誰も心から信頼もしていないくせに人当たりだけは良かったのは自分なりの鎧だったのかもしれない。ただ医療派遣されている時はそんな余裕など無くてすっかり営業スマイルを忘れていた。平時に戻ってまた笑顔という鎧を無意識に纏っていたのだなと突然気づき、どこかバツが悪い。
 鎧だか何だか知らないが、自分は他人も患者も信頼しない癖にそんなものを纏っておいて患者に信頼されようなんて随分厚かましい話だ。椎多に胡散臭い、本音はどこだと思われても仕方ない。

 椎多は茜に"言いたいこと"を言わせてどうしたいと言うんだろう。

「嘘つけ。なんか文句言いたくてしょうがないんだろう。何だ。俺が裏であくどいことをてんこもりやってるのが気にくわないのか。だがもうおまえは簡単には解雇しない。勝手に出て行ったらたちまち捕まって抹殺されるからな。覚悟しとけよ」
「人の命を何だと思ってるんだ──とか詰って欲しいんですか?」
 答えるやいなや椎多が茜の座っている椅子の脚を蹴飛ばした。
 言いたいことを言えと促しておきながら言ったら言ったで怒る。子供か。ヤクザか。


 そういえばこの男は社長とかいいつつ裏ではヤクザの組長もやっているそうだ。ならばこの印象は間違いではない。もっとも以前ならヤクザに脅されたら素直にびびってしまっただろうが、5m横で爆発が起こったり医療行為をしている施設に爆弾が落ちたり流れ弾が当たって倒れたり銃を抱えたゲリラ兵に囲まれたりを経験したらもうヤクザの脅しくらいでは怯まない。

 

「おまえマジでむかつく言い方するな。この俺を叱って構って欲しいガキ扱いか」
 やれやれ──と一度息を大きく吐き出す。
「だってあなたみたいな人は医者が何時間もかけて必死で助けた命を5分後に簡単に奪っても平気な顔してるんでしょ?なのにご自分はこんな立派な医務室作って主治医雇ってちょっとでも長生きしようって魂胆ですか。みっともない」

 せっかく言えと言われたのでこの際言ってしまおう。
 これでクビだ、つまり殺すと言われたらどうしようか。
 必死で命乞いをするほどには自分の命に執着はしていないが、出来ればまだ殺されたりはしたくないな。

 殴られるのか殺されるのか、と妙に静かな気分になって姿勢を正すと頬をぎりっと捻って引っ張られる。
 痛い。と思ったら大きな舌打ちの音が聴こえた。
「おまえはバカか。戦場だかで生死の境目をウロウロしすぎて麻痺してんのか。命を助けるのだけが仕事だと思って医者やってんじゃないだろうな。俺はまだやることが山ほどある。そのためにはいちいち体調不良と戦ってなんかいられない。思う存分仕事するために健康でいる必要があるんだ。おまえはそのためにいる。誰もおまえに命まで守ってもらおうなんて思ってない」

 健康でいる必要がある──

 

 ぎくりと身体中の筋肉が収縮した気がした。
 確かに自分は救えなかった命にばかり固執して、命を救うことこそが自分のすべきことのように思っていたかもしれない。
 命に別状のない病気や怪我を一段下に見下していたりはしなかったか?些細な不調でも長引けば本人にとっては大きな問題なのに?

「あの……申し訳ありません……」
「おい何だ、えらく素直だな。雨に濡れた犬みたいなしょぼくれた顔しやがって」
「図星だったので」
 今の今まで"むかつく"と顔に書いてあるような不機嫌顔だった椎多が破顔して大きな声で笑う。

「おまえほんと調子狂うな」

 

 もしかしたら──
 あの行きずりの夜を入れたとしてもこんな顔で笑っている椎多を見るのは初めてかもしれない。
 なんだ。この人は、ちゃんと笑える人なんじゃないか。 
 ふつふつと嬉しい気持ちが沸きあがってくるのを感じた。
 何が嬉しいのかわからない。椎多の笑顔が見られたのが?違う。

──おまえはそのためにいる。

 主治医なんて、医者なんて、いくらでも替えがきく存在だ。実際、自分も柊野の"替わり"にここに来た。"おまえでなければ務まらない"などと言われたわけでもない。

 なのに何がそんなに嬉しいんだろう。

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 嵯院邸は思っていた以上に広大な屋敷で、空き部屋もまだまだ多くあるのだという。だから茜も完全に屋敷に住み込みという形になった。この屋敷の部屋の中では比較的小さい方だというが、ホテルだかワンルームマンションのように一室にシャワールームとトイレが設置されている。メイドや警備員などはエリアごとに共同のバス・トイレだと言うが、柊野が進言してくれてどうせ空き部屋なのだからと設備の良い方の部屋をあてがわれたのだ。屋敷には厨房も完備していて従業員は食事も供される。特に何か買い物でもなければこの屋敷から一歩も出ずに生活していくことが出来た。
 とりあえず、ここに雇われている間はこの部屋を自分の居場所のように考えても良さそうだ。


 ただ、茜がずっと求めていた『居場所』は、そういう物理的なものではない。

 茜が着任してから数ヶ月が経つ頃には、何故か椎多が頻繁に『茜の部屋』へ押し入ってきて勝手に酒を飲んだりテレビを見てだらだらと時間を潰すようになっていた。
 "大企業の社長"の割には自身で飛び回っていることも多く、屋敷で夕食を摂ってのんびりオフの時間という日は週のうち半分もない。そんな時はたいていは帰邸も遅い時間だが、その遅い時間からわざわざ来ることもある。
 ここ数日は茜が持ち込んだテレビゲームに興じている。RPGやバトルものは継続性や慣れが要るから出来ないとぶつぶつ言っていたので一人で延々とやっていられるパズルゲームを持ってきたらはまったらしい。
 椎多の自室で出来るようにゲーム機ごと貸そうかと提案したが、それは無視してただ茜の部屋でそれに手を伸ばしている。
 茜のことは嫌いだのなんだの言っていたくせに、本当は独りではいられないのかもしれない。


──あのひと、去年の暮れにちょっと色々あって、バランスがおかしくなってるのよ。

 椎多の妻である嵯院青乃がこぼしていた言葉を思い出す。

 青乃もまた、椎多や他の使用人ほどの頻度ではないにせよ、医務室に顔を出して茜と雑談するようになっていた。
 新興の実業家と旧華族の令嬢。そもそも恋愛結婚ではなかったのかもしれないが、どうも庶民の自分には彼らの夫婦関係がよく理解できない。
 青乃に言わせれば椎多は『そこいらの女性や殿方に無節操にちょっかいを出して面倒なトラブルを起こす厄介な夫』なのだそうだが、かといってその夫を嫌悪したり疎んじたり、逆に悋気を滾らせているという様子は青乃にはない。とはいえ看護師が以前は──と漏らしかけて睨みつけられる場面を何度か見たので、今の状態に落ち着くまでにはそれこそ『色々』あったのだろう。

 色々あって──

「先生みたいなフラットで"普通"な方の側にいてバランスを取り戻そうとしてるんだと思うわ」

 その"色々"については青乃は教えてはくれなかった。
「椎多さんのメンタルに関してなにか対処できることがあるならと思ったんですが、私じゃ力不足ですか」
 そうじゃないの、と青乃は笑う。
「彼が話せるようになったら話すかもしれないけど、茜先生はむしろ知らずにいてくれた方が彼にとって気が楽だってこともあるんじゃないかしら。先生は今年からの彼のことしか知らない。そのままでいてくれた方がきっとよろしくてよ」

 茜が嵯院邸に入る際に柊野や椎多本人から血判でも押させる勢いで秘密保持を命じられたように他の使用人たちもそれは心得ているのだろうが、使用人の間ではここで起こった出来事が噂話として流れていたとしても不思議ではない。青乃はもしかしたら椎多のその"色々"が中途半端で不確実な情報として茜の耳に入ることを想定して、そこは追及しないで欲しいと先回りしたのかもしれない。かつてまだ幼い自分が父や兄たちと血が繋がっていない、母が結婚前に身籠った子だと使用人から無神経に教えられたようなことが無いとは言えない。

 だとしたら、一見夫婦らしくない夫婦ではあるが青乃は椎多のことを大切に気遣っている妻なのではないだろうか。

「そんなものでしょうか。だいたい自分が"普通"だとはあまり思わないんですけど」
「先生はとても"普通"でいらっしゃるわ。命を大切にって何の含みも衒いもなく当たり前に言えるだけで十分」

 青乃のころころとした涼しい笑い声が耳の奥に残っている。


「──椎多さん?」

 青乃の言っていたことを思い出しながらぼんやりしていたが、黙ってゲームをしているにしてもあまりにも気配が無いことに気付いた。ゲームの画面はとっくにタイムアウトになっている。覗き込んでみると、ローソファにもたれかかってコントローラーを握っていた椎多はいつのまにかその体勢のまま転寝していた。
 少し迷ってそろりと隣に腰をかけ、コントローラーを取り上げてテーブルの上に音を立てないようにして置くとその動作で揺れたクッションのせいか、椎多の身体が傾いた。不自然な恰好で円でも描いているのかというほどぐらぐらしてなお目覚めない椎多を、そろりと自分の肩にもたれかけさせる。

「お疲れですか」
 独り言のように言うとそれに対する答えでもあるまいに、うん、と声が聴こえた。
 小さく微笑むと自分の肩に乗った椎多の頭を見下ろす。

 本当に──


 この人はどうしてこんなに頻繁にここに来るのだろう。
 何を話すでもなく、互いに触れることもなく、何かを求めるでもなく。
 ただ同じ空間にいるだけで何かを満たしているように。

 彼にとってあの夜の相手がきっと誰でも良かったのと同じで。
 たまたま俺の部屋が入り浸るのにちょうど良かっただけで、誰の部屋でもきっと彼にとっては変わらない。
 彼に必要なのは、"茅茜"ではなく、こうして同じ空間にいて、なおかつ黙って放っておいてくれる都合のいい人間なのだ。青乃の言葉が本当なら、"普通"の人間であればなお都合がいい。しかももし彼がたまたまその気になれば、あの夜のように抱き合うことも出来る、そんな都合のいい相手。この屋敷の常駐医が替えがきく存在であるのと同じ。

 起こさないようにそっと背中に腕を回す。それを支えにして寝顔を覗き込む。
 普段あれだけ外敵に対して警戒に警戒を重ねているくせに、なんて無防備なんだ。
 もし俺が長期の計画で入り込んだ暗殺者だったら、たちまち殺されてしまっているだろうに。
 涎でも垂らさんばかりに口を半開きにして寝ている椎多の顔を見ていると胸のどこかが締め付けられる気がした。

 あのクリスマスの日のミヒトに感じた胸の痛みと似ている。

 そっと唇を寄せると椎多は寝ぼけたように応える。
 この人をこのまま、寝ぼけているどさくさに抱いてしまったらこの人は怒るだろうか。
 一度寝たからといって簡単に俺とやれると思うなよ、と釘をさされていたんだっけ。
 でもどうしよう、無性にこの人を抱きたい。
 たとえこの人にとって、相手が誰でも良くても。

 小さな声が聴こえて感電したようにビクリとした。
 よく聞き取れなかったけれど──誰かの名だ。

 急激に我に返ると茜はそろっと椎多の隣から抜け出し、今ここへ来たような顔をして椎多の肩を叩いた。
「うたたねですか、風邪ひきますよ。医者の部屋で風邪ひいたなんてやめて下さい」
「ん……?」
 目をしばたたかせながら開くと椎多は脚を持ち上げて茜の胸のあたりを軽く蹴飛ばした。
「なんだよ、せっかくいい気持ちで寝てたのに。邪魔すんな」
「あのね、俺だってもう寝たいんです。自分の部屋へ帰ってちゃんと寝間着に着替えてベッドでしっかり身体を伸ばしてお休み下さい。寝落ちしたって疲れは取れないし逆に疲れますよ」
 椎多はちっ、と舌打ちして立ち上がり、うっせぇバーカなどと子供のような捨て台詞を残して茜の部屋を出ていった。

 それを見送ってドアを閉じるとそのままドアに腕をついて大きく息を吐き出す。

──ほんとに好きならそのうち、この子にもっと触れたいなって思う時が来るよ。

 遠いミヒトの声が耳の奥に蘇る。
 まだ他人の身体に初めて触れたばかりの日だった。
 あの頃とは違う。
 結局陽美を抱けなかった自分は、あのあと誰かを愛したり愛されたりする実感もないまま、性欲を処理する方法を習得していっただけだ。樋口とも恋愛感情に基づいた関係ではない。


 好きだからもっと触れたいと思った?
 違う。
 そんな子供じみた衝動じゃない。一度寝たことがあるからそれを思い出してそんな気分になっただけだ。


 そもそも俺が彼のことを特別な感情で見ることがあっても、彼はきっとそんなものには流されない。彼が俺のことを愛してくれる理由が思いつかない。

 そこまで考えて、突然無性に寂しくなった。

 テーブルの上に置いたゲームコントローラーが、そこにさっきまで椎多がいて遊んでいた痕跡を残している。


 そう。
 彼は俺を愛したりはしない。
 多分彼には忘れられない誰かがいて、ただそれを埋めたくてここに来るだけだ。その誰かの穴が茜に抱かれることでは埋まらないことをあの夜に彼は理解した。だからせめて独りにならないためだけに来るんだ。
 触れる触れないなんて彼にとってはもう結論が出ている。
 こんな広くて立派でしかも居心地のいい部屋をあてがってもらったけど。

 やっぱりここも俺の"居場所"にはならないのだろう。

 そもそも俺の居場所って、何だ。
 子供の頃から居場所が無い居場所が無いって思ってきたけど。
 どういう条件が揃ったらここは自分の居場所だって思えるんだ。
 住む部屋があって、仕事があって、その仕事もそれなりに認められていて。それで十分じゃないか。

 だったら、この寂しいようなせつないような気持ちは何だろう。
 今しがた追い返したはずの椎多の顔が頭に浮かんだ。

 あれ。
 もしかして、俺は──

──好きな人にはちゃんと好きだって伝えなよ。
──相手がどう思うかじゃない、自分がどう思ってるかなんだから。

 ふと思い当たる。
 これまで。
 陽美に対してもミヒトにも樋口にも、
 相手が自分をどう思うかを想定して、それに合わせて自分の気持ちを調整していた?
 無意識に椎多が自分をどう思うかを頭の中で組み立てようとしていた。
 彼は俺を愛したりしないだろう。
 だから俺も彼を愛したりはしないようにしよう、と。
 傷つきたくないからだ。
 だから誰も──陽美でさえも──愛せなかった。その気持ちをもしも拒絶されたらまた居場所のなくなった捨て犬みたいに頼りなく彷徨うことになる、それが怖かったんだ。

 そうか。
 最初から同じ思いを返してもらおうなんて望まなければ失望することも傷つくことも無いじゃないか。それと自分の気持ちは別のものだ。
 答えはそんな単純なことだったのに。

 だってほら、今でも俺は暇さえあれば椎多のことばかり考えている。今までこんなに誰かのことが頭から離れなくなったことはないだろう?
 陽美と付き合っていた5年の間に、一度だってそこまで陽美のことばかり考えずにいられなかったことがあっただろうか。


 今ならわかる。結婚まで考えていたのに、俺は陽美に恋したことはなかったんだ。

 先ほどまで椎多が座っていたローソファにごろりと横になる。
 とっくに失われている筈の椎多の体温が残っているような気がした。
 大きく息を吐きながら、自分の腕で自分の両肩を抱きしめる。

「遅っそい初恋だな……」

 独り言を言うと笑いがこみ上げた。
 それから暫くの間、茜はひとりでくすくすと笑い続けていた。

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『最近どう?撮ってる?』

 何か月ぶりかに樋口から電話がかかってきた。
「すっごい撮ってるよ。楽しい」
 ちょうど現像が仕上がった写真をアルバムに整理しているところだ。真新しい印画紙に焼き付いた鳥の姿を眺めて茜は微笑んだ。
「そうだ樋口君も一度遊びに来てよ。素人だけど俺の撮った写真見てアドバイスして欲しいな」
『昔のセフレの愛の巣にお邪魔するほど無神経じゃないよ』
 樋口は電話口で笑っている。

 今では樋口とは完全にただの友人に戻っている。樋口は自分がフリーになった時の便利なセフレが居なくなって残念がっていたが、茜が水原茜の古いカメラを入手した時も、茜が写真に凝り始めた時も、"友人として"なにくれとなくアドバイスしたり助けたりしてくれている。

 茜が嵯院邸の常駐医として着任してから5年が経っている。その5年の間に茜を取り巻くものはある時期劇的に変化した。

 茜の命を狙っていた父は脳溢血であっけなく他界。
 長兄の秀行は茜の殺人計画を立てていた後ろめたさのせいか、父が誰かに暗殺されたのでは、次は自分が狙われるのではと疑念に駆られたあげく錯乱し正気に戻ることもなく現在も療養中だ。
 祖父は認知症が進行し、すでに寝たきりになっている。
 結局は次兄の優が、茅総合病院の院長に就任した。
 茜の"実の父親"ではないかと思われる水原茜の消息は今も判らずじまいだが、水原のものとされる古い壊れたカメラが茜の元へ届けられ、それ以降茜自身も写真を撮ることに凝り始めた。

 それがすべて、数ヶ月の間に起こったことだ。


 その中で茜と優の因縁を知ることになった椎多はしかし、茅病院の院長となった優と業務提携することにした。結果、気まずいまま優との付き合いは続いている。

 茜の脳に悪性の腫瘍が見つかったのは一年半ほど前。
 祖母や母の命を奪った癌。
 結局、茜も同じ敵に襲われたことになる。
 茜の異変に気付き検査を受けさせてそれを発見したのは、皮肉にも優だった。

 


 椎多と優が仕事の上で付き合っていかねばならなくなった以上、優との個人的な確執は胸の裡に収めておいた方がいいだろう──と思っていたある日、意外な人物と遭遇した。
 陽美の親友だった、あの頃優の彼女だったという、立川夕菜だ。

──あの、もしかして茅茜くんですか?

 ちょうど写真の現像を自分で始めた頃で、暗室を作るための素材を求めに樋口とホームセンターをぶらぶらしていた時だった。夕菜は幼い娘を連れていた。陽美の一件の時に優とは別れ、茅病院も退職して地元の病院で勤めていたのだが、そこで知り合った外科医と恋をして結婚したのだという。


 夕菜は、あの時の電話でどうしても言えなかったことがある、と話し始めた。

 陽美が茜に送ってきた手紙。
 その内容は事実とは違っていたのだという。
 何度も口ごもり、時に涙ぐみながら夕菜は言った。

 


 優さんがはるちゃんに酷い事をしたなんて嘘なの。
 寂しくてどうかしちゃってたんだと思うんだけど、
 行きずりの知らない人と寝ては手首切ったりしてた。
 それを優さんに見つかって、慰めてくれなきゃまたやるって匂わせて脅すみたいにして、それで優さんとも寝てたの。
 優さんに毎日ポケベル打って付きまとうみたいにしてたのもはるちゃんの方。

 優さんはばかばかしいくらいきっちり避妊する人だったから、
 はるちゃんのお腹にいたのは優さんじゃない別の人の子だと思う。
 最初、はるちゃんは茜くんに送った手紙と同じ話を相談するみたいにあたしに告白したの。
 あたし馬鹿だから最初はそれを鵜呑みにして優さんを責めたら、信じてくれない人とは付き合えないってサヨナラされて。
 はるちゃんにどういうことってもう一度詰め寄ったら本当に飛んでしまった。

 あたしが考え無しにはるちゃんを責めたから、はるちゃんは死んだ。
 あたしが彼女を殺したんです。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。

 あたし、はるちゃんがそういう事をしてたって茜くんにどうしても言えなくて。
 彼女がそんな子だったって茜くんに知られたらはるちゃんが可哀想すぎるって。
 でも本当はあたしのせいではるちゃんが自殺したってことを無かったことにしたかったんだと思う。

「あのあと、もし茜くんが優さんを訴えたり、何か危害でも加えたりしたらどうしよう、どうすればいいんだろうってずっと考えて生きてきたわ。やっぱり本当のことを伝えようと思った時には茜くんの連絡先が判らなくなってしまってて」

 夕菜の告白は、茜の中に蟠ったまま沈黙していた感情を底から裏返すような話だった。
 けれど、自分で驚くほど大きな動揺はしなかった。

「俺、一度だけ陽美のことで兄さんを詰ったことがある。彼は何か弁明しようとしてたけど途中で諦めたみたいだった。だから俺はてっきり見苦しい言い逃れをしてる、往生際が悪いって思ってしまってた。そんなことならちゃんと事実を話してくれれば良かったのに」
「あの時彼、茜が僕をどう思っても関係ないって言ったの。あの人、計算高くて冷たそうに見えるでしょ?でもリスカ癖のあるはるちゃんを放ってもおけなかったし、茜くんが傷つくより自分が悪者になることを選んだの。悪者の立場を一度受け入れたんだから言い訳しても仕方ないって思ったんでしょうね。多分あの人、恋人にするには確かに冷たすぎるけど、実はけっこう優しいのよ」

 この時ばかりは、総動員で殺意を抑え込んでくれた自分の理性を讃えたくなった。陽美の手紙を鵜呑みにしていたとはいえ、もし怒りに任せて優に危害を加えていたら、自分は今こうしてはいない。
 ようやく見つけた"居場所"。そこに辿り着くこともなかっただろう。

 


 椎多に同じ思いを返してもらうことを望まないと割り切った茜は、相手が困ろうが戸惑おうがとにかく言葉にして気持ちを伝えておこうとシフトチェンジした。案の定、言葉でいくら好きだの何だのを伝えてもそれに対して椎多はかわすばかりで否とも応とも言わない。反応を見て本当に嫌そうなら控えようと思ったが、表情を見る限り少なくとも嫌がられてはいない筈だ。
 そして、否とも応とも答えないまま椎多は茜が自分に触れることを許した。

 あの日の悲しそうな、そこにいる茜が映っていなかったような目は、
 いつのまにかちゃんと、目の前にいる茜を映すようになっていた。


──ここは俺の居ていい場所なんですよね。
──ここはおまえの居るべき場所、だ。

 まるで椎多が最初から用意していたように、そこは茜の"居場所"になった。
 なんの不安もなく帰ろうと思える場所。
 そこに用意されていたから、今まで茜の"居場所"が見つからなかったのではないかと思えるほど、その場所はしっくりと馴染んでいる。


 常に身に着けて持ち歩いていた"あの写真"。茜の曾祖父と、天月幾夜と、嵯院冶多郎──"冶多郎君"の写真は、居場所が定まったことできちんと額に収められ、飾られている。この写真にも、やっと落ち着いて飾られる場所が出来たのだ。椎多に対する想いを自覚した頃からは、茜は徐々に"冶多郎君"に話し掛けることも無くなっていた。

 茜の病が発見されてから治療が始まると、椎多は屋敷も出て会社もすべて手放して茜に付き添うことを選んだ。
 愛してくれはしないだろうと思っていたのに、それまで大事に持ってきたものをすべて投げ出して──

 椎多は茜を選んだのだ。

 わざわざ海辺のリゾートマンションを購入して始めた二人の生活も、茜の闘病と同じ1年半ほどになる。樋口の言う"愛の巣"はそのマンションのことだ。
 それは嵯院椎多の愛情の示し方なのだろう。
 手編みのマフラーが首を絞められているように重いなどという次元の話ではない。
 それでも、側にいてただ楽し気に笑っていてくれることがどれほどの救いになったかわからない。
 あの頃、何もせず黙ってただ同じ空間にいるために茜の部屋を頻繁に訪れていた椎多の気持ちが少しはわかる気がした。何もしなくていい、別のことをしていても考えていてもいい、ただ同じ空間にいて、たまに笑ってくれるだけで──心が安定する。

 


『──あのさ、今日、今から、テレビ見れる?』

 何か月ぶりかでもたいして実のあるでもない雑談やカメラの話をしていた樋口が思い出したように言った。
 時計を見ると夜8時である。
「うん、見れるけど、何チャンネル?」
 テレビを点けて樋口の言うチャンネルに合わせると歌番組をやっている。
『それ、見てて。テレビの前から動かないで。録画しといた方がいいよ』
「なにそれ。何があるの」
『オレも見るから一旦切るわ。じゃあね。また電話する』
 何も答えずに樋口は電話を切った。
 首を傾げて音楽番組を見る。最近の流行りの音楽が全然わからない。やたら人数の多い女性アイドルグループや男性アイドルグループなどが入れ替わり立ち替わり出て来ては歌っているが全然区別がつかない。その合間にたまにソロ歌手やバンドが出て来て歌っている。

「珍しいな、歌番組なんか見てんのか」
「あ、うん。なんか樋口君が録画して見とけって。よくわかんないんだけど」
 樋口との電話の邪魔にならないようになのかキッチンのカウンターで本を読んでいた椎多がウイスキーを片手に戻って来て、テレビ前のソファの茜の隣に腰を下ろす。

 見始めて40分ほどして、さすがに飽き始めた頃──
 CMに入る前のMCの声が耳に飛び込んできた。

『さあ、この後!あの伝説のdArkblooDがついに一夜限りの再結成!!お見逃しなく!!』

「えっ!!!!!」
 本当に声を上げてしまった。
 ダーブラが、テレビに出る。
 いや待て、世間の知っているダーブラのドラムはミヒトではない。
 落ち着け。落ち着け。

「ダーブラって一発屋のヘビメタバンドだろ。おまえあんなの好きだったのか」
「いや、ええと……そういうわけでもないんだけど……」
 椎多の言葉はたいして興味のない世間の声の代表だろう。
 しかし茜は固唾を飲んでCM明けを待った。掌に汗がにじんできた。椎多はソファの肘置きで頬杖をついてそんな茜の表情とテレビ画面を交互に見比べている。

 CMが明けた。
 バンドセットにスタンバイしているバンドメンバーが映し出される。
 衣装こそ鋲付きの黒い革の上下だが、もう髪を染めたり立てたりしている者はいない。彼らももう全員40代後半の筈だ。MCが2人そこへ出てきて喋り始める。


『お待たせしました!ここで登場して頂くのはかつてカリスマ的ヒットを飛ばしたバンド"dArkblooD"のみなさんです!ボーカルのリクさん、こうして"ダーブラ"再結成を叶えていただいてファンの皆さん涙を流して喜んでると思います。メンバーの皆さんが集まったのは解散以来ということですか?』
「ええ、そうですね。みんなオジサンになっちゃって、楽屋でなんかソワソワしちゃいましたよ」
『一夜限りの再結成ということですが、今夜のドラムはユーリさんじゃないとお聞きしました』

『そうなんですよ。実はデビュー前、ユーリが加入する前にドラムやってくれてた──ミヒトに来てもらいました』

 ミ!と大声で叫んでしまって飲み込む。
 リクの言葉を追うようにカメラがドラムを映し出した。
 ドラムセットに座っている痩せたドラマーが、カメラに気付いてスティックを握ったまま手を振った。笑っている。

 あのクリスマスの日以来会ってもいない、声も聞いていない、写真でも見ていない。
 痩せて年の割に白髪の多い長めの髪を後ろでひっつめている。皺の刻まれた顔には顎髭が生えている。
 けれど、間違いなく、それは"ミヒト"だった。

『ユーリのファンの人からしたら誰だオマエって話ですよね。ごめんなさいね』


 声は記憶の中の声とあまり変わらない気がする。
『デビュー前にめちゃくちゃひでえケンカしてコイツをクビにしたんですけど、まあ若かったからねー、大人になったんで和解しました』
 リクも笑っている。他のメンバーもニヤニヤ笑っている。

『今夜は2曲披露して下さるということなんですが』


『はい、一発屋の俺らの唯一のヒット曲にしてデビュー曲"DARK BLOOD RAIN"と、インディーズ時代にミヒトが作ってファンからも人気の高かった"aNothR me"をやらせてもらいます!聴いて下さい!』

 テレビから音楽が流れてくる。
 これは聴いたことがある。ミヒトが抜けたダーブラの曲を聴こうとは思っていなかったが知っている。ヒットしたんだな、と思う。
 2曲目は初めて聴くミディアムバラードだった。
 あのライブハウスでこんな曲もやっていたのか。

 テレビカメラは当然のようにリクを中心に映してはいるけれど、時折映るミヒトも、歌うリクの後ろに映るミヒトも、楽しそうに笑いながらドラムを叩いている。リクが歌いながらメンバー一人一人に歩み寄ってカメラにアピールする。最後にドラムセットの後ろに立って、叩くミヒトの背後から腕を回している。
 年月を経て、彼らの関係も少しは穏やかになったのだろうか。

 ミヒトさん。
 俺、ちゃんと好きな人に好きって言えたよ。
 好きな人を抱きしめたらこんなに幸せなんだって知ることが出来たよ。
 その人は俺にこんなあったかくて安心できる居場所を作ってくれたんだよ。
 ミヒトさんはどう?
 今、幸せ?

 聴きながら、涙が出てきた。

 優しい曲だ。あの頃のあんな髪の毛をつんつんに立てて黒い口紅を塗ったり目の周りを黒く塗ったりしてた若者たちが、こんな優しい歌を歌ってたのか。
 リクの伸びやかな声。
 ミヒトが好きな人はこんな素敵な声をしていたんだな。

 はるちゃん、ミヒトさんがダーブラに帰ってきたよ。
 ああ、やっぱりあの頃に君とダーブラのギグに一度でも行けばよかった。
 君があんな鋲付きのレザーの服を着て黒い口紅を塗ってきゃっきゃはしゃいでるところ、見てみたかった。
 似合わないに一票入れたけど、多分きっとすごく可愛かったと思うよ。

 


 ダーブラの出番が終わって、次の歌手にカメラが移るまでの間、椎多は黙っていてくれた。
 はっと我に返り、樋口に電話する。
「見たよ」
『ね、ミヒト、いい顔してただろ。話したかったら電話番号教えてあげるよ』
「いや……いいや。今さら何を話せばいいかわかんないし」
『そ』
「樋口君」
 うん?と聞き返す声。少しの沈黙が流れる。

「教えてくれてありがとう。いや、これまでもいっぱい助けてくれてありがとうね。樋口君に会えてよかった。大好きだよ」

 今度は樋口が少し黙った。
『やめなよ、そういうの。まだこれからもいっぱい付き合わせてもらうからさ。何でも言ってよ』

 恋ではなかったし、愛でもなかったけど。
 好きだったよ。
 ミヒトさんも、
 はるちゃんのことも、
 何事もなかったように友達でいてくれる樋口君のことも。
 大好きだった。

 ミヒトさんにもはるちゃんにも、もう伝える術はないけれど。


 話している間も涙は止まっていなかった。
 椎多は通話の終わった携帯電話を茜の手から取り上げ、自分の肩にもたれさせて背中を摩っている。
「椎多さん……」
 鼻をぐずぐず言わせながら、茜は椎多の身体に腕を巻き付けて抱きしめた。体温が伝わってくる。

「大好き」


「また始まった。おまえ今樋口にも大好きって言ってただろ。大安売りだな」
 椎多は茜の肩を撫でながら笑っている。
「椎多さんが一番好きだよ。すごい好き。愛してる」
「わかったわかった」

 そのままソファに転がる。
 もう一度腕に力を入れて抱きしめると、抱き枕かよ、と笑い含みの声が聴こえた。

 誰からも愛されないなんて拗ねて、
 うまく愛することも出来なくて、


 そんな俺がこんな気持ちのいい抱き枕を手に入れることが出来たんだから、
 意外と悪くない人生だったなって。

 胸の中に灯っている体温に誘われるように、茜は目を閉じた。

 


-the end-

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ライトのステージ

*Note*

長い話でした。お付き合いありがとうございます。

椎多と出会ってからの茜ちゃんの話は本編に書いたことなので全部ジャンプしてやろうかと最初思っていたんですが、考えてみたら茜ちゃんがどのタイミングで本当に椎多のことを好きだなあと実感したのか書いていなかったし、やたら好き好きアピールしてたけど本当のところどういう気持ちの動きであんなにアピってたのかとか、椎多側の心の動きはそれなりに書いていたけど茜ちゃん側のことをあまり書けていなかったのでもうこの機会に書かずにいつ書く!と思って突き進みました…。なのでまあ、茜ちゃんが気持ちを自覚してよしちゃんと口に出そう!と決意したところからは思い切りよくジャンプしました。

最後、海辺のマンションでテレビを見る場面がもう書いてて楽しくて楽しくて。解散した好きなバンドの再結成とかぎゃー!!!ってなるじゃないですか!!事情によっては絶対号泣するじゃないですか!!てゆうかこの歌番組私絶対見たことあるわ!!(←ない)と思いながら書き上げて悦に入ってた数日後。

男闘呼組が29年ぶりに再結成で長時間音楽特番に出演してライブの発表もするという事が現実で起こりましたよ……!!!

​言っときますけど、これ書き上げてからですからね?男闘呼組再結成のニュースきいたの!(興奮すな)(いや別に男闘呼組のファンだったわけではないのだが)

ダーブラを書くのが楽しくて、これはそのうちダーブラの話を書きたいくらいなんですが(少なくともミヒトとリクの話は書きたいのだが…)いかんせんジャンルをヘビメタにしてしまったせいで、せっかく自分のフィールドに近い話なのに通ってないジャンル難しいな?ってなってます。

リクはずっとノンケのままだと思うんで、和解したからってミヒトとあれこれなったわけではないと思うんだけどね。でもミヒトは気持ちをリクに告白はしたけど実は全部は伝えきれていなくて(その前につまみ出された)それをちゃんと伝える話は短くても書きたいなあ。

 

はるちゃんに対する気持ちが恋に到達していなかったことをわかってしまった茜ちゃん。事件の直後に気付いてたらけっこうダメージきつかっただろうと思うけど、さすがに20年近く経ってたらそこまでのダメージは食らわなかったようだ。

あと茜ちゃんは病の初め頃の症状ではるちゃん事件のことを忘れているのではないかと優兄さんが感じて、それで検査して発見されたわけですが。実は忘れていたわけじゃないんだよね。優兄さんが悪いわけじゃなかったと茜ちゃんは知ってしまったから、兄さんに対しての蟠りが無くなっていただけなんだよね。

 

すごく長い4編になってしまいましたが、茜ちゃんに関して遡って書きたいことは詰め込むことは出来ました。満足。(2022/7/20)

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