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口下手

 あの時、自分の腕がもう少し動いていたら。
 あの時、何かひとことでも言葉に出していれば。
 あの日、自分が店にいたら──
 どうなっていただろう、と今でも思う。
 今とは違う未来になっていたのかもしれないし、何も変わらないかもしれない。

 それでも、どうしても考えずにはいられない。
 もし過去のどこかの時点で自分からほんの少しでも動くことが出来ていれば。


 彼はまだ、そこにいたのかもしれない──と。

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 あの日は離婚した妻がひきとった9歳になる息子との月に一度の面会日だった。ちょうどその時間は元妻のところへ息子を送っていって、嫌味などを言われていた頃だ。

──離婚する前は息子を遊びに連れて行ってやることなんて年に1、2回あるかどうかだったのに、離婚したら律儀に毎月会いに来るのね。やろうと思えば出来るんじゃない。

 俺は昔から口下手で、離婚する前からこんな風に早口で捲し立てられたら何も言い返せなかった。口論になれば絶対に妻には勝てないし、それを聴いているだけで疲弊して早々と白旗を上げて逃げるのが俺のいつもの、せめてもの対応策だった。が、それがかえって妻の神経を逆撫でしていたのだろう。妻子のことに興味のない仕事馬鹿だとレッテルを貼られ、何も言い返せないまま離婚されてしまった。
 あの妻の口撃から解放されて正直言えばほっとしたのだが、せっかく料理に興味を持ち始めていた息子と離れることになるのは寂しいと思った。なんなら板長に頼んで板前修業の真似事でも始めさせてやりたいと思っていたところだったのに。

 離婚してからは店の裏のワンルームマンションに住んでいた。ろくに帰りもしないのだから、着換えの置き場所兼眠るための場所としてならワンルームで十分だ。
 妻の嫌味を思い出しては溜息をつき、息子が元気に手を振るのを思い出してはうっすらと微笑み、を繰り返しながら寝る場所としてのワンルームへの帰路についていた俺は、最寄りの駅に着くと街がざわついているのを察知した。
 幾重にも重なるサイレンの音。
 一方向へ向かって小走りに動いていく人々。
──風に乗って流れてくる焦げた臭い。

 火事か。

 その方向へ向かおうとしている野次馬が発した言葉がいやに大きく耳に飛び込んできた。

「燃えてるの、『しぶや』らしいぞ」

 一気に血の気が引く。
 野次馬を掻き分けるようにして走る。

『しぶや』が。
『しぶや』が燃えている──?
 板長は──
 修一さんは───?

 店に辿り着くとすでに鎮火はされたようだったが──築100年は越えていただろう本館も、特別な顧客が使ういくつかの離れ座敷も、当主の家族や住み込みの見習いたちが住まう母屋もすべて、もとの姿は見る影もなかった。
 全焼だった。
 庭園があったこともあり、不幸中の幸いで近隣に延焼することはなかったが──

 空襲も逃れた老舗料亭『しぶや』は、焼け落ちてしまった。

 救急車が数台、次々と到着する。
 そうだ、店の人たちは無事だろうか?
 大女将と有姫さんと藍海さんは英二さんの家に、それから女将の翠さんは実家に居るはずだ。
 店にいるのは住み込みの若い連中と板長──修一さん。
 我に返って救急車に駆け寄る。

「板長!大丈夫ですか板長!」
 救急車のそばで追い回しの若いのが叫んでいる。背中に冷水が浴びせられた気がして覗きこんだ。
 板長──渋谷修一はストレッチャーに乗せられながらも何か指示を出しているようだった。

──無事だった。

 修一さんは俺に気づき手招きした。衣服が煤でどろどろになっている。近づかなくても判るほど、脚と腕に火傷を負っているようだった。
「辻井、看板を頼む」
 それだけ聴きとったところで救急車は慌ただしく扉を閉め、サイレンを鳴らして走り去っていった。

──看板?

 もう一度見回すと、一番若いまだ十代の追い回しが木の看板を抱きしめて茫然と座っている。声を掛けると掠れた声でようやく言葉を発した。
「板長、これを持ち出すために火の中に飛び込んでって、もう死ぬかと思って、おれ、おれ」

 これは──初代から受け継がれてきたという看板だ。

 だからって自分の命と引き換えにまでしなくてもいいではないか。
「──他の連中は大丈夫か」
「次の救急車が来たら手当するから乗ってけって言われてるけどみんな軽い火傷くらいだと思います」
「そうか。怖かったな。こんな時に店を空けててすまなかった」
 落ち着かせるように背中を摩ってやると安心したのか、看板を抱きしめていた追い回しはしゃくりあげて泣き始めた。

 それにしても──
 どこから火が出たというのだ?
 閉店後に火を使っていた者はいたかもしれない。しかし今夜のようなほとんど風もない日に、板場から出た日が全ての棟を焼き尽くすなどということがあるのだろうか。

──放火?

 このところ、この店には良からぬことが続いている。
 客を盗撮したビデオの流出。食中毒による営業停止。
 そして親方の自殺。
 『しぶや』は何者からか狙われているのではないか。
 普段料理のことしか考えていない自分にすら、その空気は感じられた。

 だから。

 この火事もそういった陰謀の一部なのではないか。そう思わずにはいられなかった。
 これで当分──何年に渡るかもわからない──『しぶや』は営業できない。
 残っていた板前たちにも早めに他の店を紹介してやることを考えた方がいいかもしれない。

 しかし。
 板長は──修一さんは無事だった。
 自分も当然だが無傷だ。
 それならなんとかして再起を図ることも出来るだろう。

 俺は自分にそう何度も言い聞かせた。頼りなく泣いている若い連中の前で、落胆している姿など見せてはいけない。
 これは当分息子の面会になど行っている場合ではなくなるかもしれない。
 大丈夫だ。
 修一さんが居れば、必ず『しぶや』は再建できる。

 修一さんが居れば。

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 辻井義敬は定休日の『藍海』で翌日の仕込みをしていた。
 定休日だというのに、カウンターに客がいる。

 最近この客は、毎週とは言わずともこうして定休日の仕込みに入っているタイミングを狙って店を覗いてくる。営業日のようなちゃんとしたメニューではなく、仕込みのついでに辻井が作る賄い料理を目当てにしているらしい。
 女将に相談してみたらかまわないというので定休日でも店の鍵は下ろさなくなった。
 営業日に来る時はきっちり予約をして誰かを連れてくる。なかなかの売上に貢献してくれている上得意ではあるので無下にもできまい。

「今日みたいな定休日に貸し切りにしてくれたらお連れさんに気を使わせることも無いんじゃないですか」
 そう言ってみたことがあるが、客──嵯院椎多はいやいや、と笑った。
「定休日に貸し切りなんかにしたら女将さんの休みが無くなるじゃないか」
 だったらそもそも定休日に来て飲み食いしようなんて思わなければいいのに、と思ったが口には出さずに済ませた。嵯院は今日もまだそれほど遅い時間でもないのに二品ほど出してやったらそれで黙っておとなしく飲んでいる。

「しかし辻井さんは定休日もいつも結局こうやって店に来てるんだろ。いつ休んでるんだ」
「昼までゆっくり休んでるんで、それで十分ですよ」

 辻井は若い頃から口下手で、こうしてカウンターに立っていても客とうまく会話することが出来ない。その点、この嵯院という男は大企業の社長なだけあって営業日に連れてくる連れ──接待の延長の時もあれば仕事は無関係の友人だったり主治医だったりと層はまちまちである──との会話も殆ど途切れることがない。
 嵯院はその特技を使って、放っておけば客とひとことも会話せずに済ませる辻井ともなんとなく会話を続けることに成功していた。

 秋の献立を考えていたところだったので、試作品を出してやる。松茸とまではいかないが、旬の食材を使って工夫をこらしてみたものだ。
 もっと産地や品種に拘った食材の特性を最大限に引き出して最高の味にするのが使命だという矜持は捨ててはいないが、正直、今はまだ採算度外視ということは出来ない。この店に出せる値段の中でいかに旨く作れるかが腕の見せ所だ。
 高級で旨くて当たり前の料理を食べ慣れているだろう嵯院はゆっくり噛みしめながら笑いを零した。
 本当に旨い料理を食べた時に思わず笑ってしまうのは多くの人間に共通する反応だろうなと辻井は思う。
「ああ、旨いなあ。あの『しぶや』の味をこんな値段で出していいのか」
「『しぶや』ほど高級な食材は揃えられないんで、同じ味では無いんですがね」
 立地は中小企業や倉庫などが立ち並ぶどちらかといえば庶民的なエリアだ。どれほど旨くても身の丈に合わなければ立ち寄ってはもらえない。
「儲かったらもうちょっと高級な立地に移転すればいい。なんなら資金を援助するよ」
「そういう話は女将さんとして下さい」
 職業病とでも言うのか、すぐに仕事にしようとする人だなと思う。嵯院は悪くない考えだと思ったようだが、店の経営については自分は全くノータッチだ。今後この店をどうしていくのかというヴィジョンも、女将の胸の中にしかない。
「あんたがそうしたいって言えば女将さんだって検討してくれるんじゃないか。たまにはおねだりしてみろよ。いい食材を思う存分使って料理したいって」

 自分はなにも高級食材にこだわっているわけではない。ただ、『しぶや』と同じようにはいかないと言いたいだけだ。
 しかしそれを説明するのが煩わしくなって、辻井は黙ってただ苦笑した。

 この話は辻井では展開しないと判断したのだろう、嵯院は2本目の徳利を干すと頬杖をついて何か含みのある笑い顔をした。
「で、辻井さん。女将さんとはどうなんだ?」

 これは他の客にもしょっちゅう聞かれることだ。いい加減ウンザリだ、と顔に乗せて辻井は溜息をついた。
 いい年をしたおっさんどもが、他人の色恋沙汰にそんなに興味があるのかと思う。女将が目を引く美しさの人妻で、しかも夫が失踪中だということが彼らのゴシップ心をくすぐっているのだろう。そこに番犬のように不愛想で人相がいいとは言えない板前が貼りついているものだからむやみに女将を誘おうとする不心得者があまり居ないのが救いだ。

「どうと言われましてもどうもありませんよ」
「二人でカウンターに立ってたら夫婦みたいに見えるぞ。まんざらじゃないだろ。女将さんもあんたを頼りにしてる」
「冗談でもよして下さい」
 冗談に対するものとは違う、怒りを含んだ視線を嵯院に投げた。

「女将さんは──俺も、修一さんが帰ってくるのを待ってるだけです。俺はともかく、女将さんに失礼だ。そういうのは金輪際勘弁して下さい」

 ほんのからかい程度のつもりだっただろう嵯院は少し驚いた顔をして──すまん、と素直に謝った。

 女将の夫であり、『しぶや』の板長であった渋谷修一は5年前のクリスマスの少し前、突然姿を消した。あの火事からそれほど経たない冬の日のことだ。
 女将──妻の翠が娘を連れて車で母の病院へ出かけていた間のことだ。きちんと鍵をかけ、コートやマフラー、財布などは無くなっていたので外出先で姿を消したのだろうと思われる。外出先もわからないし、どの時点で姿を消したのかもわからなかった。その後本人からもなんの連絡もなければ、遺体が見つかった──という報告もない。
 残された妻も、娘も、宙ぶらりんになった。

 宙ぶらりんになったのは辻井も同じだ。
 修一さえ居れば、『しぶや』は必ず再建できると思っていたのに、その修一が居なくなった。

 そんな時、小さくても小料理屋をやろうと修一が考えていた、修一が居なくてもまずはそこから始めたいから力を貸してくれと翠に頼まれ、辻井は何の迷いもなく引き受けたのだ。

 俺は、あの人が苦しんでいた時に力になれなかった。
 だからあの人は多分それよりももっと苦しかっただろう時には俺を頼ろうとはしなかった。
 その後悔が俺の心の底にずっと溜まっている。

 せめてこうやって、
 あの人が帰ってくる場所を作っていることくらいしか、
 あの人を待つ翠さんを支えることくらいしか──

 俺には出来ることは何もないのだ。

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 辻井は『しぶや』の板場で最終的にはいわゆる二番──副料理長の立場にいた板前である。

 中学ではお世辞にも勉強が出来る方ではなかったし学校に行っても悪い仲間とほっつき歩いて授業などまともに受ける気も無かった。ただ、旨いものを食べるのは好きで料理にも興味はあった。
 自分の家はそんないい家ではないと思っていたのだが、親のどこにそんな縁故があったのか中学を卒業すると料理の修業をしろと言われて放り込まれたのが、超高級老舗料亭『しぶや』の板場だったのだ。

 その料亭は古臭い伝統やら格式やらはもちろん、板場の中の階級も驚くほど厳格で、辻井は最初の3日でやめようと思った。こんな雑用ばかりをやっていても料理人になれそうな気がしなかった。
 その板場に、自分のたった1歳上なだけなのにすでに焼方──階級で言えば上から4番目くらいか、を務めているヤツがいた。この料亭の跡取りである。
 なんだお坊ちゃんかよと思ったが、エンピツを持ち始めるより先に包丁を持たされていたベテランだという。辻井は当然ながら一番下っ端の追い回しという底辺の階級だが、その跡取り息子も小学生の頃に何年もこのポジションでやっていたらしい。跡取りだからとちやほやされることなく、怒鳴りつけられたり走り回らされ。学校から帰ると遊びに行くこともなくずっとそんな毎日を送り、小学校の高学年には八寸の盛り付けを、中学に上がる頃には揚げ物を担当出来るようになっていたという。
 年はひとつしか違わないのに辻井が今から修業を始めたところで絶対に追いつけないところにいる、それが辻井にとっての"渋谷修一"という板前だった。
 年の差はひとつでも、キャリアで言えば10年以上違う。しかし彼が学校へ行きながら放課後だけで積み上げてきたキャリアだ。実際には差は10年分もないはずだ。
 生来負けず嫌いだった辻井は3日で辞めようと思った板場に寝る時以外はずっと籠り、黙々と下拵えや雑用の仕事をこなしていった。やがてその熱心さは上の者の目に止まり、徐々に出世できるようになった。
 一方の渋谷修一はいつ見ても常に厳しい顔をしていて、年が近いからといって辻井と馴染もうとすることは無かった。入って数年経っても、雑談はおろか、板場以外で言葉を交わすことすらなかった。あちらはここの跡取り様だ、どこの馬の骨かわからねえ不良上がりなんかはなから相手にしてないんだろう──そう思うと、なにくそと自らを奮い立たせて修業に身が入るというものだ。片思いのライバル意識を抱えたまま辻井は修一の背中をずっと追い続けていた。

 辻井が修業に入って10年が過ぎた頃だっただろうか。
 修一はすでに煮方を務め、数年のうちには親方が板場から退いて経営に専念し修一に板長を任せるという明確な予定が立ち始めていた。辻井もまた驚くほどの速さで出世し、すでに焼方を完全に任されていた。

 昼営業が終わり夜までの短い休憩時間。八畳ほどの畳敷きの休憩室にたまたまぽつりと一人残されたことがあった。ごろりと横になってうつらうつらしていて、ふと近くで紙のがさがさ言う音に目を開けると──
 修一が新聞を捲っていた。
 まるで隅から隅まで目を通すように丹念に新聞を読んでいる。
 修一はゆくゆくは"親方"となって料理長だけでなく店の経営も担わねばならない。ということは、料理のことだけ考えていればいいわけではないのだ。
 辻井はそれを暫く眠ったふりをして眺めていた。邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
 しかしそれも長くは続かず、今目覚めたふりをしてゆっくりと起き上がると修一はそれを振り返った。
「すまない、起こしたか」
「いや……」
 こんな時にもっと社交的な人間なら何か話題でも出して雑談でもするのだろうが、辻井はそういうものが昔からずっと苦手だった。特にこれまで10年も顔を見てきて同じ職場でいるのに全く会話したことがないという相手に、あらたまって何を話せばいいのかがわからない。
 戸惑っていると修一はわざわざ辻井に正面を向くように座り直した。

「脇鍋に君を推しておいた。親方が引退するまでに煮方の仕事をものにしてくれ」

「え」
 脇鍋とは煮方の補佐だ。この『しぶや』という料亭の味を決める最も重要な立場である煮方に一番近い位置といえる。現在も脇鍋と呼ばれる者は数人おり、修一が板長になってからはこの中から次の煮方を選ぶものだと思っていた。いずれも修一より年上の経験の長い者ばかりだ。そんな中に辻井を入れるだけでも抜擢だといって良かった。
「君の仕事ぶりはずっと見ている。修業期間が長ければいいというものではない。君は八寸場の時からセンスも良かったし、何を教えても飲み込みが早い、あと時々驚くような発想をしてくる。あまり取り立ててはやっかむ者もいるかもしれないが、私と同世代の若い者がここを支えてくれたらこの先長く安心だからな」
 渋谷修一がこんなに長文をすらすら話す人間だとは思っていなかった。
 と、同時に修一が自分の仕事を見ていたと、思ってもみなかったことを言われて面食らう。
「見てて……くれたんですか」
「当たり前だろう。君の頃にはもう中卒で修業に入ってくる者は少なくなっていて、今も私と同世代の者はあまりいない。それがものすごい勢いで出世してくるんだから気になるのは当然だ」

 相手にされていないのだと勝手に思っていた。
 自分が修一の背中を追って懸命に努力してきたことを、その背中の持ち主はちゃんと見ていてくれたのだ。
 修一はそれだけ言うとにこりともせずに再び新聞に目を落とした。

 飛び上がりたいほど身体がむずむずしているのに、辻井は身動きも出来ず──
 その代わり、ただ旨い料理を味わうようにじっくりとその喜びを飲み込んだ。


 修一の言葉通り、ほどなく辻井は脇鍋の一員になり──修一が正式に板長になった時には煮方に取り立てられた。
 それを機に辻井は結婚した。
 振り返ってみれば、付き合う時も結婚する時もそして離婚する時もすべてイニシアチブは妻の手にあったのだな──と辻井は思う。口下手な自分の気持ちをうまく汲み取って理解してくれていると、最初は確かに居心地良く思っていたのに。

 その頃になってもいまだ、辻井は修一とろくに雑談もできずにいた。自分だけでなく修一も仕事以外では無口というより口下手なのだということはわかってきたが、口下手と口下手では普通の友人同士のように馬鹿話で盛り上がったりすることなどしたくとも出来なかった。
 本当は──
 もう少し、打ち解けたいと思ってはいたのに。
 いつのまにか片思いのライバル心は崇拝のように変わり、無駄話で相手の時間を割かせることなどおこがましいような気がしていた。昨日今日入ってきた追い回しや若い仲居まで板場を離れれば気安く話しかけたりしている。その程度のことがどうして自分には出来ないのかと落ち込むことも少なくない。
 しかし、息子が生まれた時についに一大決心をして辻井は修一に声を掛けた。何をどう言うのか何度も頭の中でシミュレーションしたのに、何の前置きもなくいきなり本題を口にしてしまった。

「うちの息子に板長の名前の一文字を頂いていいですか」

 修一はそこまで驚かなくても、と思うほど驚いた顔をした。やっぱりやめれば良かったという後悔が頭を掠める。
「いや、もちろん断る理由などないが、いいのか。私の名前など」
 やっぱりいいです、と言いたくなるのをなんとか抑えてシミュレーションしてきた言葉を必死で穿り出す。
「しゅ、修一さんの"修"の字がいいんです。料理の道じゃなくても、修一さんみたいに自分に厳しく道を追求できるような男になって欲しいと……あっほら、修業の修でもあるしあの、お願いします」

 修一は辻井がどれくらい自分の背中を見て追ってきたのかを知らない。
 知らなくてもいいが、自分がどれほど修一を尊敬しているか、目標にしているか、憧れているかを少しくらい伝えたい。

 修一は──
 見たことがないような照れくさそうな、はにかんだ顔で少しだけ笑った。
「なんだか恥ずかしいな。いい子に育ててくれ」

 もしかしたら、修一の笑った顔じたい、見たのは初めてだったかもしれない。
 ずっと厳しい表情の横顔ばかり見てきた。
 この人は、こんな顔をすることがあるのだ。

 こうして辻井の息子は『修』と名付けられた。

 


 辻井が煮方になると、修一は献立や新たな料理についての相談を辻井にするようになった。
 口下手同士で"友人同士がするような馬鹿話"は出来なくても、仕事の話ならいくらでも話せる。そうやって話すのはどんな遊びの相談より楽しかった。いつの間にか修一に話しかける時に緊張もせず勇気も必要なくなっていた。
 辻井の方から修一に提案することも増え、新たな料理の話をしている時は修一も辻井も饒舌になる。閉店後に話し始めて着替えもしないまま翌朝になってしまうこともあった。修一に次の提案をするために泊まり込んで試作をすることも苦にはならなかった。
 思えばあの頃、それが楽しすぎて何日も店に入りきりになり家庭を放置してしまうようになったのが離婚理由の最初の一行目だったのかもしれない。

 少なくとも料理に関することなら、修一は真っ先に辻井に相談してくれる程度には信頼されたと思っていた。
 その程度の自信は持てるようになっていた。ただ──
 料理以外のところで修一が何をしていたのかを、辻井は知らなかった。

 あれは──

 ふと思いついた料理を試してみようと閉店後の板場に一人残っていた時だ。
 確か、月一度の定休日の前夜のことだったと思う。定休日の前夜だから、普段は翌日の仕込みに遅くまで板場で作業していたりする追い回し連中も皆、外へ飲みに行ったりそれぞれの友人や恋人との時間を過ごす為に早々に姿が見えなくなっていた。本来なら自分も帰宅してたまには息子の面倒を見て妻を休ませてやらなければならなかった筈の夜だった。
 すでに日付も変わるほどの深夜になっていた。

 板場の出入り口は母屋の勝手口と隣接していて、家人や住み込みの者たちはたいていここを通る。そこに人が通る気配がした。住み込みの者はすでにほぼ全員外に行っている。泊まってくる予定が取りやめて帰って来た者でもいるのだろうと思っていたが、板場のすぐ外で大きな物音がした。
 酔っぱらってでもいるのかと思い様子を見に一歩板場を出ると──

 そこに倒れるように蹲っていたのは、修一だった。

「──修一さん?どうされたんです?」
 声を掛けると目に見えるほどびくっと身体を震わせて修一はふらふらと立ち上がった。
 あまり見かけない、私服姿だ。
 そういえば──ここのところ修一は定休日の前日には毎月のように外へ出かけている。あまり想像できないが、彼女でも出来たのだろうかと思っていた。もっとも、相変わらず仕事以外に関しては本人が自分から話さないことを尋ねたりは出来ずにいるから真相はわからずにいた。
「修い──」
「いや、なんでもない」
 なんでもない声ではなかった。
 聴いたことのない掠れた、弱々しい声。
 彼女と喧嘩でもしたのか。それともフラれでもしたのか。いや、それにしてもこんな状態の修一など見たことがない。
「どっか具合でも悪いんですか。病院にでも」
 足取りは酔っているようなのに、酔っているようにも見えない。
 後ろから支えようと手を伸ばすとそれを振り払おうとする。
「なんでもないと言ってるだろう」
「なんでもなくないじゃないですか」
 思わず腕を掴んで引き留めると修一は目を辻井から逸らしたまま、唇をきつく噛みしめていた。
 普段それほど血色がいい方ではないその唇が、妙に紅く見える。
 修一の貌をしているのに、初対面のような違和感がある。
 それに一瞬気を取られる間に、修一の手が辻井の後頭部を掴み引き寄せられた。
「しゅ……」
 言いかけた口を、その紅い唇が塞ぐ。
 うっすら開いていた歯の間をこじ開けるように舌が這入ってくる。
 目を閉じることも出来ずに間近にある修一の瞼を見ていた。

 案外睫毛が長い──

 そう思った瞬間我に返った辻井は思わず修一を引き離した。
 多分、自分はただただ驚いた顔をしていたのだと思う。実際、頭が真っ白になっていた。

 今、何があった?

 修一はその辻井の顔を一瞬ちらっと見て目を逸らし一歩後ずさった。
「すまん。なんでもない。忘れてくれ」
「修一さん」
「いいから!」
 慌ててもう一度腕を捕まえようとしたが、それは振り払われた。
「本当に忘れてくれ。酔ってただけだ」

 嘘だ。
 酒の匂いなどしやしなかった。

 しかし、辻井は背中を向けた修一をそれ以上追うことが出来なかった。
 どうすればいいか、何を言えばいいのかなど、全く頭に浮かばなかったのだ。
 ただ、茫然と母屋に入っていく修一の背中を見送るしかなかった。
 翌日、修一は母屋から出てこず辻井と顔を合わせることもなかった。翌々日に顔を合わせた時には本当に何事も無かったようないつも通りの板長の姿があった。
 これまで通り、料理の相談をするために二人きりになることがあってもそれは同じだった。
 辻井もまた、あらためてあの日何があったのかを尋ねることは出来なかった。もう少し社交的な人間だったら──後追いでも、何か力になることはないかと声を掛けることも出来たのだろうに──

 あの時、修一に何が起こっていたのか。
 何かの救いを求めていたのか。
 それはずっと判らずじまいだ。
 ただきっと、驚いていただけの辻井の顔を見て、修一は何かを諦めたのだ。
 少なくともあの時修一が抱えていた何かを、辻井には救うことは出来ないと。

──見限られたのだ。

 


 やがて修一は親の勧めに従って結婚した。若女将となるべくやってきた翠は美しくとても行き届いた女性だった。
 きっと修一がいまだ何かを抱えていたとしても、彼女がそれを救ってやれるのだろう。
 ほどなく娘も誕生し、修一はとても幸せそうに見えた。少なくとも外側からはそう見えた。
 煮方を務めていた辻井が二番に昇進したのも、正当な評価だったはずだ。

 それでも。

 『しぶや』を何かの陰謀が襲ってきてからもなお。
 修一は辻井に料理以外の何の相談もしなかった。
 一切、辻井を頼ろうとはしなかった。
 
──俺は。

 あの人にとって、何の力にもならないただの板前でしかない。
 最初からそうだったはずなのに。

 俺は何になりたかったんだろう?

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「辻井さん、飯はあるのかな」
「それなら卵かけご飯でも作りましょうか。いい卵が入ってるんですよ」


 嵯院は子供のように万歳をしてやった!と言っている。海千山千の年寄りどもと渡り合っている時には自身もそれなりの貫禄を見せるくせに、たまにいきなり少年のようにはしゃいだりすることもある。アンバランスな男だなと思う。

「──嵯院さん、あの時ああしていれば、とかこう言ってれば今と違う未来になったかなと思うようなこと、ありますか?」


 珍しく辻井が自分から話題を持ち出してきたので嵯院はおっ、という顔をした。
 それからすうっと息を吸い込んで、どこか古い記憶を辿るように懐かしげに微笑む。

「ありますかどころか俺はそればっかりだ。しかもいつも間違ってきた。言うべきことは言わない、言わなくていいことは言う、しなくていいことをする、しなきゃいけないことはしない。そのせいで数え切れないくらい人を傷つけたし失ってきた。一番最初に間違わなかったら今どうなってたか想像も出来ないよ」

 耳を傾けながら卵の白身と黄味を分けて白身をほぐす。黄味は鮮やかなオレンジ色だ。
 白飯に少し粟立った状態の白身を絡め、塩昆布を混ぜ込む。黄味は別の器に入れて盆に乗せた。
「でもそんなの考えたってしょうがない。『あの時こうして』ても結果は同じかもしれないしな。戻ってやり直しできるなら何回でもリセットしたいよ」
 カウンター越しに盆を受取りながら嵯院は辻井の目を意味ありげに見つめた。

「同じかもしれない──」


「そ。過去に遡っていくらシミュレーションしたってやりなおしは出来ないんだよ。失ったものは帰ってこないしついた傷痕は消えない。それでもやってくしかない」


 自分に言い聞かせているのか、それとも辻井の胸の内にある後悔に語り掛けているのかわからない。
 ただ、嵯院の声も表情も穏やかだった。

「とりあえずこの卵かけご飯を美味しく味わって食うことしか今の俺に出来ることはない」

 そう言うと嵯院は小さく声を立てて笑い、いただきます、と勢いよく唱えた。


 

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*Note*

​この「辻井」って人はですね。「銃爪」の章の「熱帯夜」という、藍海ちゃんが誘拐される話で渋谷家の団欒の中に名前が出てた人です。特に登場させる予定はなかった人だったのですが、翠が小料理屋を始めるにあたって『しぶや』の板前が手伝っているという方が自然かなと思って引っ張り出してきました。最初はこの人をどう扱うかめっさ色んなパターンを考えたのですが(それこそ椎多がちょっかい出すとかその逆とか、この人は椎多のせいで修一が死んだことをわかっていて隙あらば敵討ちを狙ってるとか、あとは修一兄さんと実際にやることやっちゃってるとか)それは全部妄想の中に押し込めて、ただ「何も出来なかった」と後悔しているだけの部外者にしました。いや、実は書いてるぎりぎりまで修一兄さんとどこまで行ってるかだいぶ迷ったんですけども!(笑)修一兄さんがこの人を頼ることを覚えてたとしても多分事態は変わらないんだけど、一連の陰謀が嵯院の手によるものだってことはおそらく知ってしまうことになるのでその後はきっと変わったでしょうね。

​なお修一兄さんと辻井さんが最接近した日はもちろん(もちろん?)兄さんが澤と密会して帰ってきた時です。

オリジナルTUSの時に主人公カポーに負わせていた、「かんじんの時にかんじんの事が言えないどうしのすれ違い」みたいなのをちょっと入れてみました。修一兄さんはきっと辻井を見限ったのではなくて「巻き込んではいけない」って思ったんだよね。

椎多はもちろんこの人が修一をすごく慕っていたことをわかっているんだけど、以前の椎多なら「あんたの大好きな修一さんは俺のせいで死んだよ」って匂わせたりするんだけど、そんなんしても誰も幸せにならないってことがやっとわかったので心の中ではごめんね~と思ってても素知らぬ顔で辻井さんや翠さんと向き合うようにしてます。知らない方が幸せなことって少なくないよな…。

ちなみに最後に辻井さんが作ってる卵かけご飯、祇園のとある小料理屋さんで食べた忘れられない卵かけご飯です。塩昆布が混ぜ込んであるので醤油とかいらないです。白身だけのごはんでも美味しい。そこに濃厚な黄味をぶち込みます。めたくそ美味しいです。

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