Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
笑い上戸
夢を見る。
繰り返し、繰り返し。
──おまえは可哀想なやつだ
うるさいうるさいうるさい。
どっちが可哀想なのかは俺が死ぬ時自分で決める。
夜の運河は真っ黒い液体が流れているように見える。時折それが白っぽく濁ったり泡を立てていたりする。あれは上流の工場が無遠慮に垂れ流している廃液だろう。じっとしていると悪臭が鼻をつく。
康平は橋の上から運河をじっと見下ろしていた。
俺はこんなところで何をやってんだろう。
その自問は今橋の上に居ることに対するものではない。
──姐やんも居なくなったのに、俺をここに縛りつけるものなんか何もない。
父の東出昌平が所属していたというだけの組織。父が抗争時に命を落として身寄りが無くなった康平は中学も卒業する前だったが学校どころか放り込まれた施設にも全く戻らずふらふらと女の家などを渡り歩いていた。その康平を連れ帰ったのが現組長の愛人であるリカである。
リカの言うことだけは何故か逆らえなかった。
組長は見た目もやることもあまりヤクザの組長らしくない、どこかの大会社の社長が本職だという変り種。どうにも気に入らなかった。それでもリカが居たから、居心地がいいわけでは決してないこの組織にずっと所属してきたのだ。
なにも組長の女に横恋慕しているわけではない。
ただ、何故か頭が上がらない。それだけだ。
そのリカは、殺された。
他の組員連中はリカが『殺された』のだということは知らされていない。
あいつは、てめえの女の仇討ちも出来ない腰抜けだ。
組長の嵯院七哉はそういうヤクザらしくない変り種のくせに何故か組員連中には慕われている。康平が見る限り、反感を持っているだの造反しようだのそういう不穏な事を考えるような者は居なさそうに思えた。それどころか、特に一部の近い人間からは比喩ではなく本気で命懸けで忠誠を誓っているような手合いの者もいる。それが康平には不思議で仕方ない。
俺は、この組織には向いていないのかもしれない。連中が惹きつけられるものを、俺はあの男から感じ取るることが出来ないのだから。
なのに、何故俺はまだこの組にいるんだろう。
「こんなとこにいたか」
聞き覚えのある低く太い声。
振り返ると、柔道家のような分厚い体つきの男が薄いコートのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
この男も、組長である嵯院七哉に服従している人間のひとりだ。組員というやつではないが──おかかえの殺し屋というやつだ。
「こんな臭えとこに身投げするくらいなら俺が撃ち殺してやるから、死にたくなったら言えよ」
「誰がなんで身投げなんかするんだよ。俺が自殺するようなタマだって思ってんのかよ」
男は鼻でふっふっふっと笑いを漏らした。
おまえは自分が死ぬくらいなら邪魔者を消していって生き残るタイプだよな──そう笑う。
そうさ。
あの男が、てめえの女の仇討ちも出来ないんなら。
俺が姐やんの仇討ちをやってやらあ。
それまで、誰がくだばるもんか。
「──やめとけ」
ぎょっ、と男を振り返る。
俺、今、声に出して喋ってたか?
「おまえの事だ、リカを殺した相手を自分で殺すとかそんなことを考えてんだろ──図星だな」
男は康平の、鳩が豆鉄砲を食らったようなまんまるく見開いた目を見てもう一度笑った。
「やめとけ。ヤクザなんだからコロシくらい出来て当たり前とか思ってんなら尚更やめとけ。どんな相手でもひとり殺したらもう後戻り出来ねえぞ」
男はそう言って康平の頭を大きな掌で天辺から掴み、がしゃがしゃとかき回した。
「それに、相手はなかなか手ごわいのを身近に置いてる。ただのちょっとケンカが得意なガキひとりじゃ返り討ちにあって殺されるのがオチだ」
「──」
「俺がやるから、見とけ」
え、と顔を上げる。頭はまだ掴まれたままだ。
「すぐというわけにはいかんし、七哉も二の足を踏んでる。だが、何年先になっても俺が、絶対にやる」
「──ほんと、かよ」
男はにやりと笑うと大きく頷いた。
「何年先になるかは約束できんが、俺だって──」
小柄な康平の顔を覗き込む。笑う。殺し屋の顔ではない。
「リカの仇くらい取ってやりたいさ」
男の掌を頭から払いのけながら康平は俯いた。唇を噛み締める。
「──だったら、もうちょい居る」
「ん?」
姐やんがいなくなって俺がここに居る理由が無くなったけど。
あんたが姐やんの仇をとってくれるってんなら、俺はそれを見るために、もうちょっとここに居る。
「──あんた、」
「タカ」
あのでかい掌が、康平の肩を抱いて方向転換させる。そのまま歩き始める。それは、事務所の方向だ。
「鷹って呼ばれてる。そう呼んでくれりゃいい」
康平は小さくふうん、とだけ答えた。
拳銃を持ったのは初めてだった。
思った以上の重量に、少し戸惑う。
「いざという時に使えるように扱い方と手入れの仕方くらいは教えとく。まあ護身用だと思っておいてくれ。こういうモノをおまえらに使わせない為に俺がいるんだからな」
自分の手の中の黒い鉄の塊をじっと見つめていると、鷹の大きな掌が康平の頭を掴んで揺さぶった。どうも鷹にとって丁度良い高さなのか、ことあるごとに頭をぐしゃぐしゃにされてしまう。そして康平もその都度いちいちそれを払いのける。
康平の他には、康平と同世代の睦月と紫が同じように拳銃を渡されていた。紫は特に戸惑うでも重そうでも珍しそうでもなく──というより馴れた手つきでそれを様々な角度から観察している。睦月はどちらかと言えば興味なさげに、地顔の笑っているような顔で手の中のそれを握ったまま視線は鷹を追っている。
紫は康平がこの組織に来る前──どうやら子供の頃に嵯院七哉とリカに拾われてここにいるらしい。その頃からなのだろう、リカの住んでいた家に起居していたがリカの死後はどこかのアパートに引っ越した。紫の七哉に対する忠誠心たるや、宗教じみていて康平には気持ち悪いほどである。
睦月はリカの死後、これもまた七哉がどこからか拾ってきた若者だった。どういう縁だったのかは康平は知らないが、人の良さそうな細い目の微笑んだような顔に敬語使いの柔らかい物腰が康平には逆に馬鹿にされているように思えてどうも癪に障る。
いずれにしても、康平はいくら年が近いと言ってもこいつらと馴れ合うなんて到底無理だと思う。睦月などは何を考えているかよくわからないが紫は康平に対してあからさまな敵対心を隠さない。お互い様だ。
鷹は七哉の依頼で、緊急時いざという時に使えるようにと組の若い者たちに銃の扱いを一通り教えていた。その中から殺し屋・鷹の『仕事』のサポートをするためにある程度のノウハウを教えておき、現場で適切に動けるようにという趣旨でこの3人を選抜したという。
こんなに気の合わない3人でうまくサポート出来るものなのだろうか、と疑問に思わなくはないが銃の取扱いを専門家に教わることが出来るのは悪くない。
「いってえ。なんも銃座で殴ることないじゃねえかよ」
切れた口角に絆創膏を貼りながら毒づく。
「おまえの態度が悪いからじゃねえか。銃を雑に扱って暴発でもしてみろ。自分だけならともかく近くに仲間が居たらそいつまで巻き添えを食らうんだぞ」
鷹は椅子に腰掛けたまま足を伸ばし、床にぺたりと座っている康平の背中を蹴飛ばした。
「わかったよ、わかりましたよ。つうか武道の部活かよ。俺ああいうの大嫌いなんだけど何でこんな目あってるわけ?」
鷹のレクチャーを受け始めて数日で、康平は早くも嫌気が差し始めていた。
もともと団体行動も目上の人間の指示に従うのも大嫌いである。
「もうこの何日かで俺が出来が悪いってのが判っただろ?そろそろ諦めてくれてもいんじゃねえかなあ」
「おまえの出来が悪いんじゃなくて、あいつらがソツが無さ過ぎるんだ。紫も睦月も、教えたことがすんなり出来すぎてつまらん」
鷹の笑い声が背中に聞こえる。
確かに、紫も睦月も鷹の指導に難なくついていっている。紫の方は何となく場数を踏んでいそうなのでまだわかるが、一見して文系の学生で運動など大の苦手のインテリに見える睦月も器用なのか特に苦労している様子がない。それを見ていると自分がものすごく飲み込みの悪い劣等生のような気がする。嫌気が差している要因のひとつだ。
床に座ったままぐるりと方向を変えて椅子にふんぞり返っている鷹の姿を視界にいれると鷹はにやにやと笑っていた。
「むかつく。面白がってんだろ」
「ああ、面白いね」
康平は手に残った絆創膏の包み紙をくしゃくしゃと丸めて鷹へ投げつけた。届かずに足元にぽとりと落ちる。
「おまえも文句言いながらけっこう楽しいんだろ。睦月が言ってたぞ、おまえがこんなに喋ってるの初めて聞いたってさ」
ぐ、と言葉に詰まり唇を尖らせる。
誰とも打ち解けていなかったし打ち解けるつもりも無かったせいか、そういえばこの組織の中では誰ともろくに会話していなかったような気がする。せいぜい、紫と喧嘩する時くらいだろうか。
多分──ここで指導しているのが鷹でなければ、こんなに遠慮なしに毒づいたりすることも無かったのだろう。ただそれを認めるほど康平は素直ではない。
「別にもともと無口ってわけじゃねえし」
それに。
こういう地道な訓練や指導には嫌気は差すものの。
康平は力が欲しかったのだ。
何も出来ない子供のままではいたくなかった。
鷹に従っていれば、康平の欲する力が手に入る──そんな気がしていた。
この街の一角には、中華系のコミュニティが存在している。規模はごく小さく、観光客を呼べるほどのものでもないが街の人間には有名な観光地よろしく中華街と普通に呼ばれている。
かつてはここを仕切っていた香港の組織があったというが、その首領が本国に引き上げるのに伴って七哉の組が引き継いだという経緯がある。
康平が中華街であった小競り合いを調停するという仕事に出かけている間に、リカは殺された。
だから中華街に出かけるのは本当はあまり好きではない。
しかし、リカを殺された悔しさを忘れたくなくて、康平はわざと時折この街に足を運ぶ。
高級料理ではなく、どちらかといえば庶民的な店を何軒か回って顔見知りの店主たちの挨拶を受ける。3軒目に入った時にはすでに深夜に近い時間になっていた。
店には他の客の姿はすでに無くなっている。この街の夜は遅いので、少し違和感を感じた。
「康平サン、今日はミカジメリョウの取立て違いますか」
たどたどしい日本語でニコニコと微笑みながら店主が奥から出てきた。
「ああ、今日は違うけど、何だ」
「たまには老酒でもご馳走しようかと思って」
老酒、と聞いて康平は少し顔をしかめた。康平は酒には決して強くなく、しかも老酒は癖がある上にきつい酒だ。
いらねえよ、と何度か断ったが店主は自分のグラスまで持ってきて、暖めた老酒の瓶とザラメを持参し康平のテーブルに置いた。
「今日はもうお客こないから閉店するね。いっしょに飲みましょう。康平サンのぶん、ザラメいっぱい入れたげるね、甘くて美味しくなるよ」
なんだこいつ、ガキ扱いしやがって──
標準より甘くしたら飲めるだろう、と言われてカチンときた。
カチンときたからと言って、少し飲みすぎてしまった。
「康平サン、ここで寝ちゃイケマセンよ」
店主の困ったような笑い声がぼんやりと耳の奥に届いた。どうやら飲みながら寝そうになっていたらしい。酔って気分が悪いほどではないが頭がぐるぐると回っている。
ちびちびと、せいぜい3杯目を飲んでいたあたりの筈だが下戸の康平にしてはよく飲んだ方だろう。
「おう──帰るわ」
「大丈夫か?誰か呼ぶか?」
店主の声を背中に聞きながら、いらねえよ、と呟きふらふらと店を後にした。どのみち、そこいらでタクシーでも拾って帰った方が良い。歩いて帰るには康平のアパートは少し遠い。
「おっと、危ねえなあ兄さん。まっすぐ歩けてねえよ」
聞き覚えの無い笑いを含んだ声と、両脇を捕らえられた感覚がした。
「シマだからって油断して一人であんまり酔っ払ってると危ねえんじゃねえかなーあ」
いやに耳元で、さっきのとは別の声。
両脇からけっこうなスピードで引っ張られる。なかば抱え上げられたような状態で、足がそのスピードについていかない。
あれ──?
俺、もしかして───
誰かに拉致されたんじゃないか、と思った時にはどこかの薄暗い部屋の中に座らされていた。
「兄さん、まあ水でも飲みなよ」
口元にコップが押し付けられる。手を出して受け取ろうとして、両腕が後ろで縛られていることにようやく気づいた。まだ酔いの醒めない頭を巡らせると、向かい側にソファに座った偉そうな男が見えた。
ヤクザか。
うちの人間じゃない。どこの人間だ。
しかも、けっこうな上役だ。
「縛ったりはしたくなかったんだが、暴れられても面倒なんでね。なに、そんなに手荒なことをするつもりはない。東出康平さんよ」
なんでこいつ、俺の名前を知ってるんだ。
「あんたも気の毒な人だと思ってたんだよ」
なんの話だ。何が気の毒だってんだ。
「だからあんたもいい加減、あの組には飽き飽きしてるんだろう?」
飽き飽きしてるのは確かだが、見ず知らずの人間に指摘されて頷くこたあねえ。
いつのまにか、ソファにふんぞりかえっていた偉そうな男が立ち上がって康平の目の前に来ていた。そして康平の顎を掴み、ぐらぐらと左右に傾ける。酒のせいで脳みそが攪拌されているような気分だ。
「おまえ──麗華のガキだろ」
先刻までの、どこか人をくったような猫なで声の口調ががらりと変わった。
麗華だって──?
「本名は何ていったかなあ、華子、か。ありゃあいい女だった。あんな爺に横取りされなきゃ、俺が頂きたかったよ」
華子──それは母の名だ。
この男は何の話をしているのだ?
「なんだ、おまえ知らなかったのか?麗華は嵯院の先代の爺いの妾だったんだぜ?」
先代の爺──七哉の父親のことか。
母がその妾だっただと?
「東出のおっさんもおめでてえよ。どんな恩があるか知らねえが親分さんの妾のお古とガキを押し付けられて有難がってたんだからなあ」
ぐるんと──
地面が一回転したような錯覚に陥った。
「世が世ならおまえだってあの組の跡目ついでたかもしれねえ、坊、坊とチヤホヤされてても良かったのに、ただのチンピラ扱いなんだもんなあ。いやあ、血筋を盾に造反でもしやしねえかと監視されてんだろうよ」
呼吸が止まっていたのかと思った。
やっとの思いで視点を目の前の男に定める。頭はぐるぐると回っている気はするが酔いはすっかり醒めた気分だった。
大きな目を逸らしもせず睨みつけていると、男は少し感心したような顔で笑った。
「おうなんだ、なかなかいい目してんじゃねえか。どうだおまえ──」
男は今度は掌で康平の頭を掴み、ぐしゃぐしゃとかき回した。
──鷹が、よくやるように。
「うちに来ねえか?」
答える気になどならない。ただ、じっと相手の男を睨み続けた。目を逸らしたら負けだという気がした。
「あんなとこで監視されながら地べた這いつくばってるより、よっぽどいい目見せてやるぜ?」
それでも答えずにいると、男は妙に愉快そうに笑って屈めていた腰を伸ばした。面白え、と呟くと両脇に控える男たちに視線を巡らせて顎で康平を示す。
「こいつ、ケツの穴洗って隣のベッドに縛りつけとけ。せっかくだからちょっと泣かせて帰すわ。暴れるようなら適当に痛めつけて薬でも嗅がせとけ」
日付も変わった深夜だがふと思い立って康平の部屋へ電話を入れてみたら、誰も出ない。康平がアパートに戻って来ていない、ということはさほど珍しいことでもないが、虫の報せというやつなのだろうか──何故か、帰らずにどこへ行っているのかが気になった。
確か、中華街に行くようなことを言っていた気がする。
もう明け方近い時間。いくら夜の遅い街だとはいっても流石に殆どの店は閉店している。やっているのはラーメン屋台くらいだがそれも店じまいを始めていた。
宛てもなくひと気のなくなった中華街を見て回る。
そして鷹は、自分の虫の報せが間違いでなかったことを確認した。
「──康平?!」
康平は、べろんべろんに酔っ払ったように道をのろのろと蛇行して歩いていた。追いつくまでの間に、何度か奇声を上げて笑っているのが聴こえる。
「康平、おい」
肩を掴んで振り返らせるまでもなく、鷹は康平の異状に気づいた。
着衣もドロドロに汚れている。顔は腫れ上がりあちこち血が滲んでいる。腕を取ると手首に縛られた跡が残っていた。
何より──全身がべとついて異臭がする。それが何の臭いなのかが、康平に何が起こったのかを示していた。
そんな惨状なのに、康平は自分で止められないように笑い続けている。笑う口の中も切れているのか歯が血だらけになっている。その口元に鼻を近づけると鷹は顔をしかめた。
──シャブでも嗅がされたか。
舌打ちして康平の身体を支えると鷹は自分の部屋へ向かった。康平の部屋へ連れていくよりは自分の部屋の方が近いし風呂場もある。とにかく身体を洗って手当てしてやらねばなるまい。
「誰がやった」
尋ねても、康平は笑っているばかりで答えなかった。
鷹の部屋に辿り着くととにかく風呂場に直行し、服を脱がせて洗濯機へ放り込む。露わになった康平の身体を見て鷹は顔を歪めた。
ところ構わず痣だらけになっている。背中には何か、ベルトのようなもので繰り返し殴られたような幾筋もの赤黒い痕。所々皮膚が破れて血が滲んでいる。そして服を脱がせると尚更、全身が何者かの体液によってねばついていた。
風呂が沸くのを待っていられず、水を頭から何度も流すと康平は気持ちいい、と呟いてまた笑った。
これだけ傷だらけなら水ですら染みて痛いだろうに、嗅がされたであろう覚醒剤の効果のせいか痛みはさほど感じていないようだった。痛みを感じていないのなら今のうちだ、石鹸を泡立てて頭から全身泡だらけにして洗ってしまえ──
洗ってやっている間に時折康平の身体がびくりと跳ねることも、あえて無視した。
再び頭から水をかけて泡を流す。流し終えるとバスタオルを被せて大まかに拭いてやる。
「話はちゃんと目が覚めてから聞くから、とりあえず寝ろ」
康平は妙にとろんとした目をして鷹の顔を見上げた。そして普段決して見せることのない屈託のない笑顔を作る。それを見て鷹はどきりとした。
こんな顔を持っていたのか。
いつも不満げな、拗ねたような顔か。
そうでなければ斜に構え皮肉のこもった笑い顔か。
そんなものしか見たことが無かった。
こいつは、誰かの前で薬の助けなど借りることなくこんな顔をすることがあるのだろうか?
康平はまるで楽しくて仕方ないように声を上げて笑い続けている。
「鷹さあん、俺、やられちゃったあ」
「──わかったからもう寝ろ」
「それがさあ、なんか知らねえけどめちゃくちゃ気持ちよかった」
「そりゃシャブのせいだ。一回くらいなら中毒にゃなりゃしねえから大丈夫だ」
「鷹さんもやってよ」
波のように康平の笑いは満ちたり引いたりしている。鷹は溜息をつき、まだ湿った康平の髪をいつものように掌でかき回した。
いつものようにその手を払いのけるのではなく──康平はくすぐったそうに笑うと頭の上の鷹の大きな手を取り口元へ運んだ。指を口に含み、舌で撫で回す。湿った音が零れて鷹の耳に届いた。
「だって、あんな知らねえおっさんより鷹さんのがいいに決まってんじゃん?」
咥えていた指を離すと両腕を鷹の首に回す。まるで吸血鬼が獲物の首筋に噛み付くように、康平の唇が鷹の首に吸い付く。わざとなのか偶然なのか、膝立ちした康平の腿が鷹の股間を圧迫している。
冷静に対処しようとしていたはずが、うっかり体温が上がった気がした。口の中は乾いているようなのに生唾が出る。
まいったな……
小さく呟くと鷹は自分の首筋に吸い付いている康平を髪を掴んで引き剥がし、その口を貪る。合間に漏れる息が熱を帯びてゆく。小刻みな息に康平の小さな声が混じり始めた。
生憎、ここで止められるような聖人君子ではない。
更に鷹の舌を貪ろうと求める康平を引き離すと部屋の隅に畳んだ布団に押し付ける。背中にはあの無数の生々しい傷。洗ったことで再び滲んだ血に舌を伸ばし舐め取ると布団にこもった康平の声が伝わった。
傷の手当のために手元に用意していた軟膏を手に取り背中の傷に塗ってゆく。その度、康平は小さく声を上げた。最後に、おそらく最も痛手を蒙ったであろう場所に塗りこんでゆく。そのまま奥へ指を潜らせると、異物を受け入れることに全く慣れていない筈の場所が、侵入者を排除しようとしているかのように鷹の指を締め付ける。ゆっくりと動かしてみると康平は安物のポルノ女優のように声を上げ始めた。
まだ、薬の効果で自制が利かないのだろう。
普段の康平ならこんな無防備で素直な反応を隠しもしないわけがない。
調査を終えた指の替わりに、ゆっくりと侵入する。自分の呼吸も早くなっているのがわかる。それに合わせて動き始めるとやがて康平の声は泣いているように変わった。
康平はまだ子供のように泣いている。
達してしまうと、急速に我に返った。
かつて──
鷹が『殺し屋・鷹』と呼ばれるようになる前。
拳銃を持つことと性衝動が混同していた、自分は気狂いだったと思う。誰彼かまわず、行きずりの後腐れない娼婦などを犯しながらその頭を撃ち抜いて愉しんでいた。
今、康平を撃ちたいとは思わない。では俺はもう気狂いではなくなったのか。否──煽られたとはいえ、今犯されてきた康平をそれが癒える間もなく抱いたのは、気狂いではないというのか。
少し、冷静になろう。
手を伸ばし煙草を取ると火をつける。溜息とも煙を吐き出すとも知れない息を落とすとまだ泣き続けている康平に目を落とした。
鷹から見ればまだまだ子供だとはいえ、もういい大人の男だ。それが子供のように声を上げてしゃくりあげている。まだ覚醒剤の効果が残っているのか。
「おい、康平──大丈夫か」
極力平静に、康平の頭を撫でる。康平はまだ腫れた顔を動かし鷹を見上げると一層泣き声を大きくした。
「──てたのかよ」
「ん?」
聞き取れずに顔を寄せると、康平は力なく腕を振り上げて鷹の肩を殴った。
「俺のこと、監視してたのか。監視してただけだったんだろ」
眉を寄せ、首を傾げる。監視──何のことだ?
「あんたなんかもう知らねえよ。みんな嘘ばっかだ。姐やんの──」
泣きながら、康平は腕でそれを懸命に拭っている。その動作もどこか子供じみている。
「姐やんの仇だって全然討ってくんねえじゃねえか……」
鷹は、困惑していた。
迷うように唇を引き結ぶと康平の身体を起こし、胸に抱き寄せる。拒絶しようとしたのか振り上げた康平の腕が何度か空振りした。
「嘘じゃねえよ。何年先になるか約束は出来ねえって言ったろ。俺がやる、それは忘れちゃいない」
「嘘だ、みんな嘘だ──」
鷹の声が聞こえていないように泣く康平の頭を、子供をあやすように撫でる。さて、どうすればいいのか鷹にはわからない。
「とにかくちょっと寝ろ。薬が抜けてからゆっくり話そう」
それに、康平が何を吹き込まれてきたのか知らないが、監視とは何のことかも聞かねばなるまい。
康平が泣き疲れたように鷹の胸で脱力し寝息を立て始めるにはそれから3分と要さなかった。
話し声が聴こえる。
頭が痛い。胸がむかむかする。そして全身が痛い。
顔も痛いし腕も痛いし腹のあたりも鈍く痛むし背中もひりひりするし、なにより尻がまだ何か挟まっているように痛い。
身動きするとどこもかしこも軋むのでどう動かせばいいのかを考えねばならない。
眠る前の出来事は生憎全部記憶にある。部分的に曖昧なところもあるが、何があったのかは残念ながら覚えている。いっそ、全部忘れてしまいたい。鷹に連れ帰られた後のこともすべて。気まずいどころの騒ぎではない。恥ずかしすぎて二度と顔を見たくない程だ。
康平は深く深く溜息をついた。
話し声は、鷹の声だ。誰かいるんだろうか。
のろのろと這うように声の方向へ移動すると、鷹は電話で話しているようだった。
「──ああ、そういうわけで、しばらくはここで預かっとく。ちょっと目を離さない方がいいと思うんだ」
──血筋を盾に造反でもしやしねえかと監視されてんだろうよ。
あんなに頭が朦朧としていたのに、そういう部分だけはしっかりと覚えている自分が嫌になった。
何も、初めて会ったあの何か企んでいそうな男の言うことを頭から鵜呑みにしているわけではない。しかし、母が嵯院の先代の妾であったということはあながち嘘ではないような気がした。
母が失踪した時に知ったのだが、父と母は入籍していなかった。それに、父は母をそれは丁重に扱っていた。まるでお客様扱いだった。
あれは、母が『先代の親分さんの妾』だったからだ。
理由はわからないが、先代の妾とその子供を、家族であるかのように装っていただけだった──そう考えれば自分の家族の不自然な点がすべて説明できる。
親父はヤクザのくせにお人好しで、忠誠心の馬鹿げて高い男だった。あの話が本当だとすれば、自分のものでもない女と自分の子でもないガキの面倒を懸命に見て、最期は組のために命を落としたのだ。
なんて馬鹿な人生なんだ。
俺はそんな人生、まっぴら御免だ。
鷹は、七哉に昨夜のことを報告しているのだろう。何故なら、鷹は七哉に康平の監視を命じられているのだ。
康平は自分が自ら組の者たちとは距離を置いてきたこともそもそも人望がないこともよく判っている。七哉を裏切って康平につく者などひとりもいないだろう。それでも、危険な芽は監視しておかねばならないのだ。
俺がどこの者かも判らない男にシャブまで嗅がされて犯されたことも、自分が俺を抱いたことも、鷹は七哉に報告したのだろうか──
視界を広げると、部屋の隅に洗濯紐が渡されていてそこに康平が着ていた服が掛かっていた。なんとか立ち上がってそれに手をやるとまだ湿っている。ズボンのポケットを探ると、洗濯されてよれよれになった名刺があった。
暫くそれを凝視めると、干した洗濯物の下に置かれていた自分の財布にそれをしまう。
ぽたり。
手に持った財布に水滴が落ちた。
なんだ。
俺、何泣いてんだ。
もう多分、嗅がされた薬の効き目など切れている筈だ。だからこんなに全身が痛い。
痛いのは、身体だけじゃない──
「──っくそ」
康平は掌で顔を伝うそれを散らすと大きく深呼吸し、まだ湿っている洗濯物に手を伸ばした。
「何やってんだ。もうちょい休んでろ」
湿って気持ち悪い服を身に着けていると、鷹は電話が終わったらしく康平のいる部屋へ戻ってきた。
腹の底が何かに締め付けられているように苦しくなる。
「帰る」
「待てって」
覚悟を決めたようにぎゅっと唇を噛み締めると顔を上げ、鷹の顔を真っ直ぐに見る。睨みつけるように、真っ直ぐに目を見つめる。気まずいも恥ずかしいも全部自分の中へ押し込める。
「だって、俺もうここにいる理由ないし。迷惑かけて悪かったよ。もう大丈夫だから帰る」
湿って気持ち悪い服だが、背中の傷にはひんやりと気持ちいい気がした。服を着ることをやめない康平の腕を鷹が掴む。縛られていた手首の擦過傷と内出血の上から掴まれて、康平は小さく顔を歪めた。
「まだおまえにちゃんと聞いとかなきゃいけない事があるんだよ」
「あんたには関係ない」
「関係ないわけねえだろうが」
掴まれた手首を振りほどこうとするとまた傷と痣が痛んだ。
「んだよ。だったらあんたは俺の何なんだよ。なんで俺にかまうんだよ。何もねえなら放っといてくれよ」
目を逸らしたら負けだ──
まるで敵に対峙しているかのように、じっと鷹の目を睨み続けた。
「放っとけねえから言ってんだろうが。おまえみたいな危なっかしいヤツ」
「──」
「紫や睦月は放っといたっておかしなとこには迷いこんだりしねえんだよ。だけどおまえは違う。目を離したらとんでもないとこに迷い込みそうだから──」
だから、監視してんのか。
あんたの大事な『七哉』を、俺が裏切らないように。
「あんたが思ってるほど、俺はガキでも馬鹿でもねえよ。自分がどうすりゃいいかくらい自分でわかってる。今は──」
つい数時間前まで子供のように泣きじゃくっていた康平は、鷹の目を真っ直ぐ睨みつけたまま大きく呼吸して──笑った。
「ひとりにしてくれよ」
くるりと鷹に背を向け、玄関に向かうと鷹はもう追ってこなかった。
「康平」
靴を履いている背中に自分を呼ぶ声が聞こえる。
「理由なんかなくたっていい。おまえが居てもいい場所がここにはあるんだ。それを──」
嘘ばっかりだ。
「信じてくれ」
信じない。もうあんたのことなんか絶対信じない。
靴を履き終えると、康平は振り返らずにドアを開けた。
背中で鷹がどんな顔をしていたか、確かめる気にもならなかった。
まだ全身が痛む。よたよたと歩きながらポケットの財布にしのばせたあのよれよれの名刺を取り出す。大仰な代紋が印刷された和紙調の名刺。やけにでかい字で中央に誇らしげに加納太一、と印刷されていた。
それがあの男の名前か。
肩書きは組長となっているが、これはうちと隣接している組の下部組織だ。多分親組織の幹部なのだろう。隣接している関係で時折小競り合いは繰り返しているがなんだかんだバランスを取ってやっている。
この男は、俺を取り込んでどうしようと言うのだろう。嵯院の先代の隠し子を手の内に入れたからといって、仮に嵯院との抗争を考えていたとしても何の役に立つでもあるまい。
どっちでもいいさ。
ここでなきゃ。
嵯院七哉の足元でさえなきゃ。
どこだっていい。
嵯院よりよほどいかにもヤクザらしい事務所。階段を登っていくといかにもなチンピラどもが出迎える。
なんだてめえ、だのガキの来るとこじゃねえぞ、だの無駄に巻き舌を駆使して絡んでくるのを無視してその場で一番偉そうにしている者を見定め、加納の名刺を示す。
「これ、貰ったんだけど。康平が来たって言ってもらや通じると思う」
今にも噛み付きそうな連中はまるで水戸黄門の悪人が印籠に平伏すようにざっと遠のいた。名刺を示された幹部らしき男はちょっと待ってろ──と奥へ引っ込んでいく。
ほどなく、康平はそこへ通された。
「早かったな。決断が早いのはいい仕事が出来るヤツだ。それとも、ああいうのが好きなのか?」
代紋を背にふんぞり返っていた加納は満足げに喉の奥で笑った。
封を切ったブランデーを2個のグラスに注ぎ、加納は片方を口に運びながらもう片方を康平に渡した。酒は強くないと何度言っても、聞いてはくれない。間接照明の光がぼんやりと加納の顔を照らしている。
康平は、加納の元で東出の名前を封印した。
地味な存在だったにも関わらず東出昌平の名は意外にも知られていたらしく、素性についてあれこれ言われたくないというのが理由だった。
『東出』を棄て、母の姓である『澤』──と今は名乗っている。
「遠山と境がやられたのは知ってるか」
はい、と小さく答える。
遠山と境というのは、加納が率いる組の親組織の幹部だ。加納と同様、下部組織を率いている者たちだが加納よりは親組織に対する影響力が強い。要するに、加納よりは上位の人間である。
その二人が、立て続けに射殺された。
暗殺者がどこの人間なのかは判っていない。
「ありゃあ、『鷹』の仕事だ。おまえなら判るだろ」
嫌々口に運びかけていたブランデーをごくりと飲んでしまう。喉が焼けそうだと思った。
「余所はああいう事をする時はこれ見よがしにやって戦争に持ち込むもんだ。嵯院はそういうことはしねえ。全面戦争にはならねえように裏からコソコソやりやがる。あんだけ綺麗な仕事をするヒットマンはそうはいねえよ。鷹じゃなきゃ悔谷雄日くらいだ」
康平はぎりっと唇を噛み締める。
「問題は、これで終わりじゃねえだろうって事だ。何人殺る気かしらんが、下手すりゃ俺も狙われてるかもしれん。だがそうでなきゃ、こりゃ俺にも運が回ってきたって事だ」
「どういう事ですか」
「もし、若頭あたりまでやられることになってみな。あのあたりのポストは俺に回ってくる。そうすりゃゆくゆくオヤジの跡目候補にだって食い込めるってこった」
上昇志向が高くて結構なことで、と腹の中では思ったが康平は黙って頷いた。
「そこでだ」
立ったままブランデーをちびちびと口に運んでいた康平のグラスを取り上げると、加納はその頬をつねるように引っ張った。
「おまえに、完全にあっちと手が切れてるってことを証明してもらおうか」
頬をひっぱる加納の手をふりほどくでもなく、康平はただ眉を寄せて疑問を表明する。
「多分、次に狙われるのは若頭だ。若頭がやられる前に──鷹を殺せ」
それは、通常考えても無理な指令だと、他人事のように思った。
鷹の指導を受けていた中でも自分は出来が悪かったのだ。仕事モードの鷹を逆に仕留めるなんて──しかし無理だ、とは言えない。
「うまく仕留められたらおまえの手柄のおかげで俺もおまえも出世することにならあ」
そしてもし康平が失敗して返り討ちにされても、やっぱり情が移った相手じゃ駄目だったなぁで済ますことができる。若頭が殺されることになっても、さらにそのポストが空席になり加納にとってはチャンスにもなる。どう転んでも加納にとってはリスクが無い。
頬から手を離すと張り飛ばす勢いで康平を押しのけ、加納はソファにどっかりと腰をかけた。
「やれねえとは言わせねえぞ」
面白げに口角を上げると顎をしゃくって康平を足元へ呼ぶ。
「仕事の話はそんだけだ。脱げ」
加納の元へ来てから数ヶ月、暫くは加納の付き人のような状態で過ごした。上から指図されるのが大嫌いなのは変わらないが、いずれ自分の好きに動けるようになるためには今は加納に従っていた方が得策だと考える程度には大人になったのかもしれない。
加納は実のところ女房の尻に敷かれているということも判ってきた。その鬱憤を部下の若い連中を順繰りいたぶることで晴らしているのだということも。
どうってことねえや。
加納がただ突っ込む穴が欲しいだけの時は下半身だけ脱いで済ませられることもある。しかし康平は加納の嗜虐趣味を刺激する部分でもあるのか、穴を貸すだけでは済まないことが多い。素直に脱がなければ脱がないで、衣服をハサミだのドスだのを持ち出してボロボロに切り刻んでしまうのが面白いらしい。毎度毎度それでは服が何枚あっても足りないので極力すぐに脱ぐことにしている。
慣れてくると、加納は全く上手くはなく本当に自分の性欲を満足させるためだけの行為だというのが判る。最初に気持ちよかったのはやっぱり薬のせいだったのだろう。要は、ゴムの人形を使ったり面倒な手続きを経て女房の目を盗んで女を口説いたりする替わりに、身近でいつでも言うなりになる若いチンピラを代用品として使っているだけなのだ。
だから、こっちもただこの何十分かを辛抱すれば済むだけのこと──
──鷹を、殺せ。
先刻の加納の指令が不意に頭を掠める。
と、同時に背後から貫かれる。無遠慮に揺さぶられ、掻き回される。
ベルトで打たれていた背中に、加納の衣服が擦れてひりひりする。
無意識に、自分の手を下腹部に伸ばしていた。
「なんだ珍しいな、たまには自分もイキてえのか?」
耳元で加納の笑い含みの嫌な声が聞こえる。
「鷹の話をしただけでこれか。よっぽど可愛がってもらってたんだな」
──そんなんじゃねえ…。
否定したいのに、声が出ない。
あれだって、薬のせいだ。あんなこと、あれっきりだったんだから。
──鷹さん。
ちくしょう、と小さく呪文のように繰り返す。
──鷹さんを殺したら。
──吹っ切れるんだろうか。
──東出康平だった頃の自分を、すべて。
眼下に夜の街が広がっている。
まだ深夜ではない街は、賑やかに煌いている。地上に降り立てば猥雑な灯りの数々も、少し離れて見れば宝石のように美しく見えた。屋上をわたる風も、これから何をするためにここにいるのかを忘れたくなるほど気持ちいい。
双眼鏡で目的のビルを確認する。5階建てビルの5階。ブラインドを下ろした向こうから灯りが漏れている。部屋へ入られたらまずはあのブラインドを落とすのが先決だ。
ターゲットはこの後30分後くらいにここへ来る。ビルの正面に車を止めれば、車から降りてビルに入る時点を狙えるが相手も警戒している筈だ。裏から入られるとそのタイミングは使えない。
双眼鏡を下ろすと鷹は屋上の柵に持たれかかり腰を下ろした。
──やっぱり誰かサポートをつけた方が確実だったな。
溜息を落としながら苦笑する。
それでもこの仕事は一人でやる、そうしなければならないと思う。
あの日、鷹の部屋から出て行った康平はそのまま姿を消した。アパートの部屋もそのまま、ろくな荷物は無かったがなにもかも置いて行ってしまった。
やはり、あの時なんとかして引きとめるべきだった。引き止めて、きちんと話をすべきだった。たとえ、自分がしてしまった事に対する気まずさや後ろめたさがあったとしても。
姿を消した康平がどこへ行ったのか。
まさか、あの時康平を拉致して暴行した相手のもとへ行ったわけではあるまい──そう思ったが、どうしても康平の言葉がひっかかっていた。
康平は鷹に、自分を監視しているのか、と言ったのだ。それが、暴行の犯人から吹き込まれた事だったのだとしたら。その真相を得るために相手のもとへ行ったということは、康平なら十分考えられることだ。
やがて、組に馴染んではいなかったとはいえ康平が姿を消したことを他の者たちも気づき始めた。放っておけばいいと突き放す者もいたが、睦月あたりは捜索に協力してくれていた。そして、見つけたのだ。
隣接組織の幹部とともに行動している康平を。
この仕事を打診された時に、康平が身を寄せている組織だということが気に掛かった。康平は、こんなこともあるだろうと判った上で行った筈だ。それでも。
他の者に、康平が裏切り者だという烙印を押させたくはなかった。
それをするのは俺の仕事だ。
あの時康平を引きとめられなかった、それは俺の責任なのだ。
だから、今度の仕事は俺ひとりでやる。睦月や紫や他の者の力は借りない。
この仕事に掛かり始める前日、あるバーに顔を出した。
「うちの地下のブツ、買い取ってくれないかな」
バーのマスターは、かつて連続暴行殺人を繰り返していた坂元喬という若者を、変質者から殺し屋に育てた男である。いずれ犯罪者には違いはないが、本人たちにとっては大きな差だ。
「買い取るのは別にいいが、どうした。足でも洗う気か」
「そうだな。そうしてもいいかもな」
そうだ、この仕事が終わったら引退してもいいかもしれない。
表向きに経営している模型店が決して繁盛しているわけではないが、中学生の息子とふたりで細々やっていくのに困らない程度の蓄えはある。
先のことを深く考えずに商売道具を売り払う相談を持ちかけていたことに漸く気づく。
「タカ、大丈夫かおまえ」
独特の勘でも働いたのか、マスターは眉を顰めた。
「何か、覚悟を決めてるような顔をしてるぞ」
覚悟って何だよ、と笑って誤魔化した。
覚悟というより、この仕事が終わった後のことをうまく思い浮かべることが出来ない。こんなことは初めてだった。
明日にでも、商売道具──自宅に隠し持っている大量の銃器──を引き取りに来てもらうことを約束し鷹はそのバーを後にした。
それから、翌朝自宅で留守番をしている息子に電話をする。
「今夜、『シゲさん』ってヒゲのおっさんが来るから、来たら地下室に入れてやってくれ」
息子は父がちゃんと食事をしているかどうかを心配していた。
料理の得意な息子は、母親を亡くしてからはずっと父と自分のための食事を作ってくれている。将来シェフになってレストランを開業するのだなどと夢を語っている。
格闘家のような体型の自分には似ず、母親似で線が細い。中学生になって生意気になってきたが自分の息子ながらしっかりもので頭のいい子だと思う。
電話の向こう、病気で亡くした妻とそっくりな口調で出ずっぱりの時の父親の食生活が悪いことを指摘する息子がなにやら可愛いくて仕方ない。口元からつい笑いが漏れた。
「いい子だ、鴒」
翌日から、『仕事』に掛かった。幹部二人は比較的楽な仕事だった。同じ日に、警戒を強化する間も与えずたて続けに仕留めた。これならサポートが無くてもこなせそうだ。
ただ、残りの一人が厄介だった。
先に仕留めた二人よりも地位が高く、普段から周囲を固めている人員が多い。おまけに、部下二人が相次いで殺されたことで次は自分かと警戒を強めている。残りの一人に関しては何日も時間をかけてじっくりとチャンスを伺っていた。
そして、今夜標的があのビルにやってくる情報を得た。
再び、双眼鏡で件のビルを見る。ここから先は暫くあのビルから目は離せない。
何分か──身動きひとつせず、あのブラインドにちらちらと見え隠れする影と、ビル入り口の出入りをチェックする。一台の車がその前に止まるのを見てライフルを構える。スコープの向こうに映る人影にピントを合わせる。
──違う。
車から降りてきたのは別人だった。
一瞬の、隙が出来た。
左手から、ライフルががしゃんと音を立てて落ちる。
え、と自分の左腕に視線を移す。左手首に、穴。
振り返る瞬間に、二の腕、肩、腹から赤い液体が噴出しているのが見えた。
振り向いた先に──
見覚えのある姿が見える。
暗い屋上。顔は見えないが姿だけでわかる。
教えた通りの姿勢で、拳銃をこちらに向けて立っている。
「──康平」
懐にしまった拳銃に右手を伸ばした瞬間に、今度は右の腕と肩を撃たれた。
そうか。
おまえが来たのか。
康平は手に持った銃をその場に落とし、別の銃を構えた。
一歩、歩み寄ろうする。
足首。
膝をつく。
「──今度は、信じられるやつなのか」
康平が今、身を寄せているのは。
信じられる相手なのか。
「俺は誰も信じない」
康平の声。
「そんなもん、俺には要らねえんだよ」
ばかやろう。
「俺はひとりだ。そんなもん無くたって、俺はひとりで生き抜いてやる」
それでおまえは──
あの屈託のない顔を、誰にも見せずに生きてくつもりか。
あんないい顔持ってるくせに。
誰にもそれを見せないでいいのか。
腹。
右胸。
口の中に錆くさい塊が上がってくる。それが口から溢れ出てゆく。
全身が熱い。
「可哀想なやつだ」
「──あ?」
「おまえは可哀想なやつだって言ったんだ」
誰も信じない。
だからおまえは誰からも信じられない。
少しでいい、
俺のことを信じてくれればよかったのに──
康平の、悲鳴じみた声が聞こえる。
それが弾丸とともに、無数に鷹の身体に突き刺さる。
勢いに押されて──
よろよろと、屋上の柵にぶつかる。
ちらりと、夜の街が見えた。
ああ、ここから見れば宝石箱のようだ。
もう一度、康平の咆哮が聴こえた。
最後の弾丸は──
大きな鷹の身体を柵の向こうの宝石箱へと運んだ。
夢を見る。
繰り返し、繰り返し。
「おい、そんなとこで寝るなよ。もう閉めるぞ」
目を開けると横になった薄暗い視界の向こうに、白髪交じりの無精髭が見える。
「なんだ、汗なんかかきやがって。夢でも見てたのか」
「夢──」
ああ、そうか。またあの夢を見てたのか。
宝石箱に落ちてゆく、蜂の巣になった男──
「下戸の癖に調子ん乗って飲むからだ。ほれ、水」
バーのカウンターに涎でも垂らさん勢いで寝ていたと無精髭のマスターは笑った。
「シゲちゃん──」
眠い目を擦りながら頭を上げる。
「シゲちゃん、人当たりはいいけど実はけっこう簡単に人突き放すよな」
「なんの話だ、いきなり」
「ひとの事には絶対深入りしないし、都合が悪くなったら簡単に切るだろ」
無精髭のマスター─悔谷雄日は現役でありながらすでに伝説的存在になりつつある殺し屋だ。こんな有名人と仕事が出来るのは自分の手腕と誇っていいと康平は思う。
本名か偽名だかは知らないが、悔谷はこのバーでは谷重、と名乗っている。
悔谷雄日が何人かの腕のいい殺し屋を育てたと、業界内では都市伝説的に様々な説がある。そんな中には、かつて『嵯院』が抱えていた殺し屋『鷹』の名もあった。しかしそれを確認したことはない。
殺し屋・鷹の、ビルから落下した遺体は警察や救急が到着する前に何者かによって撤収された。現場に残された血痕が騒ぎになったものの遺体が見つからないため警察も早々に捜査を切り上げたという。
鷹が狙っていたとおぼしき若頭はあの翌々日には殺された。
紫か睦月か。あのあたりが後始末をしたのだろう。
おかげで加納は親組織の若頭に就任し、鷹を始末した功績で康平も幹部と同等の待遇を与えられた。もっとも、康平は組織には組み込まれることはなかった。所詮は加納も康平を底から信用はしていないのだ。
嵯院を離れてしまった康平には、リカの仇を討つチャンスは訪れなかった。相手は嵯院七哉の正妻だ。ちゃらちゃら外で遊んでいてくれれば外からでも狙う機会はあるがそれはなかなかあることではなかった。
リカの仇は、いまだにのうのうと生きている。
いっそのこと、目の前にいるこの凄腕殺し屋・悔谷雄日に依頼するのが一番早いような気がする。しかし他人に依頼するのは何か違う。
「シゲちゃんには本当に信じてる誰か、いるのか」
何故そんなことを急に尋ねる気になったのか。
久しぶりにあの夢を見たからか。
「そりゃ──」
谷重は不思議そうに首を傾げて手元のグラスに入ったウイスキーを呷る。
「小雪にマサルに連に」
何人かの家族同然の身近な人間の名を指折り挙げる。その指を見つめる康平のどこか面白くなさそうな顔を見ると谷重は折った指を広げてまだカウンターに伏したままの康平の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。昔と違って今は短髪に刈っているから、髪が『ぐしゃぐしゃ』になることはないけれど──
「おまえのことだって信用してるんだが知らなかったか?」
それは俺のエージェントとしての仕事を信用してるってことだろ。
そう言いかけて、拗ねた子供じゃあるまいしと思い直し口を噤む。
「俺は、俺を信じてくれるヤツはちゃんと信じる主義なんだ」
え、とつい口に出して頭を上げる。
谷重は目尻の笑い皺をこれでもかと深く刻んで笑った。
「おまえが俺を信じてくれてるから、それにはちゃんと返す」
──俺は誰も信じない。そんなもん、俺には要らない。
ばっかばかしい、と呟いて谷重の汲んでくれた水を一息に飲み干す。口元が少し緩んだ。
「シゲちゃん、いっぺんやろうよ、俺と」
「やなこった。おまえみたいなのは下手くそに決まってる」
「試しもしないで何がわかるんだよ」
場数が違わぁ、と谷重が愉快そうに笑う。つられて康平も──
屈託なく、笑った。
*the end*
*Note*
「銃爪」の章を書いてる時からずっと書きたくて書かねばならないと思っていた話。
康平と鷹さんがまさか!!!この話書き始めるまでは全然知らなかった!! そして康平はここまでずっとバイで攻(タチ)だったんですが作者の中ではどう考えても受だったんですよね…性格は完全に受なんですが。この話で念願の(???)受の康平が書けて楽しかったです。
康平の最期はああだったわけで、そう思うとだんだん可哀想になってきて、この話のラストはつかのまの幸せにしてあげました。康平、誰かがちゃんと愛してあげたら少しは違ったかもな。誰にも愛されない人生でした…悲しい…。
鷹さん、大丈夫。康平はシゲさんの前では笑ってたから。
しかしそう考えるとシゲさんを亡くして康平は完全にひとりぼっちになってしまったわけで…英二め……。
ちなみに「谷重」の方に置く「代理人」という話は、シゲちゃんの最期を見届ける康平の話です。こっちもかわいい。(作者よ……)
そして康平をベルトでいたぶってたガチのドS加納さんはそっちの話にもちらっと出てきます。ってゆうか加納の話も書きかけてたよ(書きかけでHDDがクラッシュして萎えたので書き直すかどうかは不明)…いや、スピンオフはスピンオフを生むぜ…。
関係ないけどチャイニーズマフィアってみかじめ料のシステムじゃないんですってね。でもまあもともと嵯院のシマだったんでみかじめ料システム発動してたみたいです。まあどっちでもいいけども。